一.

文字数 4,196文字

「俺の術が破れた!? まさか」

 鏡台の前で、メヴィウスは驚愕を吐露した口を押さえた。画面を見つめる見開いた目が、ひりひりと乾いてくる。
 鏡台の向こう側、遥かアリオストポリの路地裏に佇むローブの女は、メヴィウスが放った監視魔術(ゲイズマジック)を容易く打ち消した。
 あれはハエに似せて創った魔術の目だったが、あの女は、ハエが人工精霊(シンセティク・ファミリア)だと気が付いたに違いない。そうでなければ、ハエ一匹追うのに反魔波動(アンチマジックウェーブ)など放つ訳がない。

 ……あの女、とんでもない魔術師だ。

 焦りばかりが募るメヴィウスがちらちら見遣る前で、女とプリモ、それにハリアーは小さな建物の中に姿を消した。

 どうするべきなのか。

「と、とにかく待ってみよう。もうちょっとだけ」

 自分に言い聞かせつつ、彼の足は止まらない。せかせかと歩き、画面をちら見しつつ、五分が経った。
 プリモたちはまだ出てこない。

 それからさらに五分。
 屋根に魔法陣の描かれた小さな建物は、じっと沈黙を守っている。

 そしてまた五分が過ぎ去った。
 建物に変わった様子は全くない。
 それが反ってメヴィウスの不安を煽り立てる。

「遅過ぎる」

 ぴたりと立ち止まったメヴィウスは、低く呻く。

 ……これはいよいよまずい。
 中でプリモたちが何をしているにせよ、十五分経過しても何も動きがないのはおかしい。
 
 メヴィウスの脳裏に、最悪の状況が浮かび上がる。
 もし、プリモが何か恐ろしい目に遭っていたら?
 命の危険に晒されていたら? 
 メヴィウスは、完全に血の気が引き、思考の止まった頭を抱えた。

 そんな彼の脳裏で、無情な知性を支える深淵の闇が、怜悧に囁く。

 ――アリオストポリは遠いし、今から飛んでも間に合うものではない。
 あの生体器械(マキナ・ヴィーヴェンタ)を創ったのがお前なら、代わりはまた創れるだろう? 
 いくらでも――

 魔の囁きが反響する頭を抱え、メヴィウスは首を激しく左右に振る。
 確かに、メヴィウスの技量をもってすれば、生体器械の一体や二体、創ることなど造作もない。だが、今までプリモが今まで仕えてきた時間は、もう二度と再現はできない。
 そう、書く字は読めないし、無学な使用人に過ぎないプリモだが、許婚のいる自分に、笑顔で懸命に尽くしてくれる。
 あのプリモだけが、まさにメヴィウスが望むプリモなのだ。

「……行くしかない」

 

 意を決した彼は、ぐっと背中を伸ばして画面を見つめた。やはりあの建物に、それと分かる変化はないようだ。
 アリオストポリまでは、飛んで行っても数時間かかる。それではあの女魔術師からプリモたちを生きて取り戻すことは難しい。
 だが、物理的な距離を度外視して、アリオストポリに瞬時に移動する方法が、今のメヴィウスに一つだけある。

「幸い到達地は器械で見えてる。魂のない物を送るのは簡単だが、魂のある自分が跳ぶには」

 そこまでつぶやいたメヴィウスは、突然うなだれて深いため息をついた。

「……ああ、やっぱりあの儀式魔術しかないのか。うう、嫌だ」

 ぶちぶちこぼしつつも、彼の決意は変わらない。
 彼は壁際に鎮座する机の中から、黒く平たい箱を取り出すと、慎重な手付きで蓋を持ち上げた。箱には一振りの奇妙な短剣と、ガラスで作られた小さな円鏡が収められている。
 机についたメヴィウスは、机の上の物をすべて脇にどけ、表を向けた鏡と、刀身が波打った銀の短剣を目の前に置いた。
 そして彼は、小脇に抱えたままの『舟の書』を開き、手許に置いた。開かれた古書の紙面には、彼の知る古代文字で、こう記してある。
『痛覚を遮断する術法』と。
 メヴィウスは深く澱んだため息をつく。

「『舟の書』は屍術に使える身体構造の知識も、一杯に詰まってる。この本の、この呪文がなかったら、“転移術・黒龍式”は痛くてとても実践できなかっただろう。ああ、でも嫌だ」

 とは言うものの、もう時間はない。
 彼は机から出した真新しいインク壷と鵞ペンを使い、左手の甲に何かの図形を手早く描き留めた。続けて、彼は『舟の書』に記された呪文を読み上げる。

「“我が身を巡る火素は、これにて眠りぬ。しかして、水素の思弁、地素の脈動、風素の呼吸は眠りには就かざりて、願わくば、我が知行を妨げざることを”」

 彼の左手に描かれた図形が、奇妙な虹色の光輝を帯びてくる。
 程なく呪文を終えたメヴィウスは、手許に置かれた短剣を取り、自分の左の手首を切ってみた。血は滲んだものの、何かに引っ掛かった程度の感覚しかない。
 痛覚がほぼ遮断されたのを確認し、メヴィウスは指を鳴らして呼び出した異空間の書庫に『舟の書』をしまい込んだ。
 ため息交じりにインバネスのローブに指をかけ、胸元を大きく広げたメヴィウスが、白い肌を露出させる。
 意外と厚い胸板を晒しながら、小さく息を整えて、メヴィウスは自らが編み上げ、自分の脳裏に刻み込んだ呪文を唱え始めた。

「“ああ、弐は壱より生まれ、さりながら、別の道を行く。しかして別れたる弐は、永劫の果てに、壱に還らん”」

 詠唱を止めた彼は、短剣を取り直した。   
 その鋭い鋒を自分の胸の真ん中に当て、彼はぎゅっと目を閉じた。一滴のためらいが、メヴィウスの額から汗と滲み出す。
 だが、脳裏に浮かんだメイドの明るい笑顔と声が、彼の躊躇を打ち消した。
 くっ、と小さく息を詰めたメヴィウスは、短剣を握り締める手に力を込める。短剣の鋭利な尖端は、そのままずぶずぶとメヴィウスの胸に突き刺さり、傷口から真紅の鮮血が溢れ出す。
 彼の額に脂汗が滲んだ。
 
 ……やっぱり痛い。
 耐えられないほどの痛みではないが、それでも痛いし、自分の肉と骨を自ら刃物で貫く手ごたえは、何とも言えず気色悪い。 
 すぐに彼は、短剣が心臓に達したの感じ取った。
 自らの心臓から流れ出した血液が、短剣の柄を伝って鏡の上に、ぽたりぽたりと滴り落ちる。
 それを見て取り、彼は食いしばった歯の間から、呪文を搾り出す。

「“壱と弐とは零の心臓より出ず。弐の種を含みて生まれし者は、今ここに壱として立つ”」

 鏡の上の血だまりに、変化が起こった。
 メヴィウスが心臓から流した血液は、波打ちながら鏡の中心に集まってくる。磨き上げられた大粒のルビーを思わせるメヴィウスの血溜まりは、小さな噴水のように吹き上がり、何かの形を取り始めた。
 そして数秒。
 曇りのない鏡の中心に、親指ほどの大きさをした小さな人形が立ち上がった。
 真紅の瑪瑙を刻んで創ったかのような、粗い造形の人形だが、その輪郭はどこかメヴィウスに似ている。
 苦しげに息を詰めつつ、鏡の上の血人形を認めたメヴィウスは、わずかに口許を緩め、呪文を再開した。

「“零の流血は止み、壱は弐を内包して立てり。ああ、昼に壱として立ち、夕に壱として身を横たえ、(あした)に壱と弐とは分かたれて立つ”」

 メヴィウスは、自分の胸を刺し貫く短剣を、ゆっくりと引き抜いた。呪文の効果で出血は止まっているが、心臓まで届く傷が無残に口を開いている。
 しかし彼は構うことなく、血まみれの短剣を頭上に振りかぶり、鏡の上に立つ血人形目がけて打ち下ろした。
 血玉髄の人形は、簡単に縦一閃に断ち割られた。が、左右に切り裂かれた血人形は、倒れることもなく、それぞれ片足で鏡の上に直立する。

「成功だ」

 メヴィウスは安堵の息とともに、血染めの短剣を机に置いた。
 ぬるぬると赤く汚れた手で血人形の右半分を取り、彼は自分の胸に開いた深い刺し傷の中に、ずぶずぶと押し込む。鈍い痛みに眉根を寄せたメヴィウスだが、すぐに軽く頭を振りながらインバネスを整えて胸を隠した。
 彼は鏡に残った左半分の血人形を取り、遠くアリオストポリを鳥瞰する鏡台の前に立った。画面に映る小さな建物に、やはり変化はない。
 メヴィウスは呪文の続きを唱えつつ、血人形の左半分を握り締める。

「“ああ、分かたれたる壱と弐とは、己が道を行く。壱は日輪を追いて暁を目指し、弐は月を慕いて黄昏へと赴く”」

 メヴィウスは、手の中の血人形を水晶の鏡台めがけて投げつけた。血人形は画面を素通りし、確かにあの小さな建物の玄関先に落ちていく。
 確信を抱いたメヴィウスは小さくうなずき、転移術・黒龍式の最後の節を声高に詠唱した。

「“されど、壱と弐とは見えざる絆にて繋がれん。引き裂かれし弐は、壱を呼ばわる。おお、引き裂かれし者たちよ。今ここに零が命じる。壱よ、弐よ、互いを引き寄せよ! そして一つに戻り、零に還れ!”」

 彼は叫んだ。

「“エーカ・ディー・テネオ!”」

 その瞬間、メヴィウスの全身はぴりぴりとした感覚に包まれた。視界は無数の光点に覆い尽くされ、何も見えない。
 堅く目を閉じたメヴィウスが、全身を細切れに寸断されるような不快感に耐えること数秒。皮膚の感覚が正常に戻ったのを感じ取った彼は、ゆっくりと目を開けた。

 メヴィウスが立っていたのは、狭く薄暗い路地の行き止まりだった。あの湿地帯とは全く違う乾いた空気と墓地の匂いが、辺りに漂う。
 顔を上げた彼の目の前には、小さな建物の玄関がある。その白い石の鴨居に掲げられているのは、『久遠庵(カーサ・アンフィニ)』と刻まれた銅のプレート。
 彼は足元に目を落とした。
 小道の上に、半分に立ち割られた血人形が落ちている。人形の片割れを血まみれの手で拾い上げ、インバネスの内側に潜む傷の中に血人形を押し込んだ。
 途端に、わずかな鈍痛が胸に走った。
 この程度の傷を治すなど、メヴィウスには造作もないことだ。が、今はそんな術法に費やす時間が惜し過ぎる。とにかく、プリモを探して屍師の許から無事に連れ帰すのが先だ。
 メヴィウスは、胸の傷を放置したまま、一連の魔術を終える宣誓の言葉をつぶやいた。

「“かくして儀式は終わりぬ《イテ・リトゥス・エスト》”」

 失血と引き換えに瞬間移動を終えたメヴィウスは、ためらうことなく久遠庵の扉をくぐった。
    
    
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