五.
文字数 5,020文字
プリモとハリアー、それにグラムを乗せた馬車は、形ばかりの検問を終え、アリオストポリの中に入っていた。取り調べが簡単に済んだのも、胡散臭い兵士の口利きのお陰のようだ。
三人を乗せた荷馬車は、兵士を側に連れたまま、ことことと街の中心へと向かう。
何台もの馬車や無数の住民と擦れ違いながら、馬車はジグザグに延びる大通りをゆっくり抜けてゆく。
幾つもの橋を渡り、幾度も曲がり角を越えた馬車と兵士の前に、見上げるばかりの跳ね橋が姿を現わした。黒光りする鋼鉄が複雑に組み合わさった、巨大な橋だ。
広い運河の上に掛けられたその跳ね橋は、大通りと広場とを結んでいる。分厚い底板に頑丈な欄干、そして鋼の支柱と鎖が、重厚な橋桁を吊り下げる。そのたもとに立つのは、大通りと中央広場を結ぶその橋を守る、幾人もの衛兵たちだ。
この橋を渡る前に、付き添う兵士がプリモとハリアーを見比べた。
「あんたたち、アリオストポリは初めてか?」
「いや、あたしは何度か来てるさ。プリモは初めてだけどな」
ハリアーの返答を聞いた兵士の口許に、どこか誇らしげな色が浮かぶ。
「どうだ、凄い橋だろう? この大陸には数え切れないほどの橋があるが、これだけの跳ね橋はそうそうないぞ。アリオストポリの王城につながる唯一の橋だからな」
しかし、プリモは驚かない。
プリモがメヴィけウスと暮らす黒龍の塔には、それこそ膨大な数の器械がある。主人の造るいろいろな器械を見慣れたプリモは、威容を誇る巨大な橋であっても、何ら驚異を感じない。
それどころか、プリモの家でもある黒龍の塔の壮麗さと壮大さ、それに仕掛けの複雑さといったら、こんな只の橋とは、比較のしようもないほどだ。
「確かにすごい橋ですね。でも」
「でも?」
グラムが先を促すと、プリモは橋を見上げつつ、唇に人差し指を当てた。
「旦那さまは、もっとすごい物をたくさん造っておられます」
この台詞を聞くなり、中年男グラムはぱちっと指を鳴らして口走った。
「何だ、このお嬢さんは人妻かぁ。残念」
「あの、『ひとづま』って何ですか?」
グラムの言葉の意味が分からずに、彼の横顔を見つめるプリモ。そのグラムは、決まり悪そうに顔を赤くしながら、首を竦めている。ハリアーが、グラムの言葉を否定しないまま、苦笑交じりにはぐらかす。
「その内教えてあげるよ」
一旦止められた荷馬車は、すぐに兵士の先導で器械式の巨大な跳ね橋を渡り、湖水に面した広場に入った。
広場の右手奥には、白亜の王宮が小ぢんまりとしながらも、荘重な佇まいを見せている。その側に立つ塀に囲まれた平たい建物は、恐らく兵舎だろう。
そして、二つの建物に見守られる広場にひしめく人、人、人。整然と並ぶ無数の小さな店棚や屋台の隙間を、無数の人の海が埋めている。
プリモは初めての群集を前に、つい無心に声を上げた。
「わあ、すごい!」
「どう? 驚いたかい?」
どこか弾んだ口調のハリアーに聞かれ、プリモは素直に大きくうなずいた。
「はい! こんなにたくさんの人を見たのは初めてです」
落ち着きなく腰を浮かせたプリモは、楕円の瞳を煌めかせ、ぐるぐると視線を周囲に巡らせる。
がやがやという人々の声に、売られている動物や鳥の鳴き声まで、あらゆる声が入り交じった不協和音が、この市場をくまなく覆っている。
そう、アリオストポリのバザールが、今まさにプリモの目の前に開かれている。このバザールのどこかに、プリモの探しものがあるに違いない。
驚嘆と、それに期待に胸を膨らませ、プリモが大きく息を吸う。
……待っていて下さいね、旦那さま。
必ず、偏向水晶を持ち帰ります。
プリモが決意も新たに誓ったとき、不意に甲高い歓声が聞こえてきた。
我に還ったプリモが顔を上げると、子供たちの一団が、まるで一陣の風のように馬車の脇を駆け抜けていった。
「あ、子供さん……」
子供を追うプリモの目が、ふと遠くなった。軽く意識が飛んだプリモだったが、ハリアーの呼ぶ声が彼女をこの場に引き戻す。
「大丈夫かい? プリモ。ちょっとぼんやりしてたけど、子供がどうかした?」
「あ、はい。塔にいらっしゃる商人の方に、時々お子さま連れの方がいらっしゃって。わたし、つい子供さんが気になっちゃうんです」
プリモはうつむいた。
小さな子供を見るたびに、胸に空洞ができたような気分に襲われる。
「……創られたわたしには、子供の時代がありません。だから、楽しそうに遊んでる子供さんを見ると、何だか幸せそうで、ちょっとうらやましくて」
はあ、とプリモは大きな息をついた。そんなとき、彼女が決まって思うことがある。
ほんの刹那のためらいを覚えつつも、プリモは信頼するハリアーに、胸の奥へとしまい込んできた想いを吐いてみる。
「……いつかきっと旦那さまも、お子さまをお持ちになるでしょう」
自分で口にして、とても寂しく、切なくなる言葉だ。だがプリモは、気持ちを確かに持ち、努めて明るい口調で吐露する。
「だからもし旦那さまにお子さまが生まれたら、一杯遊んであげるのが、わたしの夢なんです。旦那さまのお子さまが、わたしのように、寂しい想いをしないように」
ささやかな望みを言葉に出すと、プリモの内に口を開いた空洞が少し満たされた。
と、突然気恥ずかしさに襲われ、プリモは熱く火照った顔を足元に向ける。
「あ、わたし、変ですよね。今の話は忘れて下さい、ハリアーさん」
ふう、と吐息をついたプリモ。胸の滓を全部吐き出したつもりのプリモが顔を上げると、ハリアーがじっと彼女を見つめていた。その紫紺の瞳は熱く潤んでいる。
「ああ、プリモ。あんたって、ホントに健気だねえ……!」
やがて馬車は、市場のほぼ中央に当たる区域で停車した。同時に足を止めた兵士が、縄で四角に区切られた一角を示す。
「ほら、グラさんの場所だぜ」
「へえ、いい場所だぁ。さすが、頼りになるねぇ」
グラムはひゅう、と口笛を吹いた。
この小さな商人に当てられた二十歩四方ほどの区画は、地面は薄茶色の石畳で覆われている。
草一つ生えていない。周囲に出店はなく、こざっぱりとした気持ちのいい空間だ。広場に設営された他の店と比べても、グラムに割り当てられた区画はかなり広い。
彼は、ひょいと身軽に馬車を跳び降りた。そしてプリモとハリアーを乗せたまま、黒駒の手綱を執って自分の商用区画に牽き入れる。
ハリアーも、ひらりと馬車を降り、小気味良い音とともに地面に立つ。
「えらく優遇されてるな、グラム。よっぽどショバ代、弾んだのか」
彼女が呆れた調子で言うと、道案内の兵士が小さく笑った。
「グラさんは、毎回毎回かなり売り上げて、たっぷり上納金を入れてくれてるからな。王室の覚えもめでたい上得意、ってところだ」
そのグラムが、馬車の座席に掛けたままのプリモに向かって、小さな手を差し伸べた。
「さ、どうぞ、奥様」
「お、『おくさま』?」
思わず鸚鵡返しのプリモは、意図せずにハリアーを見遣った。
ハリアーがさも可笑しそうに口許を緩めつつ、プリモに向かってうなずく。プリモも特に否定の言葉は発さないものの、わずかなためらいとともにグラムの手を取った。
「あ、ありがとうございます」
プリモが石畳に降り立つと、逆にグラムは馬車に荷台へと跳び乗った。荷台には、古びて黄ばんだ折りたたみテントと、例の奇妙な黒い箱だけが載せられている。グラムが黒い箱をぽんと叩き、にんまり笑った。
「さて、がっちり儲けさせてもらうとするか」
そうして彼は、道案内の兵士に向かって小さな手を差し出した。
「それじゃあ、今回のバザールの見取図を見せておくれよ」
「ああ、いいとも。本来なら公平を担保するため、出店者には一切秘密なんだがな」
言いつつも、皮肉っぽく笑った兵士は小さく折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
「毎度の高額献納者のグラさんだから、まあいいだろう。今回もよろしく頼むぜ」
兵士は手にした紙をグラムに手渡した。受け取ったグラムは、すぐに紙を広げると、真剣そのものの眼差しで紙面を見つめる。
そんなグラムの横顔をちら見しながら、ハリアーが無関心に言葉を投げた。
「まあせいぜい稼いでくれよな。とりあえず、ここまで乗せてくれてありがと。あたしらはバザールの中を見に行くよ」
踝を反し、プリモに向き直ったハリアーだったが、その背中にグラムの声が飛んできた。
「ちょっと待ちなって」
ん? と一声洩らしたハリアーが振り向くと、グラムは紙を熱心に見ながら言う。
「行くのは止めやしないが、あんまり期待はしない方が良さそうだぜ、流星雨の」
「どういうことだ?」
怪訝な表情を見せるハリアーに、グラムがちらりと視線を注ぐ。
「今回は宝石商も魔法屋 も、ほとんど来ないようだ」
何故かにんまり笑ったグラムは、兵士から渡された紙をハリアーに差し出した。
「ほら、持って行きなよ。どの露店で何を商ってるか、書いてある」
「ああ、ありがと。助かるよ」
素直に礼を口にしたハリアーが、無骨なグラブのまま、紙を受け取った。プリモも、彼女が広げた紙を脇からひょいと覗き込む。
薄黄色の紙は、縦横に無数の線が走った方眼紙だ。その小さなマス目の一つ一つに、『食料』、『衣服』、『武具』、『家具』、『日用雑貨』などの品目と、人名が書き込まれている。どうやら、このバザールの出す店の売り物と店主、それに配置図のようだ。
しかし、グラムの言葉どおり、『宝飾品』という品目が書かれたマス目は、一つだけ。しかもよくよく見てみると、この見取図の中心にあるマス目には、『玄箱のグラム』とあるだけで、品目が書かれていない。
ハリアーが胡乱な視線をグラムに向けた。
「おい、グラム。お前の店、何を売るのか書いてないぞ」
しかしグラムは、馬車からテントを下ろしながら、涼しい顔で答える。
「ああ、あっしはいつもバザールの出店を見てから、売り物を決めるからね」
「そんなのんきなことで商売できるのかよ。大体が大体、その売り物はどうするんだ?」
呆れ顔のハリアーだが、グラムは動じない。地面に降り立った彼は、馬車の上の黒い箱を指差した。
「心配ご無用。あっしには、この黒箱があるからね」
グラムの言葉を聞いて、プリモは彼の指差す黒い箱に、楕円の瞳を向けた。荷台にちょんと載っている箱の形は、旅行用のトランクに似ている。材質は黒く染められた革だろうかあちこちに擦り切れた傷もあって、かなり古いもののようだ。見た限りでは、何の変哲もない。
ハリアーも同じ感想を持ったのだろう。特に何の興味もなさそうな様子で、肩をすくめた。
「そうかい。まあ頑張れよ」
素っ気なく返して、ハリアーがプリモに向き直った。
「それじゃ、さっそく行ってみようよ。プリモの探しものを見つけにさ」
「はいっ!」
プリモは弾むようにうなずいた。軽く目を伏せ、彼女はすうっと息を吸う。
未体験のバザール、そして主人の喜ぶ顔への期待が、全身に広がるのを感じる。目を開き、ふうっと大きく息を吐いたプリモは、グラムを見遣った。彼は小さな馬車を囲むように、支柱を立て始めている。
「ここまで乗せて頂き、ありがとうございます。本当に助かりました」
「なあに、礼にゃあ及びませんや。困ったときはお互い様でさ」
一旦手を止めたグラムが、満面の笑みでプリモに軽く手を振る。
「もしバザールにお探しものがなかったら、あっしの店までおいでなさい。力になりますぜ。ちょいとお願いもありやすし」
「分かりました。また後で、お邪魔させて頂きますね」
深々と頭を下げたプリモの肩が、ぽんと叩かれた。顔を上げると、ハリアーが屈託のない笑顔を浮かべている。
「よし、じゃあ探しに行くよ。偏向水晶 とやらをさ」
「はいっ!」
プリモとハリアーは、コリガン商人グラムの出店を離れ、バザールの只中へと繰り出した。
三人を乗せた荷馬車は、兵士を側に連れたまま、ことことと街の中心へと向かう。
何台もの馬車や無数の住民と擦れ違いながら、馬車はジグザグに延びる大通りをゆっくり抜けてゆく。
幾つもの橋を渡り、幾度も曲がり角を越えた馬車と兵士の前に、見上げるばかりの跳ね橋が姿を現わした。黒光りする鋼鉄が複雑に組み合わさった、巨大な橋だ。
広い運河の上に掛けられたその跳ね橋は、大通りと広場とを結んでいる。分厚い底板に頑丈な欄干、そして鋼の支柱と鎖が、重厚な橋桁を吊り下げる。そのたもとに立つのは、大通りと中央広場を結ぶその橋を守る、幾人もの衛兵たちだ。
この橋を渡る前に、付き添う兵士がプリモとハリアーを見比べた。
「あんたたち、アリオストポリは初めてか?」
「いや、あたしは何度か来てるさ。プリモは初めてだけどな」
ハリアーの返答を聞いた兵士の口許に、どこか誇らしげな色が浮かぶ。
「どうだ、凄い橋だろう? この大陸には数え切れないほどの橋があるが、これだけの跳ね橋はそうそうないぞ。アリオストポリの王城につながる唯一の橋だからな」
しかし、プリモは驚かない。
プリモがメヴィけウスと暮らす黒龍の塔には、それこそ膨大な数の器械がある。主人の造るいろいろな器械を見慣れたプリモは、威容を誇る巨大な橋であっても、何ら驚異を感じない。
それどころか、プリモの家でもある黒龍の塔の壮麗さと壮大さ、それに仕掛けの複雑さといったら、こんな只の橋とは、比較のしようもないほどだ。
「確かにすごい橋ですね。でも」
「でも?」
グラムが先を促すと、プリモは橋を見上げつつ、唇に人差し指を当てた。
「旦那さまは、もっとすごい物をたくさん造っておられます」
この台詞を聞くなり、中年男グラムはぱちっと指を鳴らして口走った。
「何だ、このお嬢さんは人妻かぁ。残念」
「あの、『ひとづま』って何ですか?」
グラムの言葉の意味が分からずに、彼の横顔を見つめるプリモ。そのグラムは、決まり悪そうに顔を赤くしながら、首を竦めている。ハリアーが、グラムの言葉を否定しないまま、苦笑交じりにはぐらかす。
「その内教えてあげるよ」
一旦止められた荷馬車は、すぐに兵士の先導で器械式の巨大な跳ね橋を渡り、湖水に面した広場に入った。
広場の右手奥には、白亜の王宮が小ぢんまりとしながらも、荘重な佇まいを見せている。その側に立つ塀に囲まれた平たい建物は、恐らく兵舎だろう。
そして、二つの建物に見守られる広場にひしめく人、人、人。整然と並ぶ無数の小さな店棚や屋台の隙間を、無数の人の海が埋めている。
プリモは初めての群集を前に、つい無心に声を上げた。
「わあ、すごい!」
「どう? 驚いたかい?」
どこか弾んだ口調のハリアーに聞かれ、プリモは素直に大きくうなずいた。
「はい! こんなにたくさんの人を見たのは初めてです」
落ち着きなく腰を浮かせたプリモは、楕円の瞳を煌めかせ、ぐるぐると視線を周囲に巡らせる。
がやがやという人々の声に、売られている動物や鳥の鳴き声まで、あらゆる声が入り交じった不協和音が、この市場をくまなく覆っている。
そう、アリオストポリのバザールが、今まさにプリモの目の前に開かれている。このバザールのどこかに、プリモの探しものがあるに違いない。
驚嘆と、それに期待に胸を膨らませ、プリモが大きく息を吸う。
……待っていて下さいね、旦那さま。
必ず、偏向水晶を持ち帰ります。
プリモが決意も新たに誓ったとき、不意に甲高い歓声が聞こえてきた。
我に還ったプリモが顔を上げると、子供たちの一団が、まるで一陣の風のように馬車の脇を駆け抜けていった。
「あ、子供さん……」
子供を追うプリモの目が、ふと遠くなった。軽く意識が飛んだプリモだったが、ハリアーの呼ぶ声が彼女をこの場に引き戻す。
「大丈夫かい? プリモ。ちょっとぼんやりしてたけど、子供がどうかした?」
「あ、はい。塔にいらっしゃる商人の方に、時々お子さま連れの方がいらっしゃって。わたし、つい子供さんが気になっちゃうんです」
プリモはうつむいた。
小さな子供を見るたびに、胸に空洞ができたような気分に襲われる。
「……創られたわたしには、子供の時代がありません。だから、楽しそうに遊んでる子供さんを見ると、何だか幸せそうで、ちょっとうらやましくて」
はあ、とプリモは大きな息をついた。そんなとき、彼女が決まって思うことがある。
ほんの刹那のためらいを覚えつつも、プリモは信頼するハリアーに、胸の奥へとしまい込んできた想いを吐いてみる。
「……いつかきっと旦那さまも、お子さまをお持ちになるでしょう」
自分で口にして、とても寂しく、切なくなる言葉だ。だがプリモは、気持ちを確かに持ち、努めて明るい口調で吐露する。
「だからもし旦那さまにお子さまが生まれたら、一杯遊んであげるのが、わたしの夢なんです。旦那さまのお子さまが、わたしのように、寂しい想いをしないように」
ささやかな望みを言葉に出すと、プリモの内に口を開いた空洞が少し満たされた。
と、突然気恥ずかしさに襲われ、プリモは熱く火照った顔を足元に向ける。
「あ、わたし、変ですよね。今の話は忘れて下さい、ハリアーさん」
ふう、と吐息をついたプリモ。胸の滓を全部吐き出したつもりのプリモが顔を上げると、ハリアーがじっと彼女を見つめていた。その紫紺の瞳は熱く潤んでいる。
「ああ、プリモ。あんたって、ホントに健気だねえ……!」
やがて馬車は、市場のほぼ中央に当たる区域で停車した。同時に足を止めた兵士が、縄で四角に区切られた一角を示す。
「ほら、グラさんの場所だぜ」
「へえ、いい場所だぁ。さすが、頼りになるねぇ」
グラムはひゅう、と口笛を吹いた。
この小さな商人に当てられた二十歩四方ほどの区画は、地面は薄茶色の石畳で覆われている。
草一つ生えていない。周囲に出店はなく、こざっぱりとした気持ちのいい空間だ。広場に設営された他の店と比べても、グラムに割り当てられた区画はかなり広い。
彼は、ひょいと身軽に馬車を跳び降りた。そしてプリモとハリアーを乗せたまま、黒駒の手綱を執って自分の商用区画に牽き入れる。
ハリアーも、ひらりと馬車を降り、小気味良い音とともに地面に立つ。
「えらく優遇されてるな、グラム。よっぽどショバ代、弾んだのか」
彼女が呆れた調子で言うと、道案内の兵士が小さく笑った。
「グラさんは、毎回毎回かなり売り上げて、たっぷり上納金を入れてくれてるからな。王室の覚えもめでたい上得意、ってところだ」
そのグラムが、馬車の座席に掛けたままのプリモに向かって、小さな手を差し伸べた。
「さ、どうぞ、奥様」
「お、『おくさま』?」
思わず鸚鵡返しのプリモは、意図せずにハリアーを見遣った。
ハリアーがさも可笑しそうに口許を緩めつつ、プリモに向かってうなずく。プリモも特に否定の言葉は発さないものの、わずかなためらいとともにグラムの手を取った。
「あ、ありがとうございます」
プリモが石畳に降り立つと、逆にグラムは馬車に荷台へと跳び乗った。荷台には、古びて黄ばんだ折りたたみテントと、例の奇妙な黒い箱だけが載せられている。グラムが黒い箱をぽんと叩き、にんまり笑った。
「さて、がっちり儲けさせてもらうとするか」
そうして彼は、道案内の兵士に向かって小さな手を差し出した。
「それじゃあ、今回のバザールの見取図を見せておくれよ」
「ああ、いいとも。本来なら公平を担保するため、出店者には一切秘密なんだがな」
言いつつも、皮肉っぽく笑った兵士は小さく折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
「毎度の高額献納者のグラさんだから、まあいいだろう。今回もよろしく頼むぜ」
兵士は手にした紙をグラムに手渡した。受け取ったグラムは、すぐに紙を広げると、真剣そのものの眼差しで紙面を見つめる。
そんなグラムの横顔をちら見しながら、ハリアーが無関心に言葉を投げた。
「まあせいぜい稼いでくれよな。とりあえず、ここまで乗せてくれてありがと。あたしらはバザールの中を見に行くよ」
踝を反し、プリモに向き直ったハリアーだったが、その背中にグラムの声が飛んできた。
「ちょっと待ちなって」
ん? と一声洩らしたハリアーが振り向くと、グラムは紙を熱心に見ながら言う。
「行くのは止めやしないが、あんまり期待はしない方が良さそうだぜ、流星雨の」
「どういうことだ?」
怪訝な表情を見せるハリアーに、グラムがちらりと視線を注ぐ。
「今回は宝石商も
何故かにんまり笑ったグラムは、兵士から渡された紙をハリアーに差し出した。
「ほら、持って行きなよ。どの露店で何を商ってるか、書いてある」
「ああ、ありがと。助かるよ」
素直に礼を口にしたハリアーが、無骨なグラブのまま、紙を受け取った。プリモも、彼女が広げた紙を脇からひょいと覗き込む。
薄黄色の紙は、縦横に無数の線が走った方眼紙だ。その小さなマス目の一つ一つに、『食料』、『衣服』、『武具』、『家具』、『日用雑貨』などの品目と、人名が書き込まれている。どうやら、このバザールの出す店の売り物と店主、それに配置図のようだ。
しかし、グラムの言葉どおり、『宝飾品』という品目が書かれたマス目は、一つだけ。しかもよくよく見てみると、この見取図の中心にあるマス目には、『玄箱のグラム』とあるだけで、品目が書かれていない。
ハリアーが胡乱な視線をグラムに向けた。
「おい、グラム。お前の店、何を売るのか書いてないぞ」
しかしグラムは、馬車からテントを下ろしながら、涼しい顔で答える。
「ああ、あっしはいつもバザールの出店を見てから、売り物を決めるからね」
「そんなのんきなことで商売できるのかよ。大体が大体、その売り物はどうするんだ?」
呆れ顔のハリアーだが、グラムは動じない。地面に降り立った彼は、馬車の上の黒い箱を指差した。
「心配ご無用。あっしには、この黒箱があるからね」
グラムの言葉を聞いて、プリモは彼の指差す黒い箱に、楕円の瞳を向けた。荷台にちょんと載っている箱の形は、旅行用のトランクに似ている。材質は黒く染められた革だろうかあちこちに擦り切れた傷もあって、かなり古いもののようだ。見た限りでは、何の変哲もない。
ハリアーも同じ感想を持ったのだろう。特に何の興味もなさそうな様子で、肩をすくめた。
「そうかい。まあ頑張れよ」
素っ気なく返して、ハリアーがプリモに向き直った。
「それじゃ、さっそく行ってみようよ。プリモの探しものを見つけにさ」
「はいっ!」
プリモは弾むようにうなずいた。軽く目を伏せ、彼女はすうっと息を吸う。
未体験のバザール、そして主人の喜ぶ顔への期待が、全身に広がるのを感じる。目を開き、ふうっと大きく息を吐いたプリモは、グラムを見遣った。彼は小さな馬車を囲むように、支柱を立て始めている。
「ここまで乗せて頂き、ありがとうございます。本当に助かりました」
「なあに、礼にゃあ及びませんや。困ったときはお互い様でさ」
一旦手を止めたグラムが、満面の笑みでプリモに軽く手を振る。
「もしバザールにお探しものがなかったら、あっしの店までおいでなさい。力になりますぜ。ちょいとお願いもありやすし」
「分かりました。また後で、お邪魔させて頂きますね」
深々と頭を下げたプリモの肩が、ぽんと叩かれた。顔を上げると、ハリアーが屈託のない笑顔を浮かべている。
「よし、じゃあ探しに行くよ。
「はいっ!」
プリモとハリアーは、コリガン商人グラムの出店を離れ、バザールの只中へと繰り出した。