一.

文字数 5,389文字

 塔から離れてゆく二人の戦士を戸口から見送って、メイドはホッと小さく息をついた。

 彼女が鴨居の側のボタンに指を触れると、鋼鉄のドアはぎりぎりと音を立てて閉ざされた。
 窓のない玄関ホールは薄闇に呑みこまれ、壁の二か所に点されたランタンが、メイド独りの影をゆらゆらと床に落としている。

 彼女は、玄関ホールの壁際に設えられた事務的な階段をとたとたと踏み、上へ上へと上がる。
 程なく四階に降り立ったメイドは、緩やかに弧を描く回廊を進む。無人、無音の薄暗い回廊には、片側の壁に無数の扉が並んでいる。
 
 やがて、彼女は樫の木で作られた扉の前で立ち止まった。
 こんこん、という彼女のノックの音に、扉越しの返事が聞こえてきた。
 ためらうことなく、重いドアを押し開けたメイドは、戸口をくぐる前に、深々と頭を下げる。

「失礼します」

 扉の内側は、薄暗い小部屋だ。
 ひとが五人も入れば満員になってしまうだろう。
 対して、部屋の三方を占拠する本棚は天井に届くほど大きい。古書がぎっしりと詰め込まれたその本棚は、今にも崩落しそうな迫力で、メイドの頭上にのしかかる。
 この部屋は、黒龍の塔にある魔道書室の一つだ。
 
 威圧感満点の本棚たちだが、彼女はうろたえない。平然と部屋の奥に進み入ると、メイドは小さな窓辺に据えられた机の後ろで立ち止まった。
 メイドの四歩先、何冊もの分厚い本が積み上げられたその机に、小柄な人影が座っている。
 インバネス風の黒いローブをまとっているが、彼女の立つ位置からは、その細身で小柄な背中と裾の広がった黒髪の後頭部しか見えない。まだまだ若い男だ。
 
 メイドは、そんな後ろ姿に向かって、咲くような笑顔を浮かべてお辞儀をする。

「冒険者ご一行さま、お引取り下さいました」
「ああ、ご苦労。助かったよ。次もこの調子で頼む」
 
 メイドの簡潔な報告を聞き、男は瑞々しい少年の声で満足げに答えた。
 だが彼は振り向かない。その顔は、じっと机の上に向けられているようだ。
 
 四歩の距離を守ったまま、メイドはひょいと背伸びした。落ち着きなく視線を動かして、彼女は机の上に置かれた彼の手元を窺う。
 彼の前には、細かな歯車や宝石の欠片のようなものが散乱しているようだ。また何か新しい器械を作っているのだろう。
 メイドは、彼のスリムな背中に向かって尊敬の眼差しを送りつつ、控えめに尋ねる。

「あの、それで、ご研究は順調にお進みですか? 旦那さま」

『旦那さま』と呼ばれた彼は、振り向かないままに大きく背中を反らせて伸びをする。

「んー? ああ、実はちょっと止まってる」

 答えた彼の声は、どこか困ったような響きを帯びる。
 主人の胸中を察したメイドも、にわかに不安に囚われた。両手をギュッと握り締め、彼女は気遣わしげに、そっと問いを重ねる。

「あの、何か問題でも?」

 すると彼は、裾の広がった黒髪を揺らし、ずるずると椅子の上で姿勢を崩した。

「ああ。今創ってる器械にどうしても欠かせない物が、一つ手に入ってない」

 今度は机にぺたんと突っ伏し、『旦那さま』は、はあと大きな息をつく。

偏向水晶(ディフレクタークォーツ)、って言っても、プリモには分からないな」
「『でぃふれくたーくぉーつ』って、何ですか?」
 
 プリモと呼ばれたメイドは、小首を傾げて尋ねた。
 『旦那さま』が、うだうだと答える。

「空間を捻じ曲げて、書き込みをするのに必要な水晶だ。ガイタのフレゲトン火山周辺でしか採掘できないうえに、鉱脈もほぼ枯渇してる。ただでさえ手に入りにくいのに、使い物になるのは本当にごく一握りで、あとは屑だ」
「どうしてですか?」
「使い物になる偏向水晶は、面の数と傾斜面の角度が決まってる。おまけに偏向水晶は人工的にカッティングすると、効力を失うときた。参ったよ」
「それは、どこで手に入るのですか?」

 プリモは尋ねたが、彼は机の上から投げ遣りに答える。

「分からん。運が良ければ、どこかバザールか、詳しい商人から買えるかも知れないが。俺が探しているのは……」

 『旦那さま』は、うわ言のように数字を口にし始めた。
 どうやら彼が求める偏向水晶の大きさや角度などの条件らしい。プリモは、彼が言い並べた一連の数値を、密かに記憶に留めた。
 やがて、机の上の『旦那さま』が力なく身を起こした。脱力した彼の両肩が、やけに痛々しく映る。

「ああ、もうすぐだったよな? プリモ」

 突然主人に問われたプリモには、彼の聞きたいことなど見当も付かない。彼女には、小首を傾げて尋ね返すのが精一杯だった。

「あの、何がでしょうか?」
「ああ、いや、何でもない。何でもないんだ。他に用件は?」

 焦った口調の問いを受け、メイドは、ぱんと小さく手を打った。

「あ、そうそう。昼食の支度が出来ています、旦那さま」
「あー、難儀だから今日はいいよ。今は手が離せないし」
「いけません!」

 主人の怠惰な言葉に、プリモは即座に反発した。頬を熱く上気させ、強く主張する。

「旦那さまは育ちざかりなんですから、お体に毒です」

 彼女は上目遣いに、『旦那さま』の背中を見つめる。

「お願いですから、お召し上がりを。食べて頂けるまで、わたし、ここから動きません」

 彼女の強情な言葉を聞き、『旦那さま』が初めて振り向いた。
 見た目は人間で言えば十四、五才、だろうか。いかにも賢そうで、愛らしさもある顔立ちの少年ではある。しかし、その漆黒のまなこと不機嫌な口許は、才気と同時に負けん気の強さを感じさせる。
 やや吊り気味の漆黒の視線をプリモに注ぎ、彼がはあ、と深い息をついた。秀でた額に手をやって、いかにも面倒そうに洩らす。

「俺は、お前をそんなに強情に創ったつもりはないんだけどなあ、プリモ。分かった分かった。食べるから、ここへ運んでくれ。」

 プリモは一転して満面の笑顔を浮かべる。

「はい、旦那さま。すぐにここへお持ちします」

 深々と一礼し、彼女はこの小さな部屋を退出した。
 と、彼女が分厚い樫のドアを閉じるのと同時に、どこからか高らかなベルの音が響いてきた。
 乱雑な音色だが、一定のパターンに沿って打ち鳴らされている。この塔への来客を告げる、ベルの音だ。
 プリモは塔の入口へと急いだ。

 そうして、わずか数分。
 すぐに玄関先での応対を済ませたプリモは、魔道書室の前に戻ってきた。
 
 控えめにドアをノックした彼女は、『旦那さま』の返事を待って、古書の匂いが充溢する部屋に入った。

「失礼します」

 『旦那さま』の少年は、先と変わらず大きな机に向かって、何か考え込んでいる。
 そんな彼の背中から、無関心に響く問いが飛んできた。

「食事?」
「お客様です。旦那さまのお知り合いの方だとか」

 プリモの返事を聞き、『旦那さま』が振り向いた。彼女を奇妙な顔でしげしげと眺め返しながら、独り言のように聞く。

「変だな。知り合いなんて来る予定はないんだけど。誰?」

 そこはかとない落ち着かなさを覚えつつも、プリモは誠実に答えた。

「女の方です。ハリアーとおっしゃる、とても可愛い」

 名前を聞くなり、ばたばたと机の下に潜り込む『旦那さま』。めったに見ない『旦那さま』の狼狽振りに、プリモは丸い目をさらに丸くする。

「だ、旦那さま? どうなさったんですか?」
「俺は留守だと言ってくれ! ハリアーが来ると」

 机の下で椅子をかぶった彼が、押し殺した声で叫んだ。
 と、同時に聞こえてきたのは、少女の声。

「あたしが来ると、何だって?」

 プリモが振り向くと、戸口に少女の姿があった。
 右の頬に絆創膏を貼り、背中に細身の曲刀を背負った剣士風の少女だ。
 こしの強そうな長い赤毛を高く結い上げ、湿った真紅の繋ぎ服に身を包んでいる。煌めく紫紺の瞳は、机の下に潜む『旦那さま』を注視する。
 年は十七位だろう。快活に整った愛らしい顔立ちながら、左の口許から一つ覗く白い尖った歯が、少女の悪戯で不敵な印象をより強くする。
 勝手に上がり込んできた少女を見た途端、今度は『旦那さま』が机の下からぱっと跳び出した。
 今にも噛み付きそうな勢いで、彼が少女に食って掛かる。

「何しに来たんだよ、ハリアー!」

 するとハリアーと呼ばれた(くれない)の少女は、けらけらと軽く笑った。

「遊びに来てやったのさ、メヴィウス。お前ら黒龍(ブラック・ドラゴン)は、どいつもこいつも塔に閉じ篭ったまま、一歩も出ないんだから。だからあたしが、お前の話し相手になってやろうと思ったんだ。ありがたく思えよ」
「嘘つけ!」

 この塔の主人、『旦那さま』ことメヴィウス=ヴァロワ=アンドレイオンは、腕組みした居丈高なハリアーを睨み、ぴしゃりと極め付けた。

「ハリアー、路銀が尽きたんだろ! それでまた居候する気で、俺の塔に来たんだな!?」

 だが当のハリアーには悪びれた風は少しもなく、またけらけらと笑う。

「よく分かったな。またしばらく厄介になるよ」
「迷惑だ! 帰れよっ! ハリアーが来ると、ろくなことがないんだ! 物は壊すし、食糧は減るし……」

 くどくどと続く彼の文句だが、ハリアーに構う様子はさらさら見えない。
 緩やかに反った曲刀を背中から解いた彼女は、メヴィウスの座っていた椅子にどっかと腰を下ろした。すらりと締まった長い脚を悠然と組んで、ふふんと笑う。

「お前、相変わらずケチだな」

 途端に眉を削ぎ立て、いきり立つメヴィウス。

「身持ちが堅いと言えよっ!! 賞金稼ぎなんて不確定要素の強い稼業やってるから、そんな事になるんだろ!」
「まあそう言うな。今度大物を仕留めたら、ご馳走してやるから」

 不真面目っぽい愛想笑いを返し、ハリアーが曲刀の鞘の先を床に着いて豪語する。
 メヴィウスはそんな彼女を憮然とした表情で横目に睨み、深く濃い嘆息を洩らした。

「いつになるんだか」

 極めて非友好的な態度を取るメヴィウスだが、プリモはそうはいかない。
 彼女はエプロンの大きなポケットからタオルを取り出して、丁寧な仕草でハリアーに差し出した。

「どうぞ」
「おっ、ありがと」

 雨に濡れた長い髪や、ぱんぱんに張り切った形のいい胸を清潔なタオルで拭きながら、ハリアーがプリモを見上げた。

「よく気が付く可愛い娘じゃない。メヴィウスも隅に置けないな。いつ引っ張り込んだ……」

 そこまで軽口を叩いたハリアーの表情が変わった。
 立ち上がった彼女は、プリモの鼻先に自分の怪訝な顔を近づけると、その目をじっと覗き込む。

「あ、あの、何でしょうか?」

 プリモは仰け反るように半歩退き、戸惑いを隠せずに一言洩らした。
 ハリアーが、怯む彼女からメヴィウスに視線を戻す。

「このコ、何者だい? 人間(ホムス)でもないし、あたしらが知ってるどんな人種でもないな」
「何で分かるんだよ」
「瞳孔が、横長の楕円形してる」
 
 彼女の不思議そうな一言を聞き、プリモの胸は重く塞がった。
 
 プリモは黒龍の塔を訪れる客たち、冒険者も含めてすべての来訪者に応対している。
 大抵の客たちは、プリモの瞳孔に気付く間もなくこの塔を去ってゆく。
 だが時折、彼女に興味を持つ男がいたりする。そんな男たちも、プリモの瞳を見ると、怖じ気付いたような引きつった表情で、そそくさと立ち去ってしまう。ひどい時には、『カエルの目』などと揶揄されることもある。だが、それももう慣れてしまってはいた。
 プリモが諦めにも似た思いで濁った吐息をつくと、ハリアーがハッと向き直った。

「あ、ゴメン。もしかして、気にしてた?」

 ハリアーが一瞬床に視線を落とした。紫紺の瞳を実に済まなさそうに曇らせて、彼女は素直に詫びる。

「あたしってば口悪いからさ。気に障ったことがあったら、ハッキリ言ってね。えっと、名前は?」

 彼女の真っ直ぐな言葉を聞き、プリモもにっこりと笑顔を見せてうなずいた。

「プリモです。わたしは大丈夫ですから。ありがとうございます」

 少しホッとした表情を見せたハリアーが、をっ、と小さな声を上げた。

「そうそう。あたしも名乗っておかないと」

 そう言って、彼女が大きな胸を誇らしげに反らせた。

「あたしは剣士のハリアー。赤龍(レッド・ドラゴン)だよ。メヴィウスとは昔なじみでさ。この塔には時々顔出してやってる。前に来たのは一昨年だったかな?」
「この二年間は静かで良かったのに」

 メヴィウスが皮肉たっぷりの口ぶりで脇から言うと、ハリアーも腕組みしつつ言い返す。

「寂しかった、の間違いだろ」

 一言憎まれ口を挟んでから、この剣士ハリアーは、好奇心一杯の口調でプリモに聞く。

「で、プリモの種族は? あたしも初めて見るんだよね、プリモみたいな目。まさかホンモノの“薄暮人(ダスカン)”?」
「わたしは……」
    


    
    
    
    
    
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