三.

文字数 3,711文字

 めまいを覚えるほどの嫌悪感と屈辱感が、ハリアーを激しく苛む。

「こいつら……!!」

 胸を、小股を氷の手でまさぐられ、ハリアーは顔をゆがめた。奥歯をぎりぎりと噛み潰し、詰められた苦しい息が、口から洩れる。
 二体の怨霊が、ハリアーの肢体を好きにしようとしている。それなのに、今の自分にはなす術がない。あの時と同じように。
 紅蓮の怒りと、漆黒の悲しみに彩られた悔しさが、小刻みに震えるハリアーの全身を覆う。
 
 ……この二人は、まだハリアーが駆け出しのときに手にかけた賞金首だ。
 彼らに卑怯な手で組み伏せられ、誇りも、純潔さえも蹂躙されたハリアー。そして天さえ焦がす憤激に任せ、この二人を赤い龍の姿で焼き尽くした。賞金稼ぎとしてはあるまじき、最大の汚点といえる。
 だが、体を穢されてしまった悲しみよりも、その蹂躙を許した自分の弱さが、ハリアーには何よりも許せなかった。
 だからこそ、ハリアーはここまでひたすら自らを鍛えてきたのだ。何者をも寄せ付けない力を求めて。
 
 そんな忘れ去りたい厭わしい記憶が蘇り、憤怒と恥辱の交雑する激情が、ハリアーの意識を遠退かせる。
 一度ならず二度までも、こんな最低の連中に体を蹂躙されてしまうとは……!
 裂けるように痛み、吐き気の込み上げるハリアーの喉の奥から、血の呻きが洩れる。

「こんな、こんなまやかしに、あたしがやられるなんて……」

 その瞬間、前に聞いたプリモの言葉が脳裏を過ぎった。

 ――魔術幻影に巻き込まれたときは、何も考えずに数をかぞえろ――
 
 ……まやかし?
 これが幻影なら、プリモの言っていた方法が……。
 
 ハリアーは意を決して堅く目をつむると、プリモの教えどおり、数を数え始めた。

「いち、に、さん、し……」

 何も考えず、怒りも嘔吐も忘れ、ただ数をかぞえることだけに、ハリアーは集中する。そのまま三十あたりまで口に出したとき、不意に体が軽くなった。
 ハッと顔を上げると、あの二体の怨霊は、音もなく姿を消していた。この薄暗い部屋はしんと静まり返り、何の物音も聞こえてこない。
 深い吐息とともに、ハリアーは土の床に座り込んだ。まだわずかに震えが残る手で、額に滲んだ嫌な汗を拭い去る。
 しかし、彼女は、すぐにすっくと立ち上がった。
 
 ……こんなコトで、時間を無駄にしている場合じゃない。
 
 彼女は紫紺の瞳で、この円形の部屋の奥に見えている扉を凝視する。さっき確かに、鬼火に包まれたプリモとパペッタが、あの扉をくぐって行くのが見えた。

「プリモを助けなきゃ! 必ず護るって、約束したんだ」

 ハリアーが踏み出そうとしたときだった。
 誰かの足音が聞こてくえる。
 鋭く振り向くと、壁に音もなく丸い穴が開いていた。その穴から、小柄な人物がおぼつかない足取りでふらりと姿を現わした。
 その若い男を見て、ハリアーは目を丸くした。

「メヴィウス!? お前どうやってココに」

 ハリアーは思わず声を上げたが、漆黒のインバネスをまとった万有術師メヴィウスは、答えない。血の気のない顔に緊迫しきった表情を浮かべた彼は、ゆらりとハリアーの真正面に立った。

「プリモはどこだ」

 咆えるように大きな口を開けて聞いたメヴィウスだったが、その声に力はない。よくよく見れば、彼のローブの胸元にはじっとりと血の染みが浮かび、その手は赤黒く汚れている。
 ハリアーは眉根を寄せた。彼への気遣いが、ふと胸の底に沸いてくる。

「お前、ケガしてるのか? 何があった?」
「そんなのどうでもいい! ハリアーこそ何やってるんだ、こんなところで!」

 だが当のメヴィウスは、ハリアーを睨んで怒鳴るように聞き返す。

「ハリアー、ここに何がいるのか知っているのか?」
    
    
 「あったりまえだ。女屍師(ヴェネフィカ・モルテ)のパペッタとかいうヤツさ。スゴい賞金が掛かってる、ロクでもないヤツだ」

 ハリアーは、再び戦う意志を漲らせ、鼻息も荒く強くうなずく。
 憤然たるハリアーの言葉を聞いて、メヴィウスが額に手を当てた。彼の漆黒の目には、滅多に見ない深刻な陰が差している。
 はあ、と深いため息をおいて、メヴィウスが呆れきった言葉をこぼす。

「ハリアー、屍師がどれほど面倒な連中なのか、分かってるのか?」

 聞いておきながら、メヴィウスがハリアーの答えよりも先に、言葉を続ける。

屍師(ヴェネフィクス・モルテ)は、屍霊術(ネクロクラフト)を究めた奴が最後に目指す存在だ。屍霊術は死者を強制的に隷属させる術法だから、屍霊術師(ネクロロジスト)が死ぬと、死者は復讐しに現われる。だから屍霊術に手を染めた奴は、その復讐から逃れるために、永久に朽ちない体を求める。それが屍師だ」

 メヴィウスが、深いため息をもう一つ容れた。

「屍師は、生とも死とも縁を切り、ただ“存在の神エス”とだけ関係を結ぶ。だから連中の属性は“存在”だけだ。よく考えてみろ。“ただそこにいる”だけのことが、どれほど厄介か」

 ハリアーは黙ったまま、滔々と続くメヴィウスの説明を素直に聞く。

「屍師は生きていないから殺せないし、死んでもいないからあの世に送ることもできない。たとえ連中の体を破壊できても、誰かの記憶にはそいつのことが残ってる。その記憶を命綱にして、そいつはまた立ち現われる。どうやったって、“存在する”ことは打ち消せないんだぞ」

 彼の蒼ざめた顔は、深い憂いに満ちている。こんなメヴィウスを見るのは、ハリアーも初めてだ。

「屍師を消す方法は、一つしかないんだ。まともに戦ったら、俺だって勝てるとは思えない」
「どんな方法だ?」
「〝虚無の神ニヒル”の禁咒で、屍師を“初めから存在しなかった”ことにする。初めからいなかったのなら誰の記憶にもないから、屍師の存在は失われる」

 言っておきながら、メヴィウスは否定的に首を横に振る。

「本当にそうやって屍師を消すと、その屍師に関わった人々から、屍師との関連が失われる。そうなれば、人々のつながりが変わって歴史も変わる。そして今のこの世界は、この世界ではなくなってしまう」
「どういうコトだ?」
「屍師のいなかった世界は、俺も、ハリアーも、プリモだって存在しない世界かもしれない。俺にはそんな恐ろしい術法は、とても使えない」

 憂鬱そうに首を振ったメヴィウスが、おもむろに顔を上げた。ハリアーに注がれる彼の視線には、静かな非難と疑念が渦巻いて見える。

「屍師なんて関わった時点で負けなんだ。大体が大体、屍師がプリモに何の用があるんだよ」

 最初の質問を繰り返した彼に、ハリアーはむかむかと胸中に広がる怒りを顔に表わす。

「お前の『舟の書』とかをよこせと言っていたぞ。プリモと交換するつもりらしい。あの卑怯女め」
「『舟の書』?」

 メヴィウスの表情から毒気が少し抜け、困惑の色が浮かんだ。

「変だな。屍師なら『舟の書』の完本を持っているはずだ。完本がなければ、屍師にはなれない」

 彼はハリアーに目を戻すと、こう聞いてきた。

「ハリアー、その屍師と直接戦ったか? 手ごたえは?」
「マドゥをぶつけてやったけど、跳ね返された。何か皿みたいな音がしたぞ」」

 再びうつむいたメヴィウスは、腕組みしてむっつりと黙り込んだ。顎の先に手をやって、メヴィウスは土と足跡と骨の欠片が乱雑に散らばる床に視線を落とす。
 そんな彼の横顔を見ながら、焦りばかりがじりじりと募るハリアーは、つい声を荒げた。

「何考え込んでるんだ! 早くプリモを助けに行くぞ!」
「うるさいなっ! 気が散る!」

 メヴィウスの一喝を受けて、気持ちの逸るハリアーは口をつぐんだ。
 そしてまた若い万有術師が思案に暮れる。
 しかしすぐに顔を上げたメヴィウスが、この円形の部屋の壁際に並ぶ棚に歩み寄った。ぐるりと棚を覗きながら足を進める彼だったが、一つの棚の前で立ち止まった。
  その棚の中からインク壷と鵞ペンを取り出したメヴィウスが、ぶつぶつ唱えて指を三回鳴らした。
 するとメヴィウスの手許に黒い穴が開き、彼はその中から白い本を取り出した。
 ハリアーもメヴィウスに歩み寄り、彼の脇から手許を覗き込む。
 彼は白い手書きの本に、パペッタのペンとインクを使って、何か書き込んでいる。二重三重に修正が加えられたその一行は、もはや何が正しいのかよく分からない。
 メヴィウスは、追記を終えた本をぱたんと閉じた。その表紙には、手書きの共通語で『黒龍版・舟の書』と書かれている。
 インクとペンを棚に戻し、白い本を小脇に挟んだメヴィウスが、ハリアーに聞いてきた。

「プリモと、そのパペッタはどこに行った?」
「あの扉の向うだ」

 ハリアーが一枚のドアを指差すと、メヴィウスは黙ったまま扉へ足を向けた。

「待てっ! あたしも行くぞ」

 ハリアーも、彼の後を追って扉に急いだ。       
       
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