文字数 9,328文字

 翌朝の黒龍の塔、玄関広間。
 がらんとしたホールに窓はなく、天井近くの四方に点されたランタンが、この広間の黒石の床をゆらゆら照らしている。
 そんな塔の玄関ホールに、プリモはいた。側には漆黒のガウンを羽織った塔の主人、メヴィウスが付き添っている。
 そして彼女たちの前に立つのは、紅蓮のつなぎ服を身にまとい、剣とザックを帯びた旅装の少女。賞金稼ぎのハリアーだ。
 鋼鉄の門扉を背にしたハリアーが、プリモとメヴィウスを交互に見る。その絆創膏を貼った顔からは、素直な感謝がありありと読み取れる。
 いつになく神妙な面持ちのハリアーが、一抹の寂しさが漂う笑みを湛え、礼の言葉を口にした。

「メヴィウスもプリモも、世話になったね。ホントにありがと」
「こちらこそ、本当にいろいろとありがとうございました」

 ハリアーの前に立つメイドのプリモは、旅立つ少女を見つめ、静かな微笑を湛えてうなずいた。その胸元には、水晶のペンダントがつつましく光っている。
 込み上げる寂しさを抑え切れず、プリモは冷たく光る床に目を落した。

「せっかくですから、もっとゆっくりご滞在してくださればいいのですが……」

 そこでプリモは一度言葉を切った。ハリアーと過ごした時間が、ほんのうたたねの夢のようだ。
 プリモの沈み込んだ気持ちを持ち上げるように、ハリアーの明るい声が玄関ホールに響く。

「ありがと、プリモ。でもまたすぐに来るさ。あたしは、この塔も、プリモたちも大好きだから。そのときは、また一緒に出かけようね、プリモ」
「はいっ!」

 プリモが大きく弾むようにうなずくと、メヴィウスがむすっと口を挟んだ。

「それはいいけど、あんまり無茶な場所へは誘うなよ」

 悪戯っぽくうなずいて、へへっと笑ったハリアーだったが、すぐに真顔に戻った。

「なあ、メヴィウス。あたしが行く前に、一つ教えろ」

 向き直ったメヴィウスの表情には、珍しく棘がない。極めて穏やかにハリアーを見上げている。メヴィウスが軽くうなずくと、ハリアーが意味ありげににやりと笑った。

「この塔に来た日にも聞いたけどな、お前何でプリモを創ったんだ? 理由を聞かせろ」
「えっ? そんなのハリアーには」

 口ごもったメヴィウスの前に、紫紺の瞳を煌めかせるハリアーがさっと右手を突き出した。

「おっと、もうあたしは、お前が認めたプリモの保護者なんだからな。プリモのことを知っとく責任があるだろ。『関係ない』、とは言わせないぞ」

 ハリアーの正論を聞き、腕組みのメヴィウスがうなだれた。深いため息を入れ、思案に暮れること数秒ばかり。すぐに彼が重々しく口を開いた。

「……俺は、黒龍一族の慣わしに従って、六才のときに魔術師だった伯父貴に参入した。十二才で独り立ちして、旅に出た。世界中に散る黒龍一族の遺産と知恵を集めて回り、十六のときにこの塔を構えた。それからひたすら知恵と知識を探求し続け、魔術師の世界で“万有術士(マグス・ウニヴェルサリス)”と呼ばれるくらいにはなった」
「知ってる。問題はそこからだろ。続けろよ」

 居丈高な彼女の言葉だが、メヴィウスは諦めたように小さく鼻を鳴らして、言葉をつなぐ。

「この塔を構えて以来、俺はずっと悩まされてきた」
「何にだ? バケモノでも来るのか」

 冷やかすようなハリアーの言葉を聞いて、メヴィウスがくわっとハリアーを見上げた。

「違う! 冒険者を名乗る破落戸(ごろつき)どもだ! ハリアーも分かってるだろ!」

 声を荒げた彼は、苛立ちを隠さない。まるで堰を切ったかのように、怒涛の文句が溢れ出す。

「短絡思考の冒険者どもは、こういう辺境の塔や城塞が悪の巣窟になってる、と思い込んでる。来るんだよ。そういう自称“勇者”の破落戸どもが、俺の塔にも。『悪龍退治だ』、などと分かったような顔をして、俺の塔に押し入ってくる」
「悪龍退治か。うまいことを言うよな」

 ころころ笑うハリアーに、メヴィウスは目を剥いて食って掛かる。

「笑いごとじゃない! 俺はただ静かに研究に没頭したいんだ! それなのに、冒険者って奴は一体何考えてるんだか」
「いっぺん頭の中を覗いてみたらどうだ?」

 ハリアーがからかうように言うと、メヴィウスが大真面目な顔でぽつりと洩らす。

「……見たよ。二回見た。最悪だった。連中の頭の中には、本能と欲望しかない」
「お前、ホントに見たのか」

 ひくっと引き気味のハリアー。しかし構わずにメヴィウスが続ける。

「何人目の冒険者だったかは忘れたけど、あんまり頭に来たんで、二人組の破落戸をその時研究してた脳内映像の実写器械の実験台にしてやった。そうしたら、押しかけてくる冒険者が増えた。どうやら、俺の塔に踏み入った者は生きて帰れない、という噂が立ったらしい」
「当たり前だろ」

 ハリアーが呆れ顔で突っ込む。

「お前ら黒龍(ブラック・ドラゴン)は、タダでさえ評判悪いんだから。そんなことしたら、もっと悪評が立つじゃないか」
「まあ、確かに伯父貴は評判の悪い妖術師だったから、本当に退治されてるけど……」

 うなだれたメヴィウスが、一旦切った話を再開した。

「だから、もう冒険者に危害を加えるのはやめた。押し入ってきた奴は、塔の記憶を消去して、遠くの町へ放してやることにした。そういう奴は二度とは来ないが、次から次へと新手が来る。きりがない。そこで、俺は考え方を変えた。正確には、セフォラと義母上の発案なんだけど」
「どんな風に変えたんだ?」
「俺の塔は恐ろしい場所だと噂が立ってるから、短絡思考の冒険者どもは、緊張し切ってここへ来る。そこで若い美人が笑顔で応対すれば、どんな破落戸でも毒気を抜かれて帰ってくれる」

 メヴィウスのこの言葉を聞いて、ハリアーが大きくうなずいた。

「ああ、まあ、そりゃそうだろうな」
「そんな訳で、プリモを創った目的は二つだ。一つは身の回りの雑事を任せるため。もう一つは、冒険者除け。効果は覿面(てきめん)だ。どうだ、納得したか?」

 しかしハリアーが、軽く首を捻った。紫紺の瞳には、まだまだ疑念の陰が差している。

「納得できない。それなら何で、プリモの目を楕円にしたんだ? 普通の可愛い目にした方が、男の惹きはよっぽど強いだろ。まさか失敗したんだとは言わないよな?」

 メヴィウスの傍らに控え、じっと彼の言葉を聞いていたプリモは、耳をそばだてた。

 ……ここまでは、プリモも教えられてきた話だ。

 だが、どうして自分の瞳孔が楕円なのか、それは今まで尋ねたことがない。いや、尋ねることができなかった。自分の鼓動が聞こえるほどに息を詰め、彼女は主人の言葉を待つ。
 わずかなしじまを吐息で破り、メヴィウスがぽつりと吐露した。

「いや、すべては設計どおりだ。プリモの容姿は、俺が因子レベルで設計した。柔らかで可憐な顔立ちに、女性らしい体形。誰にでも好かれるような……」

 メヴィウスが、濃く深いため息を洩らした。彼の眉根も、どこか苦しげに歪められる。

「今のプリモの姿は、俺の理想の具現化でもある。楕円の瞳孔、以外は。もちろん、それも俺が設計したものだ」
「何でそんなマネを。お前、『カエルの目』なんて言われるプリモの気持ち、考えたことあるのか?」

 ハリアーが非難がましい口調で責めると、メヴィウスは堅く目を閉じ、額に片手を当てた。

「プリモの瞳孔が楕円形をしていることは、普通はよほど近くからプリモの顔を見つめないと、気が付かない。そういう奴は、分かるだろう?」
「まあ、そういうヤツは、プリモを好きになったヤツか、力づくでどうにかしようってヤツだろうな」

 ハリアーの表情から棘が消えた。彼女は軽く目を伏せ、わざとらしい仕草で肩をすくめる。

「だから、冒険者を惹きつけつつ、本気のヤツは遠ざけたいワケだ」
「爬虫類に近い縦長の瞳孔には、何故か冒険者連中は耐性がある。でも、両生類に近い横長の瞳孔には、嫌悪感を覚える奴が多い」

 そこで一旦言葉を切ったメヴィウスが、大きな吐息をついた。

「俺は、理想を設計に込めた。そしてそのとおり、いや、それ以上の形を得てくれた、それがプリモだ」

 そしてわずかな間をおき、彼は消え入りそうな声で告白した。

「……俺は、誰にもプリモを渡したくなかった」

 この一言が、プリモの胸を射抜いた。
 胸の動悸は激しくなり、頭に熱く血が昇る。目が眩み、手足は震えて天井が回り出す。

「なるほどな」

 ハリアーが複雑な吐息をついた。張り切った胸の下で腕を組み、彼女が半眼にメヴィウスを捉える。

「お前の気持ちはよく分かった。けどな、もう少しマシな方法があっただろ。プリモの目を可愛く創っても、ちゃんと」

ハリアーの咎めるような声が、朦朧としかけたプリモの意識を現実につなぎ止めた。

「待って下さい、ハリアーさん」

 プリモはハリアーの苦言を遮った。膝の震えを必死に押さえ、彼女は凛とした笑顔を浮かべて、ハリアーを真っ直ぐ見つめる。

「わたしは、誰に何を言われても、全然平気。わたしは、わたしの体のすべてが大好きです。旦那さまが、創って下さった体ですから」

 プリモが自分の体の全てに誇りを持てたのは、これが初めてだろう。『自分の体が大好き』、胸を張って言い切ったプリモの全身に、何か柔らかな力が溢れるのを感じた。
 ハリアーも、何か感じるところがあったのか、無言で温かく微笑むと、プリモの肩をぽんと叩いた。
 と、そこへ呼び鈴の音が乱雑に割り込んできた。
 プリモがメヴィウスを見ると、彼はうんざりした表情で口許を曲げながらも、小さくうなずく。主人の意図を確認したプリモは、鉄の門扉に歩み寄り、いつものように扉を開いた。 
 一杯に開放された戸口には、一人の男が立っている。色黒に長髪の、見覚えのある戦士だ。
 この男を見るなり、ハリアーが大きな声を上げた。

「おっ!? この前の軟弱者っ!」

 戸口に立っていたのは、捕縛師ヴァユーだった。
 この前と同じ刺叉を携えたヴァユーは、ハリアーの顔を見た瞬間、しまったというような表情を見せた。太い眉根をぐっと寄せ、彼は残念そうな吐息をつく。

「なるほど、まだこの塔にいたのか、“流星雨のハリアー”。先日の明け方、赤い龍がこの塔から発ったのを見たのだがな」
「ああ、また帰ってきたのさ」

 ハリアーは、あからさまに迷惑そうなヴァユーの顔を正視して、不敵に挑戦する。

「前は妙な咒符で不覚を取ったけど、今度はそうはいかないぞ。どうだ、もう一戦してみるか?」
「お前が望むなら挑戦を受けないでもないが、お前の準備はできているのだろうな?」
「あたしの準備なら、いつだって万端だぞ」

 不穏当なやり取りを繰り広げるハリアーとヴァユーの間に、メヴィウスが割って入った。

「やめろよ。全く、戦士って連中は暴力的で困る」

 呆れきった口調で言いながら、メヴィウスが玄関口のヴァユーを見上げた。

「あんたが例の捕縛師か」

 とても友好的には響かない問いだが、ヴァユーが表情を変えずにうなずいた。

「そうだ。お前がこの塔の主か。私の用件は使用人から聞いているな?」
「聞いてる。本ならちゃんと返す。中に入れ」

 メヴィウスの誘いに応じて、ヴァユーが玄関の敷居を跨いできた。
 一歩玄関に踏み入ったヴァユーの目の前で、メヴィウスが指を三回鳴らす。間髪も容れず、虚空に円い口が開き、メヴィウスが異空間の書庫からぼろぼろの古書を取り出した。

「ほら、これだ」

 無言で本を受け取ったヴァユーが裏表紙を開くと、そこにはミツバチの蔵書印が押されている。確かに、あのプリモの創造にも関わるという魔道書、『舟の書』原本のようだ。

「なるほど。大図書館の蔵書に間違いない。私の用件は以上だ。邪魔したな」

 本を布にくるんだヴァユーが、肩に下げたザックに本をしまい込んだ。そしてそのまま、くるりとメヴィウスに背中を向ける。目的を果たしたからか、ヴァユーの態度は極めて素っ気ない。
 そんな無感情で事務的なヴァユーに、メヴィウスがぼそぼそと問いを投げた。

「……延滞料は取らないのか?」
「特に必要ない」

 即答したヴァユーが、玄関口から肩越しの視線を寄越す。

「大図書館からは、そういう指示は受けていないからな」

 そのまま、玄関から去り踏みだしかけたヴァユーの背中に、メヴィウスが再び問う。

「ああ、そういえば、あんたにあの“六字禁箍符(リガリア・ヘキサリテラム)”を渡したのも、大図書館か?」
「いや、咒符は私が準備した。東大陸の術者の伝手を使ってな」
「やっぱり東大陸からか」

 メヴィウスが軽く目を伏せた。ふふん、と笑ったメヴィウスが、どこか侮蔑の匂う調子で肩をすくめる。

「久しぶりに珍しい物を見たが、この俺があんなもの知らないとでも思ったのか? 俺を引っ掛けるつもりなら、もっと高度な術法を用意して来るんだな」
「なるほど」

 ヴァユーが大きな吐息をついた。同時に後ろ姿ががっくりと力を失い、天を仰いだヴァユーが低く呻く。

「“黒龍の塔”の住人は、やはり上から下まで一筋縄ではいかない」
「下まで?」

 メヴィウスが一言聞くと、ヴァユーがゆっくりと振り向いた。捕縛師の視線が、メヴィウスの側に黙して控えるプリモに注がれる。

「“六字禁箍符”は、お前の使用人に破られた。まさか使用人が『数数(かずかぞえ)』などという高等技術を習得しているとは、夢にも思わなかった」
「あの、数を数えるって、そんなにすごい技術なんですか?」

 何も知らないプリモは、ヴァユーにおずおずと尋ねてみた。以前、主人のメヴィウスにも尋ねてはみたものの、冷たくあしらわれた質問だ。それ以来、ずっと頭の片隅に引っかかったままにいた。
 すると、プリモの顔を見つめるヴァユーの眉が、不思議そうに寄せられた。

「何だ。お前は何も知らずに使っていたのか。あれは……」
「わっ、やめろ! 言うな!」

 慌ててメヴィウスがヴァユーを遮った。が、この捕縛師の口は止まらない。

「何の示唆もなく、いきなり数を数えろと言われれば、普通は何故そんなことをさせるのか、疑問に思いながら数えるだろう。幻影や催眠などの幻惑系魔術は、ひとの精神の隙に染み入って作用する」

 ヴァユーの目が、プリモとメヴィウスの間をちらちらと行き来する。

「だが疑念を抱きながら数をかぞえている間は、それに集中していて、幻惑系魔術が染み入る隙がない。単純だが、実に効果的だ」
「この“数数”の神髄は、どうして数を数えるのか、行使する者がその理由を知らないことにある。理屈を知ってしまえば、数をかぞえることに疑念は抱けないからな」

 ゾーンの言葉を引き取ったメヴィウスが、額に手を当てて深い吐息をついた。

「ああ、これでプリモは、『数数』を使えなくなった。数える理屈を知ってしまったからな。理屈を知ってなお“数数”を正しく行使できるのは、きちんと修練を積んだ魔術師だけだ」

 洗いざらい白状したメヴィウスが、恨めしげな黒い目をヴァユーに差し向ける。

「どうしてくれるんだ。“数数”は、誰でも行使できる、数少ない魔術的自己防衛なんだぞ。これが使えなくなったから、他の手段を教えないといけないじゃないか」
「私のせいにするんじゃない」

 メヴィウスを真っ直ぐ見据え、ヴァユーがハッキリと言い返す。

「元はと言えば、お前が本を延滞したからだろう。きちんと期限内に返していれば、私が雇われることも、この塔へ来ることもなかった」

 堂々たる正論をもって言い負かされたメヴィウスは、ぐっと言葉を詰まらせた。がっくりと肩を落とす主人に、ヴァユーが不思議そうな表情を見せる。

「それに何を悩む? “数数”が使えなくなったのなら、他の防衛手段を教えれば済む話だろう」

 ヴァユーの視線が、プリモと不機嫌なハリアーを見比べた。

「その使用人は、“数数”を流星雨のハリアーに正しく教え、きちんと効果を発揮させた。術法というのは、自ら行使するよりも他人に伝授する方が、ずっと難しいのだろう? それならその使用人は、並々ならない素質を秘めていると思うが、まあ余計なお世話だな」

 ヴァユーが皮肉っぽく肩をすくめた。そして何か考え込むメヴィウスから、むすっと突っ立つハリアーへと目を移す。

「お前も出発するのか? 流星雨のハリアー」
「まあな。大物をモノにできなかった。次の標的を探しに行くさ」

 ぶっきらぼうにそう返し、ハリアーがザックを肩に担いだ。そんな彼女に、ヴァユーが淡々とした視線を注ぎつつ、声を掛ける。

「私もピピン大図書館へ戻る。お前さえよければ、途中まで同道しないか?」
「バカ言うな!」

 ヴァユーの誘いを瞬時に一蹴したハリアー。

「何でお前なんかと一緒に行かなきゃならないんだ。お前は信用できない。戦士のクセに魔術に頼る軟弱者だし」

 ハリアーがヴァユーをキッと睨んだ。その彼女の紫紺の瞳は、濁りに濁って映る。ヴァユーの咒符に引っ掛かったことが、よほど悔しかったのだろう。
 ずばずばとしたハリアーの放言に、ヴァユーが苦笑を洩らした。その息は不思議と温かく響く。

「なるほど。私も随分と嫌われたものだな。まあいい」

 彼がプリモ、ハリアー、メヴィウスを順に見回す。

「賞金稼ぎと捕縛師とは、隣接した仕事だ。またどこかで会うこともあるだろう。邪魔したな。ああ、そうだ」

 そこで何か思い出したのか、ヴァユーがメヴィウスを一瞥した。

「蔵書の延滞も、ほどほどにすることだ。次に延滞したら、次は副司書長が自ら回収に来るそうだ」

 途端にびくんと首を竦めたメヴィウス。ヴァユーが決まり悪そうな彼に、再び背中を向けた。先日と同じように飄々とした後ろ姿だが、プリモにはなぜかとても寂しげに映る。
 居てもたってもいられなくなり、プリモの唇が勝手に言葉を放った。

「あ、待ってください」

 もう一度振り向いたヴァユーに、プリモはおずおずと謝辞を述べる。

「あの、遠いところから、わざわざご苦労さまでした。どうぞ、お気を付けてお帰り下さい」

 そう告げて、プリモは深々と頭を下げた。あくまで謙虚な彼女をハリアーが苦笑交じりに眺め、メヴィウスはほのかな笑みで見守っている。

 「なるほど。ずいぶんと律儀だな、使用人。プリモとか言ったか」

 プリモに向き直ったヴァユーは、初めて笑顔を見せた。戦士にしては静かで知的だが、どこか捉えどころがない。捕縛師というのも、賞金稼ぎに負けず劣らず大変な仕事らしいから、こういう性格になってしまうのかも。プリモには、漠然とそんな思いが浮かんだ。
 ヴァユーがプリモに穏やかな視線を注ぎつつ、丁寧な口調で詫びを入れる。

「気遣いありがとう。お騒がせして申し訳ない。それに“数数”の件も済まなかった。そうだ、代わりと言うには不足かも知れないが……」

 懐をごそごそ探ったゾーンは、プリモの手を取ると、取り出した物をそっと握らせた。彼女の掌に、ひんやりとした感覚が広がってゆく。
 そっと開いたプリモの掌には、小さなガラス容器があった。深い瑠璃色の容器は、つるんとした肌触りとともに、ほんのりとした冷気を帯びている。
 ヴァユーが淡々と説明する。

「ピピン大図書館から支給された軟膏だ。多少の傷なら、瞬く間に治る。今回の依頼は危険が伴う、ということで渡された。持っておけば、もしものときに役立つだろう」

 心地よく冷えた軟膏入れをぎゅっと握り、プリモはヴァユーに深々とお辞儀した。

「ありがとうございます。道中、充分お気を付けて」

 ヴァユーは小さくうなずくと、塔から踏み出した。そして二度と振り向くことなく、潅木の間に消えていった。
 捕縛師ヴァユーの消えた先を目で追うプリモの耳に、ハリアーの苦笑が聞こえた。

「まあ、思ってたほど悪いヤツでもないか。今度出かけるときは、その薬も持って行こうね」

 ハリアーが、どこか決まり悪そうに口許で笑っている。プリモもにっこりと笑みを返し、ガラスの軟膏入れをもう一度強く握った。
 そんなプリモの側で、ハリアーの声が明るく響く。

「じゃ、あたしも行くか」

 ハリアーも、よっ、と小さく声を上げて、肩のザックを負い直す。

「ハリアーさんも、気を付けて下さいね。またのお越しを、お待ちしております」
「ああ、ありがと。プリモも次に会うまで、元気でね」

 ぴっと敬礼を返したハリアーは、くるりと踝を反し、塔から出た。歩み続ける彼女の赤い姿は、次第に霧の中に溶け込んでゆき、やがて見送るプリモの視界から消え去った。
 にぎやかな戦士たちは去り、塔は落ち着き払った静寂を取り戻した。

 ……ただハリアーたちの来訪以前の、元の黒龍の塔に戻っただけ。
 そうは知りつつも、プリモは所在なさを感じ、玄関ホールを見回した。

「みなさん行ってしまわれましたね。急に静かになってしまって、何だか、とても変な感じです」

 ふう、とプリモは吐息をついた。かすかな息の音が、これまでになく大きく自分の耳に響いたのを感じる。しかし腕組みしたメヴィウスが、皮肉っぽい、それでいてどこか温かみのある笑いを洩らした。

「どうせハリアーのことだ。またすぐに現れるさ。財布が空になりさえすれば、明日にでも」

 そう言って、むすっとした表情に戻った彼がプリモを誘う。

「じゃあ行こう」
「どちらへ、ですか?」

 プリモが小首を傾げて尋ねると、メヴィウスは懐からくしゃくしゃになった一枚の紙を取り出した。主人が膝の上に当ててしわを伸ばすその紙に、プリモは確かに見覚えがある。

「あ、それは」

 それは、プリモの置手紙だった。バザールへ出かけることを主人に告げる、プリモ自筆の手紙だ。
 古代文字以上に難解な文字が並ぶ紙面を見つめ、メヴィウスは深いため息をついた。

「魔術にしろ何にしろ、何か教えるにしても、プリモはまず字の練習が先だな。食堂で文字の書き方を練習しよう。研究がひと段落したから、時間ができた。教えるよ」

 痺れるような歓喜に全身を震わせて、プリモは大きくうなずいた。

「は、はいっ! よろしくお願いします!」

 無言でうなずく塔の主が、壁のボタンに触れた。鋼鉄の扉は低い軋みを上げながら動き出し、やがて重い響きとともに堅く閉じた。
 戦士たちを送り出した黒龍の塔は、しとしと降り始めた小雨のベールと、人外境が生み出すしじまに身を委ね、深い沈黙に包まれた。


 ―― 終 ――
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