五.

文字数 3,218文字

 プリモの脳裏に鮮やかに浮かぶのは、去年の誕生日の思い出だ。
 ……箱に収められた贈り物の懐中時計、それに何よりも、主人からの『おめでとう』の言葉。あれは、彼女が創られて以来の最高の夜だった。
 プリモは懐中時計を両手でギュッと握り締め、そっと胸に当てて目を伏せる。

「旦那さま、何ヵ月もかけて、わたしのために作って下さったんです」
「ええ? ホントかい?」

 瞳を潤ませたプリモが告白に、ハリアーも目を丸くした。張り切った胸の下で腕を組んだ彼女は、にわかには信じがたい、怪訝な面持ちを見せている。
 しばらくの間、不審げに小さく唸ったハリアーだったが、突然うぷぷ、と吹き出した。

「やる時はやるんだね、メヴィウスも」
 
 彼女の紫紺の瞳に、ほんのちょっぴりの称賛が覗く。だがその煌めきは、すぐに好奇心の光に塗り替えられた。興味津々の表情で、ハリアーが椅子から身を乗り出す。

「それで、今年はどうなの? アイツ、何か準備してそう?」

 ハリアーに問われても、プリモは寂しく首を横に振るしかない。

「さあ、存じません。わたしの誕生日は明日ですが、旦那さまは研究でお忙しいので」

 そう口にして、プリモは胸中に広がる霞のような淡い期待を振り払う。
 ふう、と大きな息をついて胸のわだかまりを吐き捨てて、懐中時計の真珠色の文字盤に目を落とした。
 昼食を終えてから、ちょうどメヴィウスに指示された二時間が経とうとしている。
 懐中時計の蓋をぱちんと閉じながら、プリモはハリアーに視線を向けた。

「旦那さまにお茶をお持ちしてきます。ハリアーさんは、ここでくつろいでいて下さいね」
「ああ、分かったよ」

 カップ片手にうなずいたハリアーが、プリモに念を押してきた。

「そうそう、例の話、しといでね。あたしが先に言うと、きっとカドが立つからさ」

 ハリアーの意図を察したプリモは、満面の笑顔でうなずく。

「『ばざーる』に連れて行って下さるお話ですね? 分かりました」
「アイツにダメだって言われたら、あたしが掛け合ってあげるから」

 悪戯っぽくウインクして見せたハリアーに、プリモも弾むようにうなずいた。

「はい!」

 そうして自室にハリアーを待たせたプリモは、まず食堂に寄って熱い珈琲を一杯淹れた。
 それに手焼きのクッキーを添えてから、プリモは主人が篭る魔道書室へと向かう。
 程なく、いつもの部屋の前に立ったプリモは、銀のトレイを片手で支えてドアをノックする。

「失礼します」
「ああ」

 ドア越しの返事を聞き、すぐにプリモは部屋に入った。
 正面に目を向けると、主人のメヴィウスは昼食前と同じく、大きな机に向かっている。彼の背中越しに聞こえてくるのは、何かの器械をいじる金属的な音だ。

「あの、お邪魔でしたでしょうか?」
「いや、構わない。もう終わるよ」

 主人メヴィウスの言葉どおり、一分とかからずに彼の作業は終わった。振り向いた彼が、こぶし大の真鍮の器械を机の隅に置き、椅子の上から漆黒の目をプリモに向ける。

「待たせたね」

 ふうと息をついたメヴィウスは、一抹の疲れを漂わせつつも、余裕の微笑を湛えている。主人の様子にいつものどきどきを感じ、プリモは顔を隠すようにわずかにうつむいた。

「いえ、そんな」

 短く答えたプリモは、おずおずメヴィウスの側に寄り、トレイを彼の手許に置いた。

「どうぞ」
「珈琲? ああ、もう二時間経ったのか。ありがとう。疲れたときは珈琲に限るよ。それに、俺の大好きなマーブルクッキーだ。嬉しいな」

 悠然と足を組んだメヴィウスが、香り立つカップに手を延ばした。
 安心しきった様子でくつろぐメヴィウスに尊敬の眼差しを送りつつ、プリモは控えめに尋ねてみる。

「あの、ご研究は完成しましたか?」
「ああ。基本的な部分は全部できてる。あとは問題の偏向水晶だけなんだけどな」

 浅くうなずいて、メヴィウスが口を閉じた。目までつむって、彼は手にしたカップから立ち昇る香気を楽しんでいる
 そんなすまし顔の主人に向かって本題を切り出そうと、プリモは小さく息を吸った。
 が、先に口を開いたのはメヴィウスの方だった。

「それで、何か変わったことは? ハリアーは大丈夫だろうな?」

 口から出かけた言葉を飲み込むプリモに、メヴィウスが疑り一杯の視線を向ける。

「あのハリアーが、このまま大人しくしてるとは思えない。ハリアーはこの塔にふらりと来ては、長居をして散々引っ掻き回した挙句、ぷいといなくなる。前は二か月だったけど、損害が出る前に何とかしないと……」
「何とか、って、追い出しちゃうんですか?」

 不安を覚えたプリモの問いに、メヴィウスが深刻なため息で首を横に振る。

「いや、ハリアーを力づくで追い出すことができるのは、ハリアーの師匠ローサイト卿くらいだからな。まあ、今はハリアーも来たばかりだし、その内考えよう。ああ、難儀だ」

 そこまで憂鬱げにこぼしてから、メヴィウスがプリモに視線を戻した。

「それで、何か変わったことはあったか? プリモ」

 重ねて聞いた主人を真っ直ぐに見て、プリモは素直に答える。

「あー、冒険者さまがいらっしゃいましたが、お引取り下さいました」
「『冒険者さま』?」

 プリモの言葉を繰り返した彼の目が、ぴくりと動いた。

「ご一行じゃないってことは単騎か。余程腕に自信があったみたいだな」

 プリモは素直にうなずく。

「はい。ハリアーさんが退去させては下さいましたが、ハリアーさん、魔術幻影に捉われて」
「負けたのか」

 意外そうな表情を見せたメヴィウス。
 カップ片手に目を丸くする主人に、プリモは首を横に振る。

「いいえ。ですが、今はわたしのお部屋で少しお休みです」
「相手は魔術師だったのか?」

 答える代わりに、プリモはエプロンのポケットから取り出した革の書類挿みを差し出した。

「いいえ。魔術師ではなかったようですが、これを置いていかれました」
「へえ」

 カップを置いたメヴィウスが、クッキーをつまんで口に運ぶ。マーブル模様のクッキーをくわえたまま、メヴィウスが書類挟みをいきなり開いた。途端にメヴィウスが、おっと小さく声を上げる。

「“六字禁箍符(リガリア・ヘキサリテラム)”か。なるほど、これならハリアーが引っかかっても無理はないな」
「あの、その『りがりあ……』って、何ですか?」

 おずおずとプリモが尋ねると、この若い主人は机に頬杖をついて目を細めた。もぐもぐとクッキーを頬張りながら、彼が答える。

「書かれた文字を読み上げると魔力が解放され、読んだ本人が動けなくなる咒符だ。東大陸由来の幻術で、この西大陸では滅多に見ない。俺も十何年か振りに見たくらいだから、知ってる冒険者は少ないだろう」

 そこでメヴィウスの視線がプリモに戻された。

「これを持ってきたのは、どんな奴だった?」
「肌のお黒い、刺叉をお持ちのヴァスバンドゥさま、とおっしゃる方でした」

 プリモの返事を聞き、メヴィウスが納得の表情を見せた。

「ああ、それなら東大陸のヴィドゥヤ語の名前だ。やっぱり東大陸の奴か。それで、ハリアーは自力で六字禁箍符を破れたか?」
「いえ、数をかぞえて頂きました」

 プリモが答えると、メヴィウスの口許が綻んだ。彼女をチラ見しながら、彼が何度もうなずく。

「上出来だ。うまくやってくれたな」
「あ、ありがとうございますっ」

 主人に誉められて有頂天の彼女は、主人に向かって深々と頭を下げた。そしてすぐに顔を上げたプリモは、疑問をメヴィウスにぶつけてみた。

「あ、でも、どうして数を数えたくらいで、解けたのですか? めったにない強い術なのでしょう……?」
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