一.
文字数 3,333文字
遥か地の果てまで続くかのような、深緑の小麦畑。
東の空を照らす暁の光が、地表とちぎれ雲を紅に染め上げる。
雲を運ぶ微かな風は、見渡す限りの小麦畑をさやさやと渡ってゆく。
だんだんと白さを増す光と風とを受け、豊かな穀物の海は水面 に波の陰翳を刻み付ける。
そして夜明けの瞬間、地平の彼方から日輪が姿を覗かせた。
まばゆい光の輻 が蒼穹を射抜き、天空を覆う紅のベールは、一瞬の内に輝く黄金に姿を変えた。
赤い龍の背に乗り大空を行くプリモは、風になびく栗色の髪を金色に煌めかせ、まぶしげに藍色の瞳を細める。額に繊細な白い手を翳して朝日を見つめるプリモ。
長い驚嘆の果てに、彼女はただ一言こう洩らした。
「きれい……!」
真っ直ぐ地平の彼方を見据える赤龍ハリアーが、好意的に小さく笑う。
「プリモ、見たことない? 夜明けってさ」
プリモは涙の滲んだ目許をそっと拭い、瑠璃色の瞳を龍の頭に向けた。
「いいえ、塔からは見ています。でも塔はいつも曇り空ですし、こんな高さからお陽さまを見たことがなくて」
プリモは、空を斬るハリアーの両翼に、憧れと尊敬を込めた眼差しを注ぐ。
湖と都市とが創り出す造形の妙に、心も言葉も奪い去られ、ただただ目を見開くばかりのプリモだった。
ハリアーの説明が、そんなプリモの耳に響く。
「あれがアリオストポリ。アープ王国の都だよ」
ハッと我に還ったプリモは、もう一度王都アリオストポリに向けて目を凝らした。
アリオストポリは、幾重にも運河を巡らせた半同心円状に造営されている。湖を背にした円の中心には、周囲の全てを見守るように城がそびえ立つ。
目指すその都市はまだまだ遠く、プリモの遠目ではそれ以上のことは見て取れない。だが王都の整った美しさは、このアープという王国自体の繁栄と気質と十二分に感じさせる。
「きれいな街だろ? あたしが知る限り、このアリオストポリはこの大陸のどの街よりも、きれいだよ。アリオストポリに住むアープ人は、みんな愛国心が強いからかな」
赤龍ハリアーが、徐々に高度を落とし始めた。
「そろそろ着地するよ。しっかり掴まってて」
ハリアーの言葉に従い、プリモは伏せるようにして、赤龍の首の付け根にしがみついた。
すぐにハリアーは大きく羽ばたいて制動を利かせ始める。遥か下方に見えていた地表も、だんだんとプリモたちの方へと近付いてくる。この赤い龍は、街から離れた林の中に着地する気のようだ。
やがて、ゆっくりと降下した赤龍は、静かに木立の中に降り立った。
赤龍ハリアーの背中に何時間も揺られてきたプリモは、ようやく地面に立ち、強張った手脚をゆっくりと延ばした。そうしてすぐに赤龍に向き直り、感謝を込めて深々と頭を下げる。
「ありがとうございました、ハリアーさん。お疲れでしょう? 大丈夫ですか?」
「平気平気。大したコトないからさ」
そう答えながら、赤い龍がプリモからゆっくりと離れてゆく。
プリモから十分な間合いを開けて、赤龍ハリアーは目を閉じた。すると龍の全身から白い煙が立ち昇ったかと思うと、赤い鱗に覆われた巨体は、揺らめく陽炎ようにして消え失せた。
その場に立つのは、赤い髪を高く束ね、頬に絆創膏を貼った拳闘士風の少女、ハリアーだ。
肩や首をぐるぐると回しながら、ハリアーがプリモに歩み寄ってくる。
「アリオストポリから、ちょっと離れたところに降りたけどね。騒ぎになったらめんどくさいから」
今、彼女たちが立っているのは、木々がまばらに立つ小道のたもとだ。
緑の葉を茂らせる木立の隙間から、遠く城壁が見える。他には建物などはなく、ただ乾いた土の路面に幾筋かの轍が残っているだけだ。往来する人の姿も気配も、一切感じ取れない。
「この辺りなら家もないし街道筋でもないから、人はほとんど通らないよ」
ハリアーが、続けてプリモを誘う。
「さ、行くよ。アリオストポリまで歩けるかい?」
気遣わしげな彼女の問いに、プリモはにっこりと笑って大きくうなずいた。
「大丈夫です。わたし、街道なんて歩いたことがないから、すごく楽しみです」
笑顔を返しつつ、ハリアーがプリモの肩に手を添えた。
「よかった。じゃ、行こうかプリモ」
「はい!」
ハリアーとプリモが黒龍の塔を去って、三時間余りのち。
全天を覆う薄い雲から漏れる陽光が、黒龍の塔の空中庭園をぼんやりと照らしている
と、この塔を支配する静寂に、大きな翼の羽ばたく音が割って入ってくる。羽音は次第に大きくなり、やがて降り注ぐ朝陽のカーテンをくぐり抜け、大きな生き物が庭園の外周部に降り立った。
滑らかな漆黒の皮膚と、夜の帳を思わせる翼を持った一体の怪物、黒龍である。
下草に力強い四肢を着くと同時に、黒龍の身体は濃い靄に包まれた。だが靄の壁はすぐに四散し、中から一人の少年が現われた。黒い外套をまとった黒髪の少年、万有術師メヴィウス。
裾の広がった髪を微かに風に揺らしながら、彼はむっつりとした顔で擦り鉢状の庭園の螺旋通路を降りてゆく。
「セフォラも義母 上も、つまらない用事で俺を呼びつけて。何でミートローフが焦げるくらいで、この俺を……」
などとはこぼしつつも、胸中の温かな気持ちが、かすかな笑みに結実して口許に浮かぶ。
この塔に閉じ篭って久しい彼にとって、独りの時間は必要かつ快適に過ぎてゆく。
その一方で、訪ねた先は支援者 の一家だが、一応は将来の家族でもある。一緒に過ごす団欒も悪くないし、研究の手を止めるだけの価値がある。やはり誰かとともに囲む食卓は、温かくていい。
そんなことを取り留めもなく思い巡らせて、メヴィウスは庭園の一番底にあるドアの前に立った。庭園から抜ける鉄のドアは、この塔の食堂につながっている。
彼はすぐにドアを押し開けて、食堂に踏み入った。
普段なら、朝の食堂には灯りが点され、甲斐甲斐しく働くメイドの活気と、美味しそうな朝食の匂いに溢れている。
そしてメヴィウスが帰った時には、メイドのプリモが、愛らしい笑顔と温かい言葉で迎えてくれる。そう、普段なら。
だがこの朝は違った。食堂には、灯りはおろか人の姿もなく、薄暗く静まり返っている。
「プリモ」
主人の呼ぶ声にも、返事がない。プリモを創ってから三年間、メヴィウスが経験したことのない静かな朝である。
彼はもう一度 大声を上げてみた。
「プリモー?」
やはり返事はなく、メヴィウスは不安を覚えて腕組みする。
むっつりと口をつぐんだ彼は、食卓の椅子にどっかと腰を落とした。テーブルの上に無雑作に頬杖を付いた時、彼はそこに一枚の紙が置いてあるのに気が付いた。
背筋がぞわぞわと疼くの感じながら、メヴィウスはパッと紙を掴み取り、そこに書かれた文面に目を落とした。
「だ、『旦那さまへ』?」
激しい胸騒ぎを覚えつつ、メヴィウスは顔を紙に近づけた。字面を追いながら、声に出して置き手紙を読み上げる彼。
「は、『ハリアーさんと』、あ、『アリ……』の、ば、『バザール』、『夕方には』……」
と、そこでメヴィウスの脳天は、一気に沸騰した。
「な、何だこれは!?」
彼の怒りの絶叫が、食堂の窓をびりびり震わせる。
「よ、読めないじゃないかっっ!!」
なるほど、紙面にしたためられた文字はプリモの直筆だが、ミミズがのたくった跡や、折れ曲がった針金の方が、まだ文字に見える。あらゆる言語に通暁したメヴィウスも、自分のメイドの悪筆は、解読できなかった。
「プリモの奴うっっ!!」
仰け反るように椅子から腰を浮かせ、メヴィウスは手の中の手紙をバンっ、とテーブルに叩き伏せた。無人の食堂に、大きな音が空しく響く。
棒立ちになったまま、奥歯をぎりぎりと噛み鳴らしたメヴィウス。が、突然がくっと肩を落とし、彼は濃いため息とともにうなだれた。
「……ああ、もっと真面目に字の書き方を教えてやるんだった」
東の空を照らす暁の光が、地表とちぎれ雲を紅に染め上げる。
雲を運ぶ微かな風は、見渡す限りの小麦畑をさやさやと渡ってゆく。
だんだんと白さを増す光と風とを受け、豊かな穀物の海は
そして夜明けの瞬間、地平の彼方から日輪が姿を覗かせた。
まばゆい光の
赤い龍の背に乗り大空を行くプリモは、風になびく栗色の髪を金色に煌めかせ、まぶしげに藍色の瞳を細める。額に繊細な白い手を翳して朝日を見つめるプリモ。
長い驚嘆の果てに、彼女はただ一言こう洩らした。
「きれい……!」
真っ直ぐ地平の彼方を見据える赤龍ハリアーが、好意的に小さく笑う。
「プリモ、見たことない? 夜明けってさ」
プリモは涙の滲んだ目許をそっと拭い、瑠璃色の瞳を龍の頭に向けた。
「いいえ、塔からは見ています。でも塔はいつも曇り空ですし、こんな高さからお陽さまを見たことがなくて」
プリモは、空を斬るハリアーの両翼に、憧れと尊敬を込めた眼差しを注ぐ。
湖と都市とが創り出す造形の妙に、心も言葉も奪い去られ、ただただ目を見開くばかりのプリモだった。
ハリアーの説明が、そんなプリモの耳に響く。
「あれがアリオストポリ。アープ王国の都だよ」
ハッと我に還ったプリモは、もう一度王都アリオストポリに向けて目を凝らした。
アリオストポリは、幾重にも運河を巡らせた半同心円状に造営されている。湖を背にした円の中心には、周囲の全てを見守るように城がそびえ立つ。
目指すその都市はまだまだ遠く、プリモの遠目ではそれ以上のことは見て取れない。だが王都の整った美しさは、このアープという王国自体の繁栄と気質と十二分に感じさせる。
「きれいな街だろ? あたしが知る限り、このアリオストポリはこの大陸のどの街よりも、きれいだよ。アリオストポリに住むアープ人は、みんな愛国心が強いからかな」
赤龍ハリアーが、徐々に高度を落とし始めた。
「そろそろ着地するよ。しっかり掴まってて」
ハリアーの言葉に従い、プリモは伏せるようにして、赤龍の首の付け根にしがみついた。
すぐにハリアーは大きく羽ばたいて制動を利かせ始める。遥か下方に見えていた地表も、だんだんとプリモたちの方へと近付いてくる。この赤い龍は、街から離れた林の中に着地する気のようだ。
やがて、ゆっくりと降下した赤龍は、静かに木立の中に降り立った。
赤龍ハリアーの背中に何時間も揺られてきたプリモは、ようやく地面に立ち、強張った手脚をゆっくりと延ばした。そうしてすぐに赤龍に向き直り、感謝を込めて深々と頭を下げる。
「ありがとうございました、ハリアーさん。お疲れでしょう? 大丈夫ですか?」
「平気平気。大したコトないからさ」
そう答えながら、赤い龍がプリモからゆっくりと離れてゆく。
プリモから十分な間合いを開けて、赤龍ハリアーは目を閉じた。すると龍の全身から白い煙が立ち昇ったかと思うと、赤い鱗に覆われた巨体は、揺らめく陽炎ようにして消え失せた。
その場に立つのは、赤い髪を高く束ね、頬に絆創膏を貼った拳闘士風の少女、ハリアーだ。
肩や首をぐるぐると回しながら、ハリアーがプリモに歩み寄ってくる。
「アリオストポリから、ちょっと離れたところに降りたけどね。騒ぎになったらめんどくさいから」
今、彼女たちが立っているのは、木々がまばらに立つ小道のたもとだ。
緑の葉を茂らせる木立の隙間から、遠く城壁が見える。他には建物などはなく、ただ乾いた土の路面に幾筋かの轍が残っているだけだ。往来する人の姿も気配も、一切感じ取れない。
「この辺りなら家もないし街道筋でもないから、人はほとんど通らないよ」
ハリアーが、続けてプリモを誘う。
「さ、行くよ。アリオストポリまで歩けるかい?」
気遣わしげな彼女の問いに、プリモはにっこりと笑って大きくうなずいた。
「大丈夫です。わたし、街道なんて歩いたことがないから、すごく楽しみです」
笑顔を返しつつ、ハリアーがプリモの肩に手を添えた。
「よかった。じゃ、行こうかプリモ」
「はい!」
ハリアーとプリモが黒龍の塔を去って、三時間余りのち。
全天を覆う薄い雲から漏れる陽光が、黒龍の塔の空中庭園をぼんやりと照らしている
と、この塔を支配する静寂に、大きな翼の羽ばたく音が割って入ってくる。羽音は次第に大きくなり、やがて降り注ぐ朝陽のカーテンをくぐり抜け、大きな生き物が庭園の外周部に降り立った。
滑らかな漆黒の皮膚と、夜の帳を思わせる翼を持った一体の怪物、黒龍である。
下草に力強い四肢を着くと同時に、黒龍の身体は濃い靄に包まれた。だが靄の壁はすぐに四散し、中から一人の少年が現われた。黒い外套をまとった黒髪の少年、万有術師メヴィウス。
裾の広がった髪を微かに風に揺らしながら、彼はむっつりとした顔で擦り鉢状の庭園の螺旋通路を降りてゆく。
「セフォラも
などとはこぼしつつも、胸中の温かな気持ちが、かすかな笑みに結実して口許に浮かぶ。
この塔に閉じ篭って久しい彼にとって、独りの時間は必要かつ快適に過ぎてゆく。
その一方で、訪ねた先は
そんなことを取り留めもなく思い巡らせて、メヴィウスは庭園の一番底にあるドアの前に立った。庭園から抜ける鉄のドアは、この塔の食堂につながっている。
彼はすぐにドアを押し開けて、食堂に踏み入った。
普段なら、朝の食堂には灯りが点され、甲斐甲斐しく働くメイドの活気と、美味しそうな朝食の匂いに溢れている。
そしてメヴィウスが帰った時には、メイドのプリモが、愛らしい笑顔と温かい言葉で迎えてくれる。そう、普段なら。
だがこの朝は違った。食堂には、灯りはおろか人の姿もなく、薄暗く静まり返っている。
「プリモ」
主人の呼ぶ声にも、返事がない。プリモを創ってから三年間、メヴィウスが経験したことのない静かな朝である。
彼はもう一度 大声を上げてみた。
「プリモー?」
やはり返事はなく、メヴィウスは不安を覚えて腕組みする。
むっつりと口をつぐんだ彼は、食卓の椅子にどっかと腰を落とした。テーブルの上に無雑作に頬杖を付いた時、彼はそこに一枚の紙が置いてあるのに気が付いた。
背筋がぞわぞわと疼くの感じながら、メヴィウスはパッと紙を掴み取り、そこに書かれた文面に目を落とした。
「だ、『旦那さまへ』?」
激しい胸騒ぎを覚えつつ、メヴィウスは顔を紙に近づけた。字面を追いながら、声に出して置き手紙を読み上げる彼。
「は、『ハリアーさんと』、あ、『アリ……』の、ば、『バザール』、『夕方には』……」
と、そこでメヴィウスの脳天は、一気に沸騰した。
「な、何だこれは!?」
彼の怒りの絶叫が、食堂の窓をびりびり震わせる。
「よ、読めないじゃないかっっ!!」
なるほど、紙面にしたためられた文字はプリモの直筆だが、ミミズがのたくった跡や、折れ曲がった針金の方が、まだ文字に見える。あらゆる言語に通暁したメヴィウスも、自分のメイドの悪筆は、解読できなかった。
「プリモの奴うっっ!!」
仰け反るように椅子から腰を浮かせ、メヴィウスは手の中の手紙をバンっ、とテーブルに叩き伏せた。無人の食堂に、大きな音が空しく響く。
棒立ちになったまま、奥歯をぎりぎりと噛み鳴らしたメヴィウス。が、突然がくっと肩を落とし、彼は濃いため息とともにうなだれた。
「……ああ、もっと真面目に字の書き方を教えてやるんだった」