四.
文字数 5,695文字
「えっ!?」
「はああ!?」
自分の耳を疑い、同時に口走ったプリモとハリアーだった。呆気に取られて目が点のプリモに、パペッタが続けて聞く。
「貴女は“薄暮人 ”でしょう? あの神話の人種の」
我に還ったプリモは、首を捻った。『薄暮人』といえば、ハリアーも初めて会ったときに口にした言葉だ。だがプリモには、それが何なのか分からない。
「あの、『だすかん』って何ですか?」
「貴女は知らないの? 薄暮人のこと」
プリモがこくりとうなずくと、パペッタも小さくうなずいた。
「いいわ。お話しましょう。薄暮人の神話を」
パペッタは、ゆっくりと語り出した。
――そのかみ、人類は、樹上の世界から地上に降り立った。
地上で歩み始めた人類を導いたのは、人類の長兄たる龍だった。
龍はいと優れた知恵をもって、神々と人類との間を取り持った。
龍は、神々と直に通交する力を持ちつつも、自らの分をわきまえ、聡明で謙虚だった。
あるとき、龍の一族の中に、蛇の目を持つ者たちが現われた。
縦に長い蛇の瞳孔を持ったその龍たちは、過ぎ去った永劫の彼方と、遥か後生の時までを見透かす力を持っていた。
人類は、その蛇の目の龍たちを敬い、その言に従った。
啓明の龍として、兄弟たちの尊崇を一身に集めた蛇の目の龍たちだったが、時を経るにつれ、その心は奢り高ぶり、慕う兄弟たちを蔑ろに思うようになった。
慢心した蛇の目の龍たちは、やがて神々までも蔑ろに思い、全ての神殿と寺院を取り壊し、自らを祭ることを企てるまでに至った。
ここで全ての神々は一同に会し、蛇の目の龍たちの慢心を如何に諌 めるか、議論した。
程なく神々の意見は一致し、蛇の目の龍たちから、見透かす力を奪うこととなった。
神々は、龍たちに手を延ばし、その目を捻り上げた。
縦長の瞳は横に寝かされ、蛇の瞳孔は蛙の瞳孔に変えられた。
過去と未来を見透かす力は失われ、明るく啓かれた龍たちの力は暗く閉ざされた。
曙光に溢れた龍たちは、打ちひしがれ、黄昏 たまま、その姿を消した。
残された人類は、その長兄たちを、いつしか失われた薄暮人 と呼ぶようになった。
これが薄暮人の話――
語り終えたパペッタは、黙して傾聴するプリモを正視した。
「薄暮人は、過去と未来を見通す目を持っていた龍の一族なの。神々に縦長の瞳を横長にされて、その力を封じられたのよ」
パペッタの透明な目に、怪しげな光が宿る。
「その瞳がカエルから蛇に戻るなら、薄暮人の時間を越えた透視能力も取り戻せる、と云われているわ。それを確かめたいの。私は時の全てを知りたい。薄暮人の力が、私は欲しいの」
プリモは、パペッタの言いたいことがようやく分かった。
「それでパペッタさんは、わたしのカエルの目が欲しいのですね?」
低く尋ねたプリモの胸中に、何とも言えない、奇妙で複雑な気分が広がる。
……「知りたい」、パペッタのその強い思いは、どこか旦那さまに似ている。
しかし、何かが旦那さまとは違う。
旦那さまの軽く透明な好奇心と比べると、彼女の想いは、纏わり付くように重苦しく感じられる。それは気のせいだろうか?
プリモは、わずかにうなだれた。深刻に眉を曇らせつつも、伏し目がちなラピスラズリの視線を、机の偏向水晶に注ぐ。
……たぶんきっと、パペッタはグラムの店で出会った時から、プリモの眼球を狙っていたのだ。一応は正当にプリモの眼球を入手するため、偏向水晶との取引を持ち掛けてきたのだろう。
それでも、旦那さまが探しているあの水晶は、絶対に持って帰りたい。自分のカエルの目でも、片方くらいだったら、水晶と交換してもいいかも。でも、痛いのかな……
生真面目に思い悩む彼女の脇で、突然、ばんとテーブルを叩く音が響いた。
びくっと顔を上げると、両手をテーブルに付き、すっくと立ち上がったハリアーがパペッタを睨み付けていた。その両肩は小刻みに震え、紫紺の瞳は明々と燃え上がる。
「そんなバカな取引、このあたしが許さんっ!!」
彼女は怒鳴るように言葉をぶつける。
「大体が大体、プリモはメヴィウスが創ったコだ! 薄暮人なんかじゃない!」
ハリアーが、呆れた視線をちらりと寄こす。
「ほっといたら、プリモはアイツのためなら目玉だってあげる、なんて言いそうだからな」
頭の中を見透かされ、プリモは火照った頬を思わず両手で覆った。熱く上気して、一瞬詰まりかけたプリモの耳に、パペッタの落ち込んだ声が聞こえた。
「そう、それは残念な話だわ。私の探究に欠かせない物が手に入ると思ったけれど……」
心底がっかりした様子でそこまで口にしたパペッタだったが、すぐにまた顔を上げた。
「ああ、そうだったわ……!」
パペッタが、活き活きと煌めく妖しい視線を、じっとプリモに注ぐ。
「貴女はアンドレイオン師のメイドさんだったわね。それなら何をおいても、絶対に頂きたいものがあったわ。そう、私にとって、絶対に必要なもの」
怯んだプリモは、思わず椅子の上で仰け反った。
「な、何ですか?」
「今度は手をよこせ、なんて言うんじゃないだろうな?」
憎々しげに聞くハリアー。だがパペッタは、小さく笑って首を横に振った。
「私は、アンドレイオン師の蔵書が一冊欲しいの」
「本、ですか?」
「ええ」
パペッタの透明な目が、小首を傾げるプリモを正面から捉える。
「彼は『舟の書』の完本を持っているはず。それも今の私には必要なのよ。そう、絶対に」
「『舟の書』?」
プリモがパペッタの言葉をなぞると、彼女はうなずいた。
「貴女はアンドレイオン師のメイドさんでしょう? 彼の書庫で見たことがないかしら?」
「『かんぽん』、って何ですか?」
プリモの重ねての問いだが、特に感情を動かした風もなく、パペッタが飄々と答える。
「間違いが一つもない、完璧な本のことよ」
パペッタの言葉を受けて、プリモは記憶を手繰った。
……確かに、旦那さまが大図書館から借りたという本がそんな名前だが、旦那さまの持ち物ではない。
もう一冊、旦那さまは写本を持っていた。しかしその写本は、旦那さまの伯父さまから受け継いだ品で、間違いがあると言っていたから、完璧とは言えない。どちらにしても、プリモの記憶とパペッタの話とは、合わないようだ。
考えた結果、プリモは首を横に振った。
「いいえ」
それでも、パペッタはさらに畳み掛ける。
「彼が持っているのは間違いないの。それを私に頂けるなら、偏向水晶は喜んで貴女にお渡しするわ」
プリモは一瞬うつむいた。
蠱惑的に響くパペッタの誘い。だが、この問いに対して、プリモに迷いは微塵もない。
顔を上げた彼女は、パペッタを真っ直ぐ見つめた。
「お断りします」
ぴんと背筋を延ばし、姿勢を正したプリモは、メイドとしての矜持を胸に、はっきりと告げる。
「もし旦那さまがお持ちであっても、わたしは、旦那さまの使用人です。使用人が、旦那さまの持ち物に手を付けるわけにはいきません」
「さすがプリモ! マジメなプリモが、そんな誘いに乗るわけないだろ」
ハリアーが喜色満面にパチッと指を鳴らし、賛意に溢れた眼差しをプリモに注いだ。そしてパペッタに向かって言い放つ。
「大体、何で船の本なんか欲しがるんだよ。お前、船大工にでもなるつもりか?」
するとパペッタが、うふふ、と低い含み笑いを洩らした。
「『舟の書』の“舟”はね、柩 、つまり柩 の意味なのよ」
怪訝な表情を浮かべるハリアーに、パペッタは独りうなずいて見せる。
「『舟の書』は、肉体と霊魂の秘密を説き明かした奥義書なの。アンドレイオン師は、持っているはずなのよ。完璧な写本の数少ない一冊を」
ハリアーの顔色が変わった。蒼ざめた唇をきっと引き結び、鋭く細めた目で、パペッタを睨めつける。
「……お前、屍霊術師 か?」
「いい勘ね、流星雨のハリアーさん」
テーブルの上で細く白い指を組み、パペッタは小さく笑う。
「でも、ただの屍霊術師とは違うわ。私は、女屍師 だもの」
パペッタが、ゆらりと腰をあげた。
テーブルの上に両手を付き、彼女はハリアーを見ている。
ハリアーも、女屍師を名乗る魔術師から目を逸らさないまま、両腰に下げたマドゥに手を延ばす。
「お前、すごい殺気が出てるぞ。今まで何人殺してる? どうせパペッタなんてのも、本名じゃないんだろ」
パペッタは何の否定もしない。余裕たっぷりな、もったいぶった態度で低く笑うだけ。
「そうね。知恵も知識も、それなりの対価が必要だもの。いちいち数えたりはしないわ。それに邪魔も多いのよ。私の探究は、誰にも邪魔させない」
さらりと言ってのけたパペッタは、テーブルについたままのプリモに目を移した。
「でも、それは私と同じ探究者、アンドレイオン師も同じじゃないかしら? 彼の悪評も、かなりのものだと聞くけれど」
「そんなことありませんっ!」
プリモは思わずパッと立ち上がった。華奢な手を痛いほどにぎゅっと握り締め、彼女はありったけの反感を込めて言い返す。
「今の旦那さまは、あなたとは違いますっ! そのために、わたしが」
「もういい! 下がってろ、プリモ」
ハリアーがプリモの前に出た。
彼女は、長い角の生えた小さな丸盾を、腰の鞘からサッと抜き払う。左右の手にマドゥを堅く握り、彼女がテーブルを挟んでパペッタと対峙する。
「確か、屍師の賞金首がいたな。リタ=エス・コンコード=アムリタ、魔術結社中央会議が掛けた賞金は、金貨五千二百。とんでもない極悪人って噂だけど、お前、そのリタか?」
「ご想像にお任せするわ」
パペッタの悠然とした物腰は、全く崩れない。その作り物めいた目を真っ直ぐ見据え、ハリアーが不敵に笑う。
「お前の首を取れば、金貨五千枚、耳をそろえて偏向水晶の代金を払えるな。残った金貨二百枚は、お前の派手な葬式代に充ててやるよ」
「面白い勘定ね、ハリアーさん。でも私は、今のこの状態で死ぬわけにはいかないのよ」
肩をすくめるような仕草を入れて、パペッタはうふふ、と笑う。
「それに、貴女はもう私の術中にあるのよ、ハリアーさん」
「どういう意味だ!?」
怒鳴るハリアーに、じりじりとテーブルから離れるパペッタは静かに告げる。
「さっき教えてあげたでしょう? 私の久遠庵は、墓地跡の地面の上に、直接設営したの」
パペッタは何か二、三言つぶやくと、左手をさっと頭上に掲げ、鋭く言い放った。
「“エクス・サスキターテ”!」
パペッタの奇怪な呪文は、そのまま薄闇の中に消え入った。
と、見るや、テーブルがかたかたと鳴り、地面が小刻みに揺れ始めた。そしてぼこぼこと土が盛り上がり、何かが這い出してくる。それも一つや二つではないようだ。
「来るぞ! 逃げろプリモ!」
叫ぶハリアーの後ろで、プリモは壁際に走り、元来た入口を探した。が、彼女たちがくぐって来たはずの回廊は、忽然と消えていた。
驚くプリモの耳に、パペッタの含み笑いが聞こえる。
「貴女に逃げられては困るのよ。私の欲しい『舟の書』と、貴女の欲しい偏向水晶は、商談が成立しなかったもの。それなら『舟の書』は、貴女と引き換えにアンドレイオン師から直接頂くしかないのだから」
「アイツがこんなところへ来るもんか!」
ハリアーはぴしゃりと極め付けたが、パペッタは確信に満ちた口調で否定する。
「いいえ。彼は必ず来るわ。彼は貴女たちを見ているもの。貴女たちが気付かないだけ」
「どういうことですか?」
しかしプリモの問いは、ハリアーの怒号に打ち消された。
「そんなのどうでもいい!」
叫んだハリアーが、プリモに駆け寄ってきた。赤い拳闘士は、プリモを庇うように、迫りくる死人たちに向かって傲然と立ちはだかる。
ハリアーの紫紺の目が、鋭く辺りを睨み付けた。壁を背にして立つプリモとハリアーは、もう立ち上がった古い死体に囲まれている。
数は、ざっと二十体ばかりだろうか。どれもかなり古いらしく、灯火に照られた骨は不潔な緑色や、どす黒い灰色に変色している。泥が詰まった眼窩をプリモとハリアーに向け、骸骨たちはゆらゆらとその場に佇む。
古い墓地から立ち上がった骸骨の汚らしさに、嫌悪感を覚えて口を押さえたプリモだった。
しかしハリアーには、たじろぐ気配など微塵も窺がえない。全身から不屈の闘志をめらめらと立ち昇らせて、彼女は骸骨たちに視線を配る。
そんな二人に、骸骨の群れの外から、パペッタの声が飛ぶ。
「アンドレイオン師が来てくれるまでの辛抱よ。そこでおとなしくしていてくれるなら、これ以上何もしないわ」
パペッタの口調は、どこまでも商売に徹した無感情そのものだ。
死体たちに対峙したままのハリアーが、肩越しにプリモを一瞥する。
「プリモ。プリモはどうしたい? アイツが来るまで、こうして待つ?」
プリモはうつむいた。
……旦那さまは、本当に来て下さるのだろうか?
もし、それが本当なら、骸骨に囲まれながらでも、ここでこうして何もしないのが、一番安全なのだろう。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
偏向水晶を探しに来たのは自分の考えなのだから、旦那さまとは関係がない。
それにどんなときでも、自分でできるだけのことはしてみる、それがプリモのやり方だ。
黒龍の塔でも、ずっとそうしてきたし、これからもきっとそうだ。
心を決めたプリモは、スッと顔を上げた。
「はああ!?」
自分の耳を疑い、同時に口走ったプリモとハリアーだった。呆気に取られて目が点のプリモに、パペッタが続けて聞く。
「貴女は“
我に還ったプリモは、首を捻った。『薄暮人』といえば、ハリアーも初めて会ったときに口にした言葉だ。だがプリモには、それが何なのか分からない。
「あの、『だすかん』って何ですか?」
「貴女は知らないの? 薄暮人のこと」
プリモがこくりとうなずくと、パペッタも小さくうなずいた。
「いいわ。お話しましょう。薄暮人の神話を」
パペッタは、ゆっくりと語り出した。
――そのかみ、人類は、樹上の世界から地上に降り立った。
地上で歩み始めた人類を導いたのは、人類の長兄たる龍だった。
龍はいと優れた知恵をもって、神々と人類との間を取り持った。
龍は、神々と直に通交する力を持ちつつも、自らの分をわきまえ、聡明で謙虚だった。
あるとき、龍の一族の中に、蛇の目を持つ者たちが現われた。
縦に長い蛇の瞳孔を持ったその龍たちは、過ぎ去った永劫の彼方と、遥か後生の時までを見透かす力を持っていた。
人類は、その蛇の目の龍たちを敬い、その言に従った。
啓明の龍として、兄弟たちの尊崇を一身に集めた蛇の目の龍たちだったが、時を経るにつれ、その心は奢り高ぶり、慕う兄弟たちを蔑ろに思うようになった。
慢心した蛇の目の龍たちは、やがて神々までも蔑ろに思い、全ての神殿と寺院を取り壊し、自らを祭ることを企てるまでに至った。
ここで全ての神々は一同に会し、蛇の目の龍たちの慢心を如何に
程なく神々の意見は一致し、蛇の目の龍たちから、見透かす力を奪うこととなった。
神々は、龍たちに手を延ばし、その目を捻り上げた。
縦長の瞳は横に寝かされ、蛇の瞳孔は蛙の瞳孔に変えられた。
過去と未来を見透かす力は失われ、明るく啓かれた龍たちの力は暗く閉ざされた。
曙光に溢れた龍たちは、打ちひしがれ、
残された人類は、その長兄たちを、いつしか失われた
これが薄暮人の話――
語り終えたパペッタは、黙して傾聴するプリモを正視した。
「薄暮人は、過去と未来を見通す目を持っていた龍の一族なの。神々に縦長の瞳を横長にされて、その力を封じられたのよ」
パペッタの透明な目に、怪しげな光が宿る。
「その瞳がカエルから蛇に戻るなら、薄暮人の時間を越えた透視能力も取り戻せる、と云われているわ。それを確かめたいの。私は時の全てを知りたい。薄暮人の力が、私は欲しいの」
プリモは、パペッタの言いたいことがようやく分かった。
「それでパペッタさんは、わたしのカエルの目が欲しいのですね?」
低く尋ねたプリモの胸中に、何とも言えない、奇妙で複雑な気分が広がる。
……「知りたい」、パペッタのその強い思いは、どこか旦那さまに似ている。
しかし、何かが旦那さまとは違う。
旦那さまの軽く透明な好奇心と比べると、彼女の想いは、纏わり付くように重苦しく感じられる。それは気のせいだろうか?
プリモは、わずかにうなだれた。深刻に眉を曇らせつつも、伏し目がちなラピスラズリの視線を、机の偏向水晶に注ぐ。
……たぶんきっと、パペッタはグラムの店で出会った時から、プリモの眼球を狙っていたのだ。一応は正当にプリモの眼球を入手するため、偏向水晶との取引を持ち掛けてきたのだろう。
それでも、旦那さまが探しているあの水晶は、絶対に持って帰りたい。自分のカエルの目でも、片方くらいだったら、水晶と交換してもいいかも。でも、痛いのかな……
生真面目に思い悩む彼女の脇で、突然、ばんとテーブルを叩く音が響いた。
びくっと顔を上げると、両手をテーブルに付き、すっくと立ち上がったハリアーがパペッタを睨み付けていた。その両肩は小刻みに震え、紫紺の瞳は明々と燃え上がる。
「そんなバカな取引、このあたしが許さんっ!!」
彼女は怒鳴るように言葉をぶつける。
「大体が大体、プリモはメヴィウスが創ったコだ! 薄暮人なんかじゃない!」
ハリアーが、呆れた視線をちらりと寄こす。
「ほっといたら、プリモはアイツのためなら目玉だってあげる、なんて言いそうだからな」
頭の中を見透かされ、プリモは火照った頬を思わず両手で覆った。熱く上気して、一瞬詰まりかけたプリモの耳に、パペッタの落ち込んだ声が聞こえた。
「そう、それは残念な話だわ。私の探究に欠かせない物が手に入ると思ったけれど……」
心底がっかりした様子でそこまで口にしたパペッタだったが、すぐにまた顔を上げた。
「ああ、そうだったわ……!」
パペッタが、活き活きと煌めく妖しい視線を、じっとプリモに注ぐ。
「貴女はアンドレイオン師のメイドさんだったわね。それなら何をおいても、絶対に頂きたいものがあったわ。そう、私にとって、絶対に必要なもの」
怯んだプリモは、思わず椅子の上で仰け反った。
「な、何ですか?」
「今度は手をよこせ、なんて言うんじゃないだろうな?」
憎々しげに聞くハリアー。だがパペッタは、小さく笑って首を横に振った。
「私は、アンドレイオン師の蔵書が一冊欲しいの」
「本、ですか?」
「ええ」
パペッタの透明な目が、小首を傾げるプリモを正面から捉える。
「彼は『舟の書』の完本を持っているはず。それも今の私には必要なのよ。そう、絶対に」
「『舟の書』?」
プリモがパペッタの言葉をなぞると、彼女はうなずいた。
「貴女はアンドレイオン師のメイドさんでしょう? 彼の書庫で見たことがないかしら?」
「『かんぽん』、って何ですか?」
プリモの重ねての問いだが、特に感情を動かした風もなく、パペッタが飄々と答える。
「間違いが一つもない、完璧な本のことよ」
パペッタの言葉を受けて、プリモは記憶を手繰った。
……確かに、旦那さまが大図書館から借りたという本がそんな名前だが、旦那さまの持ち物ではない。
もう一冊、旦那さまは写本を持っていた。しかしその写本は、旦那さまの伯父さまから受け継いだ品で、間違いがあると言っていたから、完璧とは言えない。どちらにしても、プリモの記憶とパペッタの話とは、合わないようだ。
考えた結果、プリモは首を横に振った。
「いいえ」
それでも、パペッタはさらに畳み掛ける。
「彼が持っているのは間違いないの。それを私に頂けるなら、偏向水晶は喜んで貴女にお渡しするわ」
プリモは一瞬うつむいた。
蠱惑的に響くパペッタの誘い。だが、この問いに対して、プリモに迷いは微塵もない。
顔を上げた彼女は、パペッタを真っ直ぐ見つめた。
「お断りします」
ぴんと背筋を延ばし、姿勢を正したプリモは、メイドとしての矜持を胸に、はっきりと告げる。
「もし旦那さまがお持ちであっても、わたしは、旦那さまの使用人です。使用人が、旦那さまの持ち物に手を付けるわけにはいきません」
「さすがプリモ! マジメなプリモが、そんな誘いに乗るわけないだろ」
ハリアーが喜色満面にパチッと指を鳴らし、賛意に溢れた眼差しをプリモに注いだ。そしてパペッタに向かって言い放つ。
「大体、何で船の本なんか欲しがるんだよ。お前、船大工にでもなるつもりか?」
するとパペッタが、うふふ、と低い含み笑いを洩らした。
「『舟の書』の“舟”はね、
怪訝な表情を浮かべるハリアーに、パペッタは独りうなずいて見せる。
「『舟の書』は、肉体と霊魂の秘密を説き明かした奥義書なの。アンドレイオン師は、持っているはずなのよ。完璧な写本の数少ない一冊を」
ハリアーの顔色が変わった。蒼ざめた唇をきっと引き結び、鋭く細めた目で、パペッタを睨めつける。
「……お前、
「いい勘ね、流星雨のハリアーさん」
テーブルの上で細く白い指を組み、パペッタは小さく笑う。
「でも、ただの屍霊術師とは違うわ。私は、
パペッタが、ゆらりと腰をあげた。
テーブルの上に両手を付き、彼女はハリアーを見ている。
ハリアーも、女屍師を名乗る魔術師から目を逸らさないまま、両腰に下げたマドゥに手を延ばす。
「お前、すごい殺気が出てるぞ。今まで何人殺してる? どうせパペッタなんてのも、本名じゃないんだろ」
パペッタは何の否定もしない。余裕たっぷりな、もったいぶった態度で低く笑うだけ。
「そうね。知恵も知識も、それなりの対価が必要だもの。いちいち数えたりはしないわ。それに邪魔も多いのよ。私の探究は、誰にも邪魔させない」
さらりと言ってのけたパペッタは、テーブルについたままのプリモに目を移した。
「でも、それは私と同じ探究者、アンドレイオン師も同じじゃないかしら? 彼の悪評も、かなりのものだと聞くけれど」
「そんなことありませんっ!」
プリモは思わずパッと立ち上がった。華奢な手を痛いほどにぎゅっと握り締め、彼女はありったけの反感を込めて言い返す。
「今の旦那さまは、あなたとは違いますっ! そのために、わたしが」
「もういい! 下がってろ、プリモ」
ハリアーがプリモの前に出た。
彼女は、長い角の生えた小さな丸盾を、腰の鞘からサッと抜き払う。左右の手にマドゥを堅く握り、彼女がテーブルを挟んでパペッタと対峙する。
「確か、屍師の賞金首がいたな。リタ=エス・コンコード=アムリタ、魔術結社中央会議が掛けた賞金は、金貨五千二百。とんでもない極悪人って噂だけど、お前、そのリタか?」
「ご想像にお任せするわ」
パペッタの悠然とした物腰は、全く崩れない。その作り物めいた目を真っ直ぐ見据え、ハリアーが不敵に笑う。
「お前の首を取れば、金貨五千枚、耳をそろえて偏向水晶の代金を払えるな。残った金貨二百枚は、お前の派手な葬式代に充ててやるよ」
「面白い勘定ね、ハリアーさん。でも私は、今のこの状態で死ぬわけにはいかないのよ」
肩をすくめるような仕草を入れて、パペッタはうふふ、と笑う。
「それに、貴女はもう私の術中にあるのよ、ハリアーさん」
「どういう意味だ!?」
怒鳴るハリアーに、じりじりとテーブルから離れるパペッタは静かに告げる。
「さっき教えてあげたでしょう? 私の久遠庵は、墓地跡の地面の上に、直接設営したの」
パペッタは何か二、三言つぶやくと、左手をさっと頭上に掲げ、鋭く言い放った。
「“エクス・サスキターテ”!」
パペッタの奇怪な呪文は、そのまま薄闇の中に消え入った。
と、見るや、テーブルがかたかたと鳴り、地面が小刻みに揺れ始めた。そしてぼこぼこと土が盛り上がり、何かが這い出してくる。それも一つや二つではないようだ。
「来るぞ! 逃げろプリモ!」
叫ぶハリアーの後ろで、プリモは壁際に走り、元来た入口を探した。が、彼女たちがくぐって来たはずの回廊は、忽然と消えていた。
驚くプリモの耳に、パペッタの含み笑いが聞こえる。
「貴女に逃げられては困るのよ。私の欲しい『舟の書』と、貴女の欲しい偏向水晶は、商談が成立しなかったもの。それなら『舟の書』は、貴女と引き換えにアンドレイオン師から直接頂くしかないのだから」
「アイツがこんなところへ来るもんか!」
ハリアーはぴしゃりと極め付けたが、パペッタは確信に満ちた口調で否定する。
「いいえ。彼は必ず来るわ。彼は貴女たちを見ているもの。貴女たちが気付かないだけ」
「どういうことですか?」
しかしプリモの問いは、ハリアーの怒号に打ち消された。
「そんなのどうでもいい!」
叫んだハリアーが、プリモに駆け寄ってきた。赤い拳闘士は、プリモを庇うように、迫りくる死人たちに向かって傲然と立ちはだかる。
ハリアーの紫紺の目が、鋭く辺りを睨み付けた。壁を背にして立つプリモとハリアーは、もう立ち上がった古い死体に囲まれている。
数は、ざっと二十体ばかりだろうか。どれもかなり古いらしく、灯火に照られた骨は不潔な緑色や、どす黒い灰色に変色している。泥が詰まった眼窩をプリモとハリアーに向け、骸骨たちはゆらゆらとその場に佇む。
古い墓地から立ち上がった骸骨の汚らしさに、嫌悪感を覚えて口を押さえたプリモだった。
しかしハリアーには、たじろぐ気配など微塵も窺がえない。全身から不屈の闘志をめらめらと立ち昇らせて、彼女は骸骨たちに視線を配る。
そんな二人に、骸骨の群れの外から、パペッタの声が飛ぶ。
「アンドレイオン師が来てくれるまでの辛抱よ。そこでおとなしくしていてくれるなら、これ以上何もしないわ」
パペッタの口調は、どこまでも商売に徹した無感情そのものだ。
死体たちに対峙したままのハリアーが、肩越しにプリモを一瞥する。
「プリモ。プリモはどうしたい? アイツが来るまで、こうして待つ?」
プリモはうつむいた。
……旦那さまは、本当に来て下さるのだろうか?
もし、それが本当なら、骸骨に囲まれながらでも、ここでこうして何もしないのが、一番安全なのだろう。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
偏向水晶を探しに来たのは自分の考えなのだから、旦那さまとは関係がない。
それにどんなときでも、自分でできるだけのことはしてみる、それがプリモのやり方だ。
黒龍の塔でも、ずっとそうしてきたし、これからもきっとそうだ。
心を決めたプリモは、スッと顔を上げた。