四.
文字数 2,335文字
黒龍の塔の頂上を覆う、夜明け前の木立。
プリモのすぐ背後の木陰に、笑顔のハリアーが立っている。
安心の涙が滲んだ目許を拭いながら、プリモは女闘士に頭を下げた。
「お待たせしました、ハリアーさん。遅くなって、ごめんなさい」
「いいのいいの。大して待ってないからさ」
軽く笑って答えたハリアーが、プリモに視線を向けてくる。夜明け前の暗い虚空に、紫紺の瞳が優しく煌めく。
「行ける?」
「はい。いつでも行けます」
短く聞いたハリアーの側に歩み寄り、プリモは深くうなずいた。
笑顔のハリアーも、何度も強くうなずき返す。
「よし、じゃあ出かけるよ」
そう言っておきながら、両手を腰に当てたハリアーが、にやっと笑う。
「ちょっと下がってて。危ないから」
奇妙に思いつつも、プリモは素直にハリアーから五歩下がった。しかしハリアーは首を横に振り、もっと下がれとばかりに大きく手を振る。プリモがさらに十歩下がるのと同時に、ハリアー自身も木の側から離れた。
一体何が起こるのか。プリモは、じっとハリアーの挙動を見守る。
丈の短い下草を踏みつつ、ハリアーが軽く視線をプリモにチラリと寄越した。しかし、すぐに天を仰いだハリアーが、雲の切れ間に瞬く星を見つめ、呼吸を整え始めた。
そして数秒ばかり。ハリアーがゆっくりと両手を挙げ、爪先立ちになる。
その滑らかに引き締まった肢体が弓なりになった瞬間、ハリアーは逆にぐっと身を屈めて低く構えた。
刹那、木立を震わせる爆発音とともに、彼女の身体から目映い炎の柱が立ち上がった。
プリモは思わず目を覆う。
「あっ! ハリアーさん!?」
鋭い紅蓮の閃光と灼熱の爆風が、一瞬の内に植栽の間を疾駆した。辺りには、硫黄にも似た焦げ臭い空気が立ち込める。棒立ちになったまま両目をぎゅっと瞑ったプリモの耳に、聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。
「もう大丈夫だよ。目を開けて」
誘いに従い、ゆっくりと目を開いたプリモは、思わず驚きの声を洩らした。
「まあ!」
ハリアーが立っていた場所は、彼女を中心とした円形に、草が焼け焦げている。
その真っ黒に煤けた円の中心に立っているのは、あの少女拳闘士ではない。真紅の鱗、大きな皮革質の翼を持った爬虫類のような四足の生物。赤龍だ。
馬よりも、ひと回りは大きいだろうか。流れるような美しいラインの全身は、ルビー色の光輝を放つ鱗に覆われている。
頭には一対の立派な角があり、顔もやはり爬虫類めいていて恐ろしい。
だが紫紺の眼は落ち着き払っていて、湛えた表情は至極優しく映る。
長い牙が左側に一つだけ覗いた赤龍の口許から、さもおかしそうな笑い声が洩れた。
「びっくりした?」
ハッと我に還ったプリモは、恐る恐る赤龍に歩み寄った。
「ハ、ハリアーさん、ですよね?」
プリモの問いに、赤龍が大きくうなずいた。
太い四肢で身体を支えた赤龍は、間違いなくハリアーの声で語る。
「あたしは赤龍 だって、言ったよね? この龍気をまとった姿なら、空を飛べるからさ。龍気を解けば、いつもの姿に戻るから。プリモ、メヴィウスの龍気って見たコトない?」
赤龍ハリアーの問いに、プリモはおずおずとうなずく。
「はい、何度かは。でも、旦那さまは静かに龍気を出されるから……」
「黒龍 の龍気は、霧が出るからね。あたしたち赤龍は炎が出るんだよ」
ふふん、と笑ったハリアーが、プリモの前で逞しい脚を屈め、腹を地面に着けた。低い姿勢を取り、くいっと長い首を動かして、赤い龍がプリモを促す。
「さ、背中に乗って。遠慮は要らないから」
「あ、でも龍の方の背中に乗っちゃうのは、失礼では? それに、何か特別な意味があるって、旦那さまが……」
メヴィウスから断片的に聞く龍の習わしを思い出し、プリモはためらう。
だが赤龍ハリアーは、プリモの心配を軽く笑い飛ばした。
「あー、それは異性を乗せる場合の話ね。あたしらは女同士だから、関係ないよ。それにプリモとあたしの仲じゃない。遠慮しないでってば」
ハリアーの重ねての誘いを受けて、プリモは深く一礼する。
「あ、それでは失礼します」
プリモは、赤龍ハリアーの背中によいしょっ、とよじ登った。
透明感のある紅の鱗は、ほんのりと温かい。硬そうな外見に反して、意外と肌触りは滑らかだ。プリモは、龍の長い首の付け根の辺りに、ちょこんと腰掛けた。
彼女の重みを感じ取ったのか、ハリアーが注意を促す。
「しっかり掴まってて、プリモ」
プリモが龍の首の付け根に腕を回すのと同時に、ハリアーはおもむろに胴体を持ち上げた。
長い首をすっと延ばした真紅の龍。赤い大きな翼が、朝焼けのように優雅に広がる。彼誰刻 の闇に、双翼が宿す種火の緋 が、妖しくも美しい。
天空を見つめ、真紅のハリアーが高らかに告げた。
「行くよ! アリオストポリへ!」
勇ましく響くハリアーの声を聞き、プリモの期待が否応もなく、大きく膨れ上がる。
今や初めて塔の外に出る不安よりも、まだ見ぬ光景への憧れが遥かに勝る。激しい胸の高鳴りに押され、応えるプリモの声も明るく弾む。
「はいっ! お願いします!」
赤龍ハリアーが、真紅の翼をゆっくりと大きく羽ばたかせた。
その強靭な脚は地面から離れ、プリモを乗せた龍の身体が、少しずつ宙に浮いていく。
そして数秒。
夜明け前の天空に舞い上がったハリアーとプリモは、異郷の街を目指し、静寂に包まれた黒龍の塔を後にした。
プリモのすぐ背後の木陰に、笑顔のハリアーが立っている。
安心の涙が滲んだ目許を拭いながら、プリモは女闘士に頭を下げた。
「お待たせしました、ハリアーさん。遅くなって、ごめんなさい」
「いいのいいの。大して待ってないからさ」
軽く笑って答えたハリアーが、プリモに視線を向けてくる。夜明け前の暗い虚空に、紫紺の瞳が優しく煌めく。
「行ける?」
「はい。いつでも行けます」
短く聞いたハリアーの側に歩み寄り、プリモは深くうなずいた。
笑顔のハリアーも、何度も強くうなずき返す。
「よし、じゃあ出かけるよ」
そう言っておきながら、両手を腰に当てたハリアーが、にやっと笑う。
「ちょっと下がってて。危ないから」
奇妙に思いつつも、プリモは素直にハリアーから五歩下がった。しかしハリアーは首を横に振り、もっと下がれとばかりに大きく手を振る。プリモがさらに十歩下がるのと同時に、ハリアー自身も木の側から離れた。
一体何が起こるのか。プリモは、じっとハリアーの挙動を見守る。
丈の短い下草を踏みつつ、ハリアーが軽く視線をプリモにチラリと寄越した。しかし、すぐに天を仰いだハリアーが、雲の切れ間に瞬く星を見つめ、呼吸を整え始めた。
そして数秒ばかり。ハリアーがゆっくりと両手を挙げ、爪先立ちになる。
その滑らかに引き締まった肢体が弓なりになった瞬間、ハリアーは逆にぐっと身を屈めて低く構えた。
刹那、木立を震わせる爆発音とともに、彼女の身体から目映い炎の柱が立ち上がった。
プリモは思わず目を覆う。
「あっ! ハリアーさん!?」
鋭い紅蓮の閃光と灼熱の爆風が、一瞬の内に植栽の間を疾駆した。辺りには、硫黄にも似た焦げ臭い空気が立ち込める。棒立ちになったまま両目をぎゅっと瞑ったプリモの耳に、聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。
「もう大丈夫だよ。目を開けて」
誘いに従い、ゆっくりと目を開いたプリモは、思わず驚きの声を洩らした。
「まあ!」
ハリアーが立っていた場所は、彼女を中心とした円形に、草が焼け焦げている。
その真っ黒に煤けた円の中心に立っているのは、あの少女拳闘士ではない。真紅の鱗、大きな皮革質の翼を持った爬虫類のような四足の生物。赤龍だ。
馬よりも、ひと回りは大きいだろうか。流れるような美しいラインの全身は、ルビー色の光輝を放つ鱗に覆われている。
頭には一対の立派な角があり、顔もやはり爬虫類めいていて恐ろしい。
だが紫紺の眼は落ち着き払っていて、湛えた表情は至極優しく映る。
長い牙が左側に一つだけ覗いた赤龍の口許から、さもおかしそうな笑い声が洩れた。
「びっくりした?」
ハッと我に還ったプリモは、恐る恐る赤龍に歩み寄った。
「ハ、ハリアーさん、ですよね?」
プリモの問いに、赤龍が大きくうなずいた。
太い四肢で身体を支えた赤龍は、間違いなくハリアーの声で語る。
「あたしは
赤龍ハリアーの問いに、プリモはおずおずとうなずく。
「はい、何度かは。でも、旦那さまは静かに龍気を出されるから……」
「
ふふん、と笑ったハリアーが、プリモの前で逞しい脚を屈め、腹を地面に着けた。低い姿勢を取り、くいっと長い首を動かして、赤い龍がプリモを促す。
「さ、背中に乗って。遠慮は要らないから」
「あ、でも龍の方の背中に乗っちゃうのは、失礼では? それに、何か特別な意味があるって、旦那さまが……」
メヴィウスから断片的に聞く龍の習わしを思い出し、プリモはためらう。
だが赤龍ハリアーは、プリモの心配を軽く笑い飛ばした。
「あー、それは異性を乗せる場合の話ね。あたしらは女同士だから、関係ないよ。それにプリモとあたしの仲じゃない。遠慮しないでってば」
ハリアーの重ねての誘いを受けて、プリモは深く一礼する。
「あ、それでは失礼します」
プリモは、赤龍ハリアーの背中によいしょっ、とよじ登った。
透明感のある紅の鱗は、ほんのりと温かい。硬そうな外見に反して、意外と肌触りは滑らかだ。プリモは、龍の長い首の付け根の辺りに、ちょこんと腰掛けた。
彼女の重みを感じ取ったのか、ハリアーが注意を促す。
「しっかり掴まってて、プリモ」
プリモが龍の首の付け根に腕を回すのと同時に、ハリアーはおもむろに胴体を持ち上げた。
長い首をすっと延ばした真紅の龍。赤い大きな翼が、朝焼けのように優雅に広がる。
天空を見つめ、真紅のハリアーが高らかに告げた。
「行くよ! アリオストポリへ!」
勇ましく響くハリアーの声を聞き、プリモの期待が否応もなく、大きく膨れ上がる。
今や初めて塔の外に出る不安よりも、まだ見ぬ光景への憧れが遥かに勝る。激しい胸の高鳴りに押され、応えるプリモの声も明るく弾む。
「はいっ! お願いします!」
赤龍ハリアーが、真紅の翼をゆっくりと大きく羽ばたかせた。
その強靭な脚は地面から離れ、プリモを乗せた龍の身体が、少しずつ宙に浮いていく。
そして数秒。
夜明け前の天空に舞い上がったハリアーとプリモは、異郷の街を目指し、静寂に包まれた黒龍の塔を後にした。