三.
文字数 3,215文字
ハリアーがヴァユーの懐から取り出したのは、飴色のなめし革を二つに折り、合わせ目を緋色の紐で綴じた手帳のような物だ。文字は見当たらない。
プリモは革の冊子を見ながら、不思議そうなハリアーに小声で教える。
「書類挿 みですね。大切な文書をはさんで守るための道具です。旦那さまもよく使っておられますが、これはずいぶん小さいです」
「じゃあ、この中に依頼書か何かがある、ってワケか」
つぶやきながら、ハリアーが書類挿みの綴じ紐を引いた。だが緋色の結び目は緩まない。
「あれ? ほどけないぞ」
よくよく見れば、綴じ紐の結び目は、桃色の蝋で固めてある。何かの封印だろうか。
ハリアーとプリモは顔を見わせた。
難しく口元を結んだハリアーが、眉根を寄せて思案に暮れている。彼女も何か引っ掛かりを覚えているのだろう。
唸ってうつむく女賞金稼ぎの耳に、ヴァユーが無感情に囁く。
「何をためらっている? “流星雨のハリアー”。 私を容易く組み伏せたお前に免じて、せっかく依頼の秘密を明かしてやろうというのに。それとも……」
ヴァユーの表情が微妙に崩れた。何か小馬鹿にしたような、皮肉な笑みが口元に浮かぶ。
「お前は字が読めないのか……?」
「何おう!?」
ヴァユーに嘲笑され、ハリアーの脳天が瞬時に沸騰した。
キッと顔を上げた彼女が、薄笑いのヴァユーを睨み付ける。
「バカにするな! あたしは剣士だけど、この大陸で使われてる文字くらい、全部読めるぞ!」
怒鳴るが早いか、彼女は書類挿みの綴じ紐を思いっきり引っ張る。
即座に緋色の紐はぴんと音を立てて真っ直ぐに伸びきり、桃色の蝋は細かく砕けて四散した。
そしてハリアーが、封印の解けた書類挿みを両手で開け放つ。
二つ折りの革に挟まれていたのは、一枚の羊皮紙だ。ベージュ色のその紙面には、一行の共通文字と、五色に彩られた山の絵が描いてある。
「何だ? ヘタな絵だな。ヴァユー、お前が描いたのか?」
ハリアーの言葉どおり、描き付けられた山の筆致は粗雑で、どうお世辞を言っても平凡以下、としか表現のしようがない。
だが冷淡な表情を浮かべたままのヴァユーが、逆に聞き返してきた。
「どうだ? お前の知りたいことは書いてあったか?」
羊皮紙に目を戻したハリアーが、共通文字を口に出して読み上げた。
「“おん・まー・にー・ぱー・めー・うん”? 何だコレ?」
胡乱な眼差しをヴァユーに向けようとしたハリアーだった。
だが、彼女の目は、羊皮紙の一点を捉えて微動だにしない。まるで羊皮紙が、ハリアーの視線をがっちり掴んでいるかのようだ。
ハリアーの奥歯が、ぎりぎりと鳴っている。書類挿みを持つ彼女の両手も、硬直したまま小刻みに震える。
「ハリアーさん……?」
只ならない様子で立ち尽くすばかりのハリアーに、プリモはそっと呼びかける。
だが、ハリアーから返事は戻らない。身を強張らせ、山の絵に囚われたままだ。
「うっ、動けない……!?」
それだけ呻いたハリアーの肩が、びくんと揺れた。驚愕に見開かれた彼女の目が、仰ぐように上へ向く。
「山が崩れる……!?」
女剣士の怯みの声を聞き、プリモはハッと気が付いた。
……幻覚を見せられている!?
たぶん、崩れてくる岩山の幻……!
しかし、こういう場合の対処法だけは、プリモも教わっている。万有術師たる、主人のメヴィウスに。
独りこくりとうなずき、プリモはハリアーの正面に立った。
そして茫然とした顔で仰け反る彼女の両肩に手を置くと、強い口調で呼びかける。
「数をかぞえて、ハリアーさん!」
「え?」
虚ろな眼差しで生返事のハリアーに、プリモは重ねて強く求める。
「深呼吸して! さあ早く!」
覚悟を決めたのか、乱れた息を浅く整えたハリアーが、数を口に出し始めた。
「いち、に、さん、し……」
ハリアーの口ずさむ勘定が進むにつれ、だんだんとその視線も定まってくる。
そうして十四まで数え上げたところで、ハリアーがぶるっと首を振った。唇にも血の気が戻り、体の硬直も解けたようだ。
立ったまま、ハリアーががっくりと両膝に手を付いた。視線を地面に注ぎ、はあっと大きな吐息をつく。
そんな疲れ切ったハリアーに、プリモは静かに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫」
それだけ答え、ハリアーがバッと体を起こした。大きな胸を反らせて身構えた彼女は、全身から怒りの熱気を噴出させて、地面も揺らす大声を張り上げる。
「おいヴァユーっっ!!」
「ここだ」
冷淡な答えが返ってきた方へ、ハリアーが勢いよく向き直った。
ハリアーとプリモから何十歩も離れた草の上に、刺叉を担いだヴァユーが立っている。何事もなかったかのような、飄々とした表情を湛えつつ。
女剣士が、ありったけの怒りを載せて睨み付け、吠えるように大喝した。
「戦士が魔術なんかに頼るな! この軟弱者っっ!!」
下草をも震わすハリアー渾身の罵声。だがヴァユーに動じた様子は見えない。
「さすが、見上げた矜持だ。“流星雨”と二つ名を取るだけはある」
賛辞を口にしつつも、ヴァユーは諧謔的に肩をすくめた。
「今回の標的は名立たる魔術師、しかも龍 だぞ。何の準備もなく出向いてくると思うか? まあ、その咒符をお前に使うことになるとは、計算外だったがな。それに」
彼はハリアーの脇に立つプリモに目を移した。
「それにあの咒符が、使用人などに破られるとは、思いもしなかった。まさか使用人が『数数 』を知っているとは、やはり黒龍の塔は一筋縄ではいかない」
一瞬天を仰いだヴァユーが、再びプリモに視線を注ぐ。
「主人に伝えろ。『借りたものはきちんと返せ。延滞期間はもう三年だ』、と」
「どういうことだ?」
怒りよりもほんのわずかに好奇心が優ったハリアーが、それでもきつい口調で問い詰めた。
しかしヴァユーは答えない。くるりと向けられた彼の背中から、無感情な声が飛んできた。
「また改めてお邪魔する。もう魔力は抜けて使えないが、その咒符はお前たちにやる」
それだけ言い残し、ヴァユーは潅木の間にするりと姿を消した。
「あ、待て! この野郎!」
だがハリアーの悔しい怒声は、木立の合間に空しく消えていった。
しばらくの間、ぼんやり立ち尽くした彼女だったが、やがてがっくりと肩を落とし、プリモに向き直った。
手の中の書類挿みをプリモに手渡しながら、女剣士が感謝と賞賛の眼差しを注いでくる。
「あー、さっきはありがとう。ヘンな山崩れの幻に捕まって。ホント、助かったよ」
ハリアーの言葉と笑顔を受けて、プリモは深い充足感が胸に広がるのを覚えた。彼女の役に立てたというささやかな喜び、それに主人メヴィウスへの感謝だ。
「『魔術幻影に巻き込まれたときは、何も考えずに数をかぞえろ』、との旦那さまのお教えです。お役に立てて、幸いでした」
「は? 何でそんなのが効くの?」
疑問符の張り付く奇妙な顔で、ハリアーが目を白黒させている。だがプリモ自身も、ハリアーに説明できる知識を持ち合わせていない。
「さあ……。理屈までは、教えられていませんから」
口ごもったプリモはうなだれた。ハリアーへの申し訳なさと、メヴィウスへの針先ほどの疑念が、胸につかえたプリモだった。
しかしプリモは、すぐに顔を上げた。わずかな陰りを内心に残しながらも、ハリアーに健気な笑顔を浮かべて見せる。
「塔の中へ戻りましょう、ハリアーさん。わたしのお部屋で、お茶をお淹れしますので」
「ああ、ありがとう。ちょっと疲れちゃったよ」
プリモは革の冊子を見ながら、不思議そうなハリアーに小声で教える。
「書類
「じゃあ、この中に依頼書か何かがある、ってワケか」
つぶやきながら、ハリアーが書類挿みの綴じ紐を引いた。だが緋色の結び目は緩まない。
「あれ? ほどけないぞ」
よくよく見れば、綴じ紐の結び目は、桃色の蝋で固めてある。何かの封印だろうか。
ハリアーとプリモは顔を見わせた。
難しく口元を結んだハリアーが、眉根を寄せて思案に暮れている。彼女も何か引っ掛かりを覚えているのだろう。
唸ってうつむく女賞金稼ぎの耳に、ヴァユーが無感情に囁く。
「何をためらっている? “流星雨のハリアー”。 私を容易く組み伏せたお前に免じて、せっかく依頼の秘密を明かしてやろうというのに。それとも……」
ヴァユーの表情が微妙に崩れた。何か小馬鹿にしたような、皮肉な笑みが口元に浮かぶ。
「お前は字が読めないのか……?」
「何おう!?」
ヴァユーに嘲笑され、ハリアーの脳天が瞬時に沸騰した。
キッと顔を上げた彼女が、薄笑いのヴァユーを睨み付ける。
「バカにするな! あたしは剣士だけど、この大陸で使われてる文字くらい、全部読めるぞ!」
怒鳴るが早いか、彼女は書類挿みの綴じ紐を思いっきり引っ張る。
即座に緋色の紐はぴんと音を立てて真っ直ぐに伸びきり、桃色の蝋は細かく砕けて四散した。
そしてハリアーが、封印の解けた書類挿みを両手で開け放つ。
二つ折りの革に挟まれていたのは、一枚の羊皮紙だ。ベージュ色のその紙面には、一行の共通文字と、五色に彩られた山の絵が描いてある。
「何だ? ヘタな絵だな。ヴァユー、お前が描いたのか?」
ハリアーの言葉どおり、描き付けられた山の筆致は粗雑で、どうお世辞を言っても平凡以下、としか表現のしようがない。
だが冷淡な表情を浮かべたままのヴァユーが、逆に聞き返してきた。
「どうだ? お前の知りたいことは書いてあったか?」
羊皮紙に目を戻したハリアーが、共通文字を口に出して読み上げた。
「“おん・まー・にー・ぱー・めー・うん”? 何だコレ?」
胡乱な眼差しをヴァユーに向けようとしたハリアーだった。
だが、彼女の目は、羊皮紙の一点を捉えて微動だにしない。まるで羊皮紙が、ハリアーの視線をがっちり掴んでいるかのようだ。
ハリアーの奥歯が、ぎりぎりと鳴っている。書類挿みを持つ彼女の両手も、硬直したまま小刻みに震える。
「ハリアーさん……?」
只ならない様子で立ち尽くすばかりのハリアーに、プリモはそっと呼びかける。
だが、ハリアーから返事は戻らない。身を強張らせ、山の絵に囚われたままだ。
「うっ、動けない……!?」
それだけ呻いたハリアーの肩が、びくんと揺れた。驚愕に見開かれた彼女の目が、仰ぐように上へ向く。
「山が崩れる……!?」
女剣士の怯みの声を聞き、プリモはハッと気が付いた。
……幻覚を見せられている!?
たぶん、崩れてくる岩山の幻……!
しかし、こういう場合の対処法だけは、プリモも教わっている。万有術師たる、主人のメヴィウスに。
独りこくりとうなずき、プリモはハリアーの正面に立った。
そして茫然とした顔で仰け反る彼女の両肩に手を置くと、強い口調で呼びかける。
「数をかぞえて、ハリアーさん!」
「え?」
虚ろな眼差しで生返事のハリアーに、プリモは重ねて強く求める。
「深呼吸して! さあ早く!」
覚悟を決めたのか、乱れた息を浅く整えたハリアーが、数を口に出し始めた。
「いち、に、さん、し……」
ハリアーの口ずさむ勘定が進むにつれ、だんだんとその視線も定まってくる。
そうして十四まで数え上げたところで、ハリアーがぶるっと首を振った。唇にも血の気が戻り、体の硬直も解けたようだ。
立ったまま、ハリアーががっくりと両膝に手を付いた。視線を地面に注ぎ、はあっと大きな吐息をつく。
そんな疲れ切ったハリアーに、プリモは静かに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫」
それだけ答え、ハリアーがバッと体を起こした。大きな胸を反らせて身構えた彼女は、全身から怒りの熱気を噴出させて、地面も揺らす大声を張り上げる。
「おいヴァユーっっ!!」
「ここだ」
冷淡な答えが返ってきた方へ、ハリアーが勢いよく向き直った。
ハリアーとプリモから何十歩も離れた草の上に、刺叉を担いだヴァユーが立っている。何事もなかったかのような、飄々とした表情を湛えつつ。
女剣士が、ありったけの怒りを載せて睨み付け、吠えるように大喝した。
「戦士が魔術なんかに頼るな! この軟弱者っっ!!」
下草をも震わすハリアー渾身の罵声。だがヴァユーに動じた様子は見えない。
「さすが、見上げた矜持だ。“流星雨”と二つ名を取るだけはある」
賛辞を口にしつつも、ヴァユーは諧謔的に肩をすくめた。
「今回の標的は名立たる魔術師、しかも
彼はハリアーの脇に立つプリモに目を移した。
「それにあの咒符が、使用人などに破られるとは、思いもしなかった。まさか使用人が『
一瞬天を仰いだヴァユーが、再びプリモに視線を注ぐ。
「主人に伝えろ。『借りたものはきちんと返せ。延滞期間はもう三年だ』、と」
「どういうことだ?」
怒りよりもほんのわずかに好奇心が優ったハリアーが、それでもきつい口調で問い詰めた。
しかしヴァユーは答えない。くるりと向けられた彼の背中から、無感情な声が飛んできた。
「また改めてお邪魔する。もう魔力は抜けて使えないが、その咒符はお前たちにやる」
それだけ言い残し、ヴァユーは潅木の間にするりと姿を消した。
「あ、待て! この野郎!」
だがハリアーの悔しい怒声は、木立の合間に空しく消えていった。
しばらくの間、ぼんやり立ち尽くした彼女だったが、やがてがっくりと肩を落とし、プリモに向き直った。
手の中の書類挿みをプリモに手渡しながら、女剣士が感謝と賞賛の眼差しを注いでくる。
「あー、さっきはありがとう。ヘンな山崩れの幻に捕まって。ホント、助かったよ」
ハリアーの言葉と笑顔を受けて、プリモは深い充足感が胸に広がるのを覚えた。彼女の役に立てたというささやかな喜び、それに主人メヴィウスへの感謝だ。
「『魔術幻影に巻き込まれたときは、何も考えずに数をかぞえろ』、との旦那さまのお教えです。お役に立てて、幸いでした」
「は? 何でそんなのが効くの?」
疑問符の張り付く奇妙な顔で、ハリアーが目を白黒させている。だがプリモ自身も、ハリアーに説明できる知識を持ち合わせていない。
「さあ……。理屈までは、教えられていませんから」
口ごもったプリモはうなだれた。ハリアーへの申し訳なさと、メヴィウスへの針先ほどの疑念が、胸につかえたプリモだった。
しかしプリモは、すぐに顔を上げた。わずかな陰りを内心に残しながらも、ハリアーに健気な笑顔を浮かべて見せる。
「塔の中へ戻りましょう、ハリアーさん。わたしのお部屋で、お茶をお淹れしますので」
「ああ、ありがとう。ちょっと疲れちゃったよ」