一.

文字数 4,868文字

 プリモと赤龍ハリアーが黒龍の塔に帰還したのは、日没後のことだった。
 塔の立つ湿地帯は、珍しく晴れ渡っている。金銀の粉を振りまいたような満天の星が、辺りをほんわりと照らす。

 頂上の縁に立った二人は、辺りを見回した。庭園はひっそりと静まり返り、ただ風車が回る乾いた音だけが寂しげに響く。
 しかし、よく目を凝らせて見ると、庭園の一番底に造られた採光ドームから、かすかな灯りが洩れている。
 ハリアーと顔を見合わせたプリモは、無言のまま、空中庭園から塔の中へと通じるドアへと向かった。
 二人が鋼のドアをわずかに開けて食堂を覗くと、塔の主人メヴィウスの姿が見えた。彼は何とも複雑な表情を浮かべ、カップを傾けている。心配やら意地やら苛立ちやら、ごちゃ混ぜの感情を無理やり平静に抑え込んだ彼の顔を見て、ハリアーが口を押さえて、うぷぷと笑った。
 その一方で、プリモの胸はちくっと痛む。
 深刻な不安顔、それにそわそわと落ち着きのない主人の素振りが、プリモの目にはすごく新鮮だ。ため息さえ洩れるほどの申し訳なさと、言いようのない愛しさのようなもの、が胸に広がってくる。
 ハリアーをチラ見すると、彼女も悪戯な笑みでうなずいてきた。
 うなずき返したプリモは、すーはーと深呼吸を繰り返してから、思い切って大きくドアを開けた。

「た、ただいま戻りました。遅くなってしまって、申し訳ありません」

 渾身の努力でもって、普段の様子を作ったプリモ。
 即座に、メヴィウスがびくんと顔を上げた。

「あ、ああ。お帰り、プリモ」

 答えたメヴィウスにも、何食わぬ顔が貼りついている。が、その視線は落ち着きなくテーブルをさまよう。その頬も、いつになく赤く染まって見えるのは、プリモの気のせいだろうか。
 何故かプリモを見ないまま、メヴィウスがぎこちなく聞く。

「ああ、アリオストポリのバザールに行ってたみたいだな。初めての外出は、どうだった?」
「え、あ、楽しかったです。とても……」

 答えるプリモも顔が火照り、主人の顔を見ていられない。

 ……遥か彼方からプリモたちの窮地を察し、駆けつけて救ってくれた主人メヴィウス。その距離をものともしない主人の想いが、今さらながら胸に深く染み入る。
 帰りの道すがら、プリモがハリアーの背に揺られて一所懸命考えたお礼の言葉も、きれいさっぱり頭の中から消し飛んでしまった。
 ぽうっと立ち尽くすプリモの耳に、メヴィウスの無関心げな声が響いた。

「あー、ならいいんだ。うん。それならいい……」

 メヴィウスのわざとらしく素っ気ない返事を聞き、プリモはハッと顔を上げた。

「あ、旦那さま、お食事は? すぐに何か作りますから」
「いや、食事はいいよ。それより珈琲を淹れてくれないかな。自分で淹れた珈琲は不味くて」
「あ、はい」

 勝手にバザールへ出向いていったプリモだが、メヴィウスにそれを咎める様子はない。
 プリモ自身も、メヴィウスが尽くしたはずの影の助力には、一切触れない。
 そのどこかちぐはぐなやりとりは、何とも言えず不自然だ。
 気恥ずかしさと決まり悪さを覚えたプリモは、口を閉じた。メヴィウスも黙り込んでいる。
 プリモは珈琲を淹れに下がる前に、メヴィウスに一冊の本をそっと差し出した。

「あの、旦那さま。これ、外に落ちていました」

 胸の動悸を抑えつつ、彼女が差し出したのは白い本。『黒龍版・舟の書』だ。
 それを見るなり、メヴィウスの顔色が変わった。頬を真紅に染め、メヴィウスは口をぐっと引き結んで目を伏せる。

「あ、ああ、済まない……」

 それだけ言って、メヴィウスは受け取った写本を懐にねじ込んだ。
  普段なら、あの指を鳴らして開く異空間の書庫にしまい込むはずだが、それも忘れているようだ。

 ……これはかなり動揺している。
 プリモがそう悟った時、突然、うぷぷという笑いが響いた。
 プリモとメヴィウスが同時に向き直ると、含み笑いの主は、扉の前のハリアーだ。にやにや笑いを浮かべたハリアーが、閉じられた扉の前からメヴィウスに声をかける。

「よっ、メヴィウス。まだ起きてたのか」

 軽く言いつつ、面白そうな表情のハリアーが、ゆっくりとテーブルに歩み寄ってくる。
 メヴィウスが、むすっとした表情のまま、鼻をふんと鳴らした。茶器を下げるプリモの動きを目で追いながら、彼は反抗的に口元を曲げる。

「起きてて悪いか? まだほんの宵の口だ」

 メヴィウスがハリアーの顔を見上げた。テーブルに片手で頬杖をつき、不機嫌な口調でぶちぶち文句を連ねる。

「プリモはこの塔から出たことがないんだ。今日は無事に帰って来られたが、本当に何かあったらどうしてくれるつもりだったんだ。大体が大体、ハリアーは……」

 くどくど続くメヴィウスの繰り言を片手で遮り、ハリアーは椅子の上の彼に鼻先を近付けた。

「ああ、分かってるさ」

 紫紺の両目が寄るほど顔をメヴィウスに近付けて、ハリアーが噛んで含めるように意見する。

「でもな、いくら使用人だからって、プリモを何も教えないまま、こんな暗い塔に押し込めとくのは、どうかと思うぞ。ソコんトコは、よく考えた方がいいんじゃないのか? “万有術師”サマ」

 メヴィウスは、口をつぐんでうつむいた。深刻そうに目を伏せて、じっと何か思案に暮れている。
 ひどく憂鬱げで、どこか自責の念の漂うメヴィウス。
 プリモも言いようのない切なさを覚え、茶器を下げる手が一瞬止まった。
 そんなメヴィウスから離れ、ハリアーが真っ直ぐな視線をメヴィウスに注ぐ。

「とりあえず、プリモはもう休ませてやれよ。もしまだ文句があるなら、あたしが全部聞いてやる。絶対プリモを責めるなよ。いいな?」

 メヴィウスが小さくため息をついた。

「……ああ、分かってる」

 目を伏せたまま、あらぬ方に視線を向けたメヴィウス。どこか虚空を見つめつつ、重苦しい口ぶりで言葉をつなぐ。

「分かってるから、とりあえず礼を言うよ、ハリアー。プリモのこと、護ってくれてありがとう」

 をを? とハリアーが口走った。彼女は信じられないような面持ちで目を丸くし、口をぽかんと開けている。
 そんな彼女を見ないまま、メヴィウスがたどたどしく言葉をつなぐ。言いにくいことを無理やり絞り出すように、彼の口調は、とてもぎこちない。

 「プリモは、字もまともに書けないし、あらゆる意味で、無知で無防備だ。だからプリモには、見聞と経験が要る。だから」

 ごにょごにょとそんなことを口にして、メヴィウスは小さく咳払いした。

「で、できれば、ハリアーが、たまにはプリモをどこか塔の外へ、連れ出してやってくれないか?」
「旦那さま!?」

 それまでテーブルの脇に控えていたプリモの唇から、思わず声が洩れた。こみ上げる喜びが、涙に結実して目許に湧くのが分かる。胸が詰まって、彼女の口はそこから言葉がつながらない。
 主人に目を注ぐと、彼は腕組みのまま、そっぽを向いている。小さな灯火に照らされた主人の頬が仄赤く染まって見えるのは、やっぱり気のせい……ではないかも知れない。
 にっと笑ったハリアーが、テーブルに左手をついた。そして右手を腰に当て、メヴィウスの横顔を覗き込む。

「ほう、なかなかいい心がけじゃないか、メヴィウス。あたしは喜んで引き受けるさ。プリモにその気があれば、いつだって。どうする? プリモ」

 テーブルの縁にどっかと腰掛けたハリアーが、プリモに紫紺の瞳を向けてきた。
 問われたプリモの返事は、もちろん決まりきっている。彼女は一瞬の間も入れず、ハリアーに向かって深く頭を下げた。背中で後ろ髪がふわりと踊る。

「よろしくお願いします!」
「あたしこそ、頼むね」

 にっこり笑ったハリアーが、グラブを外した右手をプリモに差し出してきた。
 プリモも、これから塔の外に広がる世界に想いを馳せつつ、女剣士の手をぎゅっと握る。女剣士の手は柔らかだが、温かく力強い。
 しばしの間、笑顔の握手を交わしたハリアーが、プリモに目配せした。彼女の意図を汲み取ったプリモも、こくりとうなずく。
 女剣士から手を離したプリモは、主人メヴィウスの正面に立った。
 どくんどくんと高鳴る胸に手を当てて、小さく息を整えた彼女は、懐から白いハンカチの包みを取り出した。

「どうぞ。旦那さまにおみやげです」
「俺に?」

 メヴィウスは、意外そうに目を白黒させている。
 きょとんとするばかりの主人に、緊張と、ちょっぴりの期待を込めた眼差しを送りつつ、プリモは包みをおずおずと差し出した。

「お気に召して頂けるといいのですが」
「あ、ああ。ありがとう」

 どこか気の抜けた口調で礼を言ったメヴィウスだった。
 が、包みを解き、中にあった物を一目見るなり、メヴィウスが仰け反って叫んだ。

「こ、これは偏向水晶(ディフレクター・クォーツ)!? 一体、どうやって!?」
「そりゃあお前、プリモがお前のために、苦労して手に入れたに決まってるじゃないか。ありがたく思えよ。並大抵の話じゃないんだぞ」

 ハリアーが告げる横で、驚愕に目を見開いたメヴィウスは虹色の結晶を食い入るように見つめる。ルーペと小さな定規を取り出し、水晶を隈なく観察した彼は、やがて椅子に背中を預け、深々と息を吐いた

「……完璧だ。ああ、何とか間に合った」

 低く呻いたメヴィウスが、プリモを見上げてきた。
 プリモの胸は、ばくばくと激しく踊る。強い鼓動に、プリモの視界がびくん、びくんと大きく揺れる。
 その一方で、主人の漆黒の目には複雑な色が浮かんでいる。驚き、感謝、安堵、それから、深い喜びといたわり。
 プリモも目元が熱くなるのをじっとこらえる。
 深い嘆息とともに、メヴィウスが顔を伏せた。

「プリモ、このためにアリオストポリに行って、あの女に会ったのか。ああ、ありがとう。苦労をかけたね」

 彼の両肩はがっくりと落ち、意気消沈ぶりは傍目にも明らかに映る。かつて見たこともないような主人の様子を目の当たりにして、プリモの胸がずきっとうずいた。ここまでの嬉しさが、申し訳なさと切なさとに一気に塗り替えられる。
 プリモが、メヴィウスから一歩退いた。自身の熱く切ない気持ちとは正反対の、メイドとしての矜持に衝き動かされた所作だ。

 ――近付きたい、でも近づけない――

 狂おしい気持ちを必死に抑え付け、使用人プリモは主人メヴィウスに向かって、深々と頭を下げた。

「旦那さま、とてもお困りの様子でしたから。お気になさらないで下さい」
「プリモ……」

 メヴィウスが顔を上げた。
 ……物識りで、賢くて、ちょっと意地っ張り。そして意外と奥手な、素敵な旦那さま。

 ――わたしのものであって、わたしのものにはなり得ない、最愛のひと――

 その主人メヴィウスが、何か切なげに眉根をゆがめている。今にも泣きそうなほどに悲しそうな眼差しと、何かを言いたそうに開きかけた口元。
 プリモの胸の奥から、何と呼んだらいいのか分からない気持ちの奔流が、後から後から溢れてくる。どうしようもないもどかしさに、プリモは服の裾をギュッと握り締めていた。
 だがそんな苦しい時間は、数秒ばかりで終わりを告げた。

「で? メヴィウス」

 二人の脇から、ハリアーがメヴィウスに視線を注ぐ。彼女は意図的な無関心をまとった、短い問いを放ってくる。プリモへの助け舟のつもりだろうか。

「お前、その偏向水晶を何に使うんだ? あたしたちに教えろよ」

 黒い視線を足元に逃がしつつ、メヴィウスが椅子から腰を上げた。

「ああ。こっちだ」

 プリモとハリアーを一瞥して、メヴィウスが歩き出す。
 プリモたちも、彼の後について食堂を出た。
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