三.
文字数 2,639文字
翌日の夜明け前。
初めての街と主人の喜ぶ顔とに思いを馳せ、期待と興奮、それにほんのちょっぴりの不安に、安眠を邪魔されたプリモだった。
それでも彼女は、太陽よりも早くベッドを降りた。ハリアーから渡された服に手早く身を包み、彼女はすぐに食堂に向かう。
塔の頂上にある食堂は、まだ真っ暗だ。人の姿はなく、しんと静まり返っている。
プリモはテーブルの燭台に火を点し、独りテーブルについた。と、ほとんど同時に、仄かな明かりの中に誰かの影が浮かび上がった。
彼女はおぼろげなその姿に向かって、好意的に頭を下げる。
「あ、おはようございます、ハリアーさん」
「おはよう、プリモ」
プリモが食堂に現れたハリアーにあいさつすると、この剣士の少女も食卓に腰を落とした。
蝋燭の火が、それきり口を開かない二人の顔を淡く照らしている。
しばしの沈黙を容れて、先に口を開いたのはハリアーの方だった。彼女はゆっくりと脚を組みながら、プリモに聞いてくる。
「まだ帰ってないんだね、メヴィウスのヤツ」
プリモはこくりとうなずき、つぶやいた正面のハリアーを見つめた。
頬杖を付いたハリアーは、身体にぴっちり合ったワインレッドの薄い革鎧を着込んでいる。口がラッパのように開いたロングブーツを履き、彼女の顎を支える手も、鋭い鋲の打たれた紅いグラブで包まれている。剣は背負っていない。その代わり、小さな丸盾を左右の腰に下げている。盾の縁から上下に向けて長い角の突き出した、取り皿ほどの大きさの一風変わった盾だ。そんなハリアーの雄姿は、剣士というよりも拳闘士と呼ぶ方がしっくりくる。
苛立ちを隠せない様子の闘士ハリアーが、一旦テーブルを離れ、窓辺に立った。
窓の外にはまだ夜の帳が下ろされている。ハリアーの睨むような視線が、一点の灯りも見えない彼方の闇を注視する。
「これ以上待ってたら、帰りが遅くなっちゃうよ」
鼻息荒く、ハリアーがこぼす。
プリモもうなだれた。行くべきか、待つべきか。迷いに迷うプリモの肩が、ぽんと優しく叩かれた。
顔を上げると、目絵の前にハリアーの自信に満ち溢れた笑顔があった。
「何があっても、相手が誰でも、あたしがプリモを護る。行こう」
強気なハリアーの言葉を聞き、プリモもうなずいた。
確かに一昨日の捕縛師ヴァユーとの一戦は、ハリアーの自信を十二分に裏打ちしている。たとえどんな冒険者が絡んできても、彼女と一緒なら乗り切れるに違いない。
プリモは、全幅の信頼を込めた眼差しをハリアーに注ぐ。
「分かりました。お願いします」
肩に掛けた純白のショールをそっと押さえ、プリモも立ち上がった。楕円の瞳孔を腕組みのハリアーに向けて、彼女は告げる。
「最後のお片付けをしてきますね」
「ああ。上の庭園で待ってるよ。あたしも手伝いたいけど、勝手が分からないからさ。また何か壊すと、メヴィウスがうるさいから」
決まり悪そうなハリアーを見て、プリモは嫌味なくくすっと笑ってうなずく。
「分かりました。すぐ終わりますから。少しだけ、待っていて下さいね」
軽く手を振りつつ、ハリアーが中庭園につながるドアへと姿を消した。
プリモはすぐに戸締りや消灯などに塔の中を奔走し、数分とかけずに出発の準備を終えた。
そしてもう一度食堂に戻ったプリモは、テーブルの上に一枚の紙を置いた。その薄黄色い紙面には、主人へのメッセージが簡潔にしたためてある。
プリモはテーブルの手紙に向かって手を合わた。
主人メヴィウスへのお詫びの気持ちを込めて、プリモは深く頭を垂れる。
「旦那さま、ごめんなさい。きっと、持って帰ってきますから」
小さな吐息を容れて、プリモは燭台を吹き消した。灯りを失った食堂は、即座に夜明け前の闇に呑み込まれた。
プリモはその足で、真っ暗な食堂の片隅にある、鉄の扉へと足早に向かう。ハリアーが出て行った、屋上の庭園へと通じるドアだ。この塔に出入りする龍たちが、玄関代わりに使っている。主人メヴィウスも、たぶんこのドアから塔を出たはずだ。そして帰ってくるときも、ここから中へと入ってくるだろう。
プリモが鉄の扉を押し開けた途端、ひんやりと冷たく湿った空気がプリモの頬を舐めた。
ぶるっと身を震わせたプリモだったが、白いショールが肩と背中を温かく包んでくれる。ふっと小さく息をついて、プリモは十段ばかりの階段を上がり、空中庭園の底に立った。
この空中庭園は、黒龍の塔のてっぺんに載っかった、“巨大な黒い釜”だ。
釜の直径は、おおむね数百歩。高さも、大きな鐘楼がまるごと収まってしまうほどの、壮大な建造物だ。遠くからでも割とよく見えるようで、それも“冒険者さまご一行”が訪ねてくる理由になっているらしい。
そんな半球形の釜の内側は、用途の異なる十数段の階層に分かれている。
あるフロアは野菜畑や薬草園、また別の階層は実験動物の飼育施設。そしてまた他のエリアは器械工房、という具合だ。
この塔に水を供給する揚水用の風車も、ここ空中庭園に設置されている。
それぞれの階層は、釜の底から縁までをぐるぐると廻る、緩やかな螺旋状のスロープでつながっている。ひと二人が並んで歩ける、石畳の小道だ。
総合研究施設でもある空中庭園の底から、プリモは空を見上げた。
切れ切れに雲が流れる空から星灯りが降り注ぎ、辺りの植物を透明な藍色に染め上げている。月はなく、東の空がやや赤みを帯びて映る。
目を凝らして庭園を見渡すプリモの耳に、自分を呼ぶ声が聞こえた。顔を上げてみると、空中庭園の外周部に、手を大きく振る人影が見える。たぶんハリアーだ。
しかし彼女の姿もその周囲の植栽も、随分と小さく映る。プリモの位置から結構な距離があるせいだろう。
プリモもハリアーに手を振り返し、螺旋の小道を急ぐ。
数分とかからずに、プリモは黒龍の塔で一番高い場所、空中庭園の外周部へとたどり着いた。
この塔を愛して止まないプリモだが、広葉樹がまばらに生える外周部だけは、どうにも好きになれない。いつ来ても荒涼としていて、どこか落ち着かない空虚さが周囲を覆う。
だがプリモの感情が負の方向へ高ぶるより早く、ハリアーの二度目の声が聞こえた。
「ああ、来た来た」
その声に、プリモは安堵を覚えて振り向いた。
初めての街と主人の喜ぶ顔とに思いを馳せ、期待と興奮、それにほんのちょっぴりの不安に、安眠を邪魔されたプリモだった。
それでも彼女は、太陽よりも早くベッドを降りた。ハリアーから渡された服に手早く身を包み、彼女はすぐに食堂に向かう。
塔の頂上にある食堂は、まだ真っ暗だ。人の姿はなく、しんと静まり返っている。
プリモはテーブルの燭台に火を点し、独りテーブルについた。と、ほとんど同時に、仄かな明かりの中に誰かの影が浮かび上がった。
彼女はおぼろげなその姿に向かって、好意的に頭を下げる。
「あ、おはようございます、ハリアーさん」
「おはよう、プリモ」
プリモが食堂に現れたハリアーにあいさつすると、この剣士の少女も食卓に腰を落とした。
蝋燭の火が、それきり口を開かない二人の顔を淡く照らしている。
しばしの沈黙を容れて、先に口を開いたのはハリアーの方だった。彼女はゆっくりと脚を組みながら、プリモに聞いてくる。
「まだ帰ってないんだね、メヴィウスのヤツ」
プリモはこくりとうなずき、つぶやいた正面のハリアーを見つめた。
頬杖を付いたハリアーは、身体にぴっちり合ったワインレッドの薄い革鎧を着込んでいる。口がラッパのように開いたロングブーツを履き、彼女の顎を支える手も、鋭い鋲の打たれた紅いグラブで包まれている。剣は背負っていない。その代わり、小さな丸盾を左右の腰に下げている。盾の縁から上下に向けて長い角の突き出した、取り皿ほどの大きさの一風変わった盾だ。そんなハリアーの雄姿は、剣士というよりも拳闘士と呼ぶ方がしっくりくる。
苛立ちを隠せない様子の闘士ハリアーが、一旦テーブルを離れ、窓辺に立った。
窓の外にはまだ夜の帳が下ろされている。ハリアーの睨むような視線が、一点の灯りも見えない彼方の闇を注視する。
「これ以上待ってたら、帰りが遅くなっちゃうよ」
鼻息荒く、ハリアーがこぼす。
プリモもうなだれた。行くべきか、待つべきか。迷いに迷うプリモの肩が、ぽんと優しく叩かれた。
顔を上げると、目絵の前にハリアーの自信に満ち溢れた笑顔があった。
「何があっても、相手が誰でも、あたしがプリモを護る。行こう」
強気なハリアーの言葉を聞き、プリモもうなずいた。
確かに一昨日の捕縛師ヴァユーとの一戦は、ハリアーの自信を十二分に裏打ちしている。たとえどんな冒険者が絡んできても、彼女と一緒なら乗り切れるに違いない。
プリモは、全幅の信頼を込めた眼差しをハリアーに注ぐ。
「分かりました。お願いします」
肩に掛けた純白のショールをそっと押さえ、プリモも立ち上がった。楕円の瞳孔を腕組みのハリアーに向けて、彼女は告げる。
「最後のお片付けをしてきますね」
「ああ。上の庭園で待ってるよ。あたしも手伝いたいけど、勝手が分からないからさ。また何か壊すと、メヴィウスがうるさいから」
決まり悪そうなハリアーを見て、プリモは嫌味なくくすっと笑ってうなずく。
「分かりました。すぐ終わりますから。少しだけ、待っていて下さいね」
軽く手を振りつつ、ハリアーが中庭園につながるドアへと姿を消した。
プリモはすぐに戸締りや消灯などに塔の中を奔走し、数分とかけずに出発の準備を終えた。
そしてもう一度食堂に戻ったプリモは、テーブルの上に一枚の紙を置いた。その薄黄色い紙面には、主人へのメッセージが簡潔にしたためてある。
プリモはテーブルの手紙に向かって手を合わた。
主人メヴィウスへのお詫びの気持ちを込めて、プリモは深く頭を垂れる。
「旦那さま、ごめんなさい。きっと、持って帰ってきますから」
小さな吐息を容れて、プリモは燭台を吹き消した。灯りを失った食堂は、即座に夜明け前の闇に呑み込まれた。
プリモはその足で、真っ暗な食堂の片隅にある、鉄の扉へと足早に向かう。ハリアーが出て行った、屋上の庭園へと通じるドアだ。この塔に出入りする龍たちが、玄関代わりに使っている。主人メヴィウスも、たぶんこのドアから塔を出たはずだ。そして帰ってくるときも、ここから中へと入ってくるだろう。
プリモが鉄の扉を押し開けた途端、ひんやりと冷たく湿った空気がプリモの頬を舐めた。
ぶるっと身を震わせたプリモだったが、白いショールが肩と背中を温かく包んでくれる。ふっと小さく息をついて、プリモは十段ばかりの階段を上がり、空中庭園の底に立った。
この空中庭園は、黒龍の塔のてっぺんに載っかった、“巨大な黒い釜”だ。
釜の直径は、おおむね数百歩。高さも、大きな鐘楼がまるごと収まってしまうほどの、壮大な建造物だ。遠くからでも割とよく見えるようで、それも“冒険者さまご一行”が訪ねてくる理由になっているらしい。
そんな半球形の釜の内側は、用途の異なる十数段の階層に分かれている。
あるフロアは野菜畑や薬草園、また別の階層は実験動物の飼育施設。そしてまた他のエリアは器械工房、という具合だ。
この塔に水を供給する揚水用の風車も、ここ空中庭園に設置されている。
それぞれの階層は、釜の底から縁までをぐるぐると廻る、緩やかな螺旋状のスロープでつながっている。ひと二人が並んで歩ける、石畳の小道だ。
総合研究施設でもある空中庭園の底から、プリモは空を見上げた。
切れ切れに雲が流れる空から星灯りが降り注ぎ、辺りの植物を透明な藍色に染め上げている。月はなく、東の空がやや赤みを帯びて映る。
目を凝らして庭園を見渡すプリモの耳に、自分を呼ぶ声が聞こえた。顔を上げてみると、空中庭園の外周部に、手を大きく振る人影が見える。たぶんハリアーだ。
しかし彼女の姿もその周囲の植栽も、随分と小さく映る。プリモの位置から結構な距離があるせいだろう。
プリモもハリアーに手を振り返し、螺旋の小道を急ぐ。
数分とかからずに、プリモは黒龍の塔で一番高い場所、空中庭園の外周部へとたどり着いた。
この塔を愛して止まないプリモだが、広葉樹がまばらに生える外周部だけは、どうにも好きになれない。いつ来ても荒涼としていて、どこか落ち着かない空虚さが周囲を覆う。
だがプリモの感情が負の方向へ高ぶるより早く、ハリアーの二度目の声が聞こえた。
「ああ、来た来た」
その声に、プリモは安堵を覚えて振り向いた。