六.

文字数 2,962文字

 ごくっと小さく唾を呑んで、プリモは主人の答えを待つ。
 だがメヴィウスは、すげない素振りで首を横に振った。

「それはまだ知らなくていい」

 メヴィウスの突き放した答えを受けたプリモだったが、彼女は無言で頭を下げた。お辞儀はしたものの、置き去りにされたような思いが胸を塞ぎ、プリモは深く澱んだ吐息をつく。
 そんな彼女には気付かない顔で、メヴィウスは抜け殻の咒符を無表情に眺めている。

「それにしてもヴァスバンドゥとかいう奴、無駄に凝った真似をしたもんだな。武術一辺倒のハリアーはともかく、この俺が六字禁箍符を知らないとでも思ったのか」

 皮肉めいた口調で言いながら、メヴィウスは書類挿みから抜け殻の咒符を外した。
 と、その瞬間、小さな声を上げた彼が、書類挿みに顔を近付けた。

「どうなさいました?」
「これを残した奴は、何か言っていなかったか?」

 プリモの質問に、逆に聞き返してきたメヴィウス。その彼の表情は、今までの余裕さは微塵も窺えない。珍しく、焦りがありありと見て取れる。
 プリモもぞわぞわとした不安が這い寄るのを感じながらも、記憶を手繰って正直に答える。

「ええと、『借りたものはきちんと返せ。延滞期間はもう三年だ』と言っておられました」

 メヴィウスの表情が、また変わった。しまった、というようにギュッと目を瞑り、ぴしゃっと額に手を当てる。
 主人の弱り切った様子に触れ、プリモの心臓もばくばくする。髪が逆立つようなふわふわした感覚に包まれつつ、彼女は主人を気遣ってそっと声を掛ける。

「あの、旦那さま? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」

 口をへの字に曲げてうなずき、メヴィウスが革の書類挿みを机に置いた。
 プリモも書類挟みをチラ見すると、呪符に隠されていた台紙には、五角形に並んだ五匹のミツバチと、『ミツバチは剣を恐れない』とい金文字の共通語が書かれてある。
 プリモは憂鬱さも露わな主人に、おずおずと尋ねた。

「あの、旦那さま。あの方は一体どのような方ですか? その書類挿みが何か?」

 机の上に片手で頬杖を着き、もう片方の手を額に当てたまま、メヴィウスが澱んだため息をつく。

「その書類挿みの紋章と箴言は、ピピン大図書館のシンボルだ。大図書館の玄関にも刻んである」
「旦那さまが時々お出かけになる、遠く街の図書館ですね?」

 プリモの質問にうなずきつつ、メヴィウスが椅子の上で姿勢を正した。そしてぐっと目を伏せると、語気も鋭く呪文を発した。

「“アペラ・セサマエ・サピエンティアエ”!」

 続けて、ぱちっぱちっぱちっと彼が三回指を鳴らすと、彼の右手の空間に黒々とした円い穴が、スッと音もなく開いた。プリモの見守る前で、メヴィウスがその虚空の穴に、ゆっくりと右手を突っ込む。
 すぐに穴から引き出された彼の手には、一冊の書物がしっかりと掴まれている。
 黒ずんだ革の表紙はぼろぼろに擦り切れ、今にも崩壊しそうな途方もない古書だ。
 その本を見るのは初めてだが、この奇妙な術自体は、プリモも何度も目にしていた。“異空間結界”、とかを利用した貴重書庫だと聞いている。
 古書を手にしたメヴィウスが、プリモに向かって慎重に裏表紙を開いて見せた。そこには、書類挿みと同じミツバチをあしらった蔵書印が押してある。

「そのヴァスバンドゥは、間違いなく大図書館が雇った奴だ。たぶん“捕縛師(アブダクター)”だろう」
「あの、『あぶだくたー』って、何ですか? ハリアーさんも、そうおっしゃっていましたが」
「捕縛師は、目的の人物を生きたまま捕えるのを稼業にしている連中のことだ。俺が本を返さないから、俺を捕縛して回収するつもりだったんだろう。大図書館は本の管理に厳しいからな」

 はあ、と深い吐息をつく主人に、プリモは尋ねてみた。

「旦那さま、それは何の本ですか?」

 メヴィウスは深刻そうに眉根を寄せ、重苦しく首を振る。

「これは『舟の書』という、この世で最も恐ろしい魔道書の一つだ。写本はいくつか存在が知られているが、これは原本から誤字なく写し取られた、世にも稀な完全な写本だ」

 伏し目がちに、メヴィウスが手の中の黒い古書を見つめた。

「表紙の題字は共通語だが、中身は超難解な古代文字だ。読める魔術師は、まずいない。題名も『舟の書』だから、誰にも内容が知られないまま、ずっとピピン大図書館の造船書の棚に放置されていた。内容は詳しくは言えないが、肉体の構造に関する記述もある」

 プリモは沈黙を守り、主人の綴る専門的な話に、じっと聞き入る。

「三年半ばかり前に、俺がこの本を見つけて、半年かけて副司書長に掛け合って、ようやく借り出した。この本の裏付けがあったからこそ、お前を創ることもできたんだが、この本の存在は俺と副司書長だけが知っている」

 そこでメヴィウスが、引き出しから一冊の本を取り出して、机の上に置いた。
 白い紙がまぶしい表紙には、几帳面な手書きの共通語で『黒龍版・舟の書』と記してある。どこかメヴィウスと似た筆跡だが、微妙に違うようだ。

「これは俺の伯父貴の遺した写本だ。伯父貴が間違いだらけの写本を、さらに書写して作ったらしい。その間違いを伯父貴なりに正した書き込みが、あちこちにある。しかし、伯父貴の修正が本当に正しいのか、長いこと分からなかった」

 そう言って、メヴィウスは古書を白い本の横に並べて置いた。

「その間違いを正すために、図書館からこの『舟の書』を借り出した。確認は全部済んでるから、借りた本は返しても良かったんだが……」

 言葉を切ったメヴィウスが、心底けだるげな吐息を容れた。    

「何しろ図書館のあるピピンの街は、この大陸の北端だ。仮に飛んでいっても往復三日かかる。遠いから返しに行くのが面倒で。他の移動方法もなくはないが、難儀過ぎる」
「ああ、それでしたら、ヴァスバンドゥさまを旦那さまにお取次ぎした方が、良かったかも知れませんね」

 プリモがちょっぴり良心の呵責を覚えて洩らすと、メヴィウスも腕組みしてうつむいた。

「その方が面倒はなかったかもな。ただなあ……」
「ただ?」

 小首を傾げたプリモに、メヴィウスがどよどよと吐露する。

「莫大な延滞料を取られるのは嫌だからなあ」
「旦那さま……」

 呆れ半分、感心半分の眼差しを注ぐプリモに構うことなく、メヴィウスは肩をすくめた。

「まあいい。その捕縛師、ハリアーがいる内は俺の塔には寄り付かないだろう。その間にどうするか考えておくか」

 目を伏せたメヴィウスが、新しい写本を手に取った。そして奇覯本に重ねると、彼は二冊の本を虚空に開いたままの穴へと突っ込んだ。するとすぐに穴は閉じ、本は異空間へとしまい込まれた。

 この話題が一旦終わったのを感じ取り、プリモは主人の前に姿勢を正した。改めてメヴィウスを真っ直ぐに見つめ、彼女はおずおずと切り出す。

「あの、旦那さま。ちょっとお話が」

 と、プリモがそこまで口にした時、ぱたんと音がして、部屋の小窓が開いた。プリモが顔を上げるのと同時に、小窓からひらひらと何かが飛び込んできた。
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