冬の声
文字数 2,652文字
「いったい全体、どういう事なの?」
レンが焦れて、カノンに詰め寄った。
今、執務室の面々は大わらわで外を飛び回って、二人は留守番をさせられている。
「いきなり色気付いた妹に抱き付かれたんだぜ! 全体的にぶわっと膨らんでるし。僕、どうすりゃよかったんだ?」
「うん、アデルの話では三年ずれちゃったって。大変だよね、勉強めっちゃ遅れてる」
「そーいう問題じゃないだろ!」
「そういう問題で済んでよかったんじゃないかな……」
カノンは窓から外を見やった。
彼の目は、結界の向こう、里の外のハイマツの丘に立つナーガ長を映している。
「この度の並々ならぬご尽力、多大に感謝致します」
群青色の髪を滑らせて、ナーガ長は、里から見えない場所に立つ三人に頭を下げた。
「僕はそちらお二方に比べれば大した働きはしておりません。途中で私情で息子を助けに行ってしまったし。礼を受けるような身ではございませんので」
海霧のリューズはそう言うと、そそくさと自前の結界を作って去って行った。
だが、三年前の時間の狭間に押し込められた蒼の里をこの場に引っ張り戻すという無茶な作業に、土壇場で彼が乱入してくれなければ、力危うかったのは確かだ。
けして安全ではない結界渡りをして駆け付けてくれた彼の去った空間に、ナーガは今一度頭を下げた。
緋色の片羽根のシンリィは、久々に戻った愛馬、白蓬(しろよもぎ)の脚にもたれて、座り込んで脱力している。
さすがの彼も術を使い果たして立ち上がれない。
《 草原を統べる偉大なる蒼の長よ、お前は何と判ずる? あの空の十字を 》
最後の一人、銀の影の者はゆらゆら揺れながら、ナーガに問うた。
「『災厄』とは違う物だと思います。意思ある者の悪意の攻撃でもない」
《 うむ 》
「分かりません、何なのですか?」
《 ほほぉ、我に教えを求めるか 》
「分からない物を知っているつもりで放っておく方が恐ろしいんですよ。形振(なりふ)り構っていられないのです、イダイナル蒼の長でいなくちゃなりませんから」
銀の影は数拍置いてから言葉を発してくれた。
《 ただの『自然現象』だ。そういった必要があるから、この世の流れが作り出した、当たり前に襲いかかる現象 》
ナーガは目を見開いて口端を震わせた。
《 この世の流れが、蒼の里を異物と見なし排除しようとしたようだ 》
虚空を見据えて動けない蒼の長をしばらく見やってから、銀の影は、傍らの羽根の子供に視線を滑らせた。
結構衝撃的な事を話しているのに、子供は横たわる愛馬の腹に頭を乗せて、平和にクゥクゥ寝息を立てている。
《 この童(わらし)を見習え、逐一気に病むな、そんな事は過去に何度もあった。その延長線上に今のお前らが居(お)るのだぞ》
銀の影は柄にもなく饒舌だ。おそらく自分自身でも驚いているだろう。
《 我らは神の駒ではない、生き物なのだ。生き物であるから当然抗(あらが)う。遠慮せずに抗え 》
「……はい……」
《 なんだ? 》
「貴方にそんな風に言って頂ける日が来るとは思っていませんでした」
《 ………… 》
太古に袂(たもと)を別かった、風の民の祖先。
個人ではない、残留想念の結晶である彼は、もうひとつの風の始祖の総意だ。
幾年か前に風の神殿より退(しりぞ)いて以来、太古の杉の森の奥に籠って静やかに世界を傍観していた。
緋色の片羽根の子供・・シンリィが訪ねて来なければ、蒼の里などどうなろうと知った事ではなかったと…… 本人は嘯(うそぶ)いている。
ナーガが黙って深々と礼をすると、銀の影はふぃっと消えた。
愛馬にもたれて子供はまだ眠っている。
その傍らに腰掛けてナーガは、膝を抱えて鼻を埋めた。
三年前の秋の夕方
いきなり蒼の里を襲った『自然現象』は、里を丸ごと滅す(めっす)力を持っていた。
ナーガと、リリとカノンの力を合わせて瞬時に強固な護りを作り、辛くも難は逃れたが、強力な結界を慌てて張った為、別の歪みが生まれた。
そのまま蒼の里は、時間の隙間に堅く押し込められてしまった。
今から考えると、それも『自然現象』の仕業だったのかもしれない。
太古の杉の森奥から、銀の祖先は一部始終を見ていた。
分かっていてもどうしようもない。
里を引き戻す術はあっても、『取っ掛かり』と『着地点』が見えないのだ。
それは、頭だけで考えても答えの出せない物だった。
「タゥト・・『鍵』はここで、どんな答えを出したのです?」
見ていたであろう銀の影に、ナーガは彼が去る前、一番最後に聞いていた。
彼は勿体つけて、心底うんざりした声で答えてくれた。
《 ――『蒼の里は、無くてもいい』……だ 》
血みたいな太陽がそっくり顔を出すまで、ナーガは背を丸めてじっとしていた。
――参った……
その言葉が、蒼の里をこの世界に戻す『取っ掛かり』だったとは。
蒼の一族は、草原に生きる諸々の者達の為に、大昔から尽力して来た。
それが長く生きて知恵と知識を蓄えた者の摂理だからだ。
その信念はきっとこの先も揺るがない。
(だが、控える事も要されるのだろう。蒼の里を信仰の対象として、依存しおもね過ぎる風潮が、宜しくなかったのかもしれない)
「難しいよ、蒼の長って」
ホロリと溢してしまって、
ふと脇を見ると、羽根の子供が目を覚ましてこちらを見ている。
「シンリィ、また助けられたね」
この子は何処までを分かっていたんだろう?
鍵がタゥトだという事、彼が制止を聞かずに過去に干渉しに行ってしまう事。
それが分かっていたから、流されたタゥトを掬い上げられるよう、白蓬をナユタに託したのだろうか?
「いや、それはないか」
彼はいつだって何となく、思った通りに動いているだけなのだ。
ナーガは思う。
だけれどあの時、タゥトが知らせてくれた事による、ほんの一瞬先んじられた時間。
彼が騒いだから『火事場の底力』のあるリリとカノンがすぐ側まで来ていた事。
あれがなかったら今どうなっていたか、誰にも知りようがない。
まったく、子供の、未来へ繋げる力って、
本当に、まったくもって、敵わない。
シンリィは何事もなかったかのように、懐から出した青い蜜柑を半分に割って差し出して来た。
遠い日の、妹と同じ、片えくぼ。
――何をヘタレているの? ナーガは心配性なんだから。大丈夫、大丈夫だよ・・
本当に妹の声が聞こえた気がした。
***
ナーガの妹・・シンリィのお母さん。故人。偉大なる蒼の長の兄が、意外と気弱で打たれ弱い事を知っていました。