君影 明日の君に・Ⅰ
文字数 1,911文字
『風のあしあと』の後、子供達が砂漠に帰って半年。
冬の季節が終わって、西風にまた春が訪れます。
***
その日の西風の里は、朝から落ち着かなかった。
子供逹は何日も前から広場の掃除を繰り返しやらされ、女逹は表通りは元より裏路地に至るまで、これでもかと磨きあげている。
普段呑気に構えている男衆だって、女将さんに急き立てられて、軒を直し玄関に石畳を敷いた。
娘逹は一番大変だ。大量の料理を作るのだけでも大わらわなのに、早くそれを終わらせて、力一杯めかし込まなきゃならない。
皮を剥いても剥いても減らない芋の山に悲鳴を上げながら、気早に塗った紅の口が笑い、何とも華やかな風景だ。
唯一、里の中心の長殿の居室だけが、いつもと変わらず静櫃(せいひつ)だった。
「何だってそんなに大騒ぎになるんだ……」
西風の里の長ルウシェルが、長い髪を指ですきながら、だらしなく長椅子に身を投げ出している。
「ナーガが来るのなんて、初めての事でもあるまいに」
「今回は勝手が違うと、エノシラさんが言っていました」
壁一杯の書棚を探っていた灰色の巻き髪のタゥトが、分厚い一冊を引っ張り出しながら振り向いた。
「これまでは、急な事件があった時に慌ただしく来て帰るばかりで。今回のように蒼の里の長殿としての正式な訪問はまた特別だと。……前年のファイルって、これでいいんですか?」
「ああ、それだそれだ。どうしてタゥトはそんなに簡単に見つけられるんだ? 私が探したって、意地悪く隠れているくせに」
気だるそうにしていた長が、身を起こして羽根ペンを取った。長椅子の前のテーブルには、書きかけの書面が散らばっている。
「ファイルが自分で隠れる訳ないでしょう。第一こんなど真ん中にある物を、どうして見付けられないんですか」
「真ん中にあり過ぎるからだろう」
「…………」
少年は黙ってそれをテーブルに持って来て開いた。
二人でそれを覗き込み、ページを繰る。
永らく保留になっていた、砂の民の部族と西風の里の同盟が、正式に結ばれる事となった。蒼の長はその証人役をやる為にやって来るのだ。
砂の民の総領ハトゥンがルウシェルの父親だったりで、もうとっくに交流はあったのだが、後々の子孫の為に、対等な力関係の今の内にきちんと形にしておきましょう、というナーガの提案で、本日の運びとなった。
午前中にナーガを歓待し、午後には、どちらの領内でもない砂漠の神殿遺跡に赴いて、調印式の予定だ。
「しかし今更、調印ったってなぁ。私の父者(ててじゃ)だぞ。あの父者だぞ。顔見て吹き出さない自信がない」
「西風の長様がそんな事を言ってちゃいけませんよ。ヒトの上に立つ者は、形式も大事なんです」
「堅いなぁ、それ、お前の父親が言ったんだろ」
「ああ、そういえばそうかもです…… あ! あった、長様、ここの数字が違っちゃってるんですよ」
「ん? おお、そうかそうか、ふむふむ成る程」
長は、きれいな形の細い指で、文字をなぞる。
「読み上げますか?」
少年は、その指を見つめながら聞いた。
ああ頼む、と差し出されたファイルを受け取る時、指が触れてドキリとした。
数字の照らし合わせが終わって、ようやく元老院に回す書類が出来上がった。
「まったく、夕べ遅くにギリギリの仕事を持って来るんだから。ここの所連日だ。元老院は私を過労死させるつもりか?」
「長様が早目早目に請求しないからですよ。あちらは脳が半分とろけた御仁ばかりなんだから」
長は頬杖着いていた顔を上げて、少年を見た。夕陽色の瞳が細まって色が凝縮し、またドキリとさせられる。
「その小生意気な口振りも、父親と瓜二つだな」
「……」
「まぁ、お前がいてくれるから大いに助かる。長の仕事なんて、遠回しな屁理屈と数字の羅列ばかりで、頭が痛いったらありゃしない」
「長様なんだから、そんなの廃止しちゃったらいいのに」
「そうも行かん物なのだよ。大人の世界にはわざわざややこしくしないと納得しない連中が多いんだ。それはそうと、今日は修練所は行かなくていいのか?」
「行きません、掃除と飾り作りばっかりなんだもん」
「ふむ」
長は背中を伸ばし、窓の外の賑やかな光景を横目で見やった。数人の子供が、大きな花飾りを掲げて通りを駆け抜けて行く。
「スオウ教官の講義の日以外は、行かなくていいです。ここの書庫の書物を読んでいる方がよっぽど勉強になります」
「そうか」
少年は、ちゃっちゃとテーブルの上を片付けている。
こんな日は、他の子供と一緒にお祭り気分を楽しんでいたいんじゃないのか?
連日で徹夜仕事をしている自分を気遣ってくれているのだろう。
(本当に、優しい良い子だ・・)