西風・Ⅱ
文字数 1,995文字
酷い吐き気と焼けるような脚の痛みに、タゥトは意識を戻した。
まぶたが貼り付いたように重くて目を開けられない。
「一回は意識を戻したんだけれど、馬の上でどんどん熱が上がって」
聞き覚えのある声…… ああ、さっき砂の上で水をくれた男の子だ……
「母さま、大丈夫? この子」
「ダイジョブー?」
「命は大丈夫、アデルの処置がしっかりしていたから。でも脱水症も酷いわ。ファー、しっかり日陰を作って」
「うん!」
「アデル、薬を飲ませるから頭を支えて」
「おう」
何人かのわちゃわちゃした声…… 口の中に苦いのが広がって、吐き気が更に強まった。
・・
・・・・
次は、ひんやりした空気で意識が戻った。
いや、戻っているのかな、夢なのかな、もう分からないや……
今度は周りは静かで、刺すような陽射しもない。
首を動かすと、額から濡れ手拭いが滑り落ちた。
タゥトはそろそろと目を開けてみた。
今度は開いた。
薄暗い中に、石の壁と高い天井。建物の中だ。
ピンと張られた清潔なシーツに、香の匂いがかすかに漂っている。
どこだろ? さっきの苦い薬のヒトの家かな?
枕元に水差しが水滴を付けて光っている。
ゆっくり身を起こし、コップを掴んでキョロキョロしたが、ヒトの気配はない。
水を注いで口に含むと、今までに経験のない美味しさだった。
ベッドから足を下ろして、そろりと立ち上がった。
先刻までのクラクラは消えている。
それどころか、何だか不思議に気持ちが良かった。
あんなに苦しかったのに? やっぱり夢なのかな?
目が慣れてくると、その部屋の壁はすべて書棚だった。
一角に、墨壺とペン立ての乗った机。木戸の閉まった大きめの窓。隙間から覗くと、外は夜だった。
窓の反対側の扉を細く開けると、廊下だったが、シンとしていて先が真っ暗だ。
何だか怖くなって引き返し、窓を開いて、木枠を乗り越えて外に出た。
裸足の足に地面の冷たさがジンと染みる。
あ、生きてる、と、急に思った。
四角い白い建物が、あちこちにぼんやりと見える。
どこかの集落なのだろうが、灯りの付いている窓はない。
静けさの中、凍った空気がヒリヒリする。
ヒト気のない砂漠より、ヒトがいる筈なのにヒト気のない所の方が怖かった。
「起きたのか?」
不意な声にタゥトは飛び上がった。
声は後ろからではなく、ささやくように頭の上に響いた。
「ここだ、ここ」
振り返って見上げると、今出て来た建物の屋根に、月を背景にヒトが立っている。
逆光でよく見えないが、ウェーブのかかった長い髪の、ハーフマントの女性……
「あ、あの、僕、どうなって……」
慌てるタゥトに構わず、女性はフワフワと歩いて屋根の縁に来た。体重がないみたいな動きだ。
「良い月だぞ、お前も来い」
「え? えっと?」
女性は手を開いて伸ばしたが、背の高い建物の屋根だし、届く訳がない。
しかし女性が空間を掴んで振り上げると、タゥトの右手もグンと引っ張られた。
「ひゃっ」
びっくりしたけれど痛くはない。
水に浮かぶみたいに当たり前に身体が持ち上がり、ふわりと屋根に放り上げられた。
「こっちだ」
そのまま女性に手を引かれて、屋根のてっぺんまで誘(いざな)われた。
「わああ」
青い月がすぐ目の前に大きく閃(ひらめ)き、地平まで続く規則的な風紋にくっきりした影を作っている。
「あの砂の模様は、誰が描いているの?」
「西風だ」
耳元の声に振り向くと、女性の顔がすぐそこにあった。
瞳が夕陽みたいなオレンジ色。
その女性がタゥトの後頭部に手を回して、額をコンと当てて来た。
「熱は引いたみたいだな、どこか痺れるか?」
「う、うぅん、元気だよ」
ドギマギしながら何とか答える。
「そうか」
女性は額を離しても、タゥトの頭に手を添えたままだった。
その手は柔らかく、不思議に心地がよかった。
「ルウ!」
地面から呼ぶ声。
白い顔の三つ編みの女性が、平カゴを抱えて立っている。
両脇に同じ肌色の二人の子供。三人分のビィドロみたいな青い目が心配そうに見上げている。
そこは屋根の上と違って、現実味のある世界だった。
「果実水作って来たわ、それと薬。その子もう大丈夫なの?」
「屋根―― いいな! ファーも登っていい?」
「ミィも、ミィも!」
「静かになさい! 黙っているって約束で連れて来たのよ」
「ぶぅ~~」
見下ろしたタゥトは屋根の高さに戸惑ったが、女性が手を引いてくれたので、思い切って一緒に飛び降りた。さっきは水の中みたいだったが、今度は柔らかい空気に受け止められる感じだった。
「いいな― 長さま、今度ファーにもやってね!」
「ああ、今度な」
「オササマ?」
タゥトは手を繋いだまま相手を凝視した。
「あの、あなたが、ニシカゼの、オササマ?」
「ああ、私は西風の長、ルウシェル」
捜し求めたニシカゼのオサは、月と夜から生まれたみたいに目の前に立っていた。