風の行き先
文字数 2,357文字
風露の青年は、やはり故郷には向かわなかった。
小雪のちらつく中、子供達には内緒で、蒼の里を後にした。
早朝のハイマツの丘、見送りは父であるナーガ長一人。
近隣の村で入手した栗毛の輓馬の背に例の座布団を敷き、相変わらずのダラダラ衣服を風になびかせながら、黄金の海をゆっくりゆっくり渡って行った。
例え楽器造りになれなくても、彼はもう自分の価値を見付けた。この先きっと何者にでもなれるだろう。
丘の上の砂利に立ち、ナーガは騎馬が見えなくなるまでそこに佇んでいた。
本当に、タゥトとファーには感謝しかない。父としての自分の、何とふがいのなかった事か。
「ああ――っ」
冷気を引き裂く高音に振り向くと、手足を引っ掻きキズだらけにしたファーがハイマツの中から抜け出して来た。
「ナユタさん、見送りたかったのにぃ!」
「畏まってお別れを言ったりするのは照れ臭いんですって。貴女方も出発準備で疲れているだろうからと」
「いいのに、そんな心配……」
「もう具合はいいんですか?」
「はい、すっかり。あっそうだ!」
ファーは、電気に触ったみたいにピョンと飛んで、改めてナーガに向き直った。
「ありがとうございましたっ。えっと、暖かくして頂いて、看病して頂いて、それからお兄ちゃんを大切にして頂いてっ」
「はいはい」
「それから、そうだわ、タゥトにもお礼言わなきゃ。アデルにも。あああっ、ナユさんにお礼言い損ねた! そうだ!」
女の子は首に提げていた笛を手に取って、子供用の吹き口を外した。
スゥッと息を吸って奏で始めた曲は、時々掠れたけれど、ナーガにも聞き覚えのある曲だった。
「ナユさんに聞こえたかしら」
「きっと届いていますよ」
「また会えるかなあ」
「会えますよ。この地続きの大地にお互い元気に生きていれば」
女の子は笛を胸に当ててにっこりした。
「他にお礼を言いたいヒトはいませんか?」
「えっと」
ファーは指を折って数えた。
両手で足りなくなった頃、長がその手をそっと包んで、優しく言った。
「私は、貴女をこんな風に育てて私に逢わせてくれた、貴女のお父さんとお母さんに、お礼を言いたいです」
女の子は、はにかんで下を向いた。そうしてもう二人、お礼を言いたいヒトが閃いた。
タゥトのお母さん、タゥトをこの世の送り出してくれてありがとう。
タゥトのお父さん、タゥトに逢わせてくれてありがとう。
長は笛を抱いて目を閉じる少女を前にして思った。
自分や先達たちが積み上げて来た先にこの子供達がいるのなら、そう悲観した物ではあるまい……
顔を上げると、雪雲の切れ間に朝陽が眩しく輝く。
明日には雲も退き、西風の子供達があの空に飛び立つ。
~ 余話 ~
三峰にも雪が降った。
晩秋に色付いた峰々を塗り替える白い色を、集落近くの峰から見下ろす三つの人影。
「粉をまぶしたみたいだな」
漆黒の馬を連れたアデルが、マントの肩をブルッと震わせた。
「シドの娘とソラの息子、一緒に連れて来ればよかったのに。会ってみたかったな」
ヤンとフウヤが後ろから呟く。
「あいつらの足並みに合わせていたらトロくって凍えちまう」
アデルの目は、村はずれの桑畑の道を歩く飴色の肌の女性を見つめている。
懐には同じ肌色の赤ん坊。
「今日くらいはカーリに会って行けば? この間市場で手紙を届けてくれた時だって、目鼻の場所に居たのに」
ヤンが同じ方向を見下ろしながら言った。
「いいよ」
アデルは、首が座ったばかりであろう小さな赤子を見つめながら呟いた。
「早く砂漠に戻って、姉者やエノシラさんを安心させてやりたいし」
「今回は本当に大活躍だったね」
フウヤに言われて、少年は鼻の下をこすった。
「俺は……パシリをやっただけだよ。風露でガキンチョどもが危険な目に遭うとか、色々な予知をしたのはシアだし。風の民のご先祖の居場所を突き止めたのはヤンの情報網じゃないか」
「それらを繋いだからこそ機能したんだ。アデルはやっぱ凄い。もう高空気流だって使いこなせるんだろ?」
「それは、この馬だからだよ」
少年は真横に佇む、夏草色の馬の首を掻いた。普段は黒衣に隠しているが、立派な草の馬だ。里を出奔した馬だからと、ナーガ長も何も言わなかった。
「最初にシンリィに高空に連れて行かれた時は、マジかこいつ殺す気か! ってムカついたけれど。一回怖い思いをすると慣れちまうんだ。それが役立つ日が来るなんて夢にも思わなかったがな」
ヤンが下を向いてそっと苦笑いをした。
「シンリィ、今、何処にいるの?」
「知らないよ、会いたくなったらまた来るだろ、あいつ気紛れだから・・あっ!!」
下り坂を慎重に歩いていたカーリが雪に足を滑らせた。
思わず三人とも身を乗り出した。
しかし彼女は赤子を抱え、逞しくガッシリと大地に踏ん張った。
「凄い」
アデルが目を丸くした。
「砂の民の屋敷にいたフワフワしたカーリからは想像つかない。母親になったら変わるものだな」
「君のお母さんのおかげだよ」
いきなりフウヤに真顔で言われ、アデルはピクリと揺れた。
「カーリは、モエギと君から親子って物を学んだんだ。僕もだ、アデル。今でも沢山感謝している」
「…………」
母が自分を身籠った時、とても子供を生めるような身体じゃないと医師に言われた事を、アデルは、彼女が亡くなってから初めて知った。母の看病にすべてを捧げていたせいで、カーリの結婚がずっと遅れていた事も。
『自分が生まれたせいでどうこう』という呪いに縛られていたのは、タゥトばかりではなかった。
「ああ寒い、寒過ぎてやってらんねぇ!」
少年の言葉とともに、漆黒の馬は雪空に舞い上がった。
三峰の二人は、見えなくなるまで手を振った。
黒い点が消えた後の空を雪が白く塗り替え、三峰にまた冬が訪れる
~風の足跡・了~