西風・Ⅳ
文字数 2,267文字
――三年前。まだミィが、ヨチヨチとしか歩けなかった頃……
最初に不安を抱いたのはエノシラだった。
「レンからの手紙が来ないのよ」
レンというのはエノシラの長男で、ファーの四つ上の兄。
長様の息子のカノンと同い年で、遠く離れた北の草原『蒼の里』に、一緒に留学に出ていた。
「色々忙しいんだろ? 男の子ってそんなにマメじゃないって」
夫のシドはあまり気に止めていなかった。
「レン一人ならね。あのキチンとしたカノンからの手紙もないのよ。最後の鷹が来てから大分経つわ」
「じゃあそのカノンが忙しくなったんじゃないのか? この間の手紙には、ナーガ長の正式な弟子になって勉強する事になった、って書いてあったんだろ?」
「……でも……」
「心配要らないよ。過保護が過ぎると息子に笑われるぞ」
そう言っていたシドだが、あちらの草原で雪がちらつく季節になると、さすがにソワソワし出した。
「寒くなる前に帰らないと、旅の途中で遭難するぞ」
砂漠の西風の妖精は、極端に寒さに弱い。それも段々に体調を崩すのではなく、ある日突然ズシンと動けなくなるのだ。
身体が身を守る為に休眠状態に入るらしく、暖かい土地で暮らしていると一生知らない症状だ。
長のルウシェルも留学に出た子供時代にその症状に見舞われた。
空飛ぶ馬でも数日かかる蒼の里に、こちらから連絡を取る手段は一つ。
エノシラは、戸棚の奥から、大切に包んだコブシ大の翡翠を取り出した。
この石をキンキンと叩けば、遠く離れた蒼の里の執務室にある兄弟石が共鳴する。
そうすると向こうから、通信用の特別な鷹を飛ばしてくれるのだ。
蒼の一族は、北の草原の頂点に立つ知識の高い栄えた部族で、同系統で友好族の西風に何かがあったら、すぐに援助を寄越してくれた。
エノシラも難しい病気の治療法を何度も教わった。
そもそもエノシラは蒼の里の出身で、あちらで医学の基礎を学んだのだ。
しかし、いつもは石を叩いて半日もせぬ内に来る鷹が、待てど暮らせど来なかった。
何日か業を煮やした後、シドが馬を飛ばして草原に向かった。
彼は独身時代に蒼の里で働いた経験があり、勝手知ったる土地なのだ。
だが数日後、戻って来た顔は蒼白だった。
「無いんだ、蒼の里が……」
「無いって? ええっ? 無いって、どういう事!?」
呆然と口を開けるエノシラの前で、シドは疲れきって椅子に座り込んだ。
「無いんだ…… 元々結界に守られた里だから、たまに見付けにくい事はあったけれど。僕達には分かるように細工されている筈なんだ。それが、どうやっても見付からない。気配もない。何日も探したけれど、草の馬が飛んでいるのすら見ないんだ」
「……」
あちらに精通したシドが言うんだからそうなのだろう。
蒼の里と交流のあった近隣の部族も困惑していたらしい。何の前触れもなく、気が付いたら無くなっていたというのだ。
ナーガ長の奥方の住む風露の谷でも、何も分からないとの返事だった。もっともあの部族は外界とあまり関わらない。
事実を聞いて、西風の老人達は大パニックを起こした。
彼等は、蒼の里を何より頼りに、心の拠り所にしていたのだ。
弱小な西風の部族が他所からの侵略を受けないのは、蒼の里の後ろ楯があるからだと思っている。それが無くなったと知れ渡ると、明日にでも他部族に介入されるかもしれない。
その時、形だけの西風の長だったルウシェルが、初めて声を上げた。
「我らは古来より砂漠の風を統べて来た西風の一族。誇りを思い出そう。蒼の里に頼って寄り掛かっていた時代は終わったのだ。嘆いていても明日は来る。その明日を、自らの足だけでしっかりと歩んで行こう」
この春まで病気で弱い小娘と思われていた長は、元老院の知らない間に回復し、立派に成長していた。
長の一人息子が蒼の里に留学したきりだと言う事は、里の皆が知っていた。
それだけに、里人はそれ以上不満を言うのをやめた。
不仲だった元老院すら、取り敢えず口を塞いだ。
「ナーガ長の事だ、何か事情があるのだろう。我々がオタオタしたって始まらない」
ルウシェルは、近しい者だけにそっと言った。
彼女の蒼の長への長年培った信頼は、このぐらいでは揺るがない。
シドやエノシラもそれを理解した。
長は、口先だけではなかった。
元々風を流す才能には長けていたのだが、この頃から格段に力が増し、砂漠の風が目に見えて清浄になった。
しかも先読みの力も発揮し出した。
災厄の風を読んでは皆に知らせ、時には清浄な風を操って、砂漠の幾つもの部族を助けた。
特に鯨岩の街にいきなりの高波が来るのを予知した時は多くの者が命拾いをし、今や砂漠に西風の里をどうこうしようなんて者は、いなくなった。
大昔、ルウシェルの祖母の浅葱(あさぎ)の君がいた頃のように、皆に敬われ慕われる部族に戻って行きつつあった。
しかし…… 外部の評判とは裏腹に、西風の内部は暗かった。
蒼の里が消えてしまったという事実は拭えない。
その正体が分からないと、同じ風の系統である西風の里だって休まらない。
ルウシェルは結界を強化したが、閉じられた里の中で緊張感が不安となって、澱(おり)のように沈殿した。
それはどうしようもない事だった。
そして・・長に近しい者の何人かは知っていた。
長が、誰も見ていない所で、……例えば皆が寝静まった集落の屋根の上で、独り北の空を眺めてしゃがみ込んでいる事を。
そういう弱い部分をけして外に見せぬよう、慧砂の結界を無意識に自分の周りにも張り巡らしているという事も。