ナユタ・Ⅰ
文字数 2,378文字
「うあ!」
短い悲鳴がこだまして、風露の青年が草原の空に一回転して落っこちた。
「ナユさーん、大丈夫?」
青毛に跨がったタゥトが、越冬笹を蹴散らして追い付いて来た。
「そんなに手綱にしがみ付いちゃダメだよ。前屈みになるから跳ね上げられちゃうんだよ」
「そんな事言ったって……」
青年は、恨めしそうな顔で、シレッとそっぽを向く白い草の馬を見上げた。
「あらら」
野営地の準備をしていたファーの目の前でも、走って来た馬は意地悪く急停止して乗り手をコロンと落っことした。
「大丈夫ですか? 落ちるのだけは上手くなりましたね」
「うう」
細い首の馬は何食わぬ顔で、ファーに甘え声で鼻を擦り付けて麦をねだった。
「僕には白眼剥いて頭突きする癖に」
「そんなに難しいかなあ」
後から来たタゥトの青毛は、素直に減速して優しく停止した。
「ね、ねえ、僕、やっぱりそっちの馬で練習したい」
青年は羨ましそうに小声で言った。
「うん、だから僕も、そうすれば? って言っているんだよ、ファー。馬を交換して練習しようって」
タゥトも意を得たりと、期待を込めて女の子を覗き込む。
「ダメだって言っているでしょう」
ファーはプンとそっぽを向いた。
「タゥトは草の馬に乗ってみたいだけでしょ。その青毛で飛べるようになるまで頑張るんじゃなかったっけ? 最初から飛びやすい馬に乗ったって、練習にも何にもならないじゃない」
「いいじゃん、ちょっとくらい……」
とブツブツ言うタゥトは無視して、女の子は今度は青年に向いた。
「この馬はナユタさんの馬でしょう? 他の子を気にしたらこの子が可哀想です」
「ん――、僕の馬とはいえないんじゃないかな。旅に要り用だから貸してくれただけだよ」
「誰がだっていうんです? 草の馬ですよ」
蒼の妖精である母に教えを受けているファーは、草の馬イコール蒼の長の息子ナユタの馬だと決め付けている。
移動時は、青毛にファーとタゥト、草の馬にナユタが乗り、横にぴったり並んで歩く。
この白い草の馬は、ファーが視界内にいれば猫を被るからだ。
だがファーの姿が見えなくなると途端に凶暴化し、空の移動なんてとんでもない。
いっそファーが乗ればいいじゃないかという男性陣の言い分は、『誰それの馬はどの子』という法則を頑なに守りたがる彼女に下された。
「乗れないから乗らないじゃ、永遠に乗れるようになりませんよ」
それは尤もではあるが。
だがやはりナユタにはピンと来ない。旅に必要だから練習しているだけで、馬という生き物に何の思い入れもないのだ。
「分からないけれど、老師様の知り合いの誰かが深い意味もなく貸してくれただけだよ、きっと。草の馬だからって僕と特別な関わりなんかないよ、こうやって落とされっ放しなんだから」
「……」
馬と繋がりのない一族で育った青年と、生まれた時から馬に親しんで育った自分との間にある溝を、ファーは無理に埋め立てようとはしなかった。
彼女は話を曖昧に終わらせて、さっさと夜営の準備に戻った。
男二人は練習を終了して、手綱を引いて川に向かった。
「タゥトは馬を習い始めてどのくらいなの?」
チョコマカと落ち着かない馬の爪を苦労して洗いながら、青年が聞いた。
「あっちの砂漠を出てからだから……二ヶ月チョイかな。市場で働いていた間とか休んだから、みっちりじゃないけれど」
「二ヶ月、凄いね」
首を下げて大人しく洗われる青毛を、ナユタはまた羨ましそうに見た。
「僕、何ヵ月経っても、この馬に乗れる気がしないよ。ましてや空を飛ぶなんて絶対に無理!」
「僕も飛ぶとかまだ分かんないよ。時々ふっと空気を踏む感じがする位で」
「それでも凄いよ……」
鞍と頭絡を外してやると、二頭の馬は仲良く水遊びを始めた。
「こうやって見ていると、草の馬も普通の馬と変わらないよね」
タゥトは川原の草の上にゴロンとあお向けになった。
「タゥト、薪拾って帰らなくちゃ」
「あんだけ頑張ったんだから休憩したっていいじゃん。ファーはヒトが疲れないって思っているんだ。自分がちょっとタフだからって」
「ああ、あのちっちゃい身体のどこにあんなエネルギーが、って不思議な位タフだよね」
馬達は思う存分水浴びを堪能し、今度は二頭でじゃれ始めた。立ち上がって相撲をしたり、タテガミの付け根を噛み合ったり。
草の馬は西風の馬に比べて首と足が細くくびれているのだが、ムチみたいにしなやかで、力負けしていない。
「草の馬って、何なのだろうね」
「さあ、改めてそう聞かれても。ファーのお母さんの話では、蒼の一族でも全部は分かっていないらしいよ。ただあの一族と太古から共に生きている馬だって」
「ふうん」
青年は、萱草を一本折って、口にくわえてクルクル回した。
「蒼の里が消えて、そういうのを知っているヒト達が消えて。この世の歴史の中に、そうやって忘れられて埋まって行く物が沢山あるのだろうね」
何だか凄く他人事に言う青年を、タゥトは半身起こして見返した。
「ナユさんがいるじゃん」
「僕はダメだよ。何も知らないもの。小さい頃、父が時々訪ねて来たけれど、何か教わった訳でもないし、父の馬だって怖くて近寄ろうとも思わなかった。だいたい父は、姉に会いに来ていたんだし」
「お姉さん、いるの?」
「うん、でも僕が三つ位の時に蒼の里へ行っちゃったから、ほとんど覚えていないけれどね。姉は蒼の妖精だったんだ。父の跡取りとして、望まれて蒼の里へ迎えられたらしい。そういえばあのヒトは、馬が大好きだったな……」
「……」
「遠い昔だよ。僕にとっては関係のない遠くの出来事だった」
二頭の馬は遊びに飽きて、二人の方を向いてぶるんと身体を揺すった。
「戻ろうか」
青年は立ち上がって馬の方へ歩いた。
「あ、うん」
タゥトは一拍遅れて立って、馬に曳き綱を付け、陽の傾いた草原を並んで野営地に戻った。