尖塔の谷・Ⅰ
文字数 2,526文字
草原台地よりやや北東、針葉樹に挟まれた深い谷。
夕暮れのオレンジに染まる川霧の中から幾つもの天然の尖塔がそびえる。
塔の一つ一つの天辺には土と石の住居が建ち、個々の窓に一人づつの住人が腰掛けて、それぞれの楽器を鳴らしている。
いつもの『音合わせ』の光景だ。
本来は幻想的な景色と相まって、それはそれは美しい物なのだが、
?? ……何だか、ちょっと、違う・・?
「ナユタ! 弓弦(ゆづる)を離して!」
室内から師匠の声が飛び、窓辺の若者は滑らせていた弓を止めた。
その建物だけ他より大きく、窓辺に座る人数も複数だ。
ナユタが音を止めた後も音合わせは続き、自分の音を掴んだ者から室内に戻って、弦を外してボディやブリッジを削り始めた。
皆ナユタより少し年若く、年配の女性師匠が皆の間を回って調整の指導をする。
どうやらここは、楽器造りのヒヨコ達が集まる学舎(まなびや)みたいな物らしかった。
ここ風露の谷で生産される楽器は音も姿も別格で、巷の楽士達の憧れだ。
価格はバカ高ではないのだが、職人の数が少ない上に完全受注生産なので、非常に手に入りにくい。
奏者の身体に合わせて造るのが信条なので、本人がここへ足を運ばねばならず、山深い谷にやっと辿り着いても、物によっては数年待ちなどザラだった。
そんな苦労を強いられても手に入れたい程、この谷の楽器の音色は素晴らしいという事。
『風露の楽器を手に入れる旅』は、ちょっとした楽士なら一度は経験しておくステイタス、などと冗談めかして言われる程だ。
風露の職人達はそんな期待を裏切らぬよう、日々精進を欠かさない。
間違ってもやっつけ仕事なんてしない。
そこは頂点に立つ老師と、七種の楽器の各職人長が厳しく監査している。品質がブレては、こんな辺境の追いやられた部族など誰にも相手にされなくなる。ブランド力を保っているからこそ安泰なのだ。
彼らは自分達の役割と分を、よく分かっていた。
それだから、職人の養成は厳しい。
子供達は優れた音感の特殊なDNAを受け継ぐが、それは最低ライン。
一番高い塔から響くラゥ老師の馬頭琴の音に合わせて、日々その音色に近付けるよう、指導を受け腕を磨いている。
生産される楽器は七種類あるが、『音色』というのは共通だ。
朝夕の『音合わせ』は部族全体にとって重要な行事だった。
弟子達の間を回り終えた師匠が、窓辺を離れない一人に、椅子の一つを促した。
「ナユ、早くおいでなさい」
「ああ、はい」
青年は気の抜けた顔で返事をした。音合わせを途中で止めさせられた事も、師匠が自分を後回しにした事も、あまり気にしていない風だ。
それより、さっきから彼の心を捉えて離さない事がある。
窓から見える山の斜面に一番近い塔、外と内との連絡口『関』の建物。
そこに先程から来客がいる。
その珍しい来客が、彼の目を釘付けにしているのだ。
「ナユタ!」
師匠の怒り声で、青年は今度こそ窓辺を離れて自分の作業台に戻った。
「でも、師匠様、私はこの三弦の何処を直せば手本の音に近付けるのか、分からないのです」
「……」
師匠は困惑したシワを眉間に寄せる。
実は彼女にだって理解が付かない。
でも教える立場として、それを口にする訳には行かなかった。
「兎に角今日は磨きなさい。表面を鏡のようにすれば、良くなるかもしれませんよ」
「はい……」
青年は素直に腰掛けて、既にピカピカの表面をまた磨き始めた。
『良くなるかも』って事は、やっぱり自分の音は『良くない』んだ……
夜が更けて尖塔の灯火も消え、風露(ふうろ)の花が満開の谷にはシンシンと冷気が満ちる。
「ハクシュ!」
山中の、谷川から少し上がった洞穴。
大きなくしゃみがコダマして、十匹程のウサギコウモリが飛び出した。
「大丈夫? タゥト。風邪ひいたんじゃない?」
「大丈夫だよ。しっかし燃えにくいよな、この辺の木。ファー、焚火もっと大きく出来ない?」
谷の湿気で髪を濡らした男の子が、鼻をこすりながら、集めて来た薪を火の周りに立て掛けた。
「うーん、湿気ってるにしても、もう乾いてくれてもいいんだけれど」
何度目かの焚き火の組み替えに苦心している女の子のしめ縄みたいな三つ編みも、水滴が染みてシュンとなっている。
「燃えにくいんだ、その木は目が詰まっているから」
暗闇から不意に声がして、二人は飛び上がった。
「怪しい者じゃないよ。ほら、この薪を使うといい」
風露草の茂みを越えて来たヒトは若い男性だったが、ビックリする程きれいな姿をしていた。
一瞬、風露の花から精霊が湧いて出たのかと思えた。
青年は風露色の髪を滑らせながらファーの横にしゃがみ、持参した薪を焚き火に差し込んでくれた。
ファーは声も出せずに目を見開いてドギマギしている。
「あなた、だあれ?」
タゥトがちょっとだけ不機嫌に聞いた。
「僕はこの辺に住んでいる者だよ」
「この辺って、あの塔の上?」
「ああ、まあ、そう……」
二人の子供は、顔を見合わせた。
「尖塔の風露の部族の規則では、子供以外は外に出られないし、外の人と話すのもダメって昼間言われたんだけれど?」
「うん……」
「何であなたは大人なのにここにいるの?」
「規則を破っているから」
子供達はまた顔を見合わせた。
「昼間、窓から君達を見たんだ」
青年は火の上がり始めた焚き火の前に屈んで、燃え損ねの薪を立てた。
額の真ん中で分けられた薄紫の髪は艶やかで、柔らかい絹の被り物みたいだ。額も頬も象牙のようにきめ細かく、炎のオレンジに美々しく照らされる様はうっかり見惚れそうになる。
「それで、僕達に用事なの?」
いつもはお喋りなファーが言葉を失くして彼を凝視しているので、タゥトは更に不機嫌に言った。
「用事…… うん、そうなのかな」
なんだかこのヒトはふにゃふにゃして、信用出来るのかどうかよく分からない。
「えっとね、それ」
彼に胸元を指差されて、ファーは真っ赤になった。
「何だよ!」
タゥトが思わず間に入った。
「えーとね、……笛」
「笛? これ?」
ファーは、ちょっと前にテキ屋の笛吹きに貰った丸笛を手に取った。
「そうそう、遠目にそれが見えて。寂しそうだったから」
「寂しそう?」