ファー・Ⅱ
文字数 1,988文字
「ファーは馬に草をあげて来る。帰って来るまでに、どうするか決めておいてね」
三つ編みの女の子は青毛を引いて、湖の切れ目を渡って森の方に行ってしまった。
残されたタゥトは、下を向いて唇を噛むばかりだった。
あんなにズケズケ物を言われたのは生まれて初めてだ。ちょっとヒルを嫌がったぐらいで、あそこまで言わなくてもいいじゃないか。こっちは虫で死にかけたんだぞ。
こんなのじゃ、本当に二人で旅をするなんて無理かもしれない。
でも、だったらどうしよう。馬に乗れない自分は何も出来ない。
急に、それまで気にも止めなかった無力感がひしひしと迫って来た。
ガササ、と音がして、慌ててベソかきを拭って顔を上げた。
灌木の間から現れたのは、馬だけだった。
「??」
馬は目をむいて、鼻を鳴らして前かきをしている。
タゥトはゾクッと胸騒ぎがした。
「どうしたの? ファーは⁈」
毛布を巻き付けたままファーの行った方向へそろそろと歩いた。
灌木の林を潜ると程なく、ぬかるみに座り込んだ女の子の後ろ姿が見えた。
「ファー?」
「動かないで!」
小声で制す彼女の視線の先を見て、タゥトは心臓が止まりそうになった。
さっきのヒルの何万倍もの大きさの奴が、十歩先の沼地にプカプカ浮かんでいるのだ。
赤黒く光る背中だけでも馬の胴体程もある。
尖端から針みたいな半透明のヒゲが無数に伸びて、ファーに届くか届かないか位の空間を、ワシャワシャと動いている。
「タ、タゥトは、まだ見つかっていないから、そのまま後ずさりで逃げて」
「ファーは……」
「何とかするから、早く!」
ファーは微動だにせず、空気すら動かさないように早口で喋った。
その時、赤い虫がゆっくりと上体を持ち上げた。
水から上がると、最初思ったのよりずっと大きい。
タゥトは震える足で一生懸命後ずさりした。
そうするしかないじゃないか。自分は無力で何にも出来ない。
ファーは風の民だし、きっと術か何か手段があるんだ。
あの子は虫なんかへっちゃらな筈なんだから……
ファーは硬直して動けない。
目の前の赤い虫が鎌首を持ち上げ、ヒヤリとする触手が腕に届いた。
彼女だって怖い、へっちゃらな訳なんてない。
この森のヤチダモの沼地に大虫の巣がある事は聞いていた。
だから用心して開けた湖の中洲に降りたのに、タゥトと喧嘩して、うっかり危険な場所に足を踏み入れてしまったのだ。
(自分の迂闊だ。タゥトのせいにしちゃダメ。自分で何とかしなくちゃ、こんな事で挫けていたら、お兄ちゃんを捜しに行く旅なんて出来っこない)
腰にあるのは申し訳程度の短剣だ。西風の部族では長剣が許されるのは十二歳からなのだ。
相手はきっと素早い。
こんな小さな剣を相手より早く急所に突き立てる事が出来るだろうか。
虫の筋肉が緊張で縮み、飛び掛かるタイミングを計っている。
気合いを緩めたらおしまいだ。
でもいつまで睨み続ければいいの。
「うあああああ――!!」
横の繁みを突き破って、棒を振り上げたタゥトが飛び出して来た。
反射に優れた虫でもファーに集中が行っていたので、最初の一撃をもろに食らった。
――ギュヴヴヴ――ヴ
鼻先を潰されて虫は悲鳴を上げた。
続いて打ち降ろした二撃目は大きく空振った。
素早い触手が、棒を持った腕と首に巻き付く。
「あああっ」
しかし触手はすぐに下に落ち、虫はダブンと音をさせて沼に倒れ込んだ。
下敷きになりかけたタゥトを、ヌルヌルの手が引っ張った。
「大丈夫?」
虫の延髄に短剣が根元まで刺さり、吹き出した体液を浴びて真っ赤の女の子が、掴んだ手を更に引き寄せた。
「う、うん」
「って、何!? きゃあああ!!」
「えっ?」
「あっち行って、あっち!」
毛布を脱ぎ捨てて来たタゥトの下半身は何もまとわれていない宙ぶらりん。
しかし今そこを気にするか?
二人で支え合いながら湖畔に戻り、綺麗な水で身体を洗った。
「こっち見ないでよ」
「分かってるよ、そんな平らな身体見たって楽しくも何ともないし」
「何か言った?」
「うぅん」
「……ヘタレの癖によく引き返して来たわね」
「……」
「まあ、アリガト」
「うん」
服は生乾きだが、陽があるうちにそこを移動する事にした。
ファーだって本当は、虫を平気なんかじゃない。
さっきの返事をしていないが、二人とも今更それに触れなかった。
「北って寒いんだよね。寒いってどのくらいなんだろ」
「さあ。でも母さまの出身地だから、ヒトが住めないような寒さじゃないと思う」
ファーは鐙皮を伸ばして、タゥトを促した。
「あの……あのさ、ファー」
「んん?」
「僕に馬の乗り方を教えてくれない?」
「…………」
「その、飛べるかどうかは別にして、乗り方とか、世話の仕方とか、馬具の扱い方とか、一緒に旅をするならひと通り習っておいた方がいいかなって」
「うん!」
女の子は明るい顔になった。