ナユタ・Ⅲ
文字数 1,692文字
初夏とはいえ草原の湿った朝は、キンと張った冷気を伴う。
しかし二人の子供は野営の天幕で、別の寒気を感じていた。
「ファー、気付かなかったの?」
「タゥトこそ、隣で寝ていたのは貴方でしょう!」
ひんやりした毛布を空にして、風露の青年は姿を消していた。
外には白い草の馬がそのまま、ファーの青毛の隣でスンとしている。
二人は、長いのか短いのか分からない時間、脱力して座り込んでいた。
ナユさんは……失望したんだ。
ガッカリして風露に帰っちゃったんだ。
役に立てると思って旅に加わったのに、現実はそんなに簡単じゃなかった。
好きでもない馬の練習で毎日痛い思いをして、それでも乗りこなせないから移動に支障をきたす。
村に着いても人違いされて、話も聞いて貰えない。
ナユさんのせいではない。上げて落としたのは自分達だ。
蒼の里を見付けるなんて息巻いて旅立ったのに、空回りばかり。
何か進展があった? ううん、何も変わらない。
挙げ句、平和に生きていたヒトを巻き込んで、傷付けて……
ファーがのろのろと立ち上がった。
「行きましょう」
「何処へ?」
「何処って、進むのよ。それしかないでしょう」
「ナユさんを追い駆けようよ」
「追い駆けてどうするのよ。嫌になって離れちゃったヒトに、何て言えばいいのよ……」
ファーがべそをかきそうになったので、それを見たくないタゥトは慌てて天幕から出た。
「うあっ!」
「あれぇ?」
タゥトの叫びと、聞き慣れた間延び声に、天幕の中のファーも飛び出した。
途端、でっかいフサフサが目の前を覆う。
「きゃっ!」
「あははは、どうどう」
フサフサは栗毛の巨大な馬車曳き馬で、その上にデンと収まっているのは、土埃だらけの髪を無造作に束ねたナユタだった。
「えっ、何、どうして? えっえっ?」
「昨日の編み傘のお爺さんがさ、朝ごはんどうぞって。だから迎えに来たんだ」
「……」
「……」
「夜明け前に目が冴えちゃって。二人を起こすのも悪かったから、一人で歩いて出掛けたんだ。もっと早くに戻るつもりだったんだけれど」
不思議に器用に馬を乗りこなしながら、青年はのどかに話した。
巨大な晩馬の平らな背中には鞍ではなく座布団が乗せられ、ナユタはそこにあぐらをかいている。乗馬もへったくれもない。
タゥトとファーは狐につままれた顔、草の馬も複雑な表情で栗毛を気にしながら、カポカポと後ろに付いて行った。
「『信仰』ってものがヒトを幸せにするのなら、みんなに幸せになって貰おうと思って」
「……どうやって?」
「言われた通りにするだけさ。額に手をかざせと言われればそうするし、痛い所を撫でろと言われればそうするし」
「……」
「みんな喜んで笑顔になってくれたよ」
屈託なく微笑む青年に、ファーが不安そうに聞いた。
「だって、えと、ナユさん、何の力もないって、自分で言っていましたよね?」
「うん、ないよ。みんなにもはっきりそう言ったし」
「じ、じゃあ、何で?」
「何も変わらなくても信じていれば心が幸せになるって、昨日言っていたじゃない」
ファーは目を見開いた。
「お気持ちが嬉しかったのです」
三人を招いた食卓で、農夫一家の主が言った。
「自分は何も出来ません、がっかりさせてすみませんと、わざわざ言いに戻って下さったお気持ちです。そんな事を自分から言いに来られる方、初めてお会いしました」
その後、どうしてもこの方法で麦を得たいんですと言い張って、朝の畑を無理矢理手伝ったらしい。
「あまり役に立たなかったけれどね」
歯に衣を着せないおかみさんが、大口を開けて豪快に笑った。
子供達が目ざとくファーの首に掛かった綺麗な笛を見付け、せがまれてナユタは一曲披露した。
そうして大勢に手を振られ、三人は集落を後にした。
青年が手を当てた老人や子供の病がたちどころによくなるなんて事は、勿論なかった。
しかし病床の老婆は穏やかに微笑んでいる。
「おばあちゃん、どうしたの?」
「さっき聞こえたあの笛。昔、蒼の長様に聞かせて頂いた二胡の曲と同じじゃ。同じように柔らかく心に染み込む。ああ大丈夫、蒼の里はきっと大丈夫、この世界も大丈夫だ」