タゥト・Ⅰ
文字数 3,383文字
~プロローグ~
その日・・
透き通った秋空にいわし雲が浮かぶ、蒼の里の平々凡々な昼下がり。
坂の上の執務室には午後の柔らかい陽が射し込み、奥の大机では、珍しくこんな時間からいるナーガ長が明日の予定に目を通し、そのすぐ手前の長椅子で、一仕事終えて集中の切れた長娘のリリが、アクビをしながら伸びていた。
――これは、たまたまだった。
この日は仕事が少なく、メンバー全員が午前で帰還し半休状態だった。泊まりや私用で里を離れている者はいなかった。
――これも、たまたまだった。
坂下の広場を、修練所の子供達が賑やかに駆け抜けて行く。馬術教練の授業が終わった所だ。
西風からの留学生レンとカノンは、知り合いの厩係とお喋りをして、集団からちょっと遅れた。それで、普段はあまり通らない坂下の近道に足を踏み入れた。
――これも、本当のホントに、たまたまだったのだ。
~タゥト~
白い砂に規則的な影を落として、風紋が地平まで続く。
砂の海原を横切る心許ない足跡があった。
千鳥足のそれを辿ると、頂点で小さいヒト型が倒れていた。
ヒト型は十歳位の男の子。癖のある灰色の巻き髪も服装も、ここいらの砂漠の住人とは異なる。
乾いた後頭部を影が覆い、救いの水が垂らされる。
「うう・・うぁ?」
「生きていたか」
うつ伏せの身体に腕が回り、子供はあお向けに引っくり返された。
次の瞬間、命の素みたいな水が、口中に広がる。
時間を掛けて水を与えられ、子供はようよう重い瞼を開けた。
見上げる救い主は、彼より少し年上の少年だった。
逆光の黒い影の中に目の白い所だけがやけに浮いて見える。
真っ黒な大きな瞳が、裏山でとれる黒スグリみたい……と思った。
「起きられるか?」
「ん……」
「後は自分で飲め」
水筒を渡され、子供はむしゃぶり着いた。
「ゆっくり飲め、慌てると、むせて喉を切るぞ。まぁそれだけ動けるなら大丈夫か」
黒スグリの瞳の少年は、見た事もない濃い褐色の肌をしていた。
髪も着衣も漆黒で、そんなに身体は大きくないのに、妙に大人びて見える。
子供の身体が安全圏に戻ったのを見て取って、少年は腕組みをして鼻から息を吐いた。
「お前、馬鹿か? 馬や駱駝もなく徒歩で砂漠をほっつき歩くなんて。しかも足跡がぐるんと回っていたぞ」
「お、お日様の方を向いて歩けば、ニシなんでしょう?」
「いかん、本当の馬鹿だ。あのさ、太陽ってのは動くんだぞ」
「うそ! 太陽を中心に世界は回っているんだし。だから太陽は動かないんだよ」
さっきまで死にかけていたとは思えない減らず口だ。
「なんだそりゃ? だったら夜はどうなんだ、動かない筈の太陽は何処へ行っちまう?」
「よ、夜はこちらの世界が裏返っているんだよっ」
「はあ?」
黒衣の少年は、首を横に振りながら立ち上がった。
「何処から来た? 送って行ってやる。お前みたいなのは砂漠へ出ちゃいかん。子供にそんなデタラメを教える奴にも、一言物申してやる」
「教えてくれたの、僕の母様だけれど、いないよ」
「??」
「この間死んじゃったし」
「……」
子供は座ったまま、ぺこりとお辞儀をした。
「お水をアリガト。村へは戻らないから、送ってくれなくてもいいの」
「おい?」
「じゃあね、ばいばい」
そう言って立ち上がろうとするが、二歩歩いてペタリと尻餅を付いてしまった。
「まったく何を根拠にそんなに自信満々なんだ? どこへ行くにしても、とにかく送って行ってやる。放って置いて砂の上で干からびられても夢見が悪い」
少年はちょっと肩を上げてから、ヒュッと指笛を鳴らした。
とたん、背後でブルン! と大きな鼻息。
びっくりした子供が振り返ると、真っ黒い大きな馬の顔があった。
「うああっ!」
「そんなに驚くなよ。ていうか今気付いたのか? ずっとお前に日陰を作ってくれていたのに」
「・・・・」
一点の白もない艶やかな漆黒に橙色の額飾りの映える見事な馬。
どう見たってちょっとした身分のある者の馬だ。
子供は目を見開いたが、それとは違う意味の驚き方をしていた。
***
少年は鞍の鐙を降ろして、子供に顎で促した。
「乗れるか?」
「……」
「どうした、手伝いが要るか?」
「……やだ、怖い」
「怖いって? 男の癖に弱虫だな」
「だ、だって、空を飛ぶんでしょう? この動物」
「!?」
少年の目が一瞬見開いた。
「前に空から降りて来たのを見た事あるもの」
「あ、ああ…… それは風の民の馬だろ。飛ぶのは奴等の馬だけだよ」
「飛ばないウマもいるの?」
少年はまじまじと子供を見た。
「馬を知らないのか?」
「僕の村、こんな大きい動物いないし」
子供の声は大真面目で、嘘をついている風には見えない。
「こんなのいなくても普通に生活しているし。村の外に出掛ける事なんかないもん。やっぱり外なんかロクでもなかった。ただ広いだけで、どこまで行っても砂ばっかりだし」
少年は呆れ顔のまま、鐙革を引っ張って、二穴分伸ばしてやった。
「とにかく世の中の概(おおむ)ねの馬は飛んだりしないから、乗れ。ほら、こっちの膝曲げて」
子供の足を持って、鞍上に押し上げてやる。
それから自分は鞍を掴んで反動を付けて、身軽に子供の前に跨がった。
馬をぐるんと回しただけで、子供は石みたいに少年にしがみ付いた。
「力を抜かないと、かえって落っこちるぞ」
「だだだって、怖い」
「まあ最初は何でも怖い。一度経験しちまえば怖くなくなる」
「そうなの?」
「そうやって、世の中から怖いモノをなくして行くんだとさ」
「へえ、誰が言ったの?」
「俺の父者(ててじゃ)」
少年は馬を駆けさせず、ゆっくりと進めてやった。
「で、お前はどこへ行きたいんだ?」
「ああ、んと…… ニシカゼのサト」
褐色のうなじがピクリと緊張する。
「西風の、風の民の住処(すみか)か?」
さっきまでと違って、急に声が険しくなった。
「うん、そう。ニシカゼのオササマってヒトに、会いたいの」
「何の用事だ?」
「……」
「言えないのか?」
詰問するような口調に、子供はしどろもどろした。
「えっと、風…… 村に吹く悪い風を治めて下さいって」
「悪い風……」
「うん、ニシカゼのオササマって、そうい事が出来るんでしょう? 村に来る商人のおじさんが言ってた。風を思うままに操って、皆を助けたり。あと先読みの力もあって、鯨岩の街の高波を知らせて、沢山のヒトを命拾いさせたって。ホントに凄いヒトだって。だから会ってお願いしたいの」
「やめておけ」
「ええっ!?」
少年は硬い声のまま続けた。
「確かに西風の長はそういう事が出来る。だけれど、あそこは今ちょっとややこしいんだ。結界をうんと強くして、外界に対して閉ざしている。行ったって入り口を見つける事すら出来ないぞ」
「そんなぁ……」
「だからやめておけ。ほら、お前の村に送ってやる。家族が心配しているだろう」
子供はいきなり手を突き放して、馬から飛び降りた。
尻餅を突いたがすぐに立ち上がり、砂の上をフラフラと歩き出す。
「お、おい」
少年は馬を止めて、馬上から叫んだ。
「待てったら」
「僕、行くんだ」
「意地っ張りだな、お前には辿り着けないって言っているだろ」
「でも行くの」
「もう助けてやらんぞ、死ぬぞ」
「いいの、死ぬもん」
「バカヤロウ!」
「家族は心配なんかしないもん、僕の事なんか・・」
「?? ……おい?」
子供がいきなりゼンマイが切れたみたいにパッタリ倒れたので、少年は下馬して駆け寄って、顔色をなくした。
子供のふくらはぎを、地元の砂の民の間でも『ヤバイ』って恐れられている奴が、カサカサと這っていたのだ。
子供が重い意識を戻すと、そこはさっきの馬の鞍の上だった。身体中熱くて目の奥がグルグル回る。
うつ伏せに鞍に乗せられているのだが、馬のガフガフ言う息づかいから、きっと走っているんだと思った。だけれど振動が全然ない。
うっすら目を開けたが景色は見えず、白い靄(もや)みたいなのが、凄い早さで飛んで行く。
「起きたか? 頑張れ、すぐ医者に看せてやる」
「ぼ、僕、村に帰らない……」
「まだそんな事言っているのか、意地っ張り」
「い・や・だ……」
「話だけは通してやる」
「??」
「西風に知り合いがいる。でも話を通すだけだぞ。だから寝ていろ」
「ホ、ホン……ト?」
「お前、名前は?」
「タゥト…… 海霧(かいむ)の村の、タゥト」