君影 明日の君に・Ⅱ
文字数 3,131文字
「タゥト――!」
窓の外でニワトリの雄叫びみたいな声が響いた。
「うへっ、ファーだ!」
少年はクッションを頭に被せて、長椅子の裏に隠れた。
「長様、タゥトはいませんか?」
窓から青いクリクリ目の女の子が覗く。
「さあ、多分いないと思うぞ」
長は、長椅子に斜めに掛けたまま愉しそうに目を細めた。
「ホントですか?」
「さあな」
「入って捜してもいいですか?」
「ああ、構わないぞ」
ファーが玄関に回るや否や、長椅子の裏からダッシュしたタゥトが、窓から裸足で飛び出した。
しかし、玄関に行くふりをしていたファーが待ち構えていた。
「なに隠れてんのよ! 飾り付け手伝いなさいよ。あたし達にばっかりやらせて、いっつも逃げちゃうんだから」
「イヤだ! あんなナヨナヨした作業、絶対にイヤだ」
一旦捕まれた襟首を振りほどいて、タゥトは砂ネズミみたいに駆けて行った。
「待ちなさ――い!」
ファーが山猫みたいに追い掛けて行く。
「捕まるなよ」
窓から長が愉しそうに叫んだ。やっぱり子供だ。同い歳の友達の前での方が、素のあの子なんだろうな。
「おはよう、ルウシェル」
タゥトを見送って窓から顔を出している長に、反対側から呼ぶ声があった。長い三つ編みの女性が、小さな女の子の手を引いて歩いて来る。
「ファーが失礼をしなかった?」
「いや、タゥトを誘いに来てくれただけだ。おはようエノシラ、おはようミィ」
「オハヨゴサイマツ、オサタマ」
女の子が小さい手を上げて挨拶し、エノシラは風呂敷包みを抱えて玄関を入った。
「ルウの事だから何も支度をしていないんじゃないかと思ったら、案の定だわ。目の下のクマはお化粧でごまかすとして、まずはそのボサボサ頭を何とかしましょう」
「げ! いいよ、このままで。徹夜仕事だったんだ、一寝入りさせてくれ」
「残念ながら、貴方は西風の長様です」
せかせかと化粧道具を並べる母の横で、ミィも一生懸命手伝いの真似事をしている。ルウシェルは、エノシラに髪を鋤(す)かれている間に、本当にうつらうつらし始めた。
「オサタマ、寝チャッタヨォ」
「ええ、だから、少しの間、お口パックンしましょうね、ミィ」
「ン・ン・ン・・」
幼い娘は、大きく息を吸い込んで、一所懸命唇を結ぶ。
子供の頃と変わらないたっぷりと波打つ髪を、エノシラは喉(のど)かな気分で結っていた。去年までのルウシェルは、いつもヒリヒリと緊張していて、友人の自分の前でだって、こんな風に隙を見せる事はなかった。
(タゥトが来るようになってからだわ)
エノシラは、部屋のそこここにある男の子の持ち物を眺めて、目を細めた。
タゥトは……言っちゃえば身も蓋もなくなっちゃうんだけれど、ルウシェルの夫だった男性と、別の女性の間の子供だ。
不義って訳ではない。事故で記憶を失くして十何年も行方知れずだったんだから仕方がない。
亡くなったと思われていたのが、別人として他所の土地で妻子を持って生きていると分かったのは、つい最近だ。
いなくなったのが婚礼の数日前で、ルウシェルとはまだ正式に夫婦(めおと)ではなかったが、ルウも彼の子供を授かっていたし、夫と呼んでもよかろう。
そのルウの息子のカノンが、遠くの留学先で、ひょんな事でこの異母弟(タゥト)と知り合い、留守の間の自分の部屋の書物の手入れを頼んだのだ。
(多分それは、カノンのこじつけだろう)
タゥトと過ごすようになって、ルウは驚くほど穏やかになり、安心して見ていられるようになった。
カノンには分かっていたんだ。一見強く頼もしく見えるルウシェル長だが、実は凄く甘えんぼで、いつだって甘える相手を探している事を。
なのにその甘えんぼスイッチが、限られた相手にしか発動しないって事も。
ルウシェルにとってまことに複雑な存在のその少年(タゥト)が最初に現れた時、エノシラはドキドキした。
しかし、ルウも西風の里人も、意外とすんなり受け入れた。
元々古くから、一夫多妻や一妻多夫の慣習がある土地だったからかもしれない。
最初はおっかなびっくりだったタゥトだが、ズボラなルウの世話を焼いている内に、いつの間にか入り浸りになってしまった。
今では、この家の書棚の隅々まで知り尽くした、立派な秘書だ。修練所にまで通い出して、もうほとんど西風の子供然としている。
ルウの元夫は、海と崖に覆われた海霧の村で、妻の連れ子と静かに暮らしている。
妻は一年程前に亡くなったらしい。
距離はそんなに離れていないが、空からでないと入れないような辺鄙な場所だ。
記憶はほとんど戻っているのに、西風に近寄る事はしない。
(今のままでいいの?)
彼にただの一度も会いに行こうとしないルウシェルに、エノシラは酷く気が揉めた。余計なお節介なのは分かっているのだが。
エノシラの夫のシドは彼の親友で、生きている事を知ってすぐ海霧の村に飛んだ。
エノシラも誘われたのだが、ルウと同じに、会いに行く気になれなかった。
彼がいなくなってからのルウの苦しみを見ていたし、別の女性をめとった彼は、やっぱり別人のような気がしたからだ。
話をしても、きっと以前のようには話せない。単純にすぐに会いに行こうと思える男性が羨ましいな……と思った。
(ルウもそうなのかな)
今の穏やかな状態に浸って時がすべてを癒し、しわ一杯のお爺ちゃんお婆ちゃんになった頃には、笑って会えるのかもしれない。
眠かけ漕いでいたルウシェルが目を開けた。
と、一拍置いて、バササっと、開けられた窓から真っ黒い鷹が飛び込んで来た。
「姉者! タゥトの奴、何処行った!?」
鷹じゃなかった。
眉間に怒りの縦線を入れた、黒い肌の少年アデル。
「ファーに引っ立てられて、今頃お花作りだ」
ルウシェルが呑気な感じで、歳の離れた弟に顔を向けた。弟なのだが彼は砂の民の血が濃くて、父方で暮している。
「あいつ!、久しぶりに海霧に出向いたら、ずぅっとこっちに入り浸っているっていうじゃないか。そんなんじゃ、シアに予言があった時届けられないだろ!」
「伝書鳩役は今まで通りアデルでよかろう、早いし」
「俺だって忙しいんだ。昨日なんか三峰まで徹夜で飛んで、とんぼ返りだったんだぞ」
「へえ、三峰に?」
「いや、そっちはヤボ用でだけれど」
黒い少年はその話は切って、懐から緩く巻かれた漉き紙を引っ張り出した。結ばれた藍のコヨリは、海霧の村の巫女シアの印(しるし)だ。
シアは件の女性の連れ子で、タゥトの父親違いの姉なのだが、その彼女とルウが仲良く文通しているのも、エノシラには不可解だった。
「ご苦労」
ルウシェルはそれを両手で受け取った。
はらりとほどくと一房の白い花。
小さい真珠のような花が可愛らしく連なった、ここいらではあまり見ない花だ。
「シアはお洒落だな」
手紙を読みながら、ルウは何気なくその花を自分の耳の上に差した。碧緑の髪にピッタリだ。
「あら素敵だわ、きちんと編み込みましょう」
ルウが手紙を読んでいる間に、エノシラは器用にその花房を、編み上げた髪にあしらった。
「何か急な予言なの?」
手紙の一節で目の止まっているルウを見て、エノシラがちょっと不安そうに聞いた。
シアの手紙はたまに災害の予見だったりする。
有り難いのだが、そういうのってやっぱり怖い。
「いや、蒼の長殿への挨拶と、同盟の永々無事を祈った祝詞(のりと)なんだけれど……」
「ん?」
「この祝詞じゃ、永々無事じゃなくて、まるで門出だ。詞を選び間違えるなんて、シアらしくないな」
「ああ、そう。でもまあ、新しい出発でいいんじゃない?」
「そうだな、似たようなものか。
おお? いつの間にか髪が出来上がっている。エノシラは魔法使いだな」
「どういたしまして」