ファー・Ⅰ
文字数 2,850文字
「怖くないったら、目を開けなよ」
女の子に言われる何度か目に、タゥトはやっと目を開けた。
黒い毛並みが股の内側で躍動し、足の下を白い靄(もや)が流れて行く。
馬に二人乗りで女の子の後ろ。凄い早さだけれど、水の上を滑るみたいに滑らかだ。
「怖くないでしょ」
「うん、多分……」
「多分なの?」
「一回経験したら怖くなくなるって聞いた。だから怖くなくなっているんだと思う……多分」
タゥトは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ふうん? あ、ほら、前見て、前!」
目を上げると、何だか分からなかった白い靄は、海みたいな雲の原だと分かった。
その前方が暗い薄紫からぱあっとピンクに変わった。
「うわあっ」
「いいでしょ、雲の上の夜明け。ファーのお気に入りなの」
女の子は更に青毛を駆って、もう一つ上の早い気流に乗せた。
「す、凄いね、風の民って。君みたいな子供でも、こんなに馬を飛ばせられるんだ」
後ろに乗っているタゥトは、歯がカチカチ言うのを悟られないように、頑張って喋った。
「ふふ、それ程でも―― でも、ファーだけだよ。西風の里でここまで飛べる子供は他にいないよ」
「風の精でもヒトによって違うの?」
「努力次第じゃないかな? 練習すれば誰にでも出来るって、アディは言っていたよ」
「アディ? アデル? あの黒い子?」
「うん、アデルなんて、種族的には砂の民なのに、ファーよりずっと早く高く飛べるんだから」
ファーは更に気流を見付けて、空中で馬をジャンプさせて乗り換えた。
「あの子、風の妖精とは違うの? 西風の長サマの弟だよね?」
「うん、お母さんは風の妖精でお父さんが砂の民で、長さまはこちらの種族に生まれて、アデルはあちらの種族に生まれたんだって。種族は生まれた時に分かるけれど、資質は後から出てくる事もあるって」
「ふうん…… ねえ、あのアデルって子さぁ……」
「あっ、そうだ、このあたりだ!」
タゥトの言葉の途中でファーが叫んだ。
目の前のピンクがオレンジに変わり、馬は朝陽に染まる雲の海に突っ込んだ。
「鼻摘まんで、唾飲んで――」
ひゅうっと風が変わり、周囲が生暖かくなった。
馬は雲の下にズボリと出て、いきなり地上の木や岩山が見えた。
胡麻粒みたいなそれが凄い勢いで迫って来る。
「お、落ちる――!」
「落ちない落ちない大丈夫っ。ここいらに湖があるからちょっと休もうと思って」
馬は容赦なく降下を続ける。
み、見えなきゃ平気だったのに――!
「ファー、早いよ、早いって!」
「これくらい普通だよっ」
「た、頼むから、ゆっくり降りてくださ~~い!」
急降下した馬は地面近くで急ブレーキをかけ、砂塵が上がった。
・・・・
三日月湖の畔で、ファーは馬に麦を与え、火を焚いて湯を沸かしていた。
繁みをガサガサさせてタゥトの情けない顔が出て来る。
「洗って来た?」
「うん……」
「その枝あたりに掛けときなよ、すぐ乾くよ」
タゥトは無言で、滴の落ちるズボンと下履きを、灌木の枝に引っ掛けた。
「誰にも言わないって。ハカバまで持っていってあげる」
「出来れば君の頭からも消し去ってくれると嬉しいんだけれど」
「難しいコト言うのね。うん、分かった、努力する」
ファーは神妙に言って、毛布と熱いお茶を手渡してくれた。
湖は三日月型をしているので、馬が降りた円形の真ん中は水に囲まれている形だ。
下半身に毛布を巻き付けたタゥトはやっと周りの景色を見る余裕が出来て、お茶のカップを持ったまま辺りをキョロキョロした。
「サソリに噛まれた所、大丈夫?」
「うん、今は何ともない。もうキタノソウゲンなの?」
「違う違う、北の草原なんかまだまだもっと遠くだよ。父さまだって何日もかかるんだから」
「な・ん・にち・も・・?」
「うん、言わなかったっけ?」
西風では常識だった事も、タゥトには初めてなのだ。行き違いがあってもしようがない。
だがそこを上手く擦り合わせるには、二人はまだ幼かった。
タゥトが口を尖らせて黙ってしまったので、ファーも罰悪そうに話題を変えた。
「そうそう、さっきの続き。ファーは空を飛ぶの、アディに教わったんだよ」
「…………へえ」
「砂の民に生まれたのに、あんなに飛ぶのが上手なんて凄いよね。きっと、いっぱいいっぱい努力をしたんだと思う。だからファーも見習おうと思って……」
目の前の男の子が頬杖をついてあからさまに不機嫌を表に出したので、ファーは口をつぐんだ。
「あの子、意地悪だよ。西風の長の弟なら、勿体ぶらないで初めから言ってくれればよかったのにさ」
口の中で呟いたのだが、ファーにも聞こえる声だった。
とにかくタゥトは、この娘(こ)がアデルを褒めるのをやめさせたかった。
だがそんなのは勿論ファーには分からない。
いきなり不機嫌になってしまった男の子に戸惑うばかりだ。
「あっ?」
ファーがいきなり立ち上がって、タゥトの後ろに回った。
「えっ? 何?」
「じっとして」
うなじをいじられたかと思ったら、チクッと痛んだ。
「ほら」
「ひぃっ」
女の子の差し出した赤いヒルに、少年は情けない悲鳴を上げる。
「洗濯してた時木の上から降って来たのね。タゥトつくづく虫に好かれるのね」
「木の上からって、ここいらの木の上にはそんなのがうじゃうじゃいるの?」
タゥトはファーの指先でウネウネ動くそれを見て、全身がこそばゆくなった。
「うん、水辺だしね。木の上だけじゃなくてシダの中とか、水を飲む時も気を付けなきゃダメだよ」
「フ、ファー、ねえ、場所を変えない? もっと乾いた所に……」
ファーは黙って虫を繁みに投げ棄てた。
振り向いた顔は真顔だった。
「ねえタゥト、行くの、やめる?」
「そ、そんな事、言っていないよ」
「だって、ヒルの一匹でオタオタ騒いでいるようじゃ、野宿の旅をするなんて無理だよ」
「それとこれとは違うよ」
「ね、今決めて。今なら西風の側まで引き返してあげる。そして北の草原へはファー一人で行く」
「え?」
「ホントは、母さまも父さまも、いつもずっとお兄ちゃんを捜しに行きたいんだよ。でも、西風の里にナクテハナラナイヒト達だから、留守に出来ないの。だからファーが行くの。タゥトに会わなくても、あちらの雪が溶けたら行くつもりだったのよ」
「……」
「父さまは、お兄ちゃんがいなくなってから、飛ぶのを教えてくれなくなった。だから内緒でアディに教わったの。最初からこんなに飛べた訳じゃない。さんざん落っこちてあちこち怪我したわ。母さまには見せられないから一人で治した。ファーはね、早くお兄ちゃんに帰って貰って、母さまに笑って貰って、前みたいな明るいおうちに戻りたいの。だから行くの」
「……」
「タゥトは長さまの為にカノンを見つけに行きたいって言ったけれど、本当に心からそう思っているの? ただ行く素振りを見せるだけで、好いて貰えると思ったんじゃないの?」
「ち、違う!」
「だってタゥト、自分の事ばっかりじゃない。アディにお礼言った? あんなに一生懸命助けようとしてくれたのに」
「・・・・!」