尖塔の谷・Ⅶ
文字数 3,049文字
「追い掛けて来ないみたいだね」
川を挟んだ反対側の茂みで、馬と三人は息を潜めていた。
「諦めてくれたかなあ」
タゥトは首を伸ばして残り火のチラつく対岸を見やった。
「さっきの銀の光、何だったのかな。ファー、何かした?」
「ううん、ここまで馬を飛ばすだけで精一杯だったもの。焚き火に弾ぜる物でも入っていたのかしら? お兄さん、分かる?」
「ひっ!」
さっきから微動だにしなかった青年が、座った形のまま飛び上がった。
「ひ、あっ、あぅ、怪我、君、怪我が」
「ああこれか」
タゥトが自分の顔を掌で拭った。
それからそろりと動いて、川まで降りて顔を洗い、手布に水を含ませて戻って来た。
「ファーの肘の擦りむいた所に顔を押し付けたの。血って少しの量で広がるから大袈裟に見せられるんだ。ファー、肘見せて。洗わなきゃ」
「大丈夫よ、こんなの」
「膿んだら困るよ」
強引に手当てをする男の子と大人しく手当てをされる女の子を、青年は茫然と眺めていた。
「あのぅ、蒼の姫……?」
二人の子供は同時に目を真ん丸にした。
「お兄さん? もしかしてあれ本気にしている?」
「まさか、蒼の長の息子さんだよ、タゥト」
取りあえず、青年は黙っている事にした。
***
「僕達この間まで、旅芸人の一座にお世話になっていたんだ」
ファーのすり傷に付いた砂粒を丁寧に取りながら、タゥトが説明を始めた。
「ファーに被さった時、ちゃんと『縄脱けの出来る縛られ方』をされている事に気付いたんだ。あ、縄使いのおじさんに習ったんだけれどね。ほら、こういう角度で腕を交差させると、どんなにきつく縛ったつもりでも、後で隙間が出来るんだ」
「う、うん……」
青年はよく分からないながらも返事をする。
「身体の下でこっそり縄抜けを手伝って、後は逃げ出すタイミングだったんだ。で、一芝居打った。大道芸に草相撲ってのがあってさ。出来合いの格闘を本気みたいに見せる奴。迫真の吹っ飛び方とか受け身とか、壊れたみたいに見える倒れ方とか」
「……」
「格闘家のおじさん達って、酔っ払うと無理やり教えたがるの。でも教わっといてよかったね、ファー」
「そうね、『バーサーカーの雄叫び』なんて、この先何の役に立つのって思ったけれど。何事も習っておく物ね、タゥト」
青年は、まだ嘘と現実の境目が分からない。
「そ、そういえば、あれ! 『蒼の一族再興の為の縁談』って。凄い事考え付くよね。一瞬本気に……じゃなくて、感心したよ」
タゥトは、また目を真ん丸にした。
「僕、そんな事言っていないし」
「えっ?」
ファーも、きょんとした顔で言う。
「そうよ、タゥトはそんな嘘付いていないわ。あの禿げのおじさんが、勝手に言い出したんじゃない」
「え? あ?」
確かにそうだ。
「僕は『蒼の姫』とか『約束の殿方』とか、あのヒトが食い付きそうな言葉を並べただけだよ」
「……」
「えっとね、マジシャンのおじさんに習ったの。ギャラリーの中に『俺は他の連中と違う、騙されはしない』って自信満々のヒトを、あらかじめ見付けておくんだって」
「は……あ……」
「で、そういうヒトは、こちらが何を言っても頭から否定しかしない。でも好物そうな言葉を振り撒いてわざと黙っていると、勝手に思い通りな事を言い出して周りを煽動してくれるんだって。本当にその通りになったね」
「『蒼の姫君』には笑っちゃったわ。噴き出すのをこらえるのに必死だった」
飄々と喋る子供達を前に、青年は、何とも言えない顔で黙っていた。
呑気にしているが、この子供達は、さっきまさに殺されかけたのだ。怯えて震えあがって何も出来ないのが、自分の知っているこの年頃の子供だ。
この子達は違う。
自分に何が出来るか考えて、一生懸命自分で何とかしようとしたんだ。
こんなに小さな身体の中に、いったいどれ程の勇気が詰まっているのだろう。
『蒼の姫』の台詞の中には、芝居じゃない部分も混じっていたような気がした。
男の子は、女の子の怪我の手当てを終えた。
それから立ち上がって、二人でテキパキと馬の装備を整え始めた。
「風露にお兄さんを送らなきゃね」
女の子が下を向いて、小さな声で言った。
自分が無理に粘ったせいで盗人を引き寄せ、このお兄さんを酷い目に遭わせてしまった。
こんな善人で純朴なヒトを。
とてももう、もっと汚い物がそこかしこにぶちまけられている外の世界に来てくれなんて、頼めない。
「タゥト、少しの間ここで待っていられる?」
「うん」
「さあ、お兄さん、乗って下さい」
ファーに促されたが、青年は黙って突っ立ったままだった。
「お兄さん?」
「さっきのヒト達……」
「はい?」
「あれは普通なの? 風露の楽器が、音楽の為ではなく、お金儲けの道具として扱われているって」
二人の子供は困った顔を見合わせた。
「うーん、金持ちに知り合いがいないからよく分からないけれど。そういう価値観って、普通にあるんじゃないかなぁ?」
「気にしなくてもいいと思うわ。風露では外の世界の事は関係ないのでしょう? 昼間に関でそう言われたわ」
「うん、僕もそう思っていた」
青年の声の感じが変わったので、二人は同時に彼を見た。
殴られた傷が痛々しいけれど、不思議に、最初に会った時より輪郭がはっきりとしている。
「僕は風露に戻らない」
「お兄さん?」
「風露の中に居るだけじゃ知り得ない事があるって分かった。君達の役に立てるかは分からないけれど。でも、連れて行って貰えないか?」
「勿論!」
二人の子供が両側から手を握った。
その時いきなり、頭上から何かに照らされた。
「??」
さっきの男達? ううん、違う。
見上げる空から、光に包まれた何かが降りて来る。
――・・・・!!
近付いて光が消えると、それが馬だと分かった。馬具を付けているが、カラ馬。
「ど、どこから? 誰の馬?」
空にはただ星が有るばかりだ。
「草の馬……草の馬なの? これ?」
ファーが息を呑んだ。
草の馬は母の馬の他にも何度か見ているが、そのどれとも違う。
普通の草の馬は規則的な編み目でしっかり編まれている。が、この白っぽい馬は、枯草を丸めて形にしたようなぐしゃぐしゃだ。それでも赤い目を生き生きと輝かせて、三人を見つめている。
手綱に萱紙が結び付けられている。
ほどくと、中身は風露の文字だった。
「何て書いてあるの?」
聞いて来る二人の子供に、青年は天を仰ぎ見ながら呟いた。
「破門状だ…… 七人の師匠からの」
天にも突き刺さるような針葉樹の枝の先。
緋色の片羽根の子供がスッと立ち、地上の三人と自分の愛馬を見つめている。
「随分気前よく貸してやるんだな、お前の馬」
すぐ横の枝に、夏草色の馬と黒衣の少年。
《 お前が連れて行くのではなかったのか? 》
反対側の離れた枝に、実態のない銀の影がユラユラと揺れている。
《 せっかく野党どもを蹴散らしてやったというのに 》
「『導き手』はシンリィじゃなくてあいつらだったって事だろ? それよりやり過ぎだって、地形変わっちまったじゃん」
《 気軽に話し掛けるでない、伝書鳩風情が 》
「ふふん、シア姉の予見がなけりゃ、今日風露で何が起こるかも分からなかった癖に」
《 ・・ぐぬ・・ 》
二人のやり取りを他所に、子供は地上の青年をじっと凝視している。
長い髪の青年が、漸くおずおずと白い馬に手を掛けた所だ。
《 まぁ良かろう。これでようやく『鍵』が外へ出てくれた 》
銀の影の呟きに、片羽根の子供は振り向いて、はなだ色の瞳を細めてフワッと微笑んだ。