萌黄、動く

文字数 3,891文字

 懐かしい名前がスマホに表示されたのは、すべての寝支度を終えて、もうベッドに入ろうとしていたときだった。
外波山(とばやま)……。え、トバちゃん?」
 入部してきたときには、まだあどけなさが残っていた後輩を思い出しながら、萌黄(もえぎ)は首を(ひね)る。
 羊介(ようすけ)から、外波山(とばやま)がリーダーであることは聞いていた。
 だが、卒業以来会っていない自分に何の用だろう。
 わずかな不安とともにスマートフォンをタップすれば。
「もしもし?」
「あ、雪下(ゆきした)先輩ですか?ご無沙汰しています。あの、外波山(とばやま)です。夜分遅くに申し訳ありません」
 挨拶もそこそこに、食い気味の懐かしい後輩の声が聞こえてきた。
「大丈夫よ、起きてたし。どうしたの?」
「実はですね……」
 そうして夜も更けていくこの時間に、羊介(ようすけ)が湖に入って指輪を探している、と聞いた萌黄(もえぎ)は息を飲む。
「何やっているの、羊介(ようすけ)くんは」
「全然、俺の言うことなんか聞いてくれなくて」
「わかった。外波山(とばやま)君、申し訳ないけど、羊介(ようすけ)くんにスマホを向けてくれる?あと、怒鳴るから耳は離しておいてね。……ようすけくん!こっちにおいでっ!」
 しばらくの後、やきもきしながら待っていた萌黄(もえぎ)の耳に、やっと羊介(ようすけ)の声が届いた。
「指輪、なくなっちゃった」
 震え、泣きそうな羊介(ようすけ)の声に胸がつぶれそうになる。
「湖に落ちちゃったのね」
「うん」
「ずっと探してくれてたのね」
「うん」
「でも、今日は探すのはおしまい」
「だけど、萌黄(もえぎ)さんにもらった、」
「暗くて見えないでしょう?意地になってはダメ。風邪なんてひいてほしくないもの。私が指輪と羊介(ようすけ)くん、どっちを大事にすると思う?どっちを大事にしてほしい?」
「……それは、俺」
「でしょう?私にとってどっちが大切なのか、羊介(ようすけ)くんは知ってるよね」
「うん」
「今日は、もう上がろう」
「……そうする」
「お風呂に入って、あったかくしてね。せっかくの温泉なんだから。明日の朝、また連絡する」
「明日の朝?わかった」
「ゆっくり休んでね」
「ん。……外波山(とばやま)先輩、ありがとうございました」
 そうしてスマートフォンからは再び、外波山(とばやま)の声が聞こえてきた。
「もしもし?本当に助かりました」
「こちらこそ連絡ありがとう。羊介(ようすけ)くんのこと、お願いね。そのまま寝ちゃわないように」
「はい、わかりました」
「それとね。何が羊介(ようすけ)くんをそこまで追い詰めたのか、リーダーとして、問題の原因を把握してほしいの」
「もちろんです。……ありがとうございました」
 気落ちした外波山(とばやま)の声を最後に通話を終了させてから、萌黄(もえぎ)は深いため息を漏らす。
(これはいつかの逆ね。あのときの手紙は燃やされてしまったから、どうにもならなかったけど。湖の中に落ちているなら、羊介(ようすけ)くんは諦めないだろうな)
「どうしたもんかな……」
 萌黄(もえぎ)はパソコンデスクに置かれた卓上カレンダーにちらっと目をやって、苦い顔になった。
「仕方ない。頭を下げるか」
 スマートフォン上に表示させた住所録をスライドさせると、眉間にしわを寄せた萌黄(もえぎ)の指が”通話”をタップする。
「もしもし?夜分遅くに申し訳ありません、萌黄(もえぎ)です。明日、そちらにうかがえなくなりました。どうしても外せない用ができたので。それと、お願いがあるのですが……」
 スマートフォンを片手に萌黄(もえぎ)は立ち上がり、クローゼットからキャリーバッグを取り出してふたを開けると、(せわ)しなく荷詰めを始めた。
「そうですね、できれば今から、……それは、おっしゃるとおりです。わかりました、睡眠は取ります。ですが、渋滞に巻き込まれたくないので、早朝には伺いたいと。……え、出る前にですか?ご迷惑では?玄関のシューズボックスの上にでも、置いてもらえると……。わかりました。お返しするのは、あさってになるかもしれませんが構いませんか?……それは助かります。……はい?」
 タオルを何枚か放り込む途中で、萌黄(もえぎ)の首がゆっくりと(かし)いだ。
「今、なんておっしゃいましたか?私の聞き間違いですよね?そうですよね?もしくはご冗談ですよね?……それはよかった。では明日、連絡を入れさせていただきます。おやすみなさい。……もー、こっちをいくつだと思ってるのっ」
 バタン!と乱暴にキャリーの(ふた)を閉めると、萌黄(もえぎ)は飛び込むようにベッドにもぐりこんだ。


 起床時間よりも、だいぶ前に目が覚めた外波山(とばやま)は、ふと気になって、木場野(きばの)の様子を見にいくことにした。
 そっと予備部屋のドアを開けると、障子越しに入ってくる朝日で、室内はぼんやりと明るい。
「……起きてるかー?」
 聞こえてくる荒く短い呼吸音にそっと近づけば、丸くなって布団をかぶっている木場野(きばの)の様子は、明らかにおかしい。
「やべ」
 急いでスマートフォンを取り出して合宿リーダーを起こした外波山(とばやま)は、薬と体温計、水とスポーツドリンクを持ってきてくれるように指示を出した。
「おはようございます」
 急に起こされたとは思えないほど短い時間で、合宿リーダーが予備部屋に入ってくる。
「解熱剤と、一応、風邪薬も持ってきましたけど」
「さすが。寝てたのに悪かったな、ありがとう。枕元に置いといて。熱はどのくらいだ?」
 問われた合宿リーダーが、非接触型の体温計を木場野(きばの)の額にかざした。
「……37.8℃。結構ありますね。昨日の件、どうしますか?」
「当人同士でまず話し合いをと思ったけど、これじゃあなあ」
 ふたりが布団をのぞき込むと、もそりと動いた木場野(きばの)がうめく。
「……頭、いたい……」
木場野(きばの)、起き上がれるか?熱もあるから、つらいなら解熱剤飲んどけ。アレルギーとかはないな?」
 外波山(とばやま)木場野(きばの)の背に手を当てて起き上がらせると、合宿リーダーが薬とペットボトルの水を手渡した。
「……ウチの常備薬と同じ……。もらいます……」
 のろのろとした動作で薬を飲み終えると、木場野(きばの)は崩れ落ちるように布団に横になる。
 ぐったりと目を閉じ、せわしない呼吸を繰り返す木場野(きばの)に、合宿リーダーが眉を曇らせた。
「大丈夫でしょうか……」
「これ以上ひどくなったら、病院に連れていかないとな。この近くの内科って……」
 外波山(とばやま)がジャージのポケットからスマートフォンを取り出したとき。 
「おはよう、やっぱこっちか」
 静かにドアを開けた安心院(あじみ)が、足を取を忍ばせて近づいてくる。
「お前も早いな」
「さすがに眠りが浅くてね。今日の予定、ちょっと話しておかないか?」
「だな」
 それぞれスマートフォンを取り出した三人は、声を潜めて額を寄せあった。

 合宿が始まってから恒例の、何ら変わらない朝食風景ではあるが、今日はメンバーたちの口数がめっきり少ない。
 とくに1年生のテーブルは、まるで精進落しをしているかのような雰囲気だ。
「どうすっかなぁ」
 つぶやいた外波山(とばやま)の隣で、味噌汁を飲もうとしていた安心院(あじみ)の手が止まる。
「ん?なんだ?」
 つられて外波山(とばやま)がその視線を追うと、存在感のある高級外車が駐車場に滑り込んでくるところだった。
「M3だよ、あれっ」
 車好きで有名な2年の男子が、茶碗を片手に声を上げる。
「かっけ~、やっぱドイツ車だよな。ラメっぽいから、ミネラルホワイトかな。いいなぁ」
 朝日にきらめくメタリックな白いドイツ車は、バックの切り返しも鮮やかに、流れるように一発で車を停めた。
「え、運転うまっ」 
 駐車場を見つめる2年男子の目に星が浮かぶ。
「こんな朝早くに誰だ?明日まで、俺らの貸し切りだよな」
 外波山(とばやま)が食堂の時計を確認すると、まだ7時半にもなっていない。
「トバ、誰か降りてきたって、ああっ!」
 駐車場を眺めていた安心院(あじみ)が大声を出したが、無理もない。
 その白いドイツ車から降りてきたのは、

がなければ電話することもなかったであろう雪下(ゆきした) 萌黄(もえぎ)、その人だったのだから。

 宿泊所玄関に立つ外波山(とばやま)安心院(あじみ)を目にして、レモンイエローのAラインワンピースを着た萌黄(もえぎ)がにっこりと笑った。
「おはよう。久しぶりね」
「お、おはようございます、雪下(ゆきした)先輩。……どうされたんですか」
「どうしたもこうしたも、トラブルがあったわけでしょ?」
 萌黄(もえぎ)が首を(かし)げると、ふわふわとウェーブした髪がともに揺れる。
「でも、わざわざお休みの日に」
「お休みの日だからよ。平日だったら来られなかった。さて」
 萌黄(もえぎ)から微笑みが消えた瞬間、後輩ふたりは思わず直立不動の姿勢になった。
「詳しく聞かせてもらえる?何があったのかを」
「それは……」
 萌黄(もえぎ)の望んでいる説明は、いずれサークルメンバーに対しても、しなくてはならないことでもある。
 関係者が来た今が、いい機会かもしれない。
 そう思った外波山(とばやま)は、微かなため息をつきながらうなずいた。
「わかりました」
 そう、関係者。
 雪下(ゆきした) 萌黄(もえぎ)木場野(きばの)にとって、単なる高校・大学の先輩ではないのだろう。
 それはもう、嫌というほど外波山(とばやま)にもわかっていた。
 彼女の話題になったときだけ、木場野(きばの)の目に灯りがともる。
 「萌黄(もえぎ)さん」と口に出しそうになって、「雪下(ゆきした)先輩」と言い直していたことにも気づいていた。
 だからこそ、木場野(きばの)へのジョーカーになりうると判断したのだが。
 決定打だったのは、天海(あまみ) 珊瑚(さんご)の懺悔。
――私が

のことをからかっちゃったから――
「……こちらへどうぞ」
 萌黄(もえぎ)を食堂へ案内した外波山(とばやま)は、空いた席を示して、着席を勧めた。
「おかけください」
「お食事中にごめんなさいね。落ち着いてからでいいから」
「いや、食事時間も、もう終わるんで」
 外波山(とばやま)萌黄(もえぎ)の斜め前に座って、テーブルの上に組んだ両手を置く。
「昨日は、恒例の花火大会だったんです。でも、最初は木場野(きばの)の姿はなくて……」
 しんと静まり返った食堂に、外波山(とばやま)の声だけが響いていた。
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