心重なる
文字数 4,084文字
外に出た羊介 は辺りを見回すが、トランペットの音は聞こえてこない。
不安に思って駐車場を確認すると、あの白いドイツ車が異彩を放って鎮座している。
(大丈夫、萌黄 さんはまだいる)
ほっとして、小走りで湖岸方面へと向かう羊介 の目に、庭のベンチに座っている萌黄 が飛び込んできた。
ウェーブした髪が風に揺れて、目を閉じた横顔を見え隠れさせている。
足音を忍ばせて隣に座ると、微かな寝息が聞こえた。
「……萌黄 さん」
ベンチに置かれたトランペットを膝に乗せて、羊介 は萌黄 の耳元に口を寄せて囁 きかけてみる。
(疲れてたのかな)
萌黄 の住む街からここまで、車で2時間はかかるはずだ。
あんなに朝早く到着したということは、何時に自宅を出てくれたのだろう。
明日のために早く寝ると言っていたのに、その予定はどうしたのだろう。
どれだけのものを投げ捨てて、自分のために駆けつけてくれたのかと思えば。
申し訳なさと同時に、くすぐったくて嬉しい気持ちが羊介 の胸を躍らせる。
あの夏の校門の前で。
クマゼミがジャワジャワと再会を祝ってくれたときのように。
「萌黄 さん」
羊介 は萌黄 のこめかみや頬にキスを落として、それでも起きないその耳たぶに、パクリ!と軽く嚙 みついた。
「ひぁ!」
飛び上がるように背筋を伸ばした萌黄 のまぶたが、パッチリと開く。
「ふっ、変な声!」
「……羊介 くんっ?もー、今、耳食べた?!」
「こんなとこで寝てたら、食べられるに決まってるじゃん。俺でよかったね」
「よくありません!そんな決まりもありませんっ」
「熱、下がったよ」
「……それは、よかったけど」
「だから、キスできるよ」
「でも」
「風邪がうつるから嫌?」
大型犬が主人に甘えるように萌黄 に擦り寄りながら、羊介 が肩を寄せた。
「だって、外だし」
「まわり誰もいないじゃん」
羊介 が萌黄 を見つめる目は、まだ熱が下がっていないのではないかと思うほど潤んでいる。
「あまえんぼ」
仕方なさそうに微笑んだ萌黄 が、そっと唇を寄せた。
「……そんだけ?もうちょっと」
「もう黙って」
唇を食 むような軽いキスに不満顔をする羊介 の鼻を、萌黄 はぎゅっと摘まむ。
「羊介 くん、お昼ご飯は?」
「萌黄 さんはどうするの?」
「近くに、新しいイタリアンができたみたいなの」
ネックストラップに下がっていたスマートフォンを起動させて、萌黄 は画面を羊介 に見せた。
「石窯で焼いたピザとか、リゾットとか」
「あっ、ラザニアがある!」
好物を見つけた羊介 の目がきらりと光る。
「病み上がりだけど食べられそう?昼食は抜けても平気かな」
「事情を話せば大丈夫だよ。でも、ここからだと距離があるよ、その店」
「車で行こう」
立ち上がった萌黄 を、少しだけ不安そうな羊介 の瞳が見上げた。
「萌黄 さん、免許持ってるって知らなかった」
「ふたりで遠出とか、あんまりしたことなかったもんね。大学に入ってすぐに取ったから、運転歴はそれなりに長いよ」
そうして萌黄 から手を取られた羊介 は、恐る恐る助手席に乗り込んだのだが。
「……運転、すごくうまいんだね」
ドイツ車の性能もあるのだろうが、萌黄 はまったくブレのないドライビングテクニックを披露した。
「兄ちゃんが運転する車に一度乗ったけど、スピード出すし、止まるときカックンってなるから、二度と乗るかって感じなんだ。萌黄 さんの運転とは月とスッポン」
「ドライブに行きたくなってきた?」
「うん!連れてってくれる?」
「いいよ、どこに行こうか」
「どこでも。萌黄 さんと一緒なら、どこでもいいよ」
「それは困るなぁ」
危なげない運転を続けながら萌黄 が笑う。
「食事なんでもいいとデートどこでもいいは、パートナーに嫌われる禁句だぞ?」
「えっ?!」
シートに沈めていた体を慌てて起こして、羊介 は萌黄 の横顔を見つめた。
「昼はラザニアを食べる。帰ったら萌黄 さんのうちに行きたい。公園で、一緒にトランペット吹きたい」
「車いらないじゃない」
「あ、そう、だね」
小学生のころのように口ごもる羊介 に、萌黄 はくすくすと笑う。
「じゃあ、帰り送ってあげようか?」
「え?」
「それならドライブになるでしょう?」
「でも、合宿は明日までだよ」
「羊介 くんたちの宿泊所の対岸に、旅館があるの知ってる?」
「うん。全室露天風呂つきの高級なとこって言ってたよ、外波山 リーダーが」
「今日、そこに泊まる予定なの。最近忙しかったし、ちょっと自分にご褒美かな」
「……予約、難しいって聞いたけど」
(しかも、こんな直前に。萌黄 さん、ツテでもあるのかな。……オトナなんだな)
恋人との格差を感じるたびに、焦燥感ばかりが募っていく羊介 だ。
「私としては、もっとカジュアルなところを考えていたんだけどね。車の持ち主から借りる条件として、泊るならそこにしてくれと言うのよ。手配をしておくからって。今日の予定も、スケジュールを組み直してくれたみたいだし。この際、言うことを聞いてあげようかと思って。さ、着いたよ!」
そこで会話が途切れ、湧いた疑問は、食事をしながらでも聞こうと思っていたのに。
ラザニアのおいしさと、目の前にいる萌黄 に浮かれ切って、すっかり忘れていたと羊介 が気づいたのは、合宿も終了間際になってからだった。
午後の自主練習の時間。
コミュニティ・ホールに戻ってきた羊介 は、同期たちが注目するなか、楽器置き場から自分のトランペットケースを取り出した。
「木場野 、今日は学年練習最終日だから、最後に1年全員で合わせるの、忘れてないよな」
「うん」
学年リーダーの声かけに、羊介 は相変わらずの仏頂面でうなずく。
「でも、それって3時からだろ」
「まあ、そうだけど……。また散歩でも行くの?あのユキシタってOGは帰ったの?」
「……呼び捨てにすんなよ」
「え?」
「いや、なんでも。今から萌黄 さんと演奏してくる」
「ここでやりゃいいだろ」
「……雷 」
羊介 と、壁際で腕を組む雷 の視線が真っ向からぶつかり合った。
「あの人もOGなら、ここで演奏したって構わないんじゃないの。自主練習時間なんだし。それとも、おれたちには聞かせられないような腕なワケ」
挑発的な雷 を半眼でにらむと、羊介 はコミュニティ・ホールの窓際へとすたすたと歩いていく。
そして、開け放っている窓の前に立つと、大きく息を吸った。
「萌黄 さん!雷 が、萌黄 さんのペット聞きたいってさっ」
「じゃあ、今から行くって、王子サマに伝えて!」
返された透き通るような声を聞いて、珊瑚 の首が傾く。
「王子サマ?誰のこと?」
「え、雷 」
振り返った羊介 がにやっと笑った。
「貴公子から格上げしたんだよ」
「なっ!」
ぱっと顔を赤くする雷 の前を、羊介 が肩を震わせ通り過ぎていく。
「うっそ、あれって木場野 君?」
誰かが思わず漏らしたつぶやきは、その場にいた全員の感想だった。
ホールに入ってきた萌黄 を目にしたとたんに、羊介 は子犬のように駆け寄っていく。
「なあに?」
伸ばされた手に目を丸くして、萌黄 は羊介 を見上げた。
「お手をどうぞ」
「ダンスでもする?」
「萌黄 さん、踊れんの?」
「……ラジオ体操なら」
「それ、ダンスじゃねぇじゃん」
吹きだして笑う羊介 に、コミュニティ・ホールがざわめきに揺れる。
「くくくっ。ねえ萌黄 さん。あの曲、演奏しない?」
「あの曲?」
「田之上オン・ステージ」
「ピアノの音源は持ってるけど、スピーカーってあったっけ」
「あるよ。電源も入ってる」
「いいね」
ホールに置かれたピアノの上に設置された、外部スピーカーにスマートフォンをつないだあと。
萌黄 はトランペットを構えた羊介 に微笑みかけた。
そして、スピーカーからしっとりとしたピアノの旋律が流れだし、それに続く寄り添う縁の不思議と、出逢いの喜びを奏でるふたりの「糸」が皆の耳を奪っていく。
「んだよ、あれ」
それはまるで、同じ人間が二重奏をしているのかと思うほどで。
主旋律を奏でる羊介 の芯のあるトランペットは、副旋律の萌黄 の音が重なれば、ふくよかに深くなっていく。
萌黄 のトランペットは鮮やかにも主張しすぎることなく、羊介 の音に奥行きを与える。
(どっちが欠けてもダメなんだ。このふたりだから、これほどの演奏を……)
雷 は知らず、両手を握りしめていた。
羊介 を追いかけて萌黄 のトランペットが輪唱するときには、音と一緒に、ふたりのまなざしまでもが甘いものに変わっていく。
ピアノの独奏が流れる何小節かの間、トランペットを一瞬下ろしたふたりが同時に微笑み合った。
「イカヅチはさ」
いつの間にか隣に立っていた珊瑚 に、雷 は弾かれるように目を向ける。
「あのヒトとあんな演奏をする木場野 君の、指輪をむしり取って捨てたんだよ」
――捨てた――
その重い一言に、雷 が床に目を落としたとき。
ピアノが曲の終了を告げ、コミュニティ・ホールは拍手に包まれた。
「次はどの曲を演奏する?」
スマホを操作しながら尋ねる萌黄 の背中を抱き込むようにして、羊介 がその耳元に何かを囁 く。
「ある?」
「あるよ」
うなずいた萌黄 がスマホを置くと、スピーカーからは軽やかにリピートするピアノ流れ出した。
運命の出会いが重なり、日々募る思いを描く軌跡を、ともに在りたいと願う想いを。
長いブレスで羊介 のトランペットが訴え、それに負けない音で萌黄 のトランペットが応える。
「キセキ」。
まさにその題名通りの二重奏がホールに流れた。
「なんだ、これ」
雷 の目は、ふたりに釘付けとなって離れない。
「どっからあの音出してんんだよ……」
ふわふわした見た目をしているくせに、串刺しするような目をしていたあの姿こそが、萌黄 の本性なのだと思い知った。
激烈でパンチのある音を、技術でコントロールしている。
そうまざまざと思い知らされた雷 は唇をかみしめた。
「なんだよ、コレ……。なんだよ、くそっ」
ユニゾンから二重奏になれば、いちいち鳥肌が立つ。
流麗でいて揺るぎない。
軽やかで熱情的だ。
そして、萌黄 が高校最後の定期演奏会で、羊介 へ贈った曲が終わるのと同時に。
ひときわ大きな拍手をしたのはほかの誰でもなく、雷 であった。
不安に思って駐車場を確認すると、あの白いドイツ車が異彩を放って鎮座している。
(大丈夫、
ほっとして、小走りで湖岸方面へと向かう
ウェーブした髪が風に揺れて、目を閉じた横顔を見え隠れさせている。
足音を忍ばせて隣に座ると、微かな寝息が聞こえた。
「……
ベンチに置かれたトランペットを膝に乗せて、
(疲れてたのかな)
あんなに朝早く到着したということは、何時に自宅を出てくれたのだろう。
明日のために早く寝ると言っていたのに、その予定はどうしたのだろう。
どれだけのものを投げ捨てて、自分のために駆けつけてくれたのかと思えば。
申し訳なさと同時に、くすぐったくて嬉しい気持ちが
あの夏の校門の前で。
クマゼミがジャワジャワと再会を祝ってくれたときのように。
「
「ひぁ!」
飛び上がるように背筋を伸ばした
「ふっ、変な声!」
「……
「こんなとこで寝てたら、食べられるに決まってるじゃん。俺でよかったね」
「よくありません!そんな決まりもありませんっ」
「熱、下がったよ」
「……それは、よかったけど」
「だから、キスできるよ」
「でも」
「風邪がうつるから嫌?」
大型犬が主人に甘えるように
「だって、外だし」
「まわり誰もいないじゃん」
「あまえんぼ」
仕方なさそうに微笑んだ
「……そんだけ?もうちょっと」
「もう黙って」
唇を
「
「
「近くに、新しいイタリアンができたみたいなの」
ネックストラップに下がっていたスマートフォンを起動させて、
「石窯で焼いたピザとか、リゾットとか」
「あっ、ラザニアがある!」
好物を見つけた
「病み上がりだけど食べられそう?昼食は抜けても平気かな」
「事情を話せば大丈夫だよ。でも、ここからだと距離があるよ、その店」
「車で行こう」
立ち上がった
「
「ふたりで遠出とか、あんまりしたことなかったもんね。大学に入ってすぐに取ったから、運転歴はそれなりに長いよ」
そうして
「……運転、すごくうまいんだね」
ドイツ車の性能もあるのだろうが、
「兄ちゃんが運転する車に一度乗ったけど、スピード出すし、止まるときカックンってなるから、二度と乗るかって感じなんだ。
「ドライブに行きたくなってきた?」
「うん!連れてってくれる?」
「いいよ、どこに行こうか」
「どこでも。
「それは困るなぁ」
危なげない運転を続けながら
「食事なんでもいいとデートどこでもいいは、パートナーに嫌われる禁句だぞ?」
「えっ?!」
シートに沈めていた体を慌てて起こして、
「昼はラザニアを食べる。帰ったら
「車いらないじゃない」
「あ、そう、だね」
小学生のころのように口ごもる
「じゃあ、帰り送ってあげようか?」
「え?」
「それならドライブになるでしょう?」
「でも、合宿は明日までだよ」
「
「うん。全室露天風呂つきの高級なとこって言ってたよ、
「今日、そこに泊まる予定なの。最近忙しかったし、ちょっと自分にご褒美かな」
「……予約、難しいって聞いたけど」
(しかも、こんな直前に。
恋人との格差を感じるたびに、焦燥感ばかりが募っていく
「私としては、もっとカジュアルなところを考えていたんだけどね。車の持ち主から借りる条件として、泊るならそこにしてくれと言うのよ。手配をしておくからって。今日の予定も、スケジュールを組み直してくれたみたいだし。この際、言うことを聞いてあげようかと思って。さ、着いたよ!」
そこで会話が途切れ、湧いた疑問は、食事をしながらでも聞こうと思っていたのに。
ラザニアのおいしさと、目の前にいる
午後の自主練習の時間。
コミュニティ・ホールに戻ってきた
「
「うん」
学年リーダーの声かけに、
「でも、それって3時からだろ」
「まあ、そうだけど……。また散歩でも行くの?あのユキシタってOGは帰ったの?」
「……呼び捨てにすんなよ」
「え?」
「いや、なんでも。今から
「ここでやりゃいいだろ」
「……
「あの人もOGなら、ここで演奏したって構わないんじゃないの。自主練習時間なんだし。それとも、おれたちには聞かせられないような腕なワケ」
挑発的な
そして、開け放っている窓の前に立つと、大きく息を吸った。
「
「じゃあ、今から行くって、王子サマに伝えて!」
返された透き通るような声を聞いて、
「王子サマ?誰のこと?」
「え、
振り返った
「貴公子から格上げしたんだよ」
「なっ!」
ぱっと顔を赤くする
「うっそ、あれって
誰かが思わず漏らしたつぶやきは、その場にいた全員の感想だった。
ホールに入ってきた
「なあに?」
伸ばされた手に目を丸くして、
「お手をどうぞ」
「ダンスでもする?」
「
「……ラジオ体操なら」
「それ、ダンスじゃねぇじゃん」
吹きだして笑う
「くくくっ。ねえ
「あの曲?」
「田之上オン・ステージ」
「ピアノの音源は持ってるけど、スピーカーってあったっけ」
「あるよ。電源も入ってる」
「いいね」
ホールに置かれたピアノの上に設置された、外部スピーカーにスマートフォンをつないだあと。
そして、スピーカーからしっとりとしたピアノの旋律が流れだし、それに続く寄り添う縁の不思議と、出逢いの喜びを奏でるふたりの「糸」が皆の耳を奪っていく。
「んだよ、あれ」
それはまるで、同じ人間が二重奏をしているのかと思うほどで。
主旋律を奏でる
(どっちが欠けてもダメなんだ。このふたりだから、これほどの演奏を……)
ピアノの独奏が流れる何小節かの間、トランペットを一瞬下ろしたふたりが同時に微笑み合った。
「イカヅチはさ」
いつの間にか隣に立っていた
「あのヒトとあんな演奏をする
――捨てた――
その重い一言に、
ピアノが曲の終了を告げ、コミュニティ・ホールは拍手に包まれた。
「次はどの曲を演奏する?」
スマホを操作しながら尋ねる
「ある?」
「あるよ」
うなずいた
運命の出会いが重なり、日々募る思いを描く軌跡を、ともに在りたいと願う想いを。
長いブレスで
「キセキ」。
まさにその題名通りの二重奏がホールに流れた。
「なんだ、これ」
「どっからあの音出してんんだよ……」
ふわふわした見た目をしているくせに、串刺しするような目をしていたあの姿こそが、
激烈でパンチのある音を、技術でコントロールしている。
そうまざまざと思い知らされた
「なんだよ、コレ……。なんだよ、くそっ」
ユニゾンから二重奏になれば、いちいち鳥肌が立つ。
流麗でいて揺るぎない。
軽やかで熱情的だ。
そして、
ひときわ大きな拍手をしたのはほかの誰でもなく、