バフォメットの追憶
文字数 3,762文字
目の前に、頭を押さえつけられて体を折っている「仲良し」がいる。
「本当にごめんなさいね、アイ子ちゃん」
小さな頭に指をめり込ませているキレイな人が、口にしている言葉とはそぐわない、華やかな笑顔でアイ子を見ていた。
「あの、雪下 さん」
アイ子の隣に立つ母親が戸惑い、眉を曇らせてキレイな人に声をかける。
「謝っていただきたいわけではないんです。仲直りを」
「まあ」
わざとらしいその口調に、アイ子の背中がぞわりとした。
「鬼龍院 さんはお優しいのですね。ですが、ひどいことをしたのはこの子ですから」
押さえつけている腕の力が強まったのか、「仲良し」の首がさらに下がる。
「ひどいというなら、ウチのアイ子も同じです。子供同士のケンカですから、どちらが悪いのかではなくて」
「いいえ、悪いのはこの子です」
迫力ある声できっぱりと言い切られて、アイ子の母親は思わず口を閉じた。
「お嬢さんを引っぱたくなんて」
「アイ子は引っかきました」
相手から会話を奪い返した母親を見上げると、キレイな人に向けられたその目は、危ないものを見るように細められている。
「雪下 さん。萌黄 ちゃんは普段からとってもよい子ですけれど、アイ子と同じ8歳です。ケンカするなんて当たり前でしょう。ただ、同級生を巻き込んだ騒ぎになってしまっているようですから、それをなんとかしたいと思っただけなんです。萌黄 ちゃん」
母親はサンダルをつっかけて玄関のたたきに降りると、小さな頭を押さえている腕を半ば強引に払って、腕の中に萌黄 を囲った。
「あのね、アイ子はずっと、萌黄 ちゃんに言いたいことがあったんだけど、学校にでは言えなくなっちゃうんですって。今日はそれを伝えたかったの。聞いてあげてくれる?」
アイ子の母親に背中を支えらえた萌黄 の、おどおどとした目が上がる。
「アイ子ちゃん、あの、ごめんなさい」
震えるその声を聞いた瞬間に、アイ子は素足でたたきに飛び出していた。
「ごめんはアタシなの!もえちゃん、イジワル言ってごめんね。……明日、また一緒に学校行こう」
「でも、そしたらアイ子ちゃんが」
「もえちゃんがハブられてるの、アタシほんとはイヤだもん」
「アイ子ちゃんまで仲間外れにされちゃうよ」
「いいよ、もえちゃんがいれば」
「……アイ子ちゃん……」
小さな少女ふたりがぎゅっと抱き合う背中を、アイ子の母親がぽんぽんと優しく叩く。
「雪下 さん。これで、この話はおしまいです」
「はあ、そうですか」
きっぱりと母親は告げたのに。
相手は「だからどうした」とでも言いたげだ。
「今日はご足労いただいて、申し訳ありませんでした」
「鬼龍院 さんの気はすんだ、ということですか」
「気がすむもなにも、最初から萌黄 ちゃんが悪いなどとは思っていません」
「はあ、そうですか」
先ほどのリピートのような気の抜けた返事とともに、アイ子の体に回されていた萌黄 の腕が、力任せに引きはがされる。
「帰りますよ、萌黄 さん。……おじゃまいたしました」
萌黄 の手を引っ張って玄関を出ていくキレイな人の表情は、最初の笑顔などカケラもなかった。
冷たく強張ったその横顔に、萌黄 が心配になったアイ子が、もう一度ドアを開けたとき。
パァンッ!
思い切り振りかぶられた手で頬を叩 かれた小さな体がよろけ、足をもつれさせて、地面に尻をついた。
「恥をかかせてっ!」
バシッ!バシッ!
うずくまる頭に、さらに平手が振り下ろされる。
「土下座して謝れっ!」
バシッ!
「早くしなさい!強情な子ねっ」
ドアの取っ手を握るアイ子の手が震え、その目に涙が浮かんだ。
「もえちゃ……」
そんなに叩かれ続けていたら、土下座の体勢だって取れるわけがない。
それなのに「早くしろ」なんて、あんまりだ。
「お、おかあさ……」
アイ子が振り返ったのと同時に、様子を見に来た母親がドアを大きく開ける。
「雪下 さ、」
「何をやってるんですかっ!」
かすれた怒鳴り声を聞いたキレイな人が、振り上げていた手をゆっくりと下した。
「あら、千草 さん。どうしてこんなところに?」
門扉 を開け放って飛び込んできた学生服の少年が、嗚咽を漏らしてうずくまる萌黄 を抱え起こす。
「……こんなことだろうと思った」
スマートフォンの画面を見せつけにらみ上げる少年を、キレイな人が冷めた様子で見下ろした。
「いやだ。告げ口したの、萌黄 さん」
「萌黄 は僕の言いつけを守っただけです。あなたと出かけるときには、必ず連絡しろって。正解だったでしょう。……暴行の現行犯ですよ」
「ちょっと感情的になっただけで、大げさな」
「”ちょっと”の意味を辞書で調べてみては?……帰ろう、萌黄 。鬼龍院 さん」
「は、はい」
突然、少年から声をかけられた母親の声が裏返った。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。いつも仲良くしてくれてありがとう、アイ子ちゃん」
優しい口調に、親し気な笑顔。
だが、少年らしからぬ迫力に気圧されたアイ子は、返事もできない。
「今週でリフォームも終わるよ。今日からご飯は二階で食べようね。コロッケを買ってきてあるから」
泣きじゃくる少女に話しかけ続ける、変声期特有の声が遠ざかっていった。
「しつけの範囲を超えてる」
母親の非難は、キレイな人の耳にも届いたはずなのに。
その人はこちらを振り返ることもなく、仕草だけはたおやかに、門扉 を閉めて帰っていった。
ため息をついて見送る母親が、ぎこちなく笑ってアイ子の背中をさする。
「担任の先生には、お母さんから話しをするから。アイ子は萌黄 ちゃんと、今までどおり仲良くね」
母親はそう言ってくれたけど、「今までどおり」になんかいくだろうか。
アイ子の不安は、翌日的中することになった。
◇
朝は一緒に登校したし、昼休みも一緒に遊んだ。
なのに、近道して帰ろうと、公園を突っ切ったのがよくなかったのか。
「アイ子ちゃん」
学年でも一番体格のよいクラスメートが、アイ子と萌黄 の行く手をふさいできた。
それはアンチ萌黄 派のトップリーダーの少女で。
その背後では、萌黄 をターゲットにしている女子が数人、団子になってくすくす笑いをしている。
「今日、一緒に遊ぼうよ。うちにおいで」
「行かない。もえちゃんと遊ぶ約束したから」
「だって、ケンカしてるんでしょ。うちに新しいゲームがあるんだよ」
「ゲームとかしないし」
「アイ子ちゃん、雪下 さんのことキライって言ってたクセに」
「言ってない。もえちゃん、九九の七の段できないんだねって言っただけだよ。そしたら、アンタたちが言い出したんでしょ。いつもスカしてるクセにって」
「ホントのことじゃん。掛け算もできないくせに、せんせーにコビちゃってさあ」
「みんなそう思ってたよ!」
「イイコぶってるよね、いつも」
突然、団子たちの一斉砲火が始まった。
「アイ子ちゃん、いきなり叩かれてたじゃんっ」
多数派であることに気をよくしたトップリーダーの女子が、小さなあごをそらす。
「引っかき返したもんっ」
堂々と言うことではないのだが、アイ子は必死だった。
自分は萌黄 をバカにしたかったわけじゃない。
ただ、なんでもできる仲良しが、珍しく戸惑っているようで嬉しかったのだ。
これでちょっとは役に立てると。
だから、少しからかったあとに、助ける側になりたかったのに。
「……アイ子ちゃん、また今度遊ぼ」
気弱に笑いながら、萌黄 がアイ子の袖 を引っ張った。
「お兄ちゃんがね、本を貸してくれたんだ。だから、今日は読書をするね」
「う」
昨日の少年を思い出したアイ子は、思わず言葉を詰まらせた。
「ほらぁ、スカシマンはひとりがいいんだって。じゃあ、3時にこの公園で待ち合わせ」
「あのねえ、もえちゃんねえ!」
得意気なトップリーダーを無視して、アイ子は萌黄 に向き直る。
「アタシはもえちゃんと遊びたいの!なんでそんなこと言うのっ」
「だ、だって、アイ子ちゃんがみんなとケンカになっちゃうから……」
「またイイコぶってぇ」
「九九も言えないくせに、エラソーに」
「読書だってー。カッコつけちゃって、キモ」
今日の学校は、久しぶりに和 やかだったのに。
「足が遅いし、走り方もヘンだよね、雪下 さんって」
「絵もビミョー」
「でも、いっつもエラソーなんだよねー」
団子たちが萌黄 に次々浴びせているのは九九など関係ない、もはやただの罵詈雑言だ。
「うっさいな、アンタたちはっ」
雑音にイライラしたアイ子は、団子たちを怒鳴った勢いのまま、萌黄 に迫る。
「もえちゃん!はっきりしなよっ」
「そうだよー、優等生のフリやめなよー」
外野のツッコミに、アイ子はキレそうになる。
これじゃあ、自分も萌黄 を責めたてる側に回ったようじゃないか。
「はっきりとイヤだって言いなよ」と伝えたいだけなのに。
わかってるクセに、都合良く言葉尻を捉えるトップリーダーを、アイ子はキッとにらみつけた。
「アイ子ちゃん、ケンカ、ダメだよ」
おろおろする萌黄 を見て、トップリーダーがニヤリと笑う。
「まーたぶっちゃってぇ」
萌黄 の言動のなにもかもを悪口に変換するトップリーダーに、アイ子は腹が煮えくり返った。
だが、コイツらを黙らせる方法がもうわからない。
いっそ全部無視して、萌黄 と手をつないで走って逃げてしまおう。
そう思ったアイ子が萌黄 に手を伸ばした、そのときだった。
「本当にごめんなさいね、アイ子ちゃん」
小さな頭に指をめり込ませているキレイな人が、口にしている言葉とはそぐわない、華やかな笑顔でアイ子を見ていた。
「あの、
アイ子の隣に立つ母親が戸惑い、眉を曇らせてキレイな人に声をかける。
「謝っていただきたいわけではないんです。仲直りを」
「まあ」
わざとらしいその口調に、アイ子の背中がぞわりとした。
「
押さえつけている腕の力が強まったのか、「仲良し」の首がさらに下がる。
「ひどいというなら、ウチのアイ子も同じです。子供同士のケンカですから、どちらが悪いのかではなくて」
「いいえ、悪いのはこの子です」
迫力ある声できっぱりと言い切られて、アイ子の母親は思わず口を閉じた。
「お嬢さんを引っぱたくなんて」
「アイ子は引っかきました」
相手から会話を奪い返した母親を見上げると、キレイな人に向けられたその目は、危ないものを見るように細められている。
「
母親はサンダルをつっかけて玄関のたたきに降りると、小さな頭を押さえている腕を半ば強引に払って、腕の中に
「あのね、アイ子はずっと、
アイ子の母親に背中を支えらえた
「アイ子ちゃん、あの、ごめんなさい」
震えるその声を聞いた瞬間に、アイ子は素足でたたきに飛び出していた。
「ごめんはアタシなの!もえちゃん、イジワル言ってごめんね。……明日、また一緒に学校行こう」
「でも、そしたらアイ子ちゃんが」
「もえちゃんがハブられてるの、アタシほんとはイヤだもん」
「アイ子ちゃんまで仲間外れにされちゃうよ」
「いいよ、もえちゃんがいれば」
「……アイ子ちゃん……」
小さな少女ふたりがぎゅっと抱き合う背中を、アイ子の母親がぽんぽんと優しく叩く。
「
「はあ、そうですか」
きっぱりと母親は告げたのに。
相手は「だからどうした」とでも言いたげだ。
「今日はご足労いただいて、申し訳ありませんでした」
「
「気がすむもなにも、最初から
「はあ、そうですか」
先ほどのリピートのような気の抜けた返事とともに、アイ子の体に回されていた
「帰りますよ、
冷たく強張ったその横顔に、
パァンッ!
思い切り振りかぶられた手で頬を
「恥をかかせてっ!」
バシッ!バシッ!
うずくまる頭に、さらに平手が振り下ろされる。
「土下座して謝れっ!」
バシッ!
「早くしなさい!強情な子ねっ」
ドアの取っ手を握るアイ子の手が震え、その目に涙が浮かんだ。
「もえちゃ……」
そんなに叩かれ続けていたら、土下座の体勢だって取れるわけがない。
それなのに「早くしろ」なんて、あんまりだ。
「お、おかあさ……」
アイ子が振り返ったのと同時に、様子を見に来た母親がドアを大きく開ける。
「
「何をやってるんですかっ!」
かすれた怒鳴り声を聞いたキレイな人が、振り上げていた手をゆっくりと下した。
「あら、
「……こんなことだろうと思った」
スマートフォンの画面を見せつけにらみ上げる少年を、キレイな人が冷めた様子で見下ろした。
「いやだ。告げ口したの、
「
「ちょっと感情的になっただけで、大げさな」
「”ちょっと”の意味を辞書で調べてみては?……帰ろう、
「は、はい」
突然、少年から声をかけられた母親の声が裏返った。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。いつも仲良くしてくれてありがとう、アイ子ちゃん」
優しい口調に、親し気な笑顔。
だが、少年らしからぬ迫力に気圧されたアイ子は、返事もできない。
「今週でリフォームも終わるよ。今日からご飯は二階で食べようね。コロッケを買ってきてあるから」
泣きじゃくる少女に話しかけ続ける、変声期特有の声が遠ざかっていった。
「しつけの範囲を超えてる」
母親の非難は、キレイな人の耳にも届いたはずなのに。
その人はこちらを振り返ることもなく、仕草だけはたおやかに、
ため息をついて見送る母親が、ぎこちなく笑ってアイ子の背中をさする。
「担任の先生には、お母さんから話しをするから。アイ子は
母親はそう言ってくれたけど、「今までどおり」になんかいくだろうか。
アイ子の不安は、翌日的中することになった。
◇
朝は一緒に登校したし、昼休みも一緒に遊んだ。
なのに、近道して帰ろうと、公園を突っ切ったのがよくなかったのか。
「アイ子ちゃん」
学年でも一番体格のよいクラスメートが、アイ子と
それはアンチ
その背後では、
「今日、一緒に遊ぼうよ。うちにおいで」
「行かない。もえちゃんと遊ぶ約束したから」
「だって、ケンカしてるんでしょ。うちに新しいゲームがあるんだよ」
「ゲームとかしないし」
「アイ子ちゃん、
「言ってない。もえちゃん、九九の七の段できないんだねって言っただけだよ。そしたら、アンタたちが言い出したんでしょ。いつもスカしてるクセにって」
「ホントのことじゃん。掛け算もできないくせに、せんせーにコビちゃってさあ」
「みんなそう思ってたよ!」
「イイコぶってるよね、いつも」
突然、団子たちの一斉砲火が始まった。
「アイ子ちゃん、いきなり叩かれてたじゃんっ」
多数派であることに気をよくしたトップリーダーの女子が、小さなあごをそらす。
「引っかき返したもんっ」
堂々と言うことではないのだが、アイ子は必死だった。
自分は
ただ、なんでもできる仲良しが、珍しく戸惑っているようで嬉しかったのだ。
これでちょっとは役に立てると。
だから、少しからかったあとに、助ける側になりたかったのに。
「……アイ子ちゃん、また今度遊ぼ」
気弱に笑いながら、
「お兄ちゃんがね、本を貸してくれたんだ。だから、今日は読書をするね」
「う」
昨日の少年を思い出したアイ子は、思わず言葉を詰まらせた。
「ほらぁ、スカシマンはひとりがいいんだって。じゃあ、3時にこの公園で待ち合わせ」
「あのねえ、もえちゃんねえ!」
得意気なトップリーダーを無視して、アイ子は
「アタシはもえちゃんと遊びたいの!なんでそんなこと言うのっ」
「だ、だって、アイ子ちゃんがみんなとケンカになっちゃうから……」
「またイイコぶってぇ」
「九九も言えないくせに、エラソーに」
「読書だってー。カッコつけちゃって、キモ」
今日の学校は、久しぶりに
「足が遅いし、走り方もヘンだよね、
「絵もビミョー」
「でも、いっつもエラソーなんだよねー」
団子たちが
「うっさいな、アンタたちはっ」
雑音にイライラしたアイ子は、団子たちを怒鳴った勢いのまま、
「もえちゃん!はっきりしなよっ」
「そうだよー、優等生のフリやめなよー」
外野のツッコミに、アイ子はキレそうになる。
これじゃあ、自分も
「はっきりとイヤだって言いなよ」と伝えたいだけなのに。
わかってるクセに、都合良く言葉尻を捉えるトップリーダーを、アイ子はキッとにらみつけた。
「アイ子ちゃん、ケンカ、ダメだよ」
おろおろする
「まーたぶっちゃってぇ」
だが、コイツらを黙らせる方法がもうわからない。
いっそ全部無視して、
そう思ったアイ子が