萌えいづる緑

文字数 3,978文字

 羊介(ようすけ)くんの手を濡らしていく水滴は自分のものなのに、どこか不思議な気持ちで眺めていた。
 泣くなんて、いつ以来だろう。
 涙と一緒に、ずっと心に巣くっていたわだかまりが流れていくみたいだ。
 今なら話せるかもしれない。
 羊介(ようすけ)くんとの約束を果たせなかった(とが)よりも、もっともっと奥深い場所にあるもの。
 がんじがらめに縛り付けられているのに、普段は無視している自分の心もとなさを。
 羊介(ようすけ)くんになら、打ち明けられるかもしれない。
「私ね、家族の中では浮いた存在なの。千草(ちぐさ)さん、兄は小さいころからよくできる人で、母親の実子の妹はとっても可愛いの。私だけが何の特徴もない子供で……」
「え、ちょっと待って」
 ぐいっと肩を押されて顔を上げると、眉間に深いシワを刻んでいる羊介(ようすけ)くんが首を傾けていた。
「情報多すぎ。妹さんもいるの?ジッシってなに?」
 そう。
 家族の話をしようと思うと、ここから始めなければならない。
 だから、幼なじみで事情をよく知るアイ子以外のクラスメートにも、つき合ってたころの市島くんにも。
 家族の話題なんて出したことはなかった。
「私と千草(ちぐさ)さんの産みの母はね、早くに他界しているの。私は覚えていないくらいの、ほんの小さいころに。今の母親は父の再婚相手なんだけど、それを知ったのは小学校に上がってから。そのころから、ちょっとずつ雰囲気がおかしくなっていって……」


 それは具体的に何がとも言えないほどの、微かな態度の変化から始まった。
 母親の笑顔が減り、話しかけても聞こえないフリをされることが増えていって。
 そのころ妹はちょうどイヤイヤ期まっさかりで、そのお世話に疲れ切っていたせいもあると思う。
 父は家にいないことが多く、今でいう「ワンオペ育児」だったから。
 それは小学校へ入学して、しばらく経ったある朝。
 子供の目にも疲れがたまっているとわかる顔をしていた母親が、目の前にバサ!と総菜パンを投げるように置いて、ボソリとつぶやいた。
「血のつながりがないから、こんなにイライラするのかしら。ほめるようなところもないし」
 面と向かって言われたわけじゃない。
 けれど、独り言にしては大きな声。
 幼心にも、それ以上聞いてはいけないことだと気がついたから、その意味を尋ねることもせずにそのまま登校した。
 そして、何事もなかったかのような日常が過ぎていって、油断していた週末。
 珍しく家にいた父に母親は言った。
萌黄(もえぎ)さんはしっかりしているから、事実を伝えました。そのほうが、お互いの立場を理解してつき合えるでしょうから」
 表情も変えず、何も言わない父の横で。
 中学生になったばかりの兄が、食卓テーブルを思い切り(こぶし)で殴りつけた。
「話した?保身の嘘を言わないでください。聞こえよがしの悪口でしかなかったじゃないですか。萌黄(もえぎ)が何かしましたか」
「してませんよ。悪いことも、いいことも」
 口調も態度も穏やかだけれど、まるで見知らぬ人になってしまったような母親が怖くて、怖くて。
「嫌いではありません。でも、好きでもない。……(とら)えどころがなくて、向き合い方がわからない。よその子供だと思ったほうが、いっそ割り切れるんです」
 わずかに息を飲む気配が伝わってきたけれど、やっぱり父は何も言わない。
 私を責めることはなかったけれど、かばってもくれなかった。
千草(ちぐさ)さんのように、難関私立に合格できるほど優秀な子なら自慢にも思えます。でも、萌黄(もえぎ)さんには何もない。どう接すればいいのかわからない」
「だから、萌黄(もえぎ)に習い事を詰め込んでいるのか。ほとんど家にいる暇もないほど」
 やっと口を開いた父の問いかけに、今度は母親が沈黙する。
「もういいです」
 ガタン!と、イスがひっくり返るほど乱暴に兄が立ち上がって、私の腕をつかんで立ち上がらせた。
「衣食住、不自由なく過ごさせてくれていることは認めます。でも、こんなことを萌黄(もえぎ)に聞かせる、その神経がわからない。いい年をした大人のクセに。同居人で結構。萌黄(もえぎ)のことは、僕が大切な妹として守っていきます」
 見上げた兄の凍てついた目に、あると思っていた「家族」はどこにもなかったのだと、幼心に思い知らされた。
「あなたが父と夫婦でいることは、僕たちにはどうしようもないし関係がない。あなたは自分の子供の面倒だけ見ていればいい。行こう、萌黄(もえぎ)。宿題を見てあげる」
 その後、兄と父の間でどんな話がされたのかはわからない。
 けれど、私が1年生の間に家をリフォームをすることが決まったから、父にも思うところがあったのだろう。
 もともと子供部屋があった二階にキッチンやトイレ、小さいけれどお風呂にいたる水回りを整えた、そんなミニマンションのような場所で兄と暮らし始めたのは、2年生の秋も終わるころだった。
 中学生の兄と、小学校低学年の私。
 いくら兄が年齢よりもしっかりしていたとはいえ、炊事や洗濯などを子供たちだけでこなすのは、最初はうまくいかないこともあった。
 買ってきた総菜が続いたり、洗濯を忘れて慌てたり。
 けれど、私が中学に上がるころにはふたりとも家事スキルも上がって、作れる料理のレシピも増えた。
 もっとも、司法試験を目指す兄とは時間が合わなくなっていったから、朝も夜も、ほとんどひとりの食卓だったけれど。


「気は楽だったけどね。失敗しても誰にも迷惑かけないし。この間、羊介(ようすけ)くんが”おいしい”って言ってくれたオムライスもね、最初に作ったときは、コゲコゲのボロボロで」
 まるで自分が傷ついたような顔をする羊介(ようすけ)くんは、何も言わずにぎゅっと抱きしめてくれた。
千草(ちぐさ)さんが暑苦しいくらい私を構い倒すのは、いつまでも”かわいそうな妹”に見えてるからだと思う。一度、あんまり距離が近いと思ったのか、庭先で遭遇した母親から”まるで新婚さんみたいね。兄妹(きょうだい)で気持ちが悪い”と言われたことがあって」
「そういうことって、お兄さんにも言うの?」
千草(ちぐさ)さんに言ったら100倍返しよ」
萌黄(もえぎ)さんにだけなの?なら、ただの意地悪じゃん、それって」
「素直な感想じゃないかな。千草(ちぐさ)さんには恩も感じるけど、過保護は過保護だし。母親はね、ちょっと子供っぽい人なのよ。脊髄反射で言葉を投げるの」
「でも、萌黄(もえぎ)さんは何にもしてないんだろっ」
「どうだろう。自分ではそのつもりがなくても、相手が傷ついたり不快に思うこともあるじゃない?まして、好き嫌いは理屈じゃないから。学費その他で制限をかけられたことはないし、浪人もさせてもらえた。その点だけでも感謝しないとね。ただ……」
 Tシャツを濡らしてしまうと思ったけれど、顔を見られたくなくて、抱きしめてくれている、その胸に顔を(うず)める。
「私なんかとつき合ってるって知ったら、羊介(ようすけ)くんが何を言われるか……。千草(ちぐさ)さんは絶対、鬱陶しいだろうし。……だから、言えなくて」
 考えないようにしていた不安を言葉にしてしまうと、涙が止まらなくなった。
羊介(ようすけ)くんには、もっとふさわしい出会いがあるはずなのよ。私みたいに年の離れた、しかも何の取柄もない相手じゃなくて。なのに、その機会を奪って、そのうえ、私の家族から嫌な思いをさせられたら、イタっ!」
 耳に牙を立てられた。
 そう思うくらいの痛みだった。
「俺のことを、俺の未来を勝手に語らないで」
 こんなに強い声で、面と向かって怒られたのは初めてかもしれない。 
「……ごめんなさい」
 上目遣いで見上げれば、今度は噛みつかれたところをペロリと舐められる。
「妹さんとはどうなの?」
「仲がいいわけではないけど、とくに嫌われてもないと思う。千草(ちぐさ)さんのことは好きみたい。電話の相手に”私のお兄ちゃんって、すっごいクールでサイコーなの”って言ってたし。けど、千草(ちぐさ)さんのほうからは、滅多に口を利かないのよ。うちの家族が(いびつ)なのは杏子(あんず)のせいじゃないのに、兄妹(きょうだい)の関係を築けないのは気の毒でしょう?だから、私も兄さんって呼ばないようにしてるの。でもね」  
 誰よりも馴染んだぬくもりに頬を寄せると、また涙が湧いてきた。
「あのとき、いっそ(ののし)ってくれてたら、反発もできたかもしれないって思うの。ただ”愛する価値のない子供”と判断されて、どう振舞うのが正しかったのかな。文句を言ったら罰があたるような環境で、……っ!」
 羊介(ようすけ)くんの拘束が強まって、息がつまる。
「文句言ってやればよかったじゃねぇかっ、ふざけんなって!大人の事情なんか知らねぇよ、子供がいるって知ってて再婚したくせにっ。てめぇの感情くらいてめぇで決着つけろ、子供なんかにケツ持ちさせんな、ヒキョー者って」
 ぐすりと鼻をすする音が、頭の上から聞こえてきた。
「バカだな、萌黄(もえぎ)さんは。我慢しすぎだよ。アイツのことだって”気持ち悪いんだよ、このドヘンタイ!”って、言ってやればよかったのに」
「そっか。……言ってもよかったんだね」
「そうだよ」
 顔を上げると、可愛い顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。
 それには胸が痛むのに……、嬉しかった。
 射るような目をしながら、ぐすぐすと泣いている羊介(ようすけ)くんが本当に愛しい。
「つき合っていた人からも軽く扱われて、自分の存在意義がわからなくなって、何もかも投げ出したくなってたころにね。勉強教えてって、キラキラした目をしてお願いする可愛い子に出会ったの。会うたびに嬉しそうな顔をしてくれて、ほめると泣きそうな顔で笑うの」
 さっきとは逆。
 両手を伸ばして、羊介(ようすけ)くんの涙と鼻水を(ぬぐ)う。
「ああ、私みたいな人間を、こんなに必要としてくれる子がいるんだって思ったら、本当に嬉しくて、温かい気持ちになれたの。なのに、その子を裏切るような真似をして、それでもその縁を諦めきれなくて……。自分では断ち切れなくて、田之上先生を頼ったりして」
 憧れてもらえるような存在じゃない。
 それを知って、羊介(ようすけ)くんはどう思っただろうか。
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