萌えいづる緑
文字数 3,978文字
泣くなんて、いつ以来だろう。
涙と一緒に、ずっと心に巣くっていたわだかまりが流れていくみたいだ。
今なら話せるかもしれない。
がんじがらめに縛り付けられているのに、普段は無視している自分の心もとなさを。
「私ね、家族の中では浮いた存在なの。
「え、ちょっと待って」
ぐいっと肩を押されて顔を上げると、眉間に深いシワを刻んでいる
「情報多すぎ。妹さんもいるの?ジッシってなに?」
そう。
家族の話をしようと思うと、ここから始めなければならない。
だから、幼なじみで事情をよく知るアイ子以外のクラスメートにも、つき合ってたころの市島くんにも。
家族の話題なんて出したことはなかった。
「私と
◇
それは具体的に何がとも言えないほどの、微かな態度の変化から始まった。
母親の笑顔が減り、話しかけても聞こえないフリをされることが増えていって。
そのころ妹はちょうどイヤイヤ期まっさかりで、そのお世話に疲れ切っていたせいもあると思う。
父は家にいないことが多く、今でいう「ワンオペ育児」だったから。
それは小学校へ入学して、しばらく経ったある朝。
子供の目にも疲れがたまっているとわかる顔をしていた母親が、目の前にバサ!と総菜パンを投げるように置いて、ボソリとつぶやいた。
「血のつながりがないから、こんなにイライラするのかしら。ほめるようなところもないし」
面と向かって言われたわけじゃない。
けれど、独り言にしては大きな声。
幼心にも、それ以上聞いてはいけないことだと気がついたから、その意味を尋ねることもせずにそのまま登校した。
そして、何事もなかったかのような日常が過ぎていって、油断していた週末。
珍しく家にいた父に母親は言った。
「
表情も変えず、何も言わない父の横で。
中学生になったばかりの兄が、食卓テーブルを思い切り
「話した?保身の嘘を言わないでください。聞こえよがしの悪口でしかなかったじゃないですか。
「してませんよ。悪いことも、いいことも」
口調も態度も穏やかだけれど、まるで見知らぬ人になってしまったような母親が怖くて、怖くて。
「嫌いではありません。でも、好きでもない。……
わずかに息を飲む気配が伝わってきたけれど、やっぱり父は何も言わない。
私を責めることはなかったけれど、かばってもくれなかった。
「
「だから、
やっと口を開いた父の問いかけに、今度は母親が沈黙する。
「もういいです」
ガタン!と、イスがひっくり返るほど乱暴に兄が立ち上がって、私の腕をつかんで立ち上がらせた。
「衣食住、不自由なく過ごさせてくれていることは認めます。でも、こんなことを
見上げた兄の凍てついた目に、あると思っていた「家族」はどこにもなかったのだと、幼心に思い知らされた。
「あなたが父と夫婦でいることは、僕たちにはどうしようもないし関係がない。あなたは自分の子供の面倒だけ見ていればいい。行こう、
その後、兄と父の間でどんな話がされたのかはわからない。
けれど、私が1年生の間に家をリフォームをすることが決まったから、父にも思うところがあったのだろう。
もともと子供部屋があった二階にキッチンやトイレ、小さいけれどお風呂にいたる水回りを整えた、そんなミニマンションのような場所で兄と暮らし始めたのは、2年生の秋も終わるころだった。
中学生の兄と、小学校低学年の私。
いくら兄が年齢よりもしっかりしていたとはいえ、炊事や洗濯などを子供たちだけでこなすのは、最初はうまくいかないこともあった。
買ってきた総菜が続いたり、洗濯を忘れて慌てたり。
けれど、私が中学に上がるころにはふたりとも家事スキルも上がって、作れる料理のレシピも増えた。
もっとも、司法試験を目指す兄とは時間が合わなくなっていったから、朝も夜も、ほとんどひとりの食卓だったけれど。
◇
「気は楽だったけどね。失敗しても誰にも迷惑かけないし。この間、
まるで自分が傷ついたような顔をする
「
「そういうことって、お兄さんにも言うの?」
「
「
「素直な感想じゃないかな。
「でも、
「どうだろう。自分ではそのつもりがなくても、相手が傷ついたり不快に思うこともあるじゃない?まして、好き嫌いは理屈じゃないから。学費その他で制限をかけられたことはないし、浪人もさせてもらえた。その点だけでも感謝しないとね。ただ……」
Tシャツを濡らしてしまうと思ったけれど、顔を見られたくなくて、抱きしめてくれている、その胸に顔を
「私なんかとつき合ってるって知ったら、
考えないようにしていた不安を言葉にしてしまうと、涙が止まらなくなった。
「
耳に牙を立てられた。
そう思うくらいの痛みだった。
「俺のことを、俺の未来を勝手に語らないで」
こんなに強い声で、面と向かって怒られたのは初めてかもしれない。
「……ごめんなさい」
上目遣いで見上げれば、今度は噛みつかれたところをペロリと舐められる。
「妹さんとはどうなの?」
「仲がいいわけではないけど、とくに嫌われてもないと思う。
誰よりも馴染んだぬくもりに頬を寄せると、また涙が湧いてきた。
「あのとき、いっそ
「文句言ってやればよかったじゃねぇかっ、ふざけんなって!大人の事情なんか知らねぇよ、子供がいるって知ってて再婚したくせにっ。てめぇの感情くらいてめぇで決着つけろ、子供なんかにケツ持ちさせんな、ヒキョー者って」
ぐすりと鼻をすする音が、頭の上から聞こえてきた。
「バカだな、
「そっか。……言ってもよかったんだね」
「そうだよ」
顔を上げると、可愛い顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。
それには胸が痛むのに……、嬉しかった。
射るような目をしながら、ぐすぐすと泣いている
「つき合っていた人からも軽く扱われて、自分の存在意義がわからなくなって、何もかも投げ出したくなってたころにね。勉強教えてって、キラキラした目をしてお願いする可愛い子に出会ったの。会うたびに嬉しそうな顔をしてくれて、ほめると泣きそうな顔で笑うの」
さっきとは逆。
両手を伸ばして、
「ああ、私みたいな人間を、こんなに必要としてくれる子がいるんだって思ったら、本当に嬉しくて、温かい気持ちになれたの。なのに、その子を裏切るような真似をして、それでもその縁を諦めきれなくて……。自分では断ち切れなくて、田之上先生を頼ったりして」
憧れてもらえるような存在じゃない。
それを知って、