策士危うし
文字数 3,915文字
私の待ち受けが変わったのは、一昨日 のことだ。
「雪下 先生」
放課後、職員室に入ろうとドアに手を伸ばしかけたとき。
すすすと足音も立てずに近づいてきた羊介 くんから、声をかけられた。
「どうしたの?職員室に用事ですか?」
「部活に行く途中です。ねえ」
ちょいちょいと手招きされたので、一緒に窓際へと移動する。
「ラッキーの超絶サイコーの写真が撮れたんだけど、見ない?朝送ろうと思ったんだけどさ、時間がなくて」
声を潜めた羊介 くんが手にするスマートフォンには、見れば誰でもが笑顔になってしまうような、ヘソ天ラッキーの写真が表示されていた。
「ふふっ、ボールを抱 えたまま寝ちゃったの?」
なるべく声を抑えようと思ったけれど、あまりの微笑ましさに吹きだしてしまう。
「そう。これ、待ち受けにしない?萌黄 さんってば、初期設定のまんまじゃん」
「変え方がよくわからないんだもの」
「じゃあ、そっち送って変えてあげるよ。あと、乗り換え案内のいいアプリを見つけたんだ。欲しいって言ってたじゃん?遅延とか通知して、迂回案内もしてくれるやつ。インストールする?」
「わあ、助かる。こないだも講義に大遅刻しちゃって」
「んじゃスマホ貸して。今から担当教員と面談?長くかかりそう?」
「どうかなぁ。授業の進め方のアドバイスとかもらいたいから……」
「部活前にやっといてあげる。終わったら、田之上先生に預けとくよ。それなら、部活中の俺に声かけなくてもいいから気も楽でしょ。……会いに来てくれてもいいけど」
不満そうな羊介 くんには気づかないふりをして、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「部活動の邪魔はしたくないから。じゃあ、よろしくお願いいします」
その日以降、私のスマホの待ち受けはラッキーになり、便利アプリもインストールしてもらって、快適になったのだけれど。
◇
「部活、行ってくる。……飲み会、気をつけてね」
「懇親会兼ねた打ち上げだってば。はい、いってらっしゃい」
さっきまでごねてたのが嘘のように、振り返りもせずに羊介 くんは準備室を出ていった。
今日はわりと素直に引き下がったなあ、ちょっと大人になったのかな、なんて。
姉的な立場でのんびり考えている場合ではまったくなかった、と気づいたのはあとのこと。
高校生たちに翻弄された同志と恩師に囲まれ、労 いを受けてエールを交換する打ち上げは、先生方の本音や奮闘記なども聞くことができて楽しく、有意義な時間だった。
「では、みなさんが望む将来へ歩き続けられるよう、心から祈っています!教え子がこんなに立派になって嬉しい!」
ベテランの古典教師が涙声で締めくくった挨拶には、思わずウルっときてしまう。
「こちらこそ、ありがとうございました」
テーブルに手をつき、教育実習生 たちは感謝を込めて頭をさげた。
(仮)とはいえ、同じ場所に立ってみればよくわかる。
高校生のころに、どれほど先生方がご苦労されていたかを。
そうして三々五々と、実習生仲間たちと会場の小料理屋から外に出たとたんに、同大の池之端君が肩に腕を回してきた。
「雪下 、二次会行くだろ?今日土曜だから、明日休みじゃん」
かなり酔ってる感じだけど、そんなに飲んでたかなぁ……。
アイ子の飲みっぷりがいつもスゴイから、他人の飲む量が適正なのかどうかの判断がつかない。
「今日はやめておく。さすがにこの二週間、緊張して疲れたもの。池之端君は元気ねえ」
「いや、くったくっただけどさ。だからこそ癒されたいわけだよ。いこーよ雪下 。お前のほっぺた、まっかでカワイイ!オレを癒して!」
「なに言ってんの、この酔っぱらい」
抱きすくめてきた腕を解 こうとするけど、なんだか拘束されてるみたいに離れない。
……タコかっ!
「みんなで行くのが嫌なら、ふたりで抜ける?静かに飲めるとこ知ってるよ」
ここは複数路線が乗り入れするターミナル駅が近いから、オシャレなバーも、わいわい騒げるカラオケもたくさんあるのは知っている。
でも。
「静かにも、にぎやかにも、もう飲めないから帰る」
「じゃあ、次はいつ会う?せっかく仲良くなったんだからさ、飯でも食いに行こうぜ」
「せっかく」とは。
とくべつ仲良くなった覚えはないし、実習以外で会う必要も感じない。
絶賛お断りしたいけれど、まずこの吸盤がついてるような腕を、どうにかして剥 がさなければ。
だんだんと手が胸のほうに下がってくるのはわざとなのか、無意識なのか。
どちらか判断はつかないけれど、とにかく不快。
指摘したいけれど、刺激しないほうがいいのかなあと考えあぐねていたとき。
「せんせーたち、こんなところでナニやってんですか」
それはそれは聞き慣れた声がした。
「ん?キミ誰?」
「アンタほんとに酔ってんの?池之端せんせー。実習期間中はお世話になりました。2年の木場野 です」
「えぇっ?!」
池之端君が驚くのも無理はない。
私服の羊介 くんは、服のチョイスが大人っぽいせいか、高校生に見えないのだ。
前髪も後ろに流してセットしていて、雰囲気がまるで違う。
多分、ちょっと無理してるんだと思うけど。
……させてしまっているのだろうけれど。
でも、精悍な顔にその恰好はよく似合っていて、大学生と言っても違和感がない。
「木場野 ?!ほんとに?ってかこんな時間に、こんなとこで何してるんだ?高校生が」
「こんな時間って、まだ9時前ですよ。予備校が終わったところです」
「あ、そっか。6時始まりだったからそんなもんか。でも、こんな場所で……」
「地下街の本屋に行こうと思ってただけです」
ツンとあごを上げて池之端くんを見下ろす羊介 くんは、すでに狼濃度が高めらしいけれど。
その発言に、肩に回された腕の不快感も忘れて、チベットスナギツネのような目になってしまった。
今、私たちがいる場所は、羊介 くんが通う予備校からターミナル駅地下街へと向かう、裏通りである。
「ところで池之端せんせー」
目を据 わらせた羊介 くんが、大きく一歩近づいてくる。
「それってセクハラじゃん。萌黄 さん嫌がってんのがわかんないの?いい加減にしろよ」
「萌黄
べりっと力任せに腕をはがされた池之端君が、よろけて後ろに一歩下がった。
「ちっ。親戚なんかじゃねぇよ。俺の大事な人だよっ。萌黄 さん、まだ用事あんの?そいつに」
「ないよ」
正直助かったけれど、「ある」なんて言った日には、噛みつきそうな顔をしているなあ。
「そ。じゃあ、池之端せんせーって、もう先生じゃねぇよな。気をつけて帰れよ、このセクハラ大学生。写メ撮ったからな。これを理由に萌黄 さんに嫌がらせなんかしてみろ。速攻バラまかれる覚悟しとけよっ」
羊介 くんはそれだけ言い放つと、私の手を取ってぐいぐいと歩き出した。
「っとに。だから気をつけろって言ったのに。なんでこんなにスキだらけなの?」
ぶつぶつ文句を言ってはいるけれど、歩くペースは合わせてくれているし、握る手は優しい。
「よーすけくん」
酔いが回ってきたのか、発音が怪しくなってしまった。
「ちょっと待って。今、水買うから」
「とーさつは、ダメだよね」
「盗撮じゃねぇもん。証拠写真だもん」
また屁理屈をと思うけれど、酔った頭ではろくな反論が思い浮かばない。
「よびこー行ったんだね」
「通ってるって知ってるじゃん」
「今日は授業がある日だったかなぁ?」
一番気になったところを突 くと、羊介 くんの肩がビクリと揺れる。
しばらく歩いて、駅前広場に出たところで、つかまれた手を少し後ろに引けば。
羊介 くんは立ち止まってくれたけれど、そのまま振り向きもしない。
「今日はよびこー、ない日だよね?」
「ほ、補講があった……」
「そう言って、おうちを出てきたの?」
「……」
「こっち見て、よーすけくん」
肩越しにちょっと振り向きはするけれど、羊介 くんはすぐにまた前を向いてしまう。
……ふーぅん。
そういう態度に出るなら、奥の手を使うよ?
「明日のデート、中止します」
「えっ?!」
ぱっと手を離して告げれば、大好きな人がやっと振り向いてくれた。
その目が驚きと不安に揺れているけれど、今は絆 されている場合ではない。
「映画は中止。勉強会を、します。高校の正門前で待ち合わせです。聞きたいことがあるの。でも、今日はもう遅いから」
「ぐぇ」
鳩尾 に軽く拳 をめり込ませると、大げさなうめき声が上がった。
「おうちまでは送ってあげられないけど、改札まで一緒に行こうね」
「……明日、何時?」
「何時にしよう?」
声を低くする羊介 くんを笑顔で見上げると、形のよい瞳がすっと細くなる。
「早くがいい」
「10時くらい?」
「もうちょっと早く」
「9時くらい?」
「遅い」
「えぇっ?!10分で校門まで行ける、よーすけくんじゃないんだから」
私の家からだと、高校まで小一時間はかかるのだ。
「じゃあいいよ、9時で」
しぶしぶといった様子でうなずく恋人に笑ってしまう。
「なに笑ってんだよ」
「可愛いなぁって思って」
「萌黄 さんのほうがカワイイに決まってんだろっ」
「そんな決まりはありません。よーすけくん」
「んだよっ」
「先にお水、買おう!」
「……もー」
やっと口元をほころばせた羊 介くんが、再び手を握って横に並んでくれた。
「改札前のコンビニに行こう。んで、明日は9時だからな。寝過ごすなよ。寝過ごしたらオニ電するからな」
やりそうだなぁと思いながら、羊介 くんに手を引かれてコンビニに入ったけれど。
その背中に「覚悟しとけよ」とつぶやいたことは、可愛い恋人は知らないと思う。
「
放課後、職員室に入ろうとドアに手を伸ばしかけたとき。
すすすと足音も立てずに近づいてきた
「どうしたの?職員室に用事ですか?」
「部活に行く途中です。ねえ」
ちょいちょいと手招きされたので、一緒に窓際へと移動する。
「ラッキーの超絶サイコーの写真が撮れたんだけど、見ない?朝送ろうと思ったんだけどさ、時間がなくて」
声を潜めた
「ふふっ、ボールを
なるべく声を抑えようと思ったけれど、あまりの微笑ましさに吹きだしてしまう。
「そう。これ、待ち受けにしない?
「変え方がよくわからないんだもの」
「じゃあ、そっち送って変えてあげるよ。あと、乗り換え案内のいいアプリを見つけたんだ。欲しいって言ってたじゃん?遅延とか通知して、迂回案内もしてくれるやつ。インストールする?」
「わあ、助かる。こないだも講義に大遅刻しちゃって」
「んじゃスマホ貸して。今から担当教員と面談?長くかかりそう?」
「どうかなぁ。授業の進め方のアドバイスとかもらいたいから……」
「部活前にやっといてあげる。終わったら、田之上先生に預けとくよ。それなら、部活中の俺に声かけなくてもいいから気も楽でしょ。……会いに来てくれてもいいけど」
不満そうな
「部活動の邪魔はしたくないから。じゃあ、よろしくお願いいします」
その日以降、私のスマホの待ち受けはラッキーになり、便利アプリもインストールしてもらって、快適になったのだけれど。
◇
「部活、行ってくる。……飲み会、気をつけてね」
「懇親会兼ねた打ち上げだってば。はい、いってらっしゃい」
さっきまでごねてたのが嘘のように、振り返りもせずに
今日はわりと素直に引き下がったなあ、ちょっと大人になったのかな、なんて。
姉的な立場でのんびり考えている場合ではまったくなかった、と気づいたのはあとのこと。
高校生たちに翻弄された同志と恩師に囲まれ、
「では、みなさんが望む将来へ歩き続けられるよう、心から祈っています!教え子がこんなに立派になって嬉しい!」
ベテランの古典教師が涙声で締めくくった挨拶には、思わずウルっときてしまう。
「こちらこそ、ありがとうございました」
テーブルに手をつき、
(仮)とはいえ、同じ場所に立ってみればよくわかる。
高校生のころに、どれほど先生方がご苦労されていたかを。
そうして三々五々と、実習生仲間たちと会場の小料理屋から外に出たとたんに、同大の池之端君が肩に腕を回してきた。
「
かなり酔ってる感じだけど、そんなに飲んでたかなぁ……。
アイ子の飲みっぷりがいつもスゴイから、他人の飲む量が適正なのかどうかの判断がつかない。
「今日はやめておく。さすがにこの二週間、緊張して疲れたもの。池之端君は元気ねえ」
「いや、くったくっただけどさ。だからこそ癒されたいわけだよ。いこーよ
「なに言ってんの、この酔っぱらい」
抱きすくめてきた腕を
……タコかっ!
「みんなで行くのが嫌なら、ふたりで抜ける?静かに飲めるとこ知ってるよ」
ここは複数路線が乗り入れするターミナル駅が近いから、オシャレなバーも、わいわい騒げるカラオケもたくさんあるのは知っている。
でも。
「静かにも、にぎやかにも、もう飲めないから帰る」
「じゃあ、次はいつ会う?せっかく仲良くなったんだからさ、飯でも食いに行こうぜ」
「せっかく」とは。
とくべつ仲良くなった覚えはないし、実習以外で会う必要も感じない。
絶賛お断りしたいけれど、まずこの吸盤がついてるような腕を、どうにかして
だんだんと手が胸のほうに下がってくるのはわざとなのか、無意識なのか。
どちらか判断はつかないけれど、とにかく不快。
指摘したいけれど、刺激しないほうがいいのかなあと考えあぐねていたとき。
「せんせーたち、こんなところでナニやってんですか」
それはそれは聞き慣れた声がした。
「ん?キミ誰?」
「アンタほんとに酔ってんの?池之端せんせー。実習期間中はお世話になりました。2年の
「えぇっ?!」
池之端君が驚くのも無理はない。
私服の
前髪も後ろに流してセットしていて、雰囲気がまるで違う。
多分、ちょっと無理してるんだと思うけど。
……させてしまっているのだろうけれど。
でも、精悍な顔にその恰好はよく似合っていて、大学生と言っても違和感がない。
「
「こんな時間って、まだ9時前ですよ。予備校が終わったところです」
「あ、そっか。6時始まりだったからそんなもんか。でも、こんな場所で……」
「地下街の本屋に行こうと思ってただけです」
ツンとあごを上げて池之端くんを見下ろす
その発言に、肩に回された腕の不快感も忘れて、チベットスナギツネのような目になってしまった。
今、私たちがいる場所は、
裏
ということはもちろん、明るく健全な表
通りもあるのだ。「ところで池之端せんせー」
目を
「それってセクハラじゃん。
「
さん
?あぁ、やっぱ親戚とかだった?妙に親しげだもんな。うぉっ?!」べりっと力任せに腕をはがされた池之端君が、よろけて後ろに一歩下がった。
「ちっ。親戚なんかじゃねぇよ。俺の大事な人だよっ。
「ないよ」
正直助かったけれど、「ある」なんて言った日には、噛みつきそうな顔をしているなあ。
「そ。じゃあ、池之端せんせーって、もう先生じゃねぇよな。気をつけて帰れよ、このセクハラ大学生。写メ撮ったからな。これを理由に
「っとに。だから気をつけろって言ったのに。なんでこんなにスキだらけなの?」
ぶつぶつ文句を言ってはいるけれど、歩くペースは合わせてくれているし、握る手は優しい。
「よーすけくん」
酔いが回ってきたのか、発音が怪しくなってしまった。
「ちょっと待って。今、水買うから」
「とーさつは、ダメだよね」
「盗撮じゃねぇもん。証拠写真だもん」
また屁理屈をと思うけれど、酔った頭ではろくな反論が思い浮かばない。
「よびこー行ったんだね」
「通ってるって知ってるじゃん」
「今日は授業がある日だったかなぁ?」
一番気になったところを
しばらく歩いて、駅前広場に出たところで、つかまれた手を少し後ろに引けば。
「今日はよびこー、ない日だよね?」
「ほ、補講があった……」
「そう言って、おうちを出てきたの?」
「……」
「こっち見て、よーすけくん」
肩越しにちょっと振り向きはするけれど、
……ふーぅん。
そういう態度に出るなら、奥の手を使うよ?
「明日のデート、中止します」
「えっ?!」
ぱっと手を離して告げれば、大好きな人がやっと振り向いてくれた。
その目が驚きと不安に揺れているけれど、今は
「映画は中止。勉強会を、します。高校の正門前で待ち合わせです。聞きたいことがあるの。でも、今日はもう遅いから」
「ぐぇ」
「おうちまでは送ってあげられないけど、改札まで一緒に行こうね」
「……明日、何時?」
「何時にしよう?」
声を低くする
「早くがいい」
「10時くらい?」
「もうちょっと早く」
「9時くらい?」
「遅い」
「えぇっ?!10分で校門まで行ける、よーすけくんじゃないんだから」
私の家からだと、高校まで小一時間はかかるのだ。
「じゃあいいよ、9時で」
しぶしぶといった様子でうなずく恋人に笑ってしまう。
「なに笑ってんだよ」
「可愛いなぁって思って」
「
「そんな決まりはありません。よーすけくん」
「んだよっ」
「先にお水、買おう!」
「……もー」
やっと口元をほころばせた
「改札前のコンビニに行こう。んで、明日は9時だからな。寝過ごすなよ。寝過ごしたらオニ電するからな」
やりそうだなぁと思いながら、
その背中に「覚悟しとけよ」とつぶやいたことは、可愛い恋人は知らないと思う。