策士危うし

文字数 3,915文字

 私の待ち受けが変わったのは、一昨日(おととい)のことだ。

雪下(ゆきした)先生」
 放課後、職員室に入ろうとドアに手を伸ばしかけたとき。
 すすすと足音も立てずに近づいてきた羊介(ようすけ)くんから、声をかけられた。
「どうしたの?職員室に用事ですか?」
「部活に行く途中です。ねえ」
 ちょいちょいと手招きされたので、一緒に窓際へと移動する。
「ラッキーの超絶サイコーの写真が撮れたんだけど、見ない?朝送ろうと思ったんだけどさ、時間がなくて」
 声を潜めた羊介(ようすけ)くんが手にするスマートフォンには、見れば誰でもが笑顔になってしまうような、ヘソ天ラッキーの写真が表示されていた。
「ふふっ、ボールを(かか)えたまま寝ちゃったの?」
 なるべく声を抑えようと思ったけれど、あまりの微笑ましさに吹きだしてしまう。
「そう。これ、待ち受けにしない?萌黄(もえぎ)さんってば、初期設定のまんまじゃん」
「変え方がよくわからないんだもの」
「じゃあ、そっち送って変えてあげるよ。あと、乗り換え案内のいいアプリを見つけたんだ。欲しいって言ってたじゃん?遅延とか通知して、迂回案内もしてくれるやつ。インストールする?」
「わあ、助かる。こないだも講義に大遅刻しちゃって」
「んじゃスマホ貸して。今から担当教員と面談?長くかかりそう?」
「どうかなぁ。授業の進め方のアドバイスとかもらいたいから……」
「部活前にやっといてあげる。終わったら、田之上先生に預けとくよ。それなら、部活中の俺に声かけなくてもいいから気も楽でしょ。……会いに来てくれてもいいけど」
 不満そうな羊介(ようすけ)くんには気づかないふりをして、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「部活動の邪魔はしたくないから。じゃあ、よろしくお願いいします」
 その日以降、私のスマホの待ち受けはラッキーになり、便利アプリもインストールしてもらって、快適になったのだけれど。 


「部活、行ってくる。……飲み会、気をつけてね」
「懇親会兼ねた打ち上げだってば。はい、いってらっしゃい」
 さっきまでごねてたのが嘘のように、振り返りもせずに羊介(ようすけ)くんは準備室を出ていった。
 今日はわりと素直に引き下がったなあ、ちょっと大人になったのかな、なんて。
 姉的な立場でのんびり考えている場合ではまったくなかった、と気づいたのはあとのこと。

 高校生たちに翻弄された同志と恩師に囲まれ、(ねぎら)いを受けてエールを交換する打ち上げは、先生方の本音や奮闘記なども聞くことができて楽しく、有意義な時間だった。
「では、みなさんが望む将来へ歩き続けられるよう、心から祈っています!教え子がこんなに立派になって嬉しい!」
 ベテランの古典教師が涙声で締めくくった挨拶には、思わずウルっときてしまう。
「こちらこそ、ありがとうございました」
 テーブルに手をつき、教育実習生(わたしたち)たちは感謝を込めて頭をさげた。
 (仮)とはいえ、同じ場所に立ってみればよくわかる。
 高校生のころに、どれほど先生方がご苦労されていたかを。
 そうして三々五々と、実習生仲間たちと会場の小料理屋から外に出たとたんに、同大の池之端君が肩に腕を回してきた。
雪下(ゆきした)、二次会行くだろ?今日土曜だから、明日休みじゃん」
 かなり酔ってる感じだけど、そんなに飲んでたかなぁ……。
 アイ子の飲みっぷりがいつもスゴイから、他人の飲む量が適正なのかどうかの判断がつかない。
「今日はやめておく。さすがにこの二週間、緊張して疲れたもの。池之端君は元気ねえ」
「いや、くったくっただけどさ。だからこそ癒されたいわけだよ。いこーよ雪下(ゆきした)。お前のほっぺた、まっかでカワイイ!オレを癒して!」
「なに言ってんの、この酔っぱらい」
 抱きすくめてきた腕を(ほど)こうとするけど、なんだか拘束されてるみたいに離れない。
 ……タコかっ!
「みんなで行くのが嫌なら、ふたりで抜ける?静かに飲めるとこ知ってるよ」
 ここは複数路線が乗り入れするターミナル駅が近いから、オシャレなバーも、わいわい騒げるカラオケもたくさんあるのは知っている。
 でも。
「静かにも、にぎやかにも、もう飲めないから帰る」
「じゃあ、次はいつ会う?せっかく仲良くなったんだからさ、飯でも食いに行こうぜ」
 「せっかく」とは。
 とくべつ仲良くなった覚えはないし、実習以外で会う必要も感じない。
 絶賛お断りしたいけれど、まずこの吸盤がついてるような腕を、どうにかして()がさなければ。
 だんだんと手が胸のほうに下がってくるのはわざとなのか、無意識なのか。
 どちらか判断はつかないけれど、とにかく不快。
 指摘したいけれど、刺激しないほうがいいのかなあと考えあぐねていたとき。
「せんせーたち、こんなところでナニやってんですか」
 それはそれは聞き慣れた声がした。
「ん?キミ誰?」
「アンタほんとに酔ってんの?池之端せんせー。実習期間中はお世話になりました。2年の木場野(きばの)です」
「えぇっ?!」
 池之端君が驚くのも無理はない。
 私服の羊介(ようすけ)くんは、服のチョイスが大人っぽいせいか、高校生に見えないのだ。
 前髪も後ろに流してセットしていて、雰囲気がまるで違う。
 多分、ちょっと無理してるんだと思うけど。
 ……させてしまっているのだろうけれど。
 でも、精悍な顔にその恰好はよく似合っていて、大学生と言っても違和感がない。
木場野(きばの)?!ほんとに?ってかこんな時間に、こんなとこで何してるんだ?高校生が」
「こんな時間って、まだ9時前ですよ。予備校が終わったところです」
「あ、そっか。6時始まりだったからそんなもんか。でも、こんな場所で……」
「地下街の本屋に行こうと思ってただけです」
 ツンとあごを上げて池之端くんを見下ろす羊介(ようすけ)くんは、すでに狼濃度が高めらしいけれど。
 その発言に、肩に回された腕の不快感も忘れて、チベットスナギツネのような目になってしまった。
 今、私たちがいる場所は、羊介(ようすけ)くんが通う予備校からターミナル駅地下街へと向かう、裏通りである。
 

ということはもちろん、明るく健全な

通りもあるのだ。
「ところで池之端せんせー」
 目を()わらせた羊介(ようすけ)くんが、大きく一歩近づいてくる。
「それってセクハラじゃん。萌黄(もえぎ)さん嫌がってんのがわかんないの?いい加減にしろよ」
萌黄(もえぎ)

?あぁ、やっぱ親戚とかだった?妙に親しげだもんな。うぉっ?!」
 べりっと力任せに腕をはがされた池之端君が、よろけて後ろに一歩下がった。
「ちっ。親戚なんかじゃねぇよ。俺の大事な人だよっ。萌黄(もえぎ)さん、まだ用事あんの?そいつに」
「ないよ」
 正直助かったけれど、「ある」なんて言った日には、噛みつきそうな顔をしているなあ。
「そ。じゃあ、池之端せんせーって、もう先生じゃねぇよな。気をつけて帰れよ、このセクハラ大学生。写メ撮ったからな。これを理由に萌黄(もえぎ)さんに嫌がらせなんかしてみろ。速攻バラまかれる覚悟しとけよっ」
 羊介(ようすけ)くんはそれだけ言い放つと、私の手を取ってぐいぐいと歩き出した。
「っとに。だから気をつけろって言ったのに。なんでこんなにスキだらけなの?」
 ぶつぶつ文句を言ってはいるけれど、歩くペースは合わせてくれているし、握る手は優しい。
「よーすけくん」
 酔いが回ってきたのか、発音が怪しくなってしまった。
「ちょっと待って。今、水買うから」
「とーさつは、ダメだよね」
「盗撮じゃねぇもん。証拠写真だもん」
 また屁理屈をと思うけれど、酔った頭ではろくな反論が思い浮かばない。
「よびこー行ったんだね」
「通ってるって知ってるじゃん」
「今日は授業がある日だったかなぁ?」
 一番気になったところを(つつ)くと、羊介(ようすけ)くんの肩がビクリと揺れる。
 しばらく歩いて、駅前広場に出たところで、つかまれた手を少し後ろに引けば。
 羊介(ようすけ)くんは立ち止まってくれたけれど、そのまま振り向きもしない。
「今日はよびこー、ない日だよね?」
「ほ、補講があった……」
「そう言って、おうちを出てきたの?」
「……」
「こっち見て、よーすけくん」
 肩越しにちょっと振り向きはするけれど、羊介(ようすけ)くんはすぐにまた前を向いてしまう。
 ……ふーぅん。
 そういう態度に出るなら、奥の手を使うよ?
「明日のデート、中止します」
「えっ?!」
 ぱっと手を離して告げれば、大好きな人がやっと振り向いてくれた。
 その目が驚きと不安に揺れているけれど、今は(ほだ)されている場合ではない。
「映画は中止。勉強会を、します。高校の正門前で待ち合わせです。聞きたいことがあるの。でも、今日はもう遅いから」
「ぐぇ」
 鳩尾(みぞおち)に軽く(こぶし)をめり込ませると、大げさなうめき声が上がった。
「おうちまでは送ってあげられないけど、改札まで一緒に行こうね」
「……明日、何時?」
「何時にしよう?」
 声を低くする羊介(ようすけ)くんを笑顔で見上げると、形のよい瞳がすっと細くなる。
「早くがいい」
「10時くらい?」
「もうちょっと早く」
「9時くらい?」
「遅い」
「えぇっ?!10分で校門まで行ける、よーすけくんじゃないんだから」
 私の家からだと、高校まで小一時間はかかるのだ。
「じゃあいいよ、9時で」
 しぶしぶといった様子でうなずく恋人に笑ってしまう。
「なに笑ってんだよ」
「可愛いなぁって思って」
萌黄(もえぎ)さんのほうがカワイイに決まってんだろっ」
「そんな決まりはありません。よーすけくん」
「んだよっ」
「先にお水、買おう!」
「……もー」
 やっと口元をほころばせた(ようすけ)介くんが、再び手を握って横に並んでくれた。
「改札前のコンビニに行こう。んで、明日は9時だからな。寝過ごすなよ。寝過ごしたらオニ電するからな」
 やりそうだなぁと思いながら、羊介(ようすけ)くんに手を引かれてコンビニに入ったけれど。
 その背中に「覚悟しとけよ」とつぶやいたことは、可愛い恋人は知らないと思う。
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