狼の惑い

文字数 3,511文字

 狼が口にする「誠心誠意」なんて、用心するに越したことはない。
 カーテンから差し込む光もかなり高くなっている部屋で、半醒半睡の頭によくよく刻み込む。
 「メロメロの技をかけるからだよ」なんて言っていたけれど、そんな覚えはないし、それでヘロヘロにされては、たまったものではない。
萌黄(もえぎ)さん。焼き立てクロワッサン買ってきたよ」
 危険極まりない狼を隠した羊が、部屋に入るなりフローリングにしゃがみ込んで、ベッドをのぞき込んでくる。
 しれっとしたその態度にカチンときて、薄掛けに(くる)まったまま、にらんでみたけれど。
「なんでそんなにゴキゲンナナメなの?ふふっ」
 かりそめの羊は、くすぐったそうに笑うばかりだ。
「そんな可愛い顔してもダメだからね」
「カワイイのは萌黄(もえぎ)さんだろ。さんざそう言ったのに、覚えてないの?」
「な……!知らないっ」
 昨夜、ずっと耳元で囁かれていた「カワイイ」を思い出して、薄掛けふとんを頭からかぶる。
「えぇ~、知らないの?足りなかったってこと?じゃあ、もっと言わなきゃね」
「も、もう、いい……」
「覚えてるんじゃん」
 布団越しに頭をなでられれば、ますます頬が熱を持つ。 
「ほら萌黄(もえぎ)さん、ゴキゲン直して朝ご飯にしよう。あのパン屋さん、おいしそうなのがたくさんあって迷っちゃった。ベーコンエピとクロックムッシュと……」
 おいしそうなラインナップのパンが並べられている気配に、もそもそと布団からはい出した。
「……シャワー浴びてくる」
「起き上がれる?一緒に入ろっか。介助が必要でしょ」
「いりませんっ」
「だって、ヨロヨロじゃん」
 誰のせいだ、誰の!
 差し伸べられた手を無視してどうにか起き上がると、羊に擬態をしている狼も立ち上がる。
「ひとりで大丈夫だから」
 今でも、時間があれば市民プールで泳いでいるらしいけれど。
 なんでこんなに元気なんだろう、この体力お化けめ、と恨めしく思っていたら。
「コーヒー淹れとくだけ。ゆっくり入ってきて」
 そう言いながら腰にさり気なく腕を回して、支えるように浴室までついてきた羊介(ようすけ)くんから頭に頬ずりされると、つい(ほだ)されそうになる。
 でも。
「そんで、朝ご飯食べ終わったら

してもいい?お代わりって、もちろんコーヒーじゃないよ。パンでもないよ、萌黄(もえぎ)だよ」
「……何を言っているの、あなたは」
 見下ろしているのは、かぶっている羊の皮をどこかにやってしまった狼で。
 とんでもないことを言い出しやがった危険な恋人の鼻先で、ぴしゃりと浴室のドアを閉めたのは言うまでもない。


 車を降りると、吹き抜けていく風には、もう冬の色が濃い。
「意外と人が少ないね」
 助手席から降りた羊介(ようすけ)くんが、伸びをしながら辺りを見回している。
「ススキもちょっと遅いからね。でも、晩秋の湿性花園って好きなの」
 葉を落とした木々と青空を、鏡のように映している静謐な池。
 視界一杯に広がる草紅葉の中を通る木道。
「あ!萌黄(もえぎ)さん、あそこほら、キジがいるよ、キジ!」
 膝を折って雑木林をのぞき込んでいる羊介(ようすけ)くんが、小声ではしゃいでいる。
「よし、今度こそ!」
 カメラを起動させたスマホを手にして、にじり寄るように木道を移動する羊介(ようすけ)くんの肩越しに見ると、枯草の上に真っ赤な頭が出ていた。
萌黄(もえぎ)さん、あれオスだよね、オスのキジだよねっ。ド派手だし」
 わきわきした気持ちが、そのまま動きに現れている羊介(ようすけ)くんを見て納得する。
 なるほど。
 羊介(ようすけ)くんが送ってくれる写真は、どうして斬新な抽象画みたいなんだろうって思っていたけれど、原因はこれか。
 彼の写真は動物シリーズで言えば、寝ているラッキー以外はほとんどブレている。
 いつも「これは何を撮ったんだろう」と、頭の体操をしながら、微笑ましく眺めるのが常だ。
「年を取ったメスの中にはオス化して、首から上が、鮮やかな色になるものもいるみたいだよ。相当珍しいみたいだけど」
「博識だね?!でも、集中できなくなるから、その話あとでっ」
 とても集中しているようには見えない羊介(ようすけ)くんが、藪の向こうへと消えていくキジを追って小走りになる。
「あー、行っちゃった。今度こそ撮れたかなぁ」
「野生動物の静止画像は難しいんじゃない?動画にしてみたら?」
「その手があったか。さすが萌黄(もえぎ)さん、頭いいね!」
 出会ったころを彷彿とさせる羊介(ようすけ)くんに、思わず口元が緩んだ。
「……可愛い」
「カワイイは卒業してるはずだけど」
「でも可愛いもん。留年決定だね」
「ふーぅん」
 珍しく反論しない羊介(ようすけ)くんは、スマートフォンをしまうと私の手を取って、そのまま木道を歩き始める。
「じゃあさ、いくらヘロヘロにされても許してくれるよね。カワイイんだから、俺ってば」
「ひゃっ。……こらっ」
 肩を震わせた私を見下ろす羊の笑顔が黒い。
萌黄(もえぎ)さんのほうがカワイイじゃん。耳、ホントに弱いね」
「か、可愛くないぞ!」
「カワイイの?カワイクないの?」
「もーっ、この性悪羊っ」
 つないだ指にぎゅぅっと力を込めたけれど、羊介(ようすけ)くんはヘラヘラと笑っている。
「ムキになっちゃって、ホントにカワイイ。ってか……」
 つないだ手をぐぃっと引っ張るなり私の体に腕を回した羊介(ようすけ)くんが、木道の真ん中でぴたりと立ち止まった。
萌黄(もえぎ)さんのことが好きすぎてツライ」
「ちょっと、ただのバカップルだから、これ」
「いいじゃん、バカップル」
「よくないっ」
「キスしたい」
「どうしたの?いきなり、何のスイッチが入っちゃったの?!」
 抱え込まれた腕の中でわたわたと暴れていると、狼と羊のハーフになった羊介(ようすけ)くんが「ふふっ」と笑う。
「今日ってさ、俺の合格祝いなんでしょ」
「うん。ホントは発表のあと、すぐに来たかったけどね。……ちょっと、腕」
 もがいてみるけど、がっちりホールドした羊介(ようすけ)くんの腕はびくともいない。
萌黄(もえぎ)さんも仕事忙しかったんだから、仕方ないよ」
「2年生で簿記2級も受かっちゃうなんて、本当に頑張ったね。……だから、腕っ」
「俺さ、家族旅行とかってあんましたことないから、すごく楽しみ。今日の温泉」
「私も社会人になるまで、修学旅行と合宿くらいだった。ほら、機能不全家族のテンプレだったから」
 おどけた笑顔を見せると、羊介(ようすけ)くんは痛みを(こら)えるような顔になった。
「そんな顔しないで。大人になってから旅行の楽しみを知るっていうのも、いいものだと思わない?自由に、どこにでも行ける幸せを実感できるから」
 羊介(ようすけ)くんの腕から抜け出ると、すかさず手を握られる。
 包み込むようなその手を握り返して、「ね?」と同意を求めたとき、歩いてきた方向から話し声が聞こえてきた。
 振り返ると、仲睦まじそうな熟年のご夫婦が、連れ添ってこちらへと向かって来ている。
 このままでは、通せんぼをしている真正バカップルだ。
「ほら、行こう」
 ちょっと強めに手を引くと、羊介(ようすけ)くんも近づいてくる人影に気がついたらしい。
「そういえば萌黄(もえぎ)さんさ、何回か旅行のお土産くれたけど、俺とは初めてだよね」
 素直に歩き出しながらも、羊介(ようすけ)くんの声が()ねている。
「そうね」
「誰と行ってたの」
「アイ子とかだよ」
「”とか”のところを詳しく」
「もー。アイ子以外は、職場の女子会オンリーです。全部伝えてるはずだけど?嘘だと思うなら千草(ちぐさ)さんに聞いてみて」
千草(ちぐさ)さんをごまかすのは、ムリっぽいと思う」
「でしょ。もしかして、何か疑ってるの?」
「疑っては、ない。萌黄(もえぎ)さんはそんな人じゃないし、嘘ついたら、すぐわかると思う。油断しぃだから」
「アイ子みたいなこと言わない。……なら、何が心配?」
「心配っていうか……。俺は、旅行も一緒に行けないくらい子供だったんだよなって」
 黙ってしまった羊介(ようすけ)くんとしばらく歩いていると、夏にはヒツジグサの可愛い花が見られる池が見えてきた。
「俺、萌黄(もえぎ)さんに釣り合う人間になれたのかな。……こないだの公園イベントでさ」
 羊介(ようすけ)くんが言う「こないだ」とは、半月ほど前に大通り公園で行った、子ども向けイベントのことだろう。
「本当は、あの人みたいな男のほうが……」
 (すが)るように手を握る恋人が、何を考えているのか。
 それは、少し年が離れている私と羊介(ようすけ)くんが互いに抱えてしまう問題だから、とてもよくわかる。
「あの人って、もしかして主任のこと?」
 口ごもる羊介(ようすけ)くんの腕を取って、池の(ほとり)に建つ休憩所に先導すると、肩を押すようにしてベンチに座らせた。
萌黄(もえぎ)さんのピンチに颯爽と現れてさ、さっさと代替案進めて、現場収めて。でも、注意するのも忘れないで」
「それが上司の仕事だもの」
 
 それは、スタンプラリーのゴールで配るグッズの搬入数を間違えたと気づいて、青ざめる後輩くんを前にしていたときのこと。
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