魔王の雪解け
文字数 3,242文字
もしかして、やっぱり俺は歓迎されていないんだろうか。
千草 さんの表情を読もうと思うけれど、鉄壁のポーカーフェイスにスキはない。
「何もしていない、は語弊があるか。今は、君をいじめるつもりはなかったんだよ」
苦笑いを浮かべる千草 さんには、たしかに
……ってことは、さっきは?
「君という”守りたい存在”を得て初めて、萌黄 は抗うことを選んだ。妹はね、与えられた環境でベストは尽くしても、それ以上望むことを諦めているような子だった。だけど、ひたすら慕ってくれる君に恥じない人間になりたいと思ったからこそ、親に頭を下げたんだと思う。不器用なところがあるから、一度切れてしまった君との縁を復活させるのに、モタモタしてしまったみたいだけれどね」
「それでよかったって思ってます。ちっぽけな約束にすがって待つだけだった時間は、心細くて、つらくなかったと言えば噓になりますけど」
千草 さんから向けられる視線には、相変わらず値踏みしてるみたいな感じは消えてない。
けど、負けてる場合ではないんだ。
「ずっと焦がれてました。思い出の優しい”モエギおねえさん”に。空想のなかで笑いかけてくれる、”モエギおねえさん”に。なのに、再会したら」
苦くて甘い、「あの夏の日」が胸によみがえる。
「想像を超えてキレイになってた萌黄 さんに呆けてたら、いきなり”好きでもないトランペット吹くな”、なんて言われて泣かされるし。だけど、追いかけてきてくれて、”会いたかった”なんて言ってくれるし」
「泣いたんだ」
……はっ!
なんてこった。
ここまでぶっちゃけるつもりはなかったのに。
「な、泣きました……」
「わからなくもないよ」
やれやれと千草 さんが笑っている。
「ずっと待ち続けて、せっかく同じトランペットを選んだのに、いきなりそれじゃね」
「ほんとに容赦なかったんです」
「そこまで意地悪なことは言ってないでしょ」
「あ、おかえりなさい」
「もー」
戻ってきた萌黄 さんが、ふくれながら俺の頭をわしゃわしゃとなでた。
「あんなに頑張ってた水泳をやめさせて、スイブに入らせちゃったのかなって、心配だっただけだよ。責めたわけじゃないのに」
「わかってるけど、いきなりだったから」
「泣いちゃったのね」
「そうだけど……」
雰囲気は全然違うけど。
やっぱりふたりは兄妹 だって確信する。
俺が口ごもってへこんでいると、美丈夫が屈託なく笑い始めた。
「はははっ!萌黄 が過去と決別できたのは、羊介 君のおかげなんだな、本当に。行動なんか必要なかった。君が君でさえ在れば」
「理解してくれてありがとう、千草 さん」
俺の手に指を絡めながら、萌黄 さんがイスに座る。
「羊介 くんが隣にいてくれたから、私は家族への未練を断ち切れた。たまたま縁あって”家族”となっても、想い合えないこともある。それは仕方がないことだって諦められた。だって、家族でなくても、こんなに大切に思える人がいるんだもの」
「全部、済んだの?」
「うん。無事離婚が成立して、母親は郷里へ戻るそうよ」
「杏子 の成人までという条件だって、ずいぶん譲歩したんだがな」
「私がドタキャンしたから、その間にまたごねちゃったんでしょ。それを収めてくれた千草 さんには、感謝しかありません」
「いや、あれだけ切羽詰まってる萌黄 も珍しいからな。あそこで恩を売っておけば、ずっと隠してる人を紹介せざるを得ないだろうと思った」
「いつから知っていたんですか?」
「教育実習に行くころかな。妙にそわそわしながら、休日に出掛けたりしていただろう」
「え、そんな前から?じゃあ、ひとり暮らしを反対してたのって」
「内緒にしているようなヤツと、しっぽりするためなのかと」
「オヤジ臭い表現使わないでっ」
「はーい、二種のデザートと、追加の杏仁豆腐ね!」
赤くなった顔をごまかすように怒っている萌黄 さんと、それを微笑ましそうに眺めている千草 さんの目の前に、デザートが並べられていった。
「まあでも、アイ子ちゃんから聞く限りは、誠実そうな子だと思ってたしね」
妹の友だちに対する態度にしては、気安いものの言い方に、内心首をひねる。
「千草 さんは、アイ子さんと仲がいいんですか?」
「メル友なんだ。うちにもよく遊びに来てたからね」
「でも、出禁食らってるんじゃ?」
「それは、あの人の一方的な言い分だ。二階は玄関も外階段から入れるようになっているし、区分所有権は僕の名義だから」
「雪下 家って、マンションなんですか?」
「いや、戸建てだよ。リフォームをする際に防火扉にしたりして、独立性の要件を満たすものにしたんだ。父親にも負い目があったんだろうね」
鉄の壁がなくなった千草 さんが浮かべた微笑みは、萌黄 さんにとってもよく似ていたんだ。
◇
お店のスタッフに空いたジョッキを渡しながら、アイ子さんはジントニックをオーダーしている。
「ペース、早くないですか?」
「飲まずにやってられっかい。千兄 があたしの話するとか、背中がぞわってする」
「あれ、仲いいんじゃないんですか?メル友でしょ」
「いいも悪いも、相手は魔王だよ?魔除けグッズも効かない相手だよ?」
バフォメットなアイ子さんは、そんなグッズ持てませんよね、とは言わないでおいた。
「萌黄 のお父様のこと、ずっと苦手に思ってたんだよね」
目の前に置かれたグラスに添えられたライムをきゅっと絞って、アイ子さんは遠い目をする。
「亡き親友の奥さんを見捨てられずに再婚するとか、美談っぽいけどさ。子供の苦労は考えたのかよって。……でも、ただの男だったってことだよねぇ」
「それは萌黄 さんも、離婚の話がまとまるまでは知らなかったって、言ってました」
「千兄 は?」
「ダメ元で要求したリフォームの条件を全部飲んだから、後ろ暗いところがあるんだろうとは思ってたって。ただ、まあ、その……」
よその家庭の事情は、どうも口に出しにくい。
「ね」
一息にグラス半分くらい飲んだアイ子さんが、高い音を立てて、テーブルにグラスを置いた。
「魔が差したんだか本気か、はたまたハニトラかはわかんないけど。とにかく、下半身が言うこと聞かなかったって話だよね」
「ぶほっ」
思わずウーロン茶を吹いた俺の顔面に、すかさずおしぼりが投げつけられる。
「でも、タイミングが微妙なんでしょ?杏 ちゃんのDNA検査ってするの?」
「必要ないだろうって。雪下 家に残ることを希望しているなら、そのままでいいって」
「千兄 にしてはヌルいじゃん。ほぅほぅ、杏 ちゃんも妹扱いすることにしたんだ」
「アイ子さんは、妹さんとも親しいんですか?」
「いや、顔見知り程度。情緒不安定になると、妲己 は杏 ちゃんにも当たるからね。二階に避難してるときに、ちらっと会ったくらい」
「子供、ホントに嫌いなヒトだったんですね」
「自分でも言ってたらしいからね」
切なさと非難が混じる微笑みを浮かべたアイ子さんが、ジントニックを傾けた。
「妲己 の写真って、見たことある?」
「いえ」
「十人中九人はキレイだって言うような人だよ。それを鼻にかけてるところが、またムカツクんだけどさ。多分、子供がいなけりゃ、いい妻も演じられたかもね。とにかく自己中な人だったよ。離婚話にも徹底抗戦しててさ。家じゃなかなか顔を合わせられないから、学校帰りに萌黄 を待ち伏せしたりしてね。一時期、萌黄 はホントに精神的に追い詰められてて、見てるこっちがつらくなるほどだったよ。そのころなんだよね、市島と付き合いだしたの。ありゃ判断力がおかしくなってたと思う」
「……それは、知りませんでした」
「あの兄妹 にとっては過去の話になってるから、あえてしなかったんじゃない。きっと、もうどうでもいいんだよ。妲己 のことも、アイツのことも。……メーちゃんのおかげだって、千兄 も言ってたんでしょ」
本人がしない話を聞いてよかったんだろうかと、ためらう俺の目の前で。
カラカラと涼し気な音を立ててグラスを振ったアイ子さんが、ちょっと酔いの回った、ふんわりとした笑顔になった。
「何もしていない、は語弊があるか。今は、君をいじめるつもりはなかったんだよ」
苦笑いを浮かべる
今は
、他意はないようだ。……ってことは、さっきは?
「君という”守りたい存在”を得て初めて、
「それでよかったって思ってます。ちっぽけな約束にすがって待つだけだった時間は、心細くて、つらくなかったと言えば噓になりますけど」
けど、負けてる場合ではないんだ。
「ずっと焦がれてました。思い出の優しい”モエギおねえさん”に。空想のなかで笑いかけてくれる、”モエギおねえさん”に。なのに、再会したら」
苦くて甘い、「あの夏の日」が胸によみがえる。
「想像を超えてキレイになってた
「泣いたんだ」
……はっ!
なんてこった。
ここまでぶっちゃけるつもりはなかったのに。
「な、泣きました……」
「わからなくもないよ」
やれやれと
「ずっと待ち続けて、せっかく同じトランペットを選んだのに、いきなりそれじゃね」
「ほんとに容赦なかったんです」
「そこまで意地悪なことは言ってないでしょ」
「あ、おかえりなさい」
「もー」
戻ってきた
「あんなに頑張ってた水泳をやめさせて、スイブに入らせちゃったのかなって、心配だっただけだよ。責めたわけじゃないのに」
「わかってるけど、いきなりだったから」
「泣いちゃったのね」
「そうだけど……」
雰囲気は全然違うけど。
やっぱりふたりは
俺が口ごもってへこんでいると、美丈夫が屈託なく笑い始めた。
「はははっ!
「理解してくれてありがとう、
俺の手に指を絡めながら、
「
「全部、済んだの?」
「うん。無事離婚が成立して、母親は郷里へ戻るそうよ」
「
「私がドタキャンしたから、その間にまたごねちゃったんでしょ。それを収めてくれた
「いや、あれだけ切羽詰まってる
「いつから知っていたんですか?」
「教育実習に行くころかな。妙にそわそわしながら、休日に出掛けたりしていただろう」
「え、そんな前から?じゃあ、ひとり暮らしを反対してたのって」
「内緒にしているようなヤツと、しっぽりするためなのかと」
「オヤジ臭い表現使わないでっ」
「はーい、二種のデザートと、追加の杏仁豆腐ね!」
赤くなった顔をごまかすように怒っている
「まあでも、アイ子ちゃんから聞く限りは、誠実そうな子だと思ってたしね」
妹の友だちに対する態度にしては、気安いものの言い方に、内心首をひねる。
「
「メル友なんだ。うちにもよく遊びに来てたからね」
「でも、出禁食らってるんじゃ?」
「それは、あの人の一方的な言い分だ。二階は玄関も外階段から入れるようになっているし、区分所有権は僕の名義だから」
「
「いや、戸建てだよ。リフォームをする際に防火扉にしたりして、独立性の要件を満たすものにしたんだ。父親にも負い目があったんだろうね」
鉄の壁がなくなった
◇
お店のスタッフに空いたジョッキを渡しながら、アイ子さんはジントニックをオーダーしている。
「ペース、早くないですか?」
「飲まずにやってられっかい。
「あれ、仲いいんじゃないんですか?メル友でしょ」
「いいも悪いも、相手は魔王だよ?魔除けグッズも効かない相手だよ?」
バフォメットなアイ子さんは、そんなグッズ持てませんよね、とは言わないでおいた。
「
目の前に置かれたグラスに添えられたライムをきゅっと絞って、アイ子さんは遠い目をする。
「亡き親友の奥さんを見捨てられずに再婚するとか、美談っぽいけどさ。子供の苦労は考えたのかよって。……でも、ただの男だったってことだよねぇ」
「それは
「
「ダメ元で要求したリフォームの条件を全部飲んだから、後ろ暗いところがあるんだろうとは思ってたって。ただ、まあ、その……」
よその家庭の事情は、どうも口に出しにくい。
「ね」
一息にグラス半分くらい飲んだアイ子さんが、高い音を立てて、テーブルにグラスを置いた。
「魔が差したんだか本気か、はたまたハニトラかはわかんないけど。とにかく、下半身が言うこと聞かなかったって話だよね」
「ぶほっ」
思わずウーロン茶を吹いた俺の顔面に、すかさずおしぼりが投げつけられる。
「でも、タイミングが微妙なんでしょ?
「必要ないだろうって。
「
「アイ子さんは、妹さんとも親しいんですか?」
「いや、顔見知り程度。情緒不安定になると、
「子供、ホントに嫌いなヒトだったんですね」
「自分でも言ってたらしいからね」
切なさと非難が混じる微笑みを浮かべたアイ子さんが、ジントニックを傾けた。
「
「いえ」
「十人中九人はキレイだって言うような人だよ。それを鼻にかけてるところが、またムカツクんだけどさ。多分、子供がいなけりゃ、いい妻も演じられたかもね。とにかく自己中な人だったよ。離婚話にも徹底抗戦しててさ。家じゃなかなか顔を合わせられないから、学校帰りに
「……それは、知りませんでした」
「あの
本人がしない話を聞いてよかったんだろうかと、ためらう俺の目の前で。
カラカラと涼し気な音を立ててグラスを振ったアイ子さんが、ちょっと酔いの回った、ふんわりとした笑顔になった。