少年魔王
文字数 3,587文字
アイ子さんが持つグラスの中の氷が、カランっと小気味のいい音を立てた。
「魔王の笑顔が怖いって思ったのはさ、顔は子どもなのに、目が大人なんだよね。精巧な作り物じみてて、いわゆる不気味の谷ってやつ?」
「妹思いの、いいお兄さんじゃないですか」
「メーちゃんは魔王スマイルを見てないから、そう言えるんだよ」
「ほぉ、魔王スマイル」
頬杖をついたアイ子さんの笑顔は、バフォメットだけど。
「動画削除したじゃん?千兄 」
「って、言ってましたね」
「とっくにパソコンに送信済みだったんだよ。しれっとした顔してさ、中二のすることだと思う?」
「え」
「そこは違う。”げ”だよ、合いの手入れるなら」
「でも、あの千草 さんでしょう。アイ子さん
「さりげなく失礼なことを言ったな?……さすがに、そこは中学生だったってとこだね。例のあの子は、萌黄 とは根っから相性が悪いんだか、その後もいろいろあってね。3年生のときはクラスも違ったのに、萌黄 の持ち物をわざと壊すほどエスカレートしちゃってさ。そのとき千兄 が、”前の動画があるから、これ以上ひどくなるなら本気で訴える”ってお父様に言ってるのが、萌黄 の耳に入ったんだよ」
「ああ、アイ子さんに直接バレたわけじゃないんですね。そうなんですか。……あの、萌黄 さんは、お父さんからは……」
「暴力を受けてたかって?」
「はい」
「中途半端な妲己 」が萌黄 さんに与えていた折檻を聞いたときには、震えるほどの怒りを覚えた。
なんなら、今からでも仕返しに行きたいくらいに。
そのうえ父親からも、なんてことがあるなら、そんな家からは俺が連れ出してやる。
……あ、もうひとり暮らししてるんだった、萌黄 さん。
じゃあ、タイムマシンで過去に戻って……。
だめだー!そのときの俺は2歳ではないか!
「はぁ……」
「なにため息ついてんのよ」
「いや、自分の無力さ加減に絶望します」
「そうだね」
アイ子さんがグラスに口をつけて、ほんの少しノドを潤した。
「アタシもずっとそう思ってたよ」
「アイ子さん……」
「子供って何の力もないよね。ホント、嫌になるくらい。まあ、唯一の救いだったのは」
皮肉気に笑うアイ子さんの目が遠くなる。
「優秀な魔王がそばにいたことと、雪下父は一切手を上げることはなかったってことかな」
「……そう、ですか……」
「すごい忙しい人だから、ほとんど家にいないみたいだったしね、雪下父」
「でも、聞く限り、かなりの虐待じゃないですか。それを放置してたっていうのも」
納得がいかない。
まったくいかない。
「そのたびに話し合いはして、妲己 もしおらしい態度を見せたりしたみたいよ。萌黄 が小2のときには完全に世帯を分けたから、継続的な虐待があったわけではないって。言葉の暴力や嫌がらせは続いてた思うけど」
「それだって、十分つらいでしょう」
そう、あのドヘンタイの告白をOKしてしまうくらいには、混乱していたのだと思う。
「千兄 はずっと離婚してほしいと訴えてたし、雪下父も同意してたんだけど……。萌黄 が止めてたんだよね」
「……え?」
「妲己 って、ほんっとに生活能力がないんだって。家事はプロにお任せ、料理もほぼケータリング。挙句の果てには、実の娘である杏 ちゃんにだって、気分で手を上げる。そのくせ、離婚するなら杏 ちゃんの親権は寄越せって譲らない。そんな人を放り出したら、つらい思いをするのは杏 ちゃんだ。生活は別々になったし、昔みたいな派手な暴力はない。自分は我慢できるからって。……いっつもそう、萌黄 って」
飲み干したグラスを苛立たしそうに振るアイ子さんの手の中で、氷がガチャガチャと音を立てた。
「そう、だったんですか……」
鼻がツンと痛んで、なんだか泣きたくなってくる。
俺のことを我慢強くて優しい、なんて言ってくれたけど、それは萌黄 さんのほうじゃないか。
今ここに萌黄 さんがいたら、もうムチャクチャに抱きしめてしまいたい。
「なんちゅー顔してんだ、メーちゃん。ヤメテヤメテ、背中がムズムズする」
「え、どんな顔してました?」
「なんだか甘ったるい顔だよっ」
ケッと吐き捨てながら、アイ子さんは空のグラスをテーブルの隅に置いて、さらにお代わりを頼んでいる。
「萌黄 のこと考えてたな」
「否定はしません」
「キメ顔すんな」
「ホントのことなので」
「はぁ、好っきだねぇ、萌黄 のこと」
「はい、もうベタ惚れです」
「くはーっ、何の罰ゲームよ、これ」
呆れて横を向いてしまったアイ子さんを見て、ふっと思う。
「でもアイ子さん」
「へいへい」
横を向いたままのアイ子さんの返事は、大変いい加減なものだった。
「アイ子さんは怒らせてないんじゃないですか?千草 さんのこと」
「いや」
こちらを向かないまま目線を落とすアイ子さんの表情は硬い。
「魔王降臨のあとなんだけどさ」
「公園事件のあとってことですか」
「そう」
新しいジントニックを持ってきたスタッフに軽く頭を下げて、アイ子さんはさっそくグラスに口をつけた。
◇
真新しいマンションのような室内を見渡して、アイ子はパカリと口を開けた。
「こ、ここ、お兄さんともえちゃんだけで住んでんの?」
「そうだよ。自己紹介がまだだったね。僕は雪下 千草 。よろしくね」
「あの、アタシは」
「鬼龍院 アイ子ちゃんでしょう。さて、宿題を終わらせちゃおうか」
千草 はダイニングテーブルに案内して、アイ子のテスト直しの確認をしたあと、萌黄 に与えた課題ドリルに花丸をつける。
「ふたりとも上出来。アイ子ちゃんもドリルをやってごらん。それが終わったらオヤツを……。あ」
「どうしたの?」
いかにも”困っています”という顔をする千草 に、萌黄 が首を傾けた。
「お菓子を買っておくのを忘れたな。萌黄 ひとりじゃ、まだ買い物は無理だよね。アイ子ちゃん、ちょっと待っていてくれる?」
宿題も終わったのに、さらにドリルなんてとんでもないと思ったアイ子は、諸手を上げて賛成しようとしたのに。
「買い物できるよ、お兄ちゃん。わたしが行ってくる」
萌黄 は急いで立ち上がると、キッチンにかけてあったエコバッグを手に取った。
「洗濯物たたむ以外にも、お手伝いできるよ!」
「そう?じゃあ、お願いしようかな」
食器棚から財布を取り出して、千草 は萌黄 に笑いかける。
「助かるよ、萌黄 」
「ふふっ」
「えっと、もえちゃん、アタシも一緒に行く」
「待ってて、アイ子ちゃん。アイ子ちゃんの好きなお菓子買ってくるから!」
「すぐそこのコンビニだよ。スーパーに行ったらダメだよ、遠いから」
「はーい!」
「あ、ねえ、もえちゃん」
萌黄 はそう言うが、ついて行ってしまえば帰れとは言わないに違いない。
ドリルなんかまっぴらごめんだ。
そう思ったアイ子は、ぴょこんとダイニングチェアから飛び降りたのだが。
「萌黄 の邪魔はしないで」
背後で千草 の声がしたと同時に、アイ子の肩がぎゅっとつかまれた。
「っ!」
痛みを感じて振り返ると、先ほどまでの”いいお兄さん”の顔は跡形もない。
(え、なに?)
驚くアイ子の視線の先で、真顔の美少年が空気を圧縮するように、上から下へと手のひらを動かす。
――座れ――
そう命令を受けているのだと本能で察したアイ子は急いで前を向くと、背後の気配にびくびくしながら、イスに座り直した。
「さて」
萌黄 が出ていったのを確認してから、千草 はアイ子の前の席に座る。
その目はやっぱり作り物めいていて、アイ子を落ち着かない気分にさせた。
「今回のことは、あの集団が諸悪の根源だ。けれど、こんな状況になるきっかけを作ってしまったのは君であるということを、十分自覚してほしいんだ」
言いたいことの全部は理解できないけれど、怒られてるんだなと察したアイ子がうつむく。
「君がわざと萌黄 を傷つけたとは思っていないよ。いつだって、君は萌黄 の味方でいてくれたんだから」
さっきまでは「アイ子ちゃん」と呼んでいたのに。
「君」と呼ばれるたびに、叱られているような気分になる。
「けれど、どうして今回は、萌黄 を中傷するような言葉を浴びせたのかな」
「ちゅ、ちゅう、しょう?」
「悪口、と言えばわかるかな。”もえちゃん、七の段いちいちつっかえちゃって、全然できないんだね”」
それは、自分でも後悔しているセリフだ。
だが、どうして千草 が知っているのだろう。
「もえちゃん、チクった?」
「はぁ~。妹がそんなことをすると思ってるの?本当に仲良し?あんまりにも元気がないから、僕が聞き出したんだよ。どうやったら仲直りができるかアドバイスしたいから、何があったかを全部教えてって」
「ちゃ、ちゃんと、謝ったんだよ。もえちゃんも”いいよ”って言ってくれたよ」
「萌黄 の心が広くてよかったね。……僕だったら許さないし、その場で倍返しだ」
聞き取れるかどうかの千草 の声に、恐怖を感じたアイ子は体を縮こまらせた。
「魔王の笑顔が怖いって思ったのはさ、顔は子どもなのに、目が大人なんだよね。精巧な作り物じみてて、いわゆる不気味の谷ってやつ?」
「妹思いの、いいお兄さんじゃないですか」
「メーちゃんは魔王スマイルを見てないから、そう言えるんだよ」
「ほぉ、魔王スマイル」
頬杖をついたアイ子さんの笑顔は、バフォメットだけど。
「動画削除したじゃん?
「って、言ってましたね」
「とっくにパソコンに送信済みだったんだよ。しれっとした顔してさ、中二のすることだと思う?」
「え」
「そこは違う。”げ”だよ、合いの手入れるなら」
「でも、あの
なんか
にバレるようなこと、しますかね」「さりげなく失礼なことを言ったな?……さすがに、そこは中学生だったってとこだね。例のあの子は、
「ああ、アイ子さんに直接バレたわけじゃないんですね。そうなんですか。……あの、
「暴力を受けてたかって?」
「はい」
「中途半端な
なんなら、今からでも仕返しに行きたいくらいに。
そのうえ父親からも、なんてことがあるなら、そんな家からは俺が連れ出してやる。
……あ、もうひとり暮らししてるんだった、
じゃあ、タイムマシンで過去に戻って……。
だめだー!そのときの俺は2歳ではないか!
「はぁ……」
「なにため息ついてんのよ」
「いや、自分の無力さ加減に絶望します」
「そうだね」
アイ子さんがグラスに口をつけて、ほんの少しノドを潤した。
「アタシもずっとそう思ってたよ」
「アイ子さん……」
「子供って何の力もないよね。ホント、嫌になるくらい。まあ、唯一の救いだったのは」
皮肉気に笑うアイ子さんの目が遠くなる。
「優秀な魔王がそばにいたことと、雪下父は一切手を上げることはなかったってことかな」
「……そう、ですか……」
「すごい忙しい人だから、ほとんど家にいないみたいだったしね、雪下父」
「でも、聞く限り、かなりの虐待じゃないですか。それを放置してたっていうのも」
納得がいかない。
まったくいかない。
「そのたびに話し合いはして、
「それだって、十分つらいでしょう」
そう、あのドヘンタイの告白をOKしてしまうくらいには、混乱していたのだと思う。
「
「……え?」
「
飲み干したグラスを苛立たしそうに振るアイ子さんの手の中で、氷がガチャガチャと音を立てた。
「そう、だったんですか……」
鼻がツンと痛んで、なんだか泣きたくなってくる。
俺のことを我慢強くて優しい、なんて言ってくれたけど、それは
今ここに
「なんちゅー顔してんだ、メーちゃん。ヤメテヤメテ、背中がムズムズする」
「え、どんな顔してました?」
「なんだか甘ったるい顔だよっ」
ケッと吐き捨てながら、アイ子さんは空のグラスをテーブルの隅に置いて、さらにお代わりを頼んでいる。
「
「否定はしません」
「キメ顔すんな」
「ホントのことなので」
「はぁ、好っきだねぇ、
「はい、もうベタ惚れです」
「くはーっ、何の罰ゲームよ、これ」
呆れて横を向いてしまったアイ子さんを見て、ふっと思う。
「でもアイ子さん」
「へいへい」
横を向いたままのアイ子さんの返事は、大変いい加減なものだった。
「アイ子さんは怒らせてないんじゃないですか?
「いや」
こちらを向かないまま目線を落とすアイ子さんの表情は硬い。
「魔王降臨のあとなんだけどさ」
「公園事件のあとってことですか」
「そう」
新しいジントニックを持ってきたスタッフに軽く頭を下げて、アイ子さんはさっそくグラスに口をつけた。
◇
真新しいマンションのような室内を見渡して、アイ子はパカリと口を開けた。
「こ、ここ、お兄さんともえちゃんだけで住んでんの?」
「そうだよ。自己紹介がまだだったね。僕は
「あの、アタシは」
「
「ふたりとも上出来。アイ子ちゃんもドリルをやってごらん。それが終わったらオヤツを……。あ」
「どうしたの?」
いかにも”困っています”という顔をする
「お菓子を買っておくのを忘れたな。
宿題も終わったのに、さらにドリルなんてとんでもないと思ったアイ子は、諸手を上げて賛成しようとしたのに。
「買い物できるよ、お兄ちゃん。わたしが行ってくる」
「洗濯物たたむ以外にも、お手伝いできるよ!」
「そう?じゃあ、お願いしようかな」
食器棚から財布を取り出して、
「助かるよ、
「ふふっ」
「えっと、もえちゃん、アタシも一緒に行く」
「待ってて、アイ子ちゃん。アイ子ちゃんの好きなお菓子買ってくるから!」
「すぐそこのコンビニだよ。スーパーに行ったらダメだよ、遠いから」
「はーい!」
「あ、ねえ、もえちゃん」
ドリルなんかまっぴらごめんだ。
そう思ったアイ子は、ぴょこんとダイニングチェアから飛び降りたのだが。
「
背後で
「っ!」
痛みを感じて振り返ると、先ほどまでの”いいお兄さん”の顔は跡形もない。
(え、なに?)
驚くアイ子の視線の先で、真顔の美少年が空気を圧縮するように、上から下へと手のひらを動かす。
――座れ――
そう命令を受けているのだと本能で察したアイ子は急いで前を向くと、背後の気配にびくびくしながら、イスに座り直した。
「さて」
その目はやっぱり作り物めいていて、アイ子を落ち着かない気分にさせた。
「今回のことは、あの集団が諸悪の根源だ。けれど、こんな状況になるきっかけを作ってしまったのは君であるということを、十分自覚してほしいんだ」
言いたいことの全部は理解できないけれど、怒られてるんだなと察したアイ子がうつむく。
「君がわざと
さっきまでは「アイ子ちゃん」と呼んでいたのに。
「君」と呼ばれるたびに、叱られているような気分になる。
「けれど、どうして今回は、
「ちゅ、ちゅう、しょう?」
「悪口、と言えばわかるかな。”もえちゃん、七の段いちいちつっかえちゃって、全然できないんだね”」
それは、自分でも後悔しているセリフだ。
だが、どうして
「もえちゃん、チクった?」
「はぁ~。妹がそんなことをすると思ってるの?本当に仲良し?あんまりにも元気がないから、僕が聞き出したんだよ。どうやったら仲直りができるかアドバイスしたいから、何があったかを全部教えてって」
「ちゃ、ちゃんと、謝ったんだよ。もえちゃんも”いいよ”って言ってくれたよ」
「
聞き取れるかどうかの