涙の理由

文字数 2,504文字

 外のベンチに座って夜空を眺めていると、陽気で調子はずれな歌声が聞こえてきた。
「あれって、あの車好きのコかな?」
「センパイのトロンボーンって結構な音出すけど、歌はヘタだなー」
「気持ちよさそうだから、いいんじゃない?周りにほかの宿もないし」
「酔ってんのかな。あれ?でも、トロンボーンセンパイ、ビール飲んでたっけな」
 隣に座る羊介(ようすけ)くんは、可愛い顔をして笑いながら宿泊所のほうを振り返る。 
 あの「秘密基地」で算数を教えていたころも、こんな顔で笑い転げていたなあ。
 ほんのちょっとほめるだけで頬を上気させて、なんてことのない雑談にも目を丸くしていて。
 いろいろ抱えてしまっていたあの時期、無邪気な羊介(ようすけ)くんの笑顔に、どれだけ救われていたか。
 その変わらない笑顔を目にしていると、なんだか泣きたい気分になってくる。
「……どしたの?」
 心配そうに覗き込んでくる仕草も、何もかもが懐かしくて可愛い。
「熱が下がって、よかったなって」
 溜まりそうになった涙を瞬きで散らせば、あのころとは違う、精悍な顔に陰が差した。
「どうしたの」
 秘密基地に案内するために握った手は、小さくて柔らかかったのに。
 今、頬に添えられた大きな手は骨ばっていて熱い。
「なんで泣きそうなの?」
「笑った顔が可愛くて。高校の夏休みに、坂道で再会したときのことを思い出してたの」
「もう小学生じゃないし高校も卒業したから、カワイイは封印したい。……今度こそ」
 そんなふうに口をとがらせて()ねるところが可愛いのに、なんて(なご)んでいたら。
萌黄(もえぎ)さんにお兄さんがいるって、知らなかった」
 いつの間にか、羊介(ようすけ)くんの両手に頬が包まれていた。
「そうね、話のネタにできる人でもないしね」
萌黄(もえぎ)さんって、あんまり自分のこと話さないよね」
 いつもは唇を奪われてしまう距離で見つめられて、たじろいでしまう。
 冗談めかして話をそらせば察してくれる人だけど、今は引く雰囲気がない。
「アイツのことは、あんときは俺もただの小学生だったからしかたないけど。引っ越しのことも、家族のことも、今日のことも」
「今日のこと?」
「今日、本当は何か予定があったのに、こっちに来てくれたんでしょう?……スケジュールを組み直してくれたって言ってよね、昼間。あれは、お兄さんがってこと?」
 視線に耐え切れずに目を落とせば、その胸の中に抱き込まれてしまう。
「泣くほどつらいの?」
「泣いてないよ」
「泣いてたよ。……合宿の前日、泊らせてもらったじゃん」
 顔を上げられずにいる私の目元を、羊介(ようすけ)くんの親指が(ぬぐ)うように優しくなでた。


「……萌黄(もえぎ)さん……」
 まぶたをなんども(さす)られる感触に、意識が浮上する。
 目を開けると、遮光カーテンの合わせ目から薄く入ってくる朝日を背に、影絵のような羊介(ようすけ)くんから、鼻先にキスを落とされた。
「……おはよ。もう時間?」
「うん、そろそろ仕度する。萌黄(もえぎ)さんは寝てていいよ」
「送ってくよ?」
「だって、疲れてるだろ。昨日も遅かったから」
「昨日?定時上がりして、夕ご飯も一緒に食べたじゃない」
「違うって」
 ベッドから体を起こした羊介(ようすけ)くんが、悪い顔でニヤっと笑う。
「寝るの、遅くなっちゃったじゃん。……俺のせいで」
「なっ!」
 不良羊の言わんとしていることがわかって、その腕をバシッ!と叩いてしまった。
 笑いながら布団を抜け出していく、その背中を追いかけて上半身を起き上がらせると、羊介(ようすけ)くんの笑顔がもっと意味深になる。
「シャワー借りるけど、一緒に入る?」
「は、入らないっ」
「うん。大人しく寝てて」
 大きな手が、何度も私の目元を拭う。
「何かついてる?」
「ん……。ほら、寝てていいから」
 肩を押されて夏掛け布団に潜ると、羊介(ようすけ)くんの指がそっと髪に差し入れられた。
 その仕草の意味を目で問えば、逆にもの問いたげに見下ろされてしまう。
「なあに?」
「無理させて、ごめんね」
「む、りは……、してないよ」
「させたよ。送ってほしくないから、ちょっと、しつこくしちゃった自覚はある。疲れてくれたんなら計画どおり。そのまま寝てて」
「えっ?!」
「だって、サークルのメンバーに会ったって、どうせ紹介させてくれないんでしょ。……カノジョだって」
 慌てて起き上がろうとしたけれど、浴室に向かうその背中は、もう振り返りはしなかった。


 あの朝と同じように、私の目元を親指でなでる羊介(ようすけ)くんのあごが、頭にそっと乗せられた。
「俺が無理させたせいで泣いてたのかと思ったけど、多分、違うよね。あ、なかせたって、アッチの意味じゃないよ?ソッチはなかせたからさ、存分に」
「何を言っているの?!」
 あの朝よりも強めにバシンっ!と羊介(ようすけ)くんの胸を叩く。
「イテテ」
「え、ホントに?」
「ウソ」
 顔を上げようとした私を抑え込むようにして、抱きしめる羊介くんの腕に力が入った。
「……萌黄(もえぎ)さんって、ラッキーもそうだけど、俺の家族には大人気だよ。でも、萌黄(もえぎ)さんは多分、その、俺のことって話してないよね」
「……」
「六つも年下の男は反対される?頼りなくて言えない?」
「……違う、そうじゃなくて……」
 頼りないわけがない。
 いつだって、私に力をくれるのは羊介(ようすけ)くんだから。
 つい甘えて(すが)ってしまう腕から強引に抜け出して、羊介(ようすけ)くんを真正面から見上げる。
「私はズルい人間なの。羊介(ようすけ)くんが思ってくれるような、女神なんかじゃない。卑怯で、意気地なし」
「そんなこと……」
「だって考えてみて?羊介(ようすけ)くんがモテまくりで充実した中学生でも、”ありがとう、ごめんなさい”って、すぐに伝えに行くべきだったのよ。一年以上ほったらかしにして、今さらなんだよって言われたって、それは自業自得。受けて当然の非難だもの。なのに、できなかった。……まっすぐに慕ってくれていた羊介(ようすけ)くんを、失うのが怖かったから。現実に向き合うことができなくて、……長い間、待たせたまま……」
 うつむいて、膝の上に置いた手を握り込むと、大きな手が(かぶ)せられた。
 じんわりとした熱を感じるのと同時に、羊介(ようすけ)くんの手の甲に水滴が落ちて、流れていく。
 自分の涙なのに、頭の隅では冷静に驚いてもいて。
 ああ、私は誰かの前で、ちゃんと泣けるんだなと。
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