ただ、あなたのために

文字数 3,213文字

 にぎやかな会話が耳に入ってきて、羊介(ようすけ)の意識はゆっくりと浮上した。
 薬が効いたのか頭痛は治まっているし、体もだいぶ軽い。
 起き上がってみると、不快なほどTシャツが汗で体にまとわりついている。
 どうりでノドが乾いているはずだと立ち上がろうして、枕元に置かれたスポーツドリンクに気がついた。
(そういえば……)
 朦朧としているなか、先輩たちが世話を焼いてくれたことを羊介(ようすけ)は思い出す。
(迷惑かけちゃったな)
 感謝と照れくささを感じながら、羊介(ようすけ)はスポーツドリンクに口をつけた。
「びっくりしたよなぁ」
 廊下から聞こえてきたのは、トランペットパートの2年生の声だろうか。
「カワイイ感じの人が本気で怒ると怖いのな。(いかづち)たち、ビビってたなぁ」
(いかづち)がビビる?あのふてぶてしいヤツが?)
「あのOGってさ、なんか珍しい名前だったね」
(OGなんて来るんだ、このバンド)
 空になったペットボトルを畳に置いた羊介(ようすけ)は、不思議に思いながらクセで首元に手を伸ばす。
「いっ……」
 指が傷に触れて痛みを感じるのと同時に、喪失感に胸が痛んだ。
 やらかしたことを許してもらって、ふたりが恋人である(あかし)として、萌黄(もえぎ)から贈られたあの指輪。
 怒られたときの原っぱも、許されたときの青空も、ずっと見守っていたラッキーも。
 そして、仕方なさそうに笑っていた恋人(もえぎ)も。
 今でも鮮明に思い出せるのに、大切にしてきたのに。
 萌黄(もえぎ)が社会人になって、自分が受験生になって。
 できるのは電話やメッセージだけで、ただ待つだけだった3年間に比べれば幸せだけれど、長く会えない時期は不安が募った。
 それでも肌身離さずつけていた指輪が、萌黄(もえぎ)の代わりに「大丈夫だよ」と伝えてくれたのに。
 羊介(ようすけ)は虚しさと悔しさに唇をかみしめ、何度も指で傷をなぞる。
 そのたびに感じる痛みだけが、指輪があったという証拠だから。
「ユキシタ先輩、だっけっか」
「ああ、なんかそんな感じ。ユキウサギっぽいやつ」
 廊下から聞こえる声になんとなく耳を傾けていた羊介(ようすけ)の意識が、一気にクリアになる。
(……ユキシタ?って、雪下(ゆきした)?!まさか……)
 「珍しい名前のOG」が誰なのかに気づいた羊介(ようすけ)は跳ね起き、飛ぶようにドアに向かった。
「あの!」
「わぁっ!びっ、くりしたぁ。……木場野(きばの)!具合どうだ?熱出たんだって?」
 隣の部屋に入ろうとしていた2年生が、立ち止まって羊介(ようすけ)を見上げる。
「だいぶ、いいです。あの、雪下(ゆきした)先輩って」
「ああ、さっきいきなり乗り込んできて、お前の指輪探すって言ったんだよ。あのカワイイ人、お前は高校も一緒なんだってな。仲良かったの?」
「えと、そんな感じで、あの、その人って、今どこに?」
(いかづち)たち連れたトバセンパイと湖行ってる、って木場野(きばの)?!」
 話の途中で走り出した羊介(ようすけ)は、朝食を終えて次々と部屋に戻ってくるサークルメンバーたちにぶつかりながら、そのたびに短い謝罪を口にして、外に飛び出していった。
 
 (いかづち)ペアがうなだれ、上目遣いで見守る先で。
 フィットネス水着に裸足の萌黄(もえぎ)は、昨夜(ゆうべ)羊介(ようすけ)と同じように四つん()いになって、水底をさらい続けていた。
外波山(とばやま)君、ここはもういいわよ。あとは私が探すから。あなたたちも予定があるでしょう。ありがとう、もう行って」
雪下(ゆきした)先輩、でも、これはサークルの不始末で……」
 困惑している外波山(とばやま)の隣で、(いかづち)も動揺した視線をさまよわせている。
 「自分で探す」なんて言ってたって、いざとなれば、自分たちにやらせるつもりだろうと、やさぐれていたけれど。
 (いかづち)ペアに指輪を投げた位置、受け取ろうとして落ちていった場所を示させた萌黄(もえぎ)は、「わかった」と言うなり、ワンピースの裾に手をかけたのだ。
「わあっ、なにすんですかっ」
 外波山(とばやま)が慌てて萌黄(もえぎ)を止めようとして……。
「……なんだ。水着、着てたんですか」
 ほっと息をついた外波山(とばやま)であるが、同時にそのノドが「ぐぅ」と鳴る。
 萌黄(もえぎ)が着ているのは、袖のある黒のフィットネスタイプではあるが。
 女性らしくまろやかな凹凸を描くその水着姿は、露出が少ないからこそ、妙に扇情的だった。
 湖底の砂をひとすくいした手を水から引き上げた萌黄(もえぎ)が、外波山(とばやま)を振り仰ぐ。
「あとは私の問題だから、勝手にやるわ」
「あの、手伝いま」
「結構よ」
 萌黄(もえぎ)にしてはぞんざいな言い方に、外波山(とばやま)はそれ以上言葉が出ない。
「少し独りにしてほしいの。……でないと、怒鳴ってしまいそうだから」
 すくい上げた砂の中に指輪がないことを確認すると、萌黄(もえぎ)は再び水の中に手を差し入れる。
「暗い夜に、ひとりでこんなことをしていたのね、羊介(ようすけ)くんは。……かわいそうなことを」
「あの、先輩っ」
 スニーカーを脱いだ(いかづち)が、勢いよく頭を下げた。
「手伝わせてください。……お願いします」
 昨夜(ゆうべ)外波山(とばやま)への言い訳に頭がいっぱいで、夜に紛れた羊介(ようすけ)の姿など覚えてもいない。
 けれど今、朝日にきらめく湖にしゃがみ込んで、一心に指輪を探している萌黄(もえぎ)の姿には心が痛んだ。
 砂をすくい上げては湖に戻し、またすくう。
 繰り返される虚しい動作に、やっと自分が何をしたかを自覚した。
「お願い、します」
 頭を下げたまま声を震わせる(いかづち)に、萌黄(もえぎ)は長いため息をついて空を仰ぐ。
「ちょっとは悪かったなって思えてきた?でも、私に気を使う必要はないし、この冷たい水の中に、後輩を入れるのは忍びないから」
「そんなに冷たいんですか、雪下(ゆきした)先輩」
 手を差し伸べようとする外波山(とばやま)に、萌黄(もえぎ)は手を振り拒絶を示した。
「まあ、それなりにね」
「やっぱり、俺たちにも手伝わせてください」
「私がやらないと意味がないの。……それに、どっちでもいいしね」
「え?今、なんて?」
 外波山(とばやま)が首を傾けたとき。
 バタバタと慌ただしく近づいてくる足音に、その場にいた皆が宿泊所のほうに顔を向ける。
「き、木場野(きばの)……?」
 100m走のタイムでも測っているかのように疾走してくるのは、寝込んでいるはずの羊介(ようすけ)だ。
萌黄(もえぎ)さん!」
 みるみる近づいてくる羊介(ようすけ)を目にして、萌黄(もえぎ)がザバリと立ち上がる。
「そこで止まって、羊介(ようすけ)くん!」
 走り込んできた勢いのまま湖に入ろうとした羊介(ようすけ)を、萌黄(もえぎ)が右手を差し出して止めた。
「熱があるんでしょう?何をやっているの、あなたは」
「それは萌黄(もえぎ)さんだろっ」
 言いつけは守りながら、羊介(ようすけ)は水際で地団太を踏む。
「なにやってんの、そんな恰好で!バカっ」
「いきなりの悪口っ」
「何回だって言ってやるっ。バカッ、萌黄(もえぎ)さんのバカ!」
(だ、誰コイツ)
 (いかづち)とその友人は、呆気に取られて羊介(ようすけ)を見上げるしかない。
 だって、今までのヤツのイメージと言えば。
 トランペットだろうと、その整った容姿だろうと。
 何をどんなに()められても「それがどうかしましたか」みたいな顔をするだけの、嫌味なヤツだと思っていたのに。
 会話だって、必要最低限の単語くらいしか返さない傲慢なヤツだと。
「バカは夜遅くに湖に入った羊介(ようすけ)くんです。熱なんか出して……。起きても、もう大丈夫?」
「びっくりして、いろいろどっか飛んでっちゃったよっ」
 波打ち際で羊介(ようすけ)が差し伸べた手を、ついさっき外波山(とばやま)を拒絶した萌黄(もえぎ)がそっと握る。
「……冷たい。萌黄(もえぎ)さんの手、氷みたい」
羊介(ようすけ)くんにだけ、こんな思いをさせたくなかったから。……まだ熱はあるみたいよ。手が熱い」
 手を離さず湖岸に上がると、萌黄(もえぎ)はもう片方の手で羊介(ようすけ)の額に触れた。
「冷たくて気持ちいい」
「ほら、熱がある。……外波山(とばやま)君」
 水滴が滴り落ちる体から目を(そむ)けていた外波山(とばやま)は、眉毛を下げた横目で萌黄(もえぎ)を見る。
「……はい」
羊介(ようすけ)くんと話がしたいの。具合の悪い1年生のことが心配かもしれないけれど、少しだけ、私に預けてくれない?」
「わかりました。おい、1年ふたり、戻るぞ。……話が終わったら、俺の携帯にでも連絡をしてください」
「わかった。いろいろありがとう」
 萌黄(もえぎ)の柔らかな微笑みに寂しそうな笑顔で応えて、外波山(とばやま)(いかづち)たちと一緒に宿泊所へと戻っていった。
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