バフォメットの泣き所

文字数 2,907文字

 カバンの中から取り出したスマホに、ちらっと目を落としたアイ子さんが、小首を傾げた。
萌黄(もえぎ)、遅いね。もうそろそろ来てもいいころだけど」
「あれ?アイ子さん、約束がまだですよ」
「なんだっけ」
「すっとぼけるの、やめてくださいよ。千草(ちぐさ)さんを怒らせた話、きりきり吐いてもらいますよ」
「怒らせたなんて言ったっけ」
「最初は嫌われてたって。だって、感情だけを相手にぶつける人じゃないでしょう、千草(ちぐさ)さんは。多分、子供のときから」
「ふーん。一回会っただけのクセに、わかったようなこと言うじゃない。……まあ、ね。仕事柄、今では怖いほどだけどさ。昔っから、自分をコントロールできる人だね、千兄(せんにい)は。子供なのに、気味悪いくらい心を押し殺しちゃう兄妹(きょうだい)だから、環境のせいもあるかもだけど」
萌黄(もえぎ)さんは違いますよ」
「同じだよ。千兄(せんにい)が冷たいほうに揺るがないように、萌黄(もえぎ)(ぬる)いほうに揺るがない。メーちゃんだって、萌黄(もえぎ)が感情的になったとこなんか、見たことないでしょ」
「……」
「え、あるのっ?!」
 手にしていたグラスをテーブルに置いて、身を乗り出したアイ子さんの目が見開かれている。
「メーちゃんをかばうために、アイツに怒ってるの見たときも驚いたけどさあ。萌黄(もえぎ)って、人前で泣かないんだよね。どんなにつらそうにしてても、青い顔して、薄っすら笑いながら”大丈夫”って言うんだよ、ムカつくことに」
「……」
「えっ、もしかして、泣いた?」
 俺のために駆けつけてくれた、あの日の夜は誰にも話すつもりはないけれど。
 アイ子さんさえ知らない涙を見せてくれたんだと知って、店の中じゃなかったら、妙な声を上げていたかもしれない。
「へー、そっかそっか。……そっかそっか」
 何度も何度もうなずきながら、アイ子さんはまたグラスに口をつけた。
「メーちゃんって、やっぱすごいな」
「すごくは、ないと思いますけど」
「優秀っていう意味じゃないからな」
「うぐ」
 ……なんだろう。
 全方位的に千草(ちぐさ)さんみを感じるセリフだ。
 さすがメル友。
「メーちゃんじゃなければダメだったんだろうね、萌黄(もえぎ)は」
千草(ちぐさ)さんも似たようなこと言ってましたけど、違いますよ。ダメなのは俺のほうです。俺は萌黄(もえぎ)さんと出会わなければ、今の自分じゃないから」
「互いが唯一無二な存在なんて、奇跡みたいなものじゃない。昔っからあの子を見てきたから感慨無量だな。メーちゃんの話はおしまい?」
「大体は。あ、最後にアイ子さんの話になりましたよ、ちょっとだけですけど。聞きたいですか?」
「げっ。なんか怖いんだけど。それはゼヒ把握しておかないと」
「その代わり、絶対約束は守ってくださいよ。内容によっては、アイ子さんへの対応を考えます」
「だから牙しまえっての、狼羊っ。わかってるから」
 ちょっと嫌そうな顔をして、アイ子さんは続きを促すみたいに手を振った。

◇ 
 杏仁豆腐を食べ終わった萌黄(もえぎ)さんが、千草(ちぐさ)さんをじろりとにらんだ。
「アイ子とメル友なんて知らなかった。いつの間に?」
「ヘビ男君の動向を教えてもらうためにね」
「え、あれってアイ子経由だったんだ。……とぼけた顔して、もー。覚えてろよ、あいつめ」
 不穏なつぶやきを漏らす萌黄(もえぎ)さんを前に、千草(ちぐさ)さんの目が柔和に細められた。
「楽しそうで何よりだよ、萌黄(もえぎ)羊介(ようすけ)くん、これからは、僕とも仲良くしてもらえると嬉しい」
「えと、あの、もちろんというか、こちらこそ」
 あたふたして頭を下げると、クスリと笑われた。
「本当に可愛いな。そうそう、杏子(あんず)羊介(ようすけ)くんに会いたがっていたよ」
「あら、千草(ちぐさ)さん。杏子(あんず)とも交流することにしたんですか?」
「あの人が出ていったんだから、もう距離を置く必要もないだろう。それに、以前だって口は利いていたぞ?」
「半年に一回くらいね。でも、杏子(あんず)には会わせたくないな」
「仲は悪くないだろう、お前たちは。杏子(あんず)もあの人とはこじれていたから」
 意外そうな顔をする千草(ちぐさ)さんに、萌黄(もえぎ)さんがむっと口をつぐむ。
「そうね、毒親口撃に耐える戦友的な仲だから。でも、杏子(あんず)って面食いなんだもの。前に羊介(ようすけ)くんの写真を見せたら、目がギラって光ったのよ。キラっじゃないの、ギラっよ」
杏子(あんず)には先に紹介してたのか?」
「まさか。OB訪問で行った夏合宿の集合写真を見せただけ。そうしたら、羊介(ようすけ)くんにロックオン!してたの。ほかに可愛い男の子もいたのに」
「え!」
 俺は焦って萌黄(もえぎ)さんをのぞき込んだ。
「カワイイ子って、誰っ」
羊介(ようすけ)くんの代って、男子も女子も整い系が多かったじゃない?」
「その他大勢はいい。誰のこと、萌黄(もえぎ)さんはカワイイって思ったのっ」
「リョータくんとか?」
「……リョータか……」
 確かに、アイツはちょっとアイドル系の顔をしているけれど。
「……萌黄(もえぎ)さん、もうリョータに会わないで」
「何を言ってるの、あなたは。バンド練習で会うじゃないの」
「リョータは隔離しよう。じゃなかったら、キグルミとか着せておく」
「バカね。どうやってトランペット吹くのよ」
 呆れて笑う萌黄(もえぎ)さんにつられたように、千草(ちぐさ)さんも笑っている。
「ははっ、ゴチソウサマ。杏子(あんず)は顔に似合わず肉食系だからな。羊は食べられてしまうかな」
「あ、大丈夫だと思いますよ。俺は一神教なんで」
「一神教?」
羊介(ようすけ)くんっ」
「俺の女神は萌黄(もえぎ)さんだけです」
 言い切った俺の口を、遅れて萌黄(もえぎ)さんの手が塞ぐ。
「ああ、なるほど。……さすがだな、引きが強い」
 千草(ちぐさ)さんの笑顔は、諦めとも呆れともつかないものだった。
「アイ子ちゃんが言ってたな、変態ホイホイ、」
「ホイホイの中には、千草(ちぐさ)さんも入ってますからねっ」
「僕は違うだろう」
「自覚がないの?」
「妹を守るという大義名分で、自我を保っていた自覚はある。その役目に依存に近いものがあったこともね。でも、変態呼ばわりは心外だ。せめてシスコンと言ってほしい」
「それを堂々と言っちゃう時点でアウトでしょう。羊介(ようすけ)くんをイジメたら縁を切りますからね。それに、”アイ子ちゃん”って今でも呼んでるの?子供のころだけかと思ってた」
「んふふ」
 少し悪い顔で笑う千草(ちぐさ)さんからは肩の力が抜けてて、やっと懐に入ることを許されたと思わないこともない、というところで食事会はお開きとなったんだ。


「へーえ。ホントに自覚あったんだ、千兄(せんにい)は。……自覚してもアレなのか。怖い怖い」
 ふざけて震えながら、アイ子さんはジントニックをお代わりをしている。
「でも、やっと萌黄(もえぎ)は解放されるんだなぁ。……よかった」
 アイ子さんがレアな感じでふにゃりと笑うけど、これでお終いにされてはかなわない。
「はい。ではどうぞ、


「おいこら。千兄(せんにい)と一回り違う羊がアタシを”ちゃん”付けとか、12年早いからな」
「ほぉ。なんなら今から、その千兄(せんにい)さんも呼びましょうか。きっとすっ飛んできますよ、


「ヤメテヤメテ。あのねぇ、メーちゃんは真・魔王になった千兄(せんにい)を見たことないから、そんなのん気なこと言えるんだよ。……アタシのこの性格のせいで、ちょっとサイテーなことになっちゃったからさ。千兄(せんにい)は、本当はまだ許してはないんじゃないかな」
 マドラーをクルクル回すアイ子さんの目が、泣いてしまう直前みたいに(ゆが)んだ。
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