きっかけ

文字数 3,176文字

 一口だけ飲まれたジントニックが、コトリとテーブルに置かれた。
 細かな水滴に曇るグラスの中に、ライムとローズマリーが涼やかに浮かんでいる。
 その緑が萌黄(もえぎ)さんを思い出させて、俺の胸がきゅっと音を立てた。
「また萌黄(もえぎ)のこと考えてたな」
 からかう声色に我に返ると、目の前のバフォメットの口角がニィっと上がっている。
「やれやれ。羊飼いの乙女はもうすぐ来るよ。……ここで終わりにしとく?」
「いや、それはなしで。萌黄(もえぎ)さんは、自分がつらかったときのことなんか、教えてくれないだろうから」
「……知って、どうする?」
 肘をついた片手にあごを乗せて、品定めするような目を俺に向けているアイ子さんは、やっぱり千草(ちぐさ)さんみが濃厚だ。
「もっと好きになります」
 それだけは俺の不変解だから、間髪入れずに断言する。
 どんな過去だって、今の萌黄(もえぎ)さんをきらめかせるエフェクトにしかならないんだ。
「おーぅ。一途なことで」
 ちょっと肩をすくめたあと、アイ子さんは懐かしいような痛いような、なんとも言えない顔になる。
「小難しい説教を食らったあとは、千兄(せんにい)と話す機会なんか、しばらくなかった。遊びに行ったときにたまに見かけても、張り付けたような笑顔で”いらっしゃい”って言われるだけでさ」
「それがどうして、”アイ子ちゃん””千兄(せんにい)”と呼ぶ仲になったんですか?」
「親しくなって、そう呼び合ってると思ってる?」
「違うんですか?」
「あったりまえじゃないの」
 頬杖をついたアイ子さんが、アンニュイな感じで目を閉じていった。


 高校の合格発表も無事に終わって、「また3年間一緒だね」と喜び合った卒業式は、ついこの間のことなのに。
 今日も図書館の閉館時間まで粘り、そのあと立ち寄ったコーヒーショップで、アイスコーヒーを飲む萌黄(もえぎ)の顔色は冴えない。
「お母さんがさ、今日も、もえちゃん連れておいでって言ってたよ。お兄さん、どうせ遅いんでしょ」
「そう毎日お邪魔するわけにはいかないから」
 儚げに笑う幼なじみに、アイ子の胸がキリリと痛くなった。
「じゃあ、帰んの?」
「うん……。9時くらいには、千草(ちぐさ)さんも帰ってくると思うから」
「ちょ、それまでどうすんのよ。このままここにいるつもり?補導されるよ。一応、アタシたちまだ中学生なんだから」
 下の妹の存在を無視し続ける千草(ちぐさ)を、制裁の意味も込めて「お兄ちゃん」と呼ばなくなった萌黄(もえぎ)の目は暗い。
「まだ”妖怪扉叩き”なんでしょ、妲己(だっき)は。……離婚話、上手く進んでない感じ?」
 顔を寄せて声を潜めたアイ子に、萌黄(もえぎ)は黙ってうなずいた。

 千草(ちぐさ)が大学に、萌黄(もえぎ)が中学に進学したタイミングで本格的に持ち上がった離婚話に、あの”キレイな人”は徹底的に抗っているという。
 その憤懣(ふんまん)の矛先は、当事者である夫でも弁が立つ千草(ちぐさ)でもなく、萌黄(もえぎ)ひとりに向いてしまっているらしい。
 決して解錠されることのない一階と二階の中扉を叩きながら、「お前のせいだからね!お前が懐かないからいけないんだっ、この恩知らず!」と叫ぶ妖怪と化していると聞いたときには、さすがのアイ子でも怖気(おぞけ)立った。
「んなの、デタラメの言いがかりもいいとこじゃん。恩とかわけわかんない。引っ越したら?兄妹(きょうだい)で。あのお兄さんなら、それくらい簡単にやってのけるでしょ」
「でも、そしたら杏子(あんず)だけ取り残されるから」
(あん)ちゃんも連れて行けばいいじゃん」
「あの子は、まだ小学生だもの」
――自分さえ我慢すればいい――
 そう思っているに違いない幼なじみに、何もできない自分。
 話を聞くたびに、イライラが募るアイ子であった。

「難儀だなぁ。……あのさあ、他所(よそ)のお父様を悪く言いたくはないけど、」
「今回は、ずいぶん動いてくれてるの」
「遅いし。それに、結果が出てないじゃん」
「まあ、そうだけど……」
萌黄(もえぎ)の人生、困難が多すぎ」
 オーバーリアクションで「やれやれ」と言ってやると、ほんの少しだけ萌黄(もえぎ)に笑顔が戻る。
「あ、でもね、ちょっといいこともあったんだ」
「え、なになに?」
「あのね」
 はにかんでいる珍しい萌黄(もえぎ)に、アイ子の目が丸くなった。
「なにさ、そんなにイイコト?」
「初告白された」
「えっ、誰に?」
 「ウソだろー!」と叫びたくなる気持を、アイ子はぐっと(こら)える。
 どこの勇者が、学校行事に顔を出しては、周囲を威嚇して回るあのイケメン兄を恐れず、そんな大それたことをしたというのか。
「市島くん」
「は?……はぁっ?!」
「私とつき合いたいなんて、変わってるよね」
 くすくすと笑っている萌黄(もえぎ)に、アイ子は二の句が継げない。
(アイツかぁ)
 同じ部活で同じ高校へ進学予定の市島が、しょっちゅう萌黄(もえぎ)に絡んでいるのは知っていた。
 けれど、ほかの男子と同じく、あの魔王オーラにやられて、手が出せずにいるのだろうと思っていたのに。
「市島のこと好きなの?」
「ん~」
 もう中身のないアイスコーヒーのグラスを揺らしながら、萌黄(もえぎ)は困り顔で首を傾けた。
「男友だちとしては、一番かな」
「つき合うって、友だちとしてじゃないでしょ」
「私に”つき合おう”って言ってくれる人なんて、ほかにいないじゃない?」
「いるよ!いっぱいいるけど、雪下(ゆきした)兄が怖すぎるんだよっ」
千草(ちぐさ)さんは過保護だからね。でも、本質はそこじゃないと思う」
(そこしかないだろうが、もぉ~。妲己(だっき)がいじめるからだな?あのクソ狐っ)
「ちょっと自己肯定感低すぎっ。萌黄(もえぎ)はカワイイよ!」
「えぇ~、美少女アイ子に言われてもなぁ」
「アタシのことなんかどうでもいいんだって。んで、市島からはなんて告られたの?」
「話が一番合うし、嫌じゃないならつき合ってみないかって。軽くお試しでもいいからって」 
「……アイツは人の弱みに付け入るのが、妙に上手いからな……」
(嫌じゃないならとか軽くとか。んっとに卑怯な言い方しやがって)
 可愛く照れている萌黄(もえぎ)の顔を曇らせたくなくて、口に出すことは控えたアイ子だけれど。
 とても心から賛成する気持ちにはなれなかった。
 たとえ好意が育たなかったとしても、この遠慮の塊のような幼なじみは、それを負い目に感じて、相手に優しくしてしまうに違いない。
 そして、自分の気持ちは押し殺してしまうだろう。
 これ以上、萌黄(もえぎ)の心が踏みにじられるのを見るのは嫌だ。
 けれど、しつこく尋ねたり怒ってみせたりしなければ、妲己(だっき)のことですら言ってくれない幼なじみに、アイ子は内心頭を抱える。
 高校では、ヤツもまたスイブに入るのは間違いない。
 ならば、トラブルになったとしても、萌黄(もえぎ)は絶対に隠す。
 部活の雰囲気を悪くしないために。
「……恋バナとかお初じゃない、あたしたち」
「え?そういえば、そうだね」
「こりゃあ夜通し語り合わないと」
「えぇ?アイ子って好きな人いるの?」
「いるって言ったらどうする?」
「びっくりする」
「アタシもだよ」
「ふふっ」
 ふたりで同時に笑い合ったあと、アイ子はカバンを手に取った。
「今日さ、萌黄(もえぎ)んとこ泊りに行ってもいい?」
「え、でも」
妲己(だっき)(わめ)いてきたら、オマエまじ虐待で189(イチハヤク)すんぞって言ってやるよ。じゃなきゃ、その罵詈雑言やら恫喝やらを、そのまま110番して聞かせるぞって」
「出禁言い渡されてるじゃない、アイ子は。……逆襲されるから……」
 気弱にうつむく萌黄(もえぎ)に、アイ子はデコピンを食らわせる。
「逆襲するほうが負けるのが定番ってもんだよ。だいたい、2階は妲己(だっき)のテリトリーじゃないじゃん。アタシが泊まりに行ったって、

は文句言わないでしょ?」
千草(ちぐさ)さんは、そうね。アイ子が遊びに来ることは了解してる。……でも、いいの?」
「補導されるのとアタシがそっちに泊まるのと、どっちがいい?」
「……ありがと、アイ子。夕飯、パスタにしよっか」
「やったー!タラコソースがいいなぁ~」
 年相応にきゃいきゃいとはしゃぎながら、アイ子は萌黄(もえぎ)とともにコーヒーショップをあとにした。
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