カワイイ人

文字数 4,320文字

「こんなズルい人間で、呆れちゃった?」
 そう言って、ほろほろと涙を流している萌黄(もえぎ)さんは、湖につかった俺なんかよりも、ずっと冷たい場所にいたんだ。
 そんな過去を抱えていたなんて、全然わからなかったよ。
 だって、いつだって”モエギおねえさん”はふんわりと笑ってくれて、冗談を言って励ましてくれたから。
 そんな萌黄(もえぎ)さんが、俺に出会うことでちょっとでも温まったというのなら、ボッチでよかったと思う。
 ボッチ万歳だ。
 顔を思い出すのもイヤな連中もいるけど、今なら「どーもありがとな」ぐらい言ってやってもいい。
 泣き顔の萌黄(もえぎ)さんもキレイだけど、懸命に泣くのを我慢しようとしているのがわかるから、胸がギュっと痛くなる。
萌黄(もえぎ)さんはね、やっぱり女神だよ。出会ってからずっとキラキラしてたんだから」
――この子はいつ鎧を脱ぐんだろうって、気にかかっていたんです――
 田之上先生の言葉が、やっと胸にストンと落ちてきた。
 ずっと笑顔で隠していたこの涙を、田之上先生はどこかでわかっていて、心配し続けていたんだろう。
「違うの、私は」
 それ以上の言葉は口に出せないように、涙味の唇をそっと塞いでからニッと笑ってみせた。
萌黄(もえぎ)さんがどう思おうと、それが俺の教義だから」
「あくまで宗教って言い張るつもりだな?」
 笑おうと頑張っているけど、その口元がいじらしいほど震えている。
 こんなにつらい境遇にいながら、どれだけたくさんのものを俺にくれたのか。
 自信も言葉も知識も。
 そして、恋も。
「いっつも、どうしてひとりで決めちゃうのかな、事後報告で済ませるのかなって思ってた」
 頭に頬ずりすると、萌黄(もえぎ)さんの腕がゆっくりと俺の背中に回された。
「相談してもらえるほどの存在じゃないのかな、やっぱ年下は頼りないのかなって思うこともあったけど……」
 そういえば、アイ子さんが怒ってたっけ。
――泣いているのを知って何もできずにいることが、どれほど悔しいか――
――ムカつくほど遠慮っぽい――
 そんなふうにヤキモキしながら、それでもアイ子さんは萌黄(もえぎ)さんから離れずに、その隣を歩いていたんだろう。
 なんて心強いんだ、アイ子さん。
 ……強すぎてバフォメットだけど。
羊介(ようすけ)くんは、ズルしても失いたくなかったの。ただ、”自分が誰かの特別になれるわけがない”っていう思いが、どうしても消えなくて」
「一神教の、ポンコツ信者がいるのに?」
 ふわふわの髪に鼻をつっこんで、思いっきり匂いを嗅いで。
「……んっ。も、ちょっと、ダメ、……もう、わか、わかったからっ」
 耳たぶに軽く噛みついて、首筋をペロリと舐めたら、とうとう萌黄(もえぎ)さんのゲンコツが飛んできた。
「もぉ、しつこいっ」
「イデっ。だって、萌黄(もえぎ)さんが分からず屋だから悪いんだろっ」
 首筋を押さえて、顔を真っ赤にしている萌黄(もえぎ)さんがかわいすぎる。
「ねえ、萌黄(もえぎ)さん。これでもかっていうくらい幸せな時間を与えておいて、ほかにふさわしい出会いがある、なんてさ」
 熱を持ってるほっぺたに片手を当てたら、溶けていくみたいに目を閉じてくれた。
「俺のためにそう言うの?それとも……、自分が傷つきたくないから?」 
 軽いキスを受けていた萌黄(もえぎ)さんの瞳が、音がしたかと思うほどの勢いで開く。
萌黄(もえぎ)さんがくれるものなら、荷物でも傷でも大歓迎だよ。勝手に自己完結して離れていかれるくらいなら、どんな重いものだって一緒に背負いたい」
「……ズルくても?」
 こんなに揺れて、頼りなげな瞳をする萌黄(もえぎ)さんは初めてだ。
 やっと本心を見せてくれた、そんな気がする。
「俺を手放したくないからでしょ?嬉しいだけじゃん」
「……面倒な兄がいても?」
「俺には暴虐な兄がいるけど」
(いびつ)な家庭で育っていても?」
「それで、こんだけステキな人になったんだから、むしろ尊敬する。大好き。崇拝する」
「ポンコツフィルターが怖いなぁ」
「大丈夫。一生涯の保証付き、お買い得フィルターだよ」
「……もぉ」
 今度は萌黄(もえぎ)さんから優しいキスをしてくれて、そんなカワイイことされたら止まれないじゃんって、思ったんだけど。 
 唐突に鳴り響いたのは、警告のサイレンのような着信。
 萌黄(もえぎ)さんが首に下げていたスマートフォンが光りだして、俺たちは同時に目を落とした。
「……ちっ」
「え?萌黄(もえぎ)さん、舌打ち?舌打ちしたの?」
「空耳よ」
 一転して迫力満点、見たことないほど不機嫌な萌黄(もえぎ)さんが、スマートフォンを手に取る。
「はい、萌黄(もえぎ)です」
 その声も、ちょっとブルっとするくらい険悪に冷たい。
「……ええ、まだ大学の宿泊所に。……時間ですか?まあ、そうですね。……はいはい、戻ります。え、宿に確認したんですか?」
 心から嫌そうな萌黄(もえぎ)さんの表情に、ちょっと驚く。
 ……そんな顔もするんだね。
「そういうのをやめてくださいと申し上げたでしょう、もう子供ではないんだから。まず私に連絡をください。はい?べつに構いませんよ。……着拒?あれはだって、30分おきにメールの返信を強要するからでしょう。……またそういうデタラメを。返さないと、着信なのかと思う間隔でメールを送って寄越したくせに。……そうですね、あのときには助かりましたけど、程度ってものがあるでしょう。……はいはい、もう戻ります。……え、今ですか?はい、外にいます。どうして……、ああ、そうですね。学生の声はしてませんね。……湖の音が聞こえる?」
 いったんスマートフォンを耳から離した萌黄(もえぎ)さんが、俺に(ささや)く。
「湖の音って、ここまでしてる?」
「……うーん?」
 耳を澄ましてみたけど、言われればやっとそうかな、というくらいだ。
 この庭から湖畔までは、隣接しているといっても距離がある。
「デマカセばかりを、……はい?」
 萌黄(もえぎ)さんの語気が強まった。
「男の声?ええ、一緒にいますよ。付きまといじゃありません。私の大切な人です。またあんなことをしたら、今度こそ許しませんからね。彼がストーカーみたいになっちゃったのは、千草(ちぐさ)さんのせいもあるんじゃないんですかっ。はい、おやすみなさい!」
 最後はケンカ腰になった萌黄(もえぎ)さんは、一方的に通話を切ったらしい。
 そのあと、すぐにまたスマートフォンが鳴ったけど、能面みたいな顔で電源を落としていた。
「えっと、今のって」
 電話越しでもよくわかった、迫力ある低音ボイス。
 早口ではないのに、口を挟むことを許さないような流暢なしゃべり方。
 ……あれに反論していく、萌黄(もえぎ)さんもすごいって思う。
 なるほどなあ。
 俺の「たたみかけ戦法」の師匠である萌黄(もえぎ)さんは、こうやって鍛えられたのか。 
 萌黄(もえぎ)さんが実際にたたみかけているところは、見たことないけれど。
千草(ちぐさ)さんにバレちゃったね」
 萌黄(もえぎ)さんがペロリと舌を出した。
 あ、カワイイなぁ、じゃなくて。
 やっぱり、萌黄(もえぎ)さんのお兄さんからだったんだ。
「今度、千草(ちぐさ)さんには羊介(ようすけ)くんのことを話そうと思うのだけど……」
「あんなことって、どんなこと?」
「あんなこと?」
「”またあんなことをしたら許しませんからね”」
 萌黄さんの口真似をすると、その目がウロウロと泳ぎ出した。
 頭に浮かんだメニュー画面に”待つ”と”攻める”の選択肢が出てきたから、ほんのちょっと迷ったあとに”攻める”を入力する。
 考える時間があると、萌黄(もえぎ)さんは抱えちゃうクセがあるって、よくわかったから。
「言えないこと?言えないほど恥ずかしいの?困ってるの?悲しいの?」
 鼻にもほっぺたにも、耳にもあごにも歯を立てて、その気持ちのありかを問い続ける。
「ちが、ちょっと、まっ、待って!こらっ」
 ふふっ、今日はよくパンチをもらう日だなあ。
「イテテ。これは強烈なストレートだ」
 ウソです。
 妙にサマになっている動きだけれど、まったく痛くはない。
 猫パンチならぬ萌黄(もえぎ)パンチを食らった胸のあたりを押さえて、大袈裟に苦悶してみせた。
「今日は本当にしつこいっ」
 そんな、子猫がシャーシャーいってるみたいなカワイイニラミなんて逆効果なのに。
「あれ?どうしたの萌黄(もえぎ)さん。顔中、歯形だらけだけど」
「うそ?!」
「うん、ウソ」
「もー!」
 さらなるパンチは抱きしめて腕ごと封印すれば、憤慨している鼻息が耳元にかかって、くすぐったい。
「カワイイ。萌黄(もえぎ)さんはホントにカワイイ」
「可愛くなんかっ」
「やれやれ、俺の恋人はホントに分からず屋だなぁ。それもカワイイけど。それで、あんなことって?」
「……もー」
 ようやく諦めたらしい萌黄(もえぎ)さんが、俺に体を預けてくる。
「市島くんと出かけたりするとね、千草(ちぐさ)さんが頻繁に連絡を入れてくるの。部活のみんなと一緒のときには、そんなことしないから、どうしてデートだってバレてるのか、それはわからないんだけど」
「ふーぅん。デート、したんだ」
「そりゃあ、まあ。当時はつき合ってたし」
「だよね。うん、俺はそんとき小学生だもんね。ふーぅん」
「門限が近くなると、メールも電話もひっきりなしでね。高校生のころだから、心配なのもわかるけど」
 俺の機嫌が急降下するにつれて、萌黄(もえぎ)さんが早口になっていった。
「市島くんに二股を疑われたくらいで、兄だって言ったら”近親かよ”って」
「キモチ悪いこと言うやつだな、相変わらず」
「彼に家庭の事情なんか話すつもりもなかったから、過保護すぎて困ってることだけ伝えたの。そしたら、なんだか誤解したみたいで、意見してやるって言い出して。よけいなことしないでって言ったら、向こうが怒り出しちゃって」
「あ、それでなんじゃない?」
「なにが?」
「ボイレコ」
「……ああ、

を疑ってってこと?」
「ドヘンタイだけど、バカじゃないヒトみたいだから。萌黄(もえぎ)さんが何か抱えてるっぽいって気づいたんじゃない?やり方はどうかと思うけど」
「行動がイカれている兄に、やり方がどうかしているカレシだったわけね」
 萌黄(もえぎ)さんが長い、長いため息を漏らす。
「そういえばアイ子に、”変態ホイホイ”って言われたことがあったな。オカシナ人間ばっかり寄ってくるって」
「それってもしかして、俺もヘンタイ認定されてるってことかな」
 小柄な悪魔のニィっとした笑顔を思い出して、背中に怖気(おぞけ)が走った。
「さあ、どうだろう」
 萌黄(もえぎ)さんは軽く首を(かし)げて笑う。
「お似合いだって言われたけど、笑顔が真っ黒だったから理由は聞かなかったよ」
萌黄(もえぎ)さん、アイ子さんと友だちなんだよね?」
「そうよ、大親友。テスト勉強をよくうちでしてたんだけど、帰り際に、母親が私に言った嫌味を聞いたとたんにね、”文句あるならアンタが出てけ”って啖呵を切って、出禁食らったのよ、アイ子って」
「サイコーだね」
「でしょう?」
 ヒーローみたいなアイ子さんが目に浮かぶようで、俺は萌黄(もえぎ)さんと笑い合った。
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