狼の誓い
文字数 3,793文字
「妖怪扉叩き」の話にむかっ腹を立てて声を荒らげたり、思わず涙ぐんじゃった俺とは違って、大人の対応をするのだろう。
「
そんな
でも、絶対に諦めたりしない。
諦められない。
「元カレ」になんかなってたまるか。
――
いろんなものを乗り越えた
◇
日が暮れて、気温がぐんと下がってきた湿性花園の休憩所で、祝福を与えてくれた女神を胸に閉じ込めて、おでこにそっと唇を押し当てた。
「
決意と誓いの言葉とともに、ジャケットのポケットから小さな箱を取り出して女神に捧げる。
「え、これって……」
女神の口が薄く開いて、その瞳が何度も瞬きを繰り返した。
「もしかして、バイトをあんなに詰め込んでたのって」
「うん。どうしても、今日渡したかったから。俺へのゴホウビを
そのまま動かなくなってしまった女神の左手をそっと包んで、その薬指に箱の中身を通す。
「俺はまだ学生で、この約束を果たすのは、もう少し先になっちゃうけど……」
そのまま指先に唇を押し当てて、すくい上げるようにして見つめると、女神の頬が真っ赤に染まっていった。
「
そのまま黙り込んでしまった女神に、俺の不安がかき立てられる。
「あの、気に入らなかった?」
「そんなわけ、ないでしょ。こんな、こんな素敵な指輪……」
それは俺にとっては、ペリドットの周りにレイアウトされた、ダイヤモンドよりももっとキレイで価値があるものだ。
「よかった。よく似合ってるよ。……あの、それで返事は?」
「さっき、したよ?」
真っ赤な顔で視線をおろおろさせている
「”そんなわけない”ってのは、ちがくない?もっかい言うから、ちゃんと聞かせて」
熱を持っている
「俺と結婚してください、
「……はい。私もあなたと、
涙を一筋こぼした
「ありがとう、
「いらないって」
ぎゅぅっと抱き返しながら、ふわふわの髪の毛に鼻先を埋める。
「だって、今日は俺のゴホービでしょ」
「それは合格祝いだもの」
「なら、さ。宿に着いたら、
「い、いつも、好きにしてるじゃない」
「それより、もっと」
「もっと?」
「いつもガマンしてるんだよ」
「あれで?!」
「明日、実はレイトチェックアウトに変更してるんだ」
赤みの引かない顔を上げて、酸欠の金魚みたいにぱくぱくと口を開けたり閉じたりしている恋人を見ていると、自然と笑みがこぼれた。
「んふふ」
「この性悪策士羊!」
潤んだ瞳でにらんできた女神が、一瞬のちには、俺の忍耐を擦り切れさせるような笑顔になる。
「もー。それってわざとやってんの?」
「え、なにが?」
きょとんとした顔がますます俺を煽るけれど、消しカスくらい残っていたガマンを総動員して、キスだけで
「ちょ、……
まあ、残ってたガマンが消しカスだから、当然ライトなキスでは終わらないわけで。
「ここ外、そと……」
「うん」
何度か
「だから、精一杯ガマンしてるじゃん」
「これが?!」
「ホントは今すぐむいて、ぐえぇっ!」
さすがにその先は言わせてもらえず、太ももに置こうとした手も宙ぶらりんのまま。
マジ切れした
……まあ、納得かな。
「ちょっと反省しようか」
「……はい」
じんじんする腹を押さえながら、俺はおとなしく首を下げた。
◇
部屋付きの露天風呂に設置された縁台に座る
受付で選んだ白地に桔梗柄の浴衣がよく似合っていて、柔らかく抑えた照明のなか、
「すごくきれいだね」
隣に座って肩を寄せると、夕食にちょっとだけ飲んだビールに頬を染めている
「星が?」
だから、その笑顔……。
俺をどうしたいの?
「なわけないじゃん。わかってるくせに」
腕を伸ばしてその体を引き寄せれば、
「
「”男物はあんまり種類がないんです”って謝られちゃった」
「スポーツ選手なんですかって聞かれてたね。……体がほかほかしてる。酔っぱらっちゃった?」
「あんくらいで酔わないよ。俺、結構イケる口みたいだし。食事、すっごくおいしかったね。ちゃんとした懐石?って初めて食べた」
「先付けの種類も多くて、盛り付けも洒落てたね」
ふと
「せっかく露天風呂あるんだから、もっかいお風呂入る?」
「そう、しようかな」
囁きで問えば、吐息で返してくれる。
「ってことは、お腹こなれた?じゃあさ……」
「こ、こらこらこら」
浴衣の合わせ目から侵入した俺の手を、
「ダメ?」
「あの……、だって……」
その手を物ともせずに指先をもぞもぞ進めると、
「だって、夕飯前に……」
「あれは前菜。あ、先付けって言うんだっけ」
「ぜ、前菜っ?」
首まで真っ赤にして身をよじってるけど、それって逆効果なの知ってるかな。
「そうだよ。軽めだったでしょ」
「えぇっ?」
「全部俺にちょうだいって言ったじゃん。メインディッシュはこれからだよ。これから、全部食べ尽くしちゃうんだから」
ゆっくりと体重をかけて縁台に押し倒しながら、俺は
「……お手柔らかに、お願いします……」
消え入るように
耳にするだけで心が浮き立って、出会いの日を思い出さずにはいられない。
――嫌じゃなかったら、一緒に準備運動しない?――
キラキラした笑顔で、俺に手を差し伸べてくれたあの日。
いろんな感情を映し出す瞳に恋をして、俺を癒しも猛らせもする唇が愛しい。
初めて俺を丸ごと肯定してくれた、ずっと憧れだった人。
「ありがと、
「なにが」
「私のこと、全部、受け止めてくれて」
絡めている指をすがるように握りながら、
「ああ、もお……。ちょっとは手加減するつもりだったのにっ」
わずかに残っていた羊成分が蒸発して、とうとう跡形もなくなった。
「
腕のなかであえかに告げられた望みは、もちろん叶える。
「うん、一緒が、いいよね」
レイトチェックアウトは大正解だったと思うけど、連泊のほうにすればよかったなんて思いながら、俺は
俺の腕に頭を乗せて身を寄せる
「隣にいられるだけで幸せだけど、もっと頑張るから、俺」
左手の指輪に口付けて誓えば、ふにゃりとした微笑みが返される。
「ほどほどでいいよ」
声まで揺らめいていて、もう寝落ち寸前みたいだ。
「
「
「負担にはなりたくない」
「負担じゃないよ、原動力だよ。
「ときどきポンコツになるのは……」
「ブーストが掛かり過ぎるんだな、きっと」
「……修理に出したほうがいいんじゃない?……その、エンジン……」
「ダメ。どこにもやらない。メンテも俺がやる」
――そんなに大切にされて、幸せなエンジンね――
聞きもらしそうなくらいの小声でつぶやいた女神に顔を寄せて、そのこめかみに柔らかく口づける。
穏やかな寝息を立てだした
朝食の時間に間に合うようには起きられないかもしれないけど、もう一回くらい露天風呂に入りたい。
また一緒に入ろうって言ったら、
なんて。
そんなしょうもないことを考えながら、俺も眠りに落ちていった。