ロックオン
文字数 5,843文字
前期テスト最終日。
「木場野 、ノート何度もアリガトな」
同じ語学クラスのサイタが、通りすがりに俺の座る机を指先で軽く叩く。
人の輪に積極的に入る経験が少なかったし、それほど他人に興味もなかった。
だから、名前なんか知ったことかって、ずっと思っていたけれど。
萌黄 さんから「最低の礼儀よ」と言われたので、苗字ぐらいは覚えるようにしている。
「どういたしまして。ラッシュに慣れなくて乗り過ごしたとか聞いたら、気の毒になるじゃん」
「その”じゃん語”って憧れるわ。えっと、ありがとじゃん」
「そんな使い方はしねぇぞ」
サイタは北陸地方の出身で、大学沿線の下町に下宿しているという人懐っこい男だ。
「そこまで一緒に帰ろう。木場野 はこのままサークル?今度聞かせてよ」
俺のトランペットケースを指さしたサイタの人の良さそうな顔が、さらに柔和に緩む。
「演奏会にはぜひ。でも、今日はサークルじゃなくて、高校が一緒だったヤツと組んでるバンドのほう」
「カッコイイなぁ。ライブとかすんの?」
「そこまではちょっとね。まだ人数少ないし」
「え?木場野 君って、バンドもやってるの?」
背後からいきなり声をかけてきたのは、同じサークルに所属する天海 だ。
そういやコイツも、この講義取ってたっけと思いだす。
「じゃあ、今日はこっちに来ないんだ。みんな寂しがるね、イケメンがいないと」
「俺はべつにイケメンじゃねぇし、演奏に関係ねぇだろ」
顔にしか用がないって言われたみたいで、大変に不快。
それに、キモいってハブられた時間が長かったせいか、自分の顔のことはよくわからない。
「精悍な顔になったね」ってほめてくれる萌黄 さんがいれば(最近、「可愛い顔してもダメだからねっ」って怒られるほうが多いけど)、ほかのヤツにどう思われようが興味はない。
どんな毀誉褒貶も、萌黄 さんがくれた言葉の前では戯言 の類。
「イケメンじゃないって、それ本気で言ってんの?」
サイタが呆れた笑顔で俺を見上げてくる。
「おまえ、謙遜も過ぎると嫌味だぞ。じゃあな、おれもこれからサークルだから」
「サイタのサークルってなんだっけ」
「落研」
「ライブに行くわ」
「ライブ言うな。寄席と言え」
笑いながら手を振るサイタと別れて正門へ向かうと、天海 がくっついてきた。
「部室、こっちじゃねぇだろ」
「木場野 くんのバンド、メンバーって募集中なの?」
「募集はしてない」
「え?だって、足りてないんでしょう?」
「知らない」
「知らないって、自分のバンドのことじゃないのっ」
天海 がムッとしてるけど、なんで俺たちのバンドのことでムキになってんのか意味不明。
「集めんのは、ほかのヤツが担当してる」
リョータから「ヨースケはトランペット吹いてればいいよ」と言ってもらっている。
苦手に配慮してくれる、いい仲間たちだなと思うけど。
「ヨースケの”たたみかけ”が出るとヤバい」「口を開くと罵 るか惚気 るかだから、黙らせとけ」って、ほかのヤツらとコソコソ話していたのには、納得がいかない。
「ふーぅん……。夏休みの合宿には参加するでしょ?」
「そのつもり」
「よかった、じゃあね。あ、明日は来るの?」
「なんで?」
「木場野 君のペット」
「あ、そ」
どうでもよくて聞き流してしまったけれど、もう少し警戒しておくべきだった。
あとからそう後悔するほど、このときの俺は油断していたと思う。
◇
今日借りるスタジオの最寄り駅につくと、改札を出たところでリョータが待っていた。
「ヨースケお久~」
隣にはテナーサックスの古河 と、パーカスの松乃 もいる。
「お待たせ」
「オレの大学でトロンボーンやってるヤツいるから、今度、連れてくる。広島弁が最初びっくりするかもだけど、いいヤツだよ」
「お、いいじゃん」
「そういや今日、じゃん語に憧れるとか言われた」
「ああ、方言なんだってな」
「ま、どうでもいいじゃん」
「そういうワケにもいかないじゃん」
「そういやさ」
真顔になったリョータが俺を見上げた。
「ゆっきー先輩、入ってくれるって?」
「考えてみるって」
「やった!」
リョータよりも先に、松乃 の顔がみるみる輝いていく。
「あのふわふわの見た目でパンチのある音出すから、ギャップがいいよな、ゆっきー先輩のペットって」
「キバノ的には、これってOKラインなの?」
古河 が恐る恐るといった感じでオレの様子をうかがってるけど、そんなに警戒することあるか?
「松乃 は萌黄 さんのトランペット崇拝者だから」
「下心があったら?」
「は?」
思わず尖ってしまった声に、周りの連中がザっと一歩下がる。
「下心、あんの?」
「な、ないないない!ヘンなこと言うなよぉ、古河 ~」
「じょ、冗談だって、キバノ。だいたい、あんなにお前のこと大事にしてるゆっきー先輩とどうこうなろうなんてヤツ、オレらの代にいないって」
萌黄 さんが「お前のこと大事にしてる」。
「大事にしてる」……。
「大事にして」もらってる!
古河 の一言が、祝福の鐘のごとく脳内にリフレインする。
「機嫌、直ったね」
「一瞬だったな」
「ナイス、古河 」
「キバノが牙出しかけたのも、古河 のせいだけどね」
周りが何か言ってるけど、思い出の天使 が、スライドショーとなって再生されている俺の耳には入らない。
「ああ、そういえば」
天使ついでに悪魔 を思い出した俺は、改めてみんなを見渡す。
「アイ子先輩が、クラリネットはいらないのって笑ってたよ。アルトサックスもイケるぞって」
「え、鬼のパイセン、違った鬼龍院 先輩、時間あるの?」
「ないらしいけど、
「友情……?裏がありそうな」
「むしろ裏しかなさそうな」
「ゆっきー先輩に対する友情じゃない?鬼龍院 先輩のクラって、自由でステキだと思うけどなぁ。一緒に演奏するの、楽しいと思うけど」
「「「松乃 は心広すぎっ」」」
松乃 以外の、全員の声がそろった。
◇
「てな感じ」
「ふふっ」
仕事帰りの萌黄 さんと待ち合わせて、ファミレスで一緒に夕飯を食べるなんて、これ、なんて天国だろう。
「アイ子さんって、社内バンドではどっち吹いてるの?」
「サックスのほう。高校のときはクラが足りなくて、そっち回っただけだから」
「へぇ~。なんでもできるね、アイ子さんって」
本当に優秀な大先輩だなぁ。
……性格には少々難ありだけど。
「そんなことないわよ?あの子、愛想笑いとかオブラートに包むとか、唯々諾々とか苦手よ」
「苦手ってか、やんないじゃん。そんなこと」
だってバフォメットだしと思っていたら。
「まあ、そうだけど、ひとりだけいるかな」
萌黄 さんの意外な一言に、食事をする手が止まる。
「いる?何が?」
「アイ子が”攻撃する”も”逃げる”コマンドも諦めて、”従う”を選択する相手」
「ウソだろ。それ、ただのUMAだよ」
もしくは、バフォメットの上に君臨する大魔王。
「馬じゃないわよ?」
「わかってるよ。ウマいこと言ったみたいな顔しない」
「ウマいシャレがウマれたと思ったけど」
「ダジャレじゃん」
「駄はいりません」
「見解の相違がウマらないね」
「ウマず弛 まず努力していかないと」
なんて、こんな言葉遊びをポンポンできるのも萌黄 さんだけで、ホントに好きだなぁって思う。
「まあ、そのうち会うと思うけど」
「え?」
「そういえば、サークルの夏合宿はいつから?その前にデートしたいね」
何か恐ろし気なことを言われた気がするけど、意識は「デート」に持っていかれてしまった。
「したい!こないだ言ってた水族館とか行かない?」
「いいね。合宿の日程に響かないようにすると、今週末とかかな。急すぎる?空いてる?」
「急すぎないし空いてる」
萌黄 さんと会うためなら、ほかの予定なんか、あったとしても即効キャンセルするに決まっている。
「あー、8月入ったらすぐ合宿だなぁ」
「何日までだっけ」
「十日。……長すぎじゃない?サークル、やめようかな」
「こらこら。自分のバンドのためでもあるって言ってたじゃない」
「萌黄 さん、入ってくれるだろ?」
「そう頻繁には、練習に参加できないかもしれないけど。それでもいい?」
「もちろん」
「そうね。お邪魔じゃなければ、参加させてもらおうかな」
「邪魔なわけない。みんな、松乃 なんかとくに喜ぶよ」
「あのコのドラム迫力あるから、一緒のセッションは楽しそう。……もちろん、羊介 くんと一緒に演奏できることが、一番嬉しいよ」
「う、うん」
子供っぽい嫉妬が、それもすぐにバレたらしくて、ちょっと恥ずかしい。
「これからどうする?疲れてるなら、帰る?」
ファミレスを出たところで、時間を確認しながら聞いてみる。
ホントはもっと一緒にいたいけど、一週間働きづめの萌黄 さんに、無理はさせたくない。
とはいえ、もうちょっと一緒にいたい気持ちはあるから、ダメもとで聞いてみる。
「お茶でもする?」
「そうねぇ」
言葉を濁すということは、今日はお疲れなのかな。
がっかりしながらいつもの改札まで送ろうとすると、途中でぴたりとその足が止まった。
「どうしたの?」
「えっと、私、こっちだから」
見慣れたペアリングをはめた手が、「地下鉄入り口」と書かれた表示を指している。
「……ん?」
たしかに萌黄 さんの使う路線は、途中で地下鉄と乗り入れしているけど。
直通で帰れるのに乗り換えする理由がわからなくて、まじまじとその顔を見つめてしまう。
「なんで?」
「えっとね、引っ越したから」
「えっ?!……いつ?」
「半月前くらいかな」
「……どうして黙ってたの?」
その間に電話もしてるし、メッセージも交換してるのにって思ったら、自分でもちょっとびっくりするくらい声のトーンが下がった。
でも、萌黄 さんの表情は隠し事をしていたというより、イタズラを仕掛けようとする小さな子みたい。
「ふふっ、驚かせたかったら。羊介 くん、うちのお客様第一号になりませんか?」
「……え、オキャクサマ?モエギさんのウチって、第一号とか、ってか、ひとり暮らし?」
なんか、カタコトでシドロモドロになったけど、それは致し方ないと思う。
「ドッキリ大成功?羊介 くん、お茶するならうちに来ない?やっと部屋の片づけが終わったの」
照れ笑いをする萌黄 さんは、キラキラのプレゼントみたいだったんだから。
萌黄 さんの職場の駅からは4つ目。
駅から徒歩5分ほどの、比較的新しいオートロックマンションの5階の角部屋。
「お、おじゃまします」
「はい、スリッパどうぞ」
「うちってスリッパないんだ。ラッキーが齧 るから」
なんて言いながら足をつっこむと、かかとが少しはみ出してしまう。
「あ、やっぱりちょっと小さかったね。次は、もっと大きいスリッパを用意しておくから。今日はそれでガマンして」
「次は」。
なんてステキな言葉なんだろう!
また来てもいいんだな!!
緩む顔をなんとか引き締めて、玄関からすぐのダイニングに上がった。
その奥のスライドドアを開けると、萌黄 さんの部屋がぱっと目に入ってくる。
円形のダークブラウンのラグの上に置かれた、ウッド調のローテーブル。
その脇には深緑のローチェアとクッション。
ベッド脇のチェストの上には、オレンジ色のバラのプリザーブドフラワーが飾ってある。
「あれ、見覚えない?」
「あのバラ?」
「羊介 くんが演奏会でくれたバラだよ。プリザーブドにしたの」
「萌黄 さんが?」
「キットが売ってるの。嬉しかった気持ちを、そのまま閉じ込めておきたかったから」
「……萌黄 さん」
もお、なんでそんなカワイイこと言うかな。
心臓が痛いんだけど。
「適当に座って。イスでもクッションでも。コーヒーは、もう飲めるもんね。紅茶のほうがいい?」
「コーヒーがいい。今なら勉強会、コーヒーショップでもできるし」
「んふふ。誘拐犯には間違えられないかな?」
懐かしい話に笑いながら、萌黄 さんは電気ケトルのスイッチを入れる。
「どうして、急にひとり暮らし始めたの?」
「仕事の時間が不規則なことが続いて、ちょっと実家は遠いなって思ったの。……広すぎるし」
「え、なんて?」
カップを出すために俺に背中を向けちゃったから、萌黄 さんの声が遠くなった。
「ここは近くに大きい公園があって、休日は楽器を演奏してる人もいるんだよ。環境、抜群でしょう?私の実家の周りは家ばかりだもの。羊介 くんのおうちは、近所にあの原っぱがあるからいいね」
「じゃあ、明日もその公園って行くの?」
「時間があればね。今は街探検が面白くて。小さなパン屋さんがカフェをやってたりするんだよ。今度、羊介 くんも一緒に行く?」
ダイニングから戻ってきた萌黄 さんは無邪気に笑っているけれど、俺はもうそれどころじゃない。
「……それって、泊ってっていいってこと?明日、一緒に連れてってくれるの?」
隣に座った恋人の腰に腕を回して顔を近づけると、たちまち顔を赤くした萌黄 さんの目が丸くなる。
「だって、泊るって言ってきてないでしょ、おうちの人に」
「んなの俺は男だから、下宿してるヤツんとこ泊るって電話すれば、それで済むよ。……いいの?泊って」
「え、あの、ん?」
萌黄 さんはコンランしている!
こういうステータスの萌黄 さんは思考力が落ちる。
多分、イヤではないはずだ。
迷ってることがあって、「ダメ」の理由を探してる。
もちろん俺は、その理由にたどり着かせるつもりはない。
ひとり暮らしの部屋に男を上がらせたりして、本当に困ったうっかり屋さんだ。
俺はもう、「男の子」じゃないってわかってる?
「萌黄 さんは、俺がここにいたらイヤなの?」
「イヤじゃないけど、ん……」
もうそれ以上言葉が出ないように、考えられないように。
俺は萌黄 さんの唇を塞いだ。
あの蛍の夜から、もう幾度目だろう。
萌黄 さんが溶けちゃうキスも覚えた俺の腕のなかで、大好きな人の体の力が抜けていく。
リクライニングのギアを解除して、柔らかくてあったかい萌黄 さんの体をイスに押し付けると、呼吸さえ奪うように唇を重ねた。
萌黄 さんの吐息と甘い鼻声が、俺から理性を奪っていく。
「泊ってっていい?だめ?俺のことキライ?」
「キライな、わけ」
「じゃあ、いいよね」
うなずく以外の選択肢を与えなかった俺は、あとでこってり叱られるかもしれない。
萌黄 さんに無理はさせたくない、なんて思っていた俺の配慮どこ行った?とも思うけれど。
でも、このまま帰るなんて絶対できないって、心とカラダの全部が叫んでいるんだから。
ごめんね。
諦めて、萌黄 さん。
「
同じ語学クラスのサイタが、通りすがりに俺の座る机を指先で軽く叩く。
人の輪に積極的に入る経験が少なかったし、それほど他人に興味もなかった。
だから、名前なんか知ったことかって、ずっと思っていたけれど。
「どういたしまして。ラッシュに慣れなくて乗り過ごしたとか聞いたら、気の毒になるじゃん」
「その”じゃん語”って憧れるわ。えっと、ありがとじゃん」
「そんな使い方はしねぇぞ」
サイタは北陸地方の出身で、大学沿線の下町に下宿しているという人懐っこい男だ。
「そこまで一緒に帰ろう。
俺のトランペットケースを指さしたサイタの人の良さそうな顔が、さらに柔和に緩む。
「演奏会にはぜひ。でも、今日はサークルじゃなくて、高校が一緒だったヤツと組んでるバンドのほう」
「カッコイイなぁ。ライブとかすんの?」
「そこまではちょっとね。まだ人数少ないし」
「え?
背後からいきなり声をかけてきたのは、同じサークルに所属する
そういやコイツも、この講義取ってたっけと思いだす。
「じゃあ、今日はこっちに来ないんだ。みんな寂しがるね、イケメンがいないと」
「俺はべつにイケメンじゃねぇし、演奏に関係ねぇだろ」
顔にしか用がないって言われたみたいで、大変に不快。
それに、キモいってハブられた時間が長かったせいか、自分の顔のことはよくわからない。
「精悍な顔になったね」ってほめてくれる
どんな毀誉褒貶も、
「イケメンじゃないって、それ本気で言ってんの?」
サイタが呆れた笑顔で俺を見上げてくる。
「おまえ、謙遜も過ぎると嫌味だぞ。じゃあな、おれもこれからサークルだから」
「サイタのサークルってなんだっけ」
「落研」
「ライブに行くわ」
「ライブ言うな。寄席と言え」
笑いながら手を振るサイタと別れて正門へ向かうと、
「部室、こっちじゃねぇだろ」
「
「募集はしてない」
「え?だって、足りてないんでしょう?」
「知らない」
「知らないって、自分のバンドのことじゃないのっ」
「集めんのは、ほかのヤツが担当してる」
リョータから「ヨースケはトランペット吹いてればいいよ」と言ってもらっている。
苦手に配慮してくれる、いい仲間たちだなと思うけど。
「ヨースケの”たたみかけ”が出るとヤバい」「口を開くと
「ふーぅん……。夏休みの合宿には参加するでしょ?」
「そのつもり」
「よかった、じゃあね。あ、明日は来るの?」
「なんで?」
「
みんな
注目してるからさ、「あ、そ」
どうでもよくて聞き流してしまったけれど、もう少し警戒しておくべきだった。
あとからそう後悔するほど、このときの俺は油断していたと思う。
◇
今日借りるスタジオの最寄り駅につくと、改札を出たところでリョータが待っていた。
「ヨースケお久~」
隣にはテナーサックスの
「お待たせ」
「オレの大学でトロンボーンやってるヤツいるから、今度、連れてくる。広島弁が最初びっくりするかもだけど、いいヤツだよ」
「お、いいじゃん」
「そういや今日、じゃん語に憧れるとか言われた」
「ああ、方言なんだってな」
「ま、どうでもいいじゃん」
「そういうワケにもいかないじゃん」
「そういやさ」
真顔になったリョータが俺を見上げた。
「ゆっきー先輩、入ってくれるって?」
「考えてみるって」
「やった!」
リョータよりも先に、
「あのふわふわの見た目でパンチのある音出すから、ギャップがいいよな、ゆっきー先輩のペットって」
「キバノ的には、これってOKラインなの?」
「
「下心があったら?」
「は?」
思わず尖ってしまった声に、周りの連中がザっと一歩下がる。
「下心、あんの?」
「な、ないないない!ヘンなこと言うなよぉ、
「じょ、冗談だって、キバノ。だいたい、あんなにお前のこと大事にしてるゆっきー先輩とどうこうなろうなんてヤツ、オレらの代にいないって」
「大事にしてる」……。
「大事にして」もらってる!
「機嫌、直ったね」
「一瞬だったな」
「ナイス、
「キバノが牙出しかけたのも、
周りが何か言ってるけど、思い出の
「ああ、そういえば」
天使ついでに
「アイ子先輩が、クラリネットはいらないのって笑ってたよ。アルトサックスもイケるぞって」
「え、鬼のパイセン、違った
「ないらしいけど、
友情
出演ならしてあげるよって」「友情……?裏がありそうな」
「むしろ裏しかなさそうな」
「ゆっきー先輩に対する友情じゃない?
「「「
◇
「てな感じ」
「ふふっ」
仕事帰りの
「アイ子さんって、社内バンドではどっち吹いてるの?」
「サックスのほう。高校のときはクラが足りなくて、そっち回っただけだから」
「へぇ~。なんでもできるね、アイ子さんって」
本当に優秀な大先輩だなぁ。
……性格には少々難ありだけど。
「そんなことないわよ?あの子、愛想笑いとかオブラートに包むとか、唯々諾々とか苦手よ」
「苦手ってか、やんないじゃん。そんなこと」
だってバフォメットだしと思っていたら。
「まあ、そうだけど、ひとりだけいるかな」
「いる?何が?」
「アイ子が”攻撃する”も”逃げる”コマンドも諦めて、”従う”を選択する相手」
「ウソだろ。それ、ただのUMAだよ」
もしくは、バフォメットの上に君臨する大魔王。
「馬じゃないわよ?」
「わかってるよ。ウマいこと言ったみたいな顔しない」
「ウマいシャレがウマれたと思ったけど」
「ダジャレじゃん」
「駄はいりません」
「見解の相違がウマらないね」
「ウマず
なんて、こんな言葉遊びをポンポンできるのも
「まあ、そのうち会うと思うけど」
「え?」
「そういえば、サークルの夏合宿はいつから?その前にデートしたいね」
何か恐ろし気なことを言われた気がするけど、意識は「デート」に持っていかれてしまった。
「したい!こないだ言ってた水族館とか行かない?」
「いいね。合宿の日程に響かないようにすると、今週末とかかな。急すぎる?空いてる?」
「急すぎないし空いてる」
「あー、8月入ったらすぐ合宿だなぁ」
「何日までだっけ」
「十日。……長すぎじゃない?サークル、やめようかな」
「こらこら。自分のバンドのためでもあるって言ってたじゃない」
「
「そう頻繁には、練習に参加できないかもしれないけど。それでもいい?」
「もちろん」
「そうね。お邪魔じゃなければ、参加させてもらおうかな」
「邪魔なわけない。みんな、
「あのコのドラム迫力あるから、一緒のセッションは楽しそう。……もちろん、
「う、うん」
子供っぽい嫉妬が、それもすぐにバレたらしくて、ちょっと恥ずかしい。
「これからどうする?疲れてるなら、帰る?」
ファミレスを出たところで、時間を確認しながら聞いてみる。
ホントはもっと一緒にいたいけど、一週間働きづめの
とはいえ、もうちょっと一緒にいたい気持ちはあるから、ダメもとで聞いてみる。
「お茶でもする?」
「そうねぇ」
言葉を濁すということは、今日はお疲れなのかな。
がっかりしながらいつもの改札まで送ろうとすると、途中でぴたりとその足が止まった。
「どうしたの?」
「えっと、私、こっちだから」
見慣れたペアリングをはめた手が、「地下鉄入り口」と書かれた表示を指している。
「……ん?」
たしかに
直通で帰れるのに乗り換えする理由がわからなくて、まじまじとその顔を見つめてしまう。
「なんで?」
「えっとね、引っ越したから」
「えっ?!……いつ?」
「半月前くらいかな」
「……どうして黙ってたの?」
その間に電話もしてるし、メッセージも交換してるのにって思ったら、自分でもちょっとびっくりするくらい声のトーンが下がった。
でも、
「ふふっ、驚かせたかったら。
「……え、オキャクサマ?モエギさんのウチって、第一号とか、ってか、ひとり暮らし?」
なんか、カタコトでシドロモドロになったけど、それは致し方ないと思う。
「ドッキリ大成功?
照れ笑いをする
駅から徒歩5分ほどの、比較的新しいオートロックマンションの5階の角部屋。
「お、おじゃまします」
「はい、スリッパどうぞ」
「うちってスリッパないんだ。ラッキーが
なんて言いながら足をつっこむと、かかとが少しはみ出してしまう。
「あ、やっぱりちょっと小さかったね。次は、もっと大きいスリッパを用意しておくから。今日はそれでガマンして」
「次は」。
なんてステキな言葉なんだろう!
また来てもいいんだな!!
緩む顔をなんとか引き締めて、玄関からすぐのダイニングに上がった。
その奥のスライドドアを開けると、
円形のダークブラウンのラグの上に置かれた、ウッド調のローテーブル。
その脇には深緑のローチェアとクッション。
ベッド脇のチェストの上には、オレンジ色のバラのプリザーブドフラワーが飾ってある。
「あれ、見覚えない?」
「あのバラ?」
「
「
「キットが売ってるの。嬉しかった気持ちを、そのまま閉じ込めておきたかったから」
「……
もお、なんでそんなカワイイこと言うかな。
心臓が痛いんだけど。
「適当に座って。イスでもクッションでも。コーヒーは、もう飲めるもんね。紅茶のほうがいい?」
「コーヒーがいい。今なら勉強会、コーヒーショップでもできるし」
「んふふ。誘拐犯には間違えられないかな?」
懐かしい話に笑いながら、
「どうして、急にひとり暮らし始めたの?」
「仕事の時間が不規則なことが続いて、ちょっと実家は遠いなって思ったの。……広すぎるし」
「え、なんて?」
カップを出すために俺に背中を向けちゃったから、
「ここは近くに大きい公園があって、休日は楽器を演奏してる人もいるんだよ。環境、抜群でしょう?私の実家の周りは家ばかりだもの。
「じゃあ、明日もその公園って行くの?」
「時間があればね。今は街探検が面白くて。小さなパン屋さんがカフェをやってたりするんだよ。今度、
ダイニングから戻ってきた
「……それって、泊ってっていいってこと?明日、一緒に連れてってくれるの?」
隣に座った恋人の腰に腕を回して顔を近づけると、たちまち顔を赤くした
「だって、泊るって言ってきてないでしょ、おうちの人に」
「んなの俺は男だから、下宿してるヤツんとこ泊るって電話すれば、それで済むよ。……いいの?泊って」
「え、あの、ん?」
こういうステータスの
多分、イヤではないはずだ。
迷ってることがあって、「ダメ」の理由を探してる。
もちろん俺は、その理由にたどり着かせるつもりはない。
ひとり暮らしの部屋に男を上がらせたりして、本当に困ったうっかり屋さんだ。
俺はもう、「男の子」じゃないってわかってる?
「
「イヤじゃないけど、ん……」
もうそれ以上言葉が出ないように、考えられないように。
俺は
あの蛍の夜から、もう幾度目だろう。
リクライニングのギアを解除して、柔らかくてあったかい
「泊ってっていい?だめ?俺のことキライ?」
「キライな、わけ」
「じゃあ、いいよね」
うなずく以外の選択肢を与えなかった俺は、あとでこってり叱られるかもしれない。
でも、このまま帰るなんて絶対できないって、心とカラダの全部が叫んでいるんだから。
ごめんね。
諦めて、