43.  主の祈り

文字数 22,142文字

ちょっと踏み込んでの解説を、ガイドたるものを、自分なりにやりたかったんだが、
読者のこころが

、一枚写真を加工してたら、もう笑けても〜て、も〜て、
もう書き進めれなくなったしまったんだ…。どうしても笑けてきてしまう……。

もう無理、書けない。

構成が今のままではだめなんだろうな〜…。

、おまけとして、最後に持ってくるべきものなんだと思う!。

まったくもって中途半端なんだけど、今のままの未完成至極の状態にて、
一旦このまま公開してしまう。

もう完璧に初稿も初稿のそのラフスケッチとしてのものなんですぅ〜〜。

ごめんな〜、ごめんやして、おくれやしてで、ごめんやっしゃ〜〜…。



これからゆっくり仕上げてゆきます〜……。



草 々


天村




【 イエスの教へた祈り 】


(てん)にまします(われ)らが(ちち)よ!

既に、このときには、ことの背景にては、
思い至ってる、理解されてあることがどうしても必要になってくる。
そのことの理解を事実を踏まえての、新たに心にて込み上げてくるその思い、
これをもってアプローチする!。

再確立、再確定させるべくしての初っ端の一言。

やはり、高きに、高くにて、御座(おわ)し、()しますることの事実、実感。そのことの事実/実態を、改めて、ハッキリと識り、意識しての、そのことの結果としての感嘆をもって、発語されるべきなのかと…。

それは難しくする考える必要はなく、最上位としてのその高み、天を意識する、想像するにてで十分。そこが、それそのものが、すべてを、全天を、全世界を覆ってあり、おり、支配されて、いる、おられるんのだと……。

高み、高さ、至聖なること、万能なる、始原なることの再確定、再認識、そして、それ、そこへと、意識の手を伸ばす、集中する、なにものかを現実として意識してある、あれることこそが肝心なる行為、努力になる……。おそらくはダイブイン。一種の短時間におけるトリップだ。彼いなくば、ただのファンタジー、妄想世界でしかないが、実際は導きがちゃんとあって、ことに信頼を寄せても大丈夫。この座標指定、誘導、固定が、あちらからの恵みなのだ……。

そしてまた、それに比して、自己たるものが、いかに低みにて控えて在るのか、
依ってあって生存してあるのかというその事実実態を片側において意識してあること。
甚だしく、弱く、儚く、脆くしての存在なること、このことの事実も、想起、意識されて
あらねばならない……。

つまりはまったくの0だ。意味無し、価値なし、力なしとしてのものなのだ。それとしてのものが至高の方に向けて、おいて、ほんいっとき、関係を樹立しているある、

、いるのだ…。これはもう恵み以外のなにものでもあるまい。

その身が甚だしく低く、無力なるが故に、呼びかけとしてのその思いは、自然と、
強く、大きく、激しく、切ないものになる。

祈り、祈念ってのは、基本切なくしてのもので、世界に対しての、絶望としての、それにおいての、悲鳴、嗚咽、嘆願、悲願としてでしか、あり得ない、のかも知れないっと……。わたしら人間にとって、おいてはね。


(ねが)わくば、

自分の、ほん時において、思いとして、ただ願うべきものがあるのだとすれば、
それは以下の内容あるのみ!

御名(みな)が、至聖(しせひ)なるもて、(あが)め、(たてまつ)られ、そして(とふと)ばれんことを。

「聖なるか〜〜な〜…♫」これとしての実感を思いを、貴方はどう理解してるのだろうか?。
これも一種の感情を伴っての体験を認知としてのものになる。対象においての、そのお働きを、知っての、察知しての、実感しての、その結果として、湧き起こる思い……。

これに関しては、それ(聖なる)としてある、なるものは、どうしても事前に、馴染んで、学んでおかなければならないものであるかのような……。先人たちが、どのような思いにおいて、感じていたのか、あったのかを。じゃいない

、知り得ないことになってしまうから。

*それとしての感情を習う育てる馴染む、理解しておくってことがどうしても必要なのだ。
*なぜならば、日本文化圏内にては、それとしてものがないから。
*神道においてとなればそれはあるにはあるが、どうもあまりにも抽象的に過ぎるかと…。
*雅楽はあまりにも洗練とその高みにあぐらをかきすぎてる。儀礼的なるに過ぎるんだ。
*日常生活においてその成果を導入することは難しい。敗戦がGHQのせいだ…。

じゃないと、定まりが無手勝流になってしまう。どう思えば感じればいいのかが不確かにして

いってしまう。それはもう確実に!。結果、中途半端に陥りやすくなってしまう……。じゃどうやって学べばいいのかと云うと〜、芸術においてそれ触れるにしかない。音楽、絵画、彫刻、建物。それらは本物でなければならない。それらにおいて創作するにおいてその背後にて働いてあった、もたれてあたった感情をスキャンするべきなのだ。それを参考にして、自分としての思いを確定させてゆく。それとしてのものは、いつも、絶えず、何処であったとしても、今も!、悟る、察知することはできる。

たとえばどっかで書いたと思うんだが、遠目に桜の吹雪を観たときに自分なんかはこれは贈与としての平安の表しとしてのその貴重なる瞬間だと認知、実感してあった。特別なその瞬間、時間と、

いたんだ。あれもまたほんの数秒の世界でしかなかった……。

意外と単純なことの中に、主のお働きとしてのその結果としての事象に触れる、気づくことができる。これがまず先決。すると、いろんな理解、思いとしてのものが自分の内に於いて顕現する。認知として、それにおいての印象の、一番大事なのが「聖なるかな」としての驚き、その感慨になる。

直近では Harpa Dei なるコーラスグループの歌を聴くのが一番のお勧めかな。
特にソプラノを受け持つこのお嬢さんの声を!。その彼女のこころ精神の出来上がりを!。
マリア様のイメージを、自分は、この女性においてがもっとも相応しいものとして、
投げかけている。感じている。


https://www.youtube.com/@HarpaDeiMusic


この神名としてのものが何なのかはもう既に一回やってる。
I am that 「I AM」、「我は在る」、ただ「在るがのみの存在」である。
これが核心…まさに本質……。

だから

やら

とかの名称は、仮称、通り名としてのものでしかない。
人が便宜上付けた名でしかない。大切なものを入れとく閉まっとく為の箱みたいなもの。
それは単に箱でしかないんだ

では、この「在る」としての状態、その箱の中身としてのもの、
その正体実体とは、何だ?、何のことを言ってる?。

含んでのことでしかない。簡単に云えば世界、宇宙の丸ごと。

確かに

。そして、私達も確実にその

存在してる。

これらのことのすべてが、も〜信じらんないこと、奇跡としての事態、その状況なのだ!。

元々の話しからしてね…。

ことの原因体としてものを我々は”神”と呼ぶまでのこと。これも便宜上は〜だ。

そこに一方的に求められてある、きてるのは、ただ関係性のみ。

徹頭徹尾、「

!「

」としての……。

御本尊とされての、その写し身とされてのものが、臨在、肉薄、至近距離まで肉薄してくる、
そんな事態としてのことも、稀に、ある訳さ…。人の子らにとって分かりやすくする為に。
ものごとの調整なんてもん、彼ともなれば、なんとでも効く……。


まさに至聖それとしてのものであることを、存在であられることを、私は感服しております。
なれば、ならば、他に何を、誰を、崇める必要があるというのであろうか?!。
絶対の一者であられる貴方様こそを、

、我は、尊びて、仕えて、奉らん!!。


追記:

ただ「在る」のみとしての、その心のステートを、マスターするのがことの始まり。

これ、この状態に有る、在れるならば、理解ることが一つある。一切、観念たるものが、思考たるものが、持たれては、いないってことが…。持つことこそが、これでは、そもそもからして、元々から、叶わないんだってことが!。*短時間であれば、このことは、誰でも、誰にでも感得できる、し得る!。*遊びでも仕事てもいいんだが、一心不乱になにかに興じている、打ち込んでいる状態においては100%、十全にあなたは在る。世界と完璧にシンクロして在る。とても幸せな状態。だがそれは長くには続かない…。これとしての状態においての恒久化を目指すならば、その最中において、ことに気づけてなくちゃならない。この気づいてあるものが、実は、正真正銘のあなたとしての本体。プルシャ…。それは、あれこれ言わない。何も思わないし考えない。だが一切に、気づく

の一切に、気づいてあるまで。静かなもんだ。不思議なのが片側だけってのはよくないんだ。自己を完璧に投じてある、完全完璧なる自己同一化の状態のままにてで、ありっぱなしってのも…。自分が今どんな状態にあるのかってことに気づける、気づいてあるってことが必要。

追記:この辺のモデルとしては車輪の回転として例えるのが最適だろう。それは回転してこその意義、その役立ちになる。回転の為には、”弾み”ってやつがどうしてもいる。これを失ってしまってる人々も多い。特に高齢者になればなるほど。”さっ”と動けるか?!。また止まるべきに於いては即座に停止出来なければならない。それもだ、次元における動きの開始を念頭に、

そこに為されてなければ、

いなければならない。これがあるからこそ次点においての動きが寸分の遅れもなく可能になるのだから。また回転はスムースで安定したものである必要がある。「ガタガタ「ピシピシ」不安定なるのはいただけない。当人にとっては気持ち悪ことであるだろうし、エネルギーロスが確実にそこにはあるのだから。こういった回転において、ことを為しているのは車輪だけではなく、スポークスを媒として繋がっている連結されてある車軸こそにある。これが一番重要。それは基本、上辺からは視えない、察知しにくいし、自覚しずらい。勢いよく効率的にバランスよく回せているときにおいてのみ、これの有り様を、その所在を察知することが適う。そんで知れる、ほんで大切に、これに対しての意識を、注ぐことができるようなる。これについているベアリングは高精度に作られてて、つまりは同じ寸歩同じ重さ、また高強度である必要がある。そして高純度の値段のかかる

差するをもって適宜メンテナンスしてあらなければならない。どこで買える?売ってない。体内でそれを作り出さなければならない。どうやって?。意識的な労苦においてだ。ベアリング玉の交換もまた必要だ。だから、ま

苦しむ必要がでてくる…。さて、道路は平坦であるばかりではない。でこぼこ道や、冠水したぬかるみである場合もある。上辺から見ただけでは、そこに穴ぼこがあるのかはサッパリ分からない。悪路の運転において大切になってくるのがバランス感覚。操舵者が自身の体重を左へ右へ然るべく移動させねばならない。色々な意義意味において。手先の先にまで感覚を行き渡らしていなくばなるまい。これもまた日常において当たり前となっていないと…。感覚は大事。またこのケースともなればサスペンションの働きってやつも大いに役立つことになる。足のバネってやつ…。さて以上のことは、すべてあなた自身の体と精神、また集中力等の精神力のことをいっている。これらに合致したものをあなたは己が内に

もっているのだ。各個の機能、その働き支配において、その実際の間において、自覚が為されなければならない。

のそれのそれらのコントロールとなるのだから。終...。

嫌な悲惨な辛く酷くみじめな屈辱的な不合理な...そんな体験を実際に経ること、すること、これが”苦しみ”。これにおいては二つの功徳と呼べる内容がある。一つはことの渦中においてはあなたは眠ってなどおれない。ことが解決する、完全にことが過ぎ去るまでは気を張っていなかればならない。そこには奮闘と呼べる努力がある。もう一つがその体験をもって、あなたは、あなたと同じ、よく似た境遇にあるものが、内面においていかなる思い味わいをもっているかを察することが可能になる。飢えてある、お金のないことの実際を、近しい人々らに見限られ、見捨てられ、軽蔑侮蔑されてしまってあることの現実を…。それは我が身において、

あったことではないか!。苦しみとしての経験の記憶がそこに再現される。すると、もう放ってはおけなくなる。「汝はかっての我なり」。同情をもってしての愛の思いが、そこに込み上げてくる。なにかをするか、その人の為に祈るといった行動が衝動が、どうしても、どうしようもなく、生まれてくることになる。終...。

では次に、一旦通常の心の状態に戻って、考えるべきなのは、ただ在るのみであるならば、
キリスト教としてのその世界観も、”無”に等しきものになってしまうではないか!…。
あれらもまた一面、観念、言葉によっての、その世界構築なんで……。

先ずの最初に、在るとしてのその状態その様相を自らにおいて理解する。体験する。そして、
これと同じ状態にて神たる方もいらっしゃるのだとするのがいい。これがそもそもの始まり。

では次に、生の現実において、日々の状況環境変化に対して、

、対処することが、確実に必要になってくる。そうじゃないとおかしいのだ。そこに、適宜、適応、最適なるものとしての、その対処、その有り様がある。これに準じてある、沿ってある、従ってある、適合してあるってのが一番の理想。ある意味、

、それとしてのものとして、自分はただ反応してあるだけってことに尽きるのだが、それとしてあることにおいて、行動に伴って、言葉やら考え思考想念としてのものが発生、伴ってくるまでのことなのだ。

ちょっと微妙なることを語っているのだが、簡単に言えば、言葉や思い感情、観念欲望が、

立つことはないんだ。変化をしてある現実の最中にて同化して在る限りにおいて、為すべきことを、為するに従ってる限りにおいては、そこではまた必要とされる思考もまた自然と涌いてきてしまう。*ちゃんと素養、トレーニングとしてのものは必要だけど。キャパとしての前提もたしかにある。バカじゃ、知性が、良心本質が、未発達なれば土台これはむり…。

一つ簡単な例を…
玄関先で誰かの靴が脱ぎっぱなし、乱雑な様子で脱ぎ捨てられたのを見たなら、もう体が、自然な形で、それを整えてあげてしまってるんだ。そこに想念、思考としてのものはまったくない。体が勝手に、もうそうしてしまってる話なのだ。ある意味、ある状態においてでは、性善説もまた正しいのだ。

在るは全体としてのもの。また自明としてあるもの。これが父なる神。ではこの自分は?。
自分もまた在る。全体を構成してあるその一端、一片、一点のものとして。
これもまた自明なるものとしてあることができる。
いや、それとして、それにおいて生きていなければならない。
自明として。自然なるその姿において。

言葉もまた、創造のそのツール呪文として、神聖にして必要必須不可欠なるもの。
それらをもってなる物語もまた、きっと、重要なんだろさ…。

ベースは「在る」だ。これが外界との世界に対して創造、もしくは関与としての関係性を、
主体的にて為す、樹立するんだ(これこそが生きるとゆうことだ)。そこに祈念、こだわり、
指向性、嗜好性として持たれてあった、あるのが、真善美たるものとしての指針。
…これは観念としてのものではなく、実体あるものとしてのなにかだ。

ここでも類似性、類推としてのそのフォーマット、それによっての構造を持ち込んでいる。

自分が

理解することにおいてでしか、なにも真に理解することはできない。

、キット怪しいことのその限りのこととなろう。手を出しちゃいけない…。

as above as bellow

自分が生きて確かにこの世にて在るが故に、

在る、より巨大にして
全体そのものである貴方様を、この私は、喜び、讃え、愛する思いに絶えきれません!。

この言葉も、思いも、考え思考も、現実においてのなにかの達観、実感があればこそだ……。

この最初の一文としての祈祷は、大本としてのオリジナルと、リンクを作り、
再接触、再接続をもって、あるべくしての自分を再確定、リフレッシュすることにこそある。

コラム:
いろんな言説の前に、自分にとってのリアルにのみに価値を置くべきなのだ。
例えば、最近騒がしくなってきている宇宙人やらUFOやら世の終わりに関して…。
自分が直接に確認できるまでは、保留、棚上げにしておくのが一番。
そんときになってから考えたり判断すればいい。

終末に関しては、誰にもそのときは分からない。イエスであってさえ


このことは何を意味する?。
それへと向けての流れの中にて、目覚めてありなさいってことでしかない。
生きていて、あってこその、ひとの人生だ。
いたずらにそれを求めたり決めつけたりしてはならない。
やがてに、寿命が尽き果てることによって訪れる、その死のことだと思っときゃいいんだ。
これは確実にして絶対、何人たりとて逃れ難くしての結末、ことの行く末。
それに向けて一切が悪くなってゆくのもほんと。
その絶望の流れにおいて、あなたは何に頼る、縋ることができるのだろうか?。

終末に関してを口にしてあるものどものそのすべてがある意味、眠りに落ちてあるものらだ。
イエスでもそのときを決めかねる、分からないのに、どうして分かり得ようはずがあろう?。
耐えて、堪えて、悪しくしての今の、この時代を、生き抜くことにしかその努力は、
あり得ようはずがない……。

ps:とある手合における、ご同輩らにおいての糾弾。
エゼキエル書等の聖書研究において、時を定めるにおいての熱心な人達がいる。
その語り口調を見る限りにおいて、彼らはことを熱望しすぎてるように感じてしまう。
「もうすぐだ「まもなくがそのときなのだ「この国とあの国がこうなってそうなる」…。
なにかワクワク感や期待感において、熱望者としての、ご満悦のそのご様子なのだ。
自分は「こいつらは馬鹿なのか?」と、どうしても思ってしまうんだ……。
時を見定めて安心したい、気分を切り替えたい、一新したいだけのことではないのかと。

あの黙示録における記述をも勘案するならば、ことは、まったく整合性など取り得よう
はずがないのだ。ホピや、日月神示をも、参考にするならば、まったく予想ができない。
場合によってはアンドロメダ星雲と天の川銀河の衝突(これは既に始まっているらしい)
と統合合体においての天変地異と関係することになるのかも知れないではないか?。

それとしてのとき、状況はやがてには到来するだろう、だがだ、それを人間風情が定めては
絶対にならないと思う。これを知りたい、定めたいへと流れることこそが、
トラップとしてのその作用なのではないだろうか?。不安心理を煽って、
それを

、なにかしようとする、してる。

来年以降は夏場の気温が40℃が常態となるであろう。そして酸素の供給量が激減としての
報告が為されてくる。ビジネス絡みでね。また国内におけるそのすべての組織体制が、
あのビッグモーターとなんら変わらないの実態であることが知れて、知り渡ってしまう。
特に自民党が、省庁自体がそうなのだと……。

これらはそのまんまで悪い影響のみを撒き散らかしながら、続いていってしまうだけなのだ。
日本は大量の中国人の移住においてまぜこぜにされていってしまう。国体はもう取り返せない
程までに希薄されてしまうことになるであろう。でも、ことは、ただそれまでのことなのだ。

「無常ならざるものは無し」と思ってるのがいい。どこかではきっと良いことも起こってくる
だろう。ただし、それは、貴方個人、その周り、関係者たち

においての話でいいんだ。

*スゥイングバイ。その、あの、難事災難があったればこそのメリット、賜物。

*でも実際にそのことが起こったなら、一瞬で、すべてのことは様変わりすることとなろう。

*あとは決して元には戻り得ず、以降は畳み掛けるようにして一切は進展しいってしまう。

*何人たりとて、ことの到来を見通すこと予見することはできない。

*ある日、突然、思いも知らない、思いも寄らないその状況下においてで……。

*ソドム。


更に追記:

「天に‥」はいいとして、「父なる神よ」に関して。第一声としての呼びかけの部分。
神名は先のまま(IAM)にてで完結。余計な入れ物としての名称は我ら日本人にはいらない。

これに対して修辞として添えられてある「父なる」が肝要。大事なんだ。
誰にでも父たる存在は間違いなくいる。いたはず、いなきゃおかしいんだ。
また、父的なる存在、例えば、教師であったり、上司であったり、とも、確実に接してる。

それらとの関係にて、ここの父なるの意味は、その内容は、埋められなければならない。

おんなじ関係性になるから。

この部分に関しての理解が少ないと、いい加減だと、
神との関係も不確か、曖昧、不安定なものにしかならない。

貴方ご自身とされても、やがてにおいては、この父なる、もしくは母なる存在になんだから。

これとしての子との関係、ステイタスの違い、それとして子らと関わるにおいての義務、
ミッションってのがしっかりと把握されてなきゃならない。既に。


御国(みくに)を、(ひま)すぐ、(われ)らが()まふこの地上世界(ちじょうせかひ)へと、お(おく)(たまは)り、()たらしめ(たま)へよ。

ここは、天と地との(はざま)、そこにある、おける、断絶(だんぜつ)こそに、神と人の

、それこそに、我らは先ず絶望してあらねばならない。何故ならば〜御手は遠いから…余りにも遠くって、我等では絶対に手の届こないところになってしまっているから。

約束としての御国が送られる、これとしての事態は、この

ってこと、なくされるってことに他ならない。天上としてのその世界、神自身によって直接、いや…より多く、より確実に、深く、治められているその世界(多階層の上位)に、この我らが、現在生きてある地上世界もまた、吸収される、されていってしまうとしての事態でしかない。

ならば、どうなる?!。今ある地上世界は、もう確実に一新されてしまうことになってしまう。物理的変化って言葉をキリーロフ(悪霊における重要な登場人物)は使ったね。今ある物質性としての、この体では、

のだ!。このことは、なにを意味してる、表しているのだろうか?。実は、これに関しては、二種類の可能性がある……。

一つ確実に言えることは、今のこの身では、この身の上では、ことは絶対に適わない。この肉体としてのものこそが先ずは一新されねばならない。新たなる体たるものの、入手こそが必要になってくる、きてしまう!。これとしての候補となるのが、あのアストラル体としてのボディーなのだ。

これの手に入れ方に関しては、既にどっかでやってる、やった!。でも、この体においてであってもだ、

ことが、消滅していってしまうことが避けられないってのも、また確かなのだ。追記:(我々が生きてあるこの宇宙の片隅としての地球、そこにおいて働く、物理法則が、環境そのものが、制約になってる。エントロピーの法則に従わざる得ないってだけのはなし)。ならばだ、新たなるこの体における、それとしてのものに

生存場所/生存環境としてのものがどうしても必要になってくる…。アストラル体のままにて、

、生存/存在ができるってことが条件。これこそが、正に、本当に、我ら信徒らにとっては絶対不可欠なものになる…。

新たなる法則、その支配下にある別天地としてものがどうしても必要なのだ。イエスが『これからお前たちを住まわせる場所を準備しに行ってくる』との言葉の意味は、このことを語っているのかも知れない。*おそらくは星一個、その丸ごとが、用意されている、されつつある。

それは、そこは、現行の、現在我々が生存してあるこの階層における、
我らの知るこの宇宙における星、惑星では、もう確実にない…。

二種類あるとしてのその意味は、上位階層の何処に?、また既存の?現存するもの?か、
新生としての新規のもの?によって変わってきてしまうので……。

兎にも角にもその新たなる世界は、イエスが、我らと伴に居れるってことが条件になってくる。ならばだ、直近の、隣接する次の上位界どころの話ではないのかもしれない。ダイレクトに最上位界、あの方のお膝元としてある、それもニューワールド、ニューユニバースとしてのものであることが、その可能性が、非常に高い…。

Do not let your hearts be troubled. Trust in God ; trust also in me.
In my Father's house are many rooms; if it were not so, I would have told you.
I am going

there

to prepare a place for you.
And if I go and prepare a place for you, I will come back and
take you to be with me that you also may be where I am.
You know

the way

to the place where I am going.

この話しを聞いて、トマスが発した言葉が面白い。
"Lord, we don't know where you are going, so how can we know the way?"

この問もまたおかしいと言えばおかしいんだ…
イエスの側にいて、いったいお前は

?と…
愛たるものを知り、理解して、それをまた

でしかない。

*愛、これとしての核心部は、それは一方的な衝動、その発露、放散でしかない、それとしてのものとでしかあり得ないってことなんだ。どっか知らんところから込み上げてくるなにか、エネルギー。だから、これが非常に重要なるになってくるんだが、見返りを前提としたものとしてあってはならない。無意識においてであってもだめ!。すべてを台無しにする。

おとなになることの階段を登るにおいて、ギブアンドテイクとしてのフォーマットは完璧にあなたを支配している。このことは、よっく確認吟味検証するべきだ。すべての発想、行為が、このスキームを背景にては秘めている。一つの恐れを誰もが抱いている。出しっぱなし、あげっぱなしであれば、この自分は破産してしまう。文無しになってしまう、そんで乞食になると…。むしろ、自分は増やしたいんだ、裕福になりたい。そんで幸せになりたいんだと。これが極普通の、一般的な発想、その思いになる。その思いにて誰もがいるんだ。これが社会化の本質。

真実に、本質に、つまりは現実に重きを置く者たちは、つまりは醒覚者らはだ、世界としての全体像を理解したものでしかない。表層として結実されてある、上辺としての社会規範、社会風潮の前に、エネルギーとしての思いがあるんだと。なにか何処か知れぬ所より我が身の内に流れ込んできているこのエネルギーにおいて人間は生きて、その生活が営まれてあるのだと。彼らの理解においては、それはある意味、無尽蔵なるものとしての、尽きざる泉の如くしてのものなのだと。もしそれを、その源泉そのものと直結するならば、奇跡でさえ、山を動かすことでさえ、人には可能なのだと。これを、再び、掘り当てたのなら、もうなにもギブを他人に、外に、求める必要はなくなる。あとはそれを活かしてあるまで。それが求むるままに、つまりは込み上げてくる衝動において、放出、放散してあるまでになる。そこにおいても不思議と、良いことしかしない、それしか出来ないんだ……。


Jesus answered,
"I am the way and the truth and the life.
No one comes to the Father except through me.
If you really knew me, you would know my Father as well.
From now on, you do know him and have seen him."

この言葉を発してあったとき、イエスは、ご自身が神と一体化してしまってるってことを
如実に、感じ取られてた、覚えられて、いらっしゃってたのだ。
おそらくは絶えず、いつもではないだろうが…。
偶に、これとしての状態が、現れてきてしまう、きてしまってたんだろう……。

今、貴方の目の前に、それと同体化されての人間がいらっしゃる、いるんですが〜」っと。


このあとでフィリポがした求め、要請、懇願が、これなんだ....
Philip said, "Lord, show us the Father and that will be enough for us."

「主よ、私たちに

お示しください、見せてやってください!。
       そうしてさえくだされば、私たちには、もう十分なんです。」












気を取り直して〜、気分を一新して〜再開!……


()(むね)の、(てん)(おこな)はるるが(ごと)くに、また()にても、(おこな)はれんことを。

二重化が前提になるかな〜……。まず先行的には、御旨において、ことは確実に、図られてる。執り行われてはいるんだな〜ってことの〜理解がいる。それとしてのリトマス紙は自分におけるその人生経験そのものなんだ。いろんなことの進展の背景には、主とされてのご采配がある、あった。お導きやら応答贈与としての働きが確実にある、あったってことが今ともなれば理解る……。では、ここでは、何を想定して願うのか?、どういった内容を求めてあるべきなのか?。この悪しきものとしか思えないこの地上世界の進展においてであったって〜、主の干渉は確実に既に為されてあるではないかーー!。我々の思いを越えたものとして!。主とされてのその深慮遠謀の元に!。そうであることを理解した上で、では更に何を求めるのか?、どういった事態状況に成る至ることを願い奉るのか?。この辺が曖昧では困るのだ…。

基本、キリスト教徒として定まれば定まるほどに、主が全能であることの理解が深まってゆく。だから、彼において安心して、安心

続けていればいいだけ、いいだけの話なのだ、貴方はだ……。

だがだ、その理解たるものに至れえぬ者たちが世間の大部を占めている。そして、世界全体としては、ただただ悪しきもの、それとしてへの傾きが、どんどん、どんどん大きくなってゆくばかりではないか?!。

キリスト教徒としての立場を固めれば固めるほどに、貴方自身、貴方個人は固く立つことができるようになる。声が神に届くよう、増々なってゆく。だからこそなのかも知れない……。全体としての救われない、安心してなど、とてもじゃないがあれないおられない、固く立つことのできないであろう人々のことを、そのすべての不幸なる人々のことを慮って、神に願いを捧げなければならないのは…。

今のこの現世はあくまでも

としてのものでしかない。本来のあるべくしてのその楽園状態、神と伴に在れるその状態からは、現在人の子らは隔たってある。だから、この我らのことを「お忘れなくーーっ!」としてのメッセージ、祈りなのだと考えてもおかしくないと思う……。

この願いが心底叶う/適うその状況ってのは、ニューエルサレムが、新世界が、上位界、天より、降りてくる、下ってくる…としてのその事態のことだ。この世界が刷新されてしまうようなことにもなる、なってしまうのであろう…。ならば、そのときには、確実に、人類の現在の肉体は、

迎えることになってしまう!。*神に、神のおわすその階層に、より近くってことになるのなら、そりゃ当然のことでしょう。

天の価値観において悪しきものと判定されてもののそのすべてが焼却、抹消されるその運びとなる。このときの到来のことを思い、強く、祈願しての祈りとする、それとすべきところなのかも知れない…。

兎にも角にも、現世はあまりにも不正なることが横行しすぎてる。ただ、ただ、これの一新を、求めるべくして、一心に祈る、祈願するってのも、ありはありなんだろうさ…。

兎にも角にもその2、
具体的なイメージを背景置いて、持って、祈るってのが大事なんじゃないだろうか?


日用(にちよう)(かて)たるを、本日(ほんじつ)も、日々(ひび)(われ)らに、お(あた)へ、(くだ)さひますように。


生の実感となるべくしてのなんかのことなんだろう。こりゃ〜ヒトによってそれぞれその内容は違ってくるもんだ。生き甲斐となるもの、こと、喜びの素、出会い、興奮、美味しいもの、なんだっていい。総じてを要約し核心を抽出するならば、

、そして「印象」として結ばれたるものの

なのだ。ならばだ、思いとしてのものの摂取、感受ってことでもいいんじゃなんだろか?。あれって、光よりも早く結ばれているもんね〜…。物質性としてのものならば、鮮度のいい!採りたてってやつ!!なんか旬のもの。今ならば、スイカにプラムにぶどうに桃…。活性化元素ってやつを多く含んでのもの。それとしてのものだとの表現にもなる。

そもそもからして、毎日を生きてゆく上においての、その貴方にとっての”糧”ってのはなんだろう?。

貴方にとってのやる気ってやつを、主体性、能動性、積極性ってやつを、掻き立てるものとしてあんのだろうか?。なにがどうなれば、揃えば、楽しいのか?。

丹精込めて育てた野菜が、花が、咲きました〜〜だ。

苦労した甲斐が、ありました〜〜だろね……。

これに関しても具体的なイメージを念頭に置く、置いてから願うってのが、
大事なんじゃないだろうか?…。

まっ、とやかく、難しいことを考える必要もなく、貴方という人間のことに関しては
貴方よりかの方、かの方々の方がよっくご存知であろうから、単純に、それとしてのものが、
今日も与えられてくる、備えられてあることのみを願っときゃいいんだ…。

しっかりと、たくさん動いて、働いて、楽しく過ごしたいんだって。

こころの奥底で心底願ってることは、すべてそれなりに主は叶えては下さる…。

でも、ことの落ち着きは、行く末は、想定外のものとなるかも知れないが。

それもまたその方が貴方にとっちゃ相応しい、良いことだからなのかも知れないではないか。

ことの判断は判定は裁断は、あなた自身の手の内にはない。

でも、あっちの方が、確実に、正しいんだろさ。

ps.
そうそう、なにはさておき、まず無事に目覚めて、起きて、生きて、あれないとなんとも成り得ない、成し得ないからね。今日一日も大事なく健全に三食恵まれて過ごせますよ〜にっての思いその願いであったって構わないと思うんだ。とにかく、機械的に、ただ単に文言を唱えてるってだけじゃ〜ダメなんじゃない?って自分は思うんだ。毎日毎日のことなんだから、都度その具体的な内容としてのものは、変えて/換えていったって〜、構わないんじゃないだろうか?。

蛇足:
今回のあの写真との引合せなんか、こ自分にとっては大いなる糧、そのネタとなったものだ。


(われ)(I)他人(ひと)()したるところの(つみ)(とが)を、(ゆる)しましたるが(ゆへ)
(われ)(me)もまた、(みずか)らが(おか)せる罪科(つみとが)におひて、お(ゆる)しが、(いただ)けますように。


先ずね、ハッキリ言っておくと、いかな、

、裁くってことは、適わないんだ…。今日(7/26)のヤフーニュースで、あの障害のある方々を預かってある施設においての大量死傷事件に関しての内容があった。津久井やまゆり園事件のこと。コメント欄をわりと丁寧に読んだ。自分も数は少ないが障害児と障害をお持ちになる成人の方々のお世話をしたことがある…。無理なんだ、然るべくしての型に嵌めるってことが、もうそもそもの始めから…。こちら(介護側)の思いどりには絶対いかない。

自分は世を騒がす事件たるものに接したときには、いろいろとシュミレーションを自分なりにしてみるんだ。すると〜、その殆どが、いろんな条件や環境が、整いさえすれば、この自分も間違いなく同じ過ちを犯す、犯してしまうだろうな〜…との思いが持たれることになる。なので、その行為としての当事者ではないってことは、単に偶然のこと、ただ運がよかっただけでのことでしかないんだ。ある意味、幸いに恵まれてるってだけのことなんだろ〜…。だから許す/許さないの話ではなく、彼もまた実はあり得たであろう

思って、憐れんで、悲しんであげるのさ。そして、それとしてのものにならない、なってないってことを、神に感謝する。どうとも思えないんだけど、憎む、糾弾する、ラジカルな裁きを望む要請する、そういった思いだけには至らない、絶対に持たないよう自分に言い聞かせてる。それとしての努力はしてるんだ…。
*ここを埋めるにおいての題材として、きっと読まされたんだろさ…。

もし

と見なされる、思われる、罪深くしてのものがいたとしても
……」
(キリストに倣いてより)ここ‥、これって…、憶えてます?。

この教えを噛み砕いて説明すると、他者を否定するってことは、そうそう簡単に行ってはならないっとしての教えなんだ。何故だ?。その者に対して距離を

置くことに他ならないから。見下げる、見捨てる、自分の生活圏からは排除する、してしまう。そして、憎しみ、憎悪をもって、死んでしまえば、殺されてしまえばいいと思う、考えてしまう……。


このことは時と場合によっては正しい反応でもあるのだが、それとしてのものとも成り得るのだが、新約の教えにおいてともなれば、かなり強烈な戒め、禁止としての指示/命令が入ってきてしまってる。もし、お前が、キリストに近しきものとしてあらんとするならば、お前はこれとしての感情に流されることはあっては絶対ならないと…。

こう考えなさい、「如何な、誰よりも、自分としての人間は、弱いものだと、弱いのだと。」

長々とやってきてしまってはいるが、この祈りを唱えるものならば、如何な他者に対しても分離となるべくしての態度はとってあってはならない。裁きとしての対応は、主にて、お任せしてりゃいい。むしろ、貴方としては、その他者を憐れんであげてることの方が、実は大事、大切なんだ。

   それとしての人間であってこそ、この祈りを唱えるに足りる、相応しい者になる。




         このノートを持ってないってことに、ただただ感謝…。

     本当は、

いやしないさ…貴方以外には、この世においてでは……。

         すべて、全員、貴方としての存在だと、みなすべきなのだ。

             意外と、これとして観ることは簡単なのだ。

         ならば、貴方としての選択は、どうあれるのだろうか?。

              とりあえず、真には、反応せずだ!。

                 池の中の鯉として観る...


追記:
ちょっと個人的な感慨の方に多く流れたので、普遍的な意味、意義においての話しを…。

罪たるものは、習慣として、既に自身の内に於いて、刻まれてしまっているのだ。確実に多くものが、つまりは「もや〜ん」とした思い、衝動としてのものが、アクティベイトされてしまってる。それに答えちゃったからだ。既に、強固なる”轍”として、定まってしまってる……。つまりは無事に、貴方の今生において、

が、為されてしまってっるってことなんだ。言いたいことはだね〜、ことは現実のことなんだってことがまず一番!。

この業の結実としての、その結果、成果物、結晶物質は、焼き滅ぼすにしかその無効化の手段はない。これは、各個、個人の、課題……。

でもね、それらがあまりにも強大、強力、多数、多種多様であることから、
大変な、莫大な工程になってしまうんだ。一世代においてでは完遂することは難しかろう。

それに一つ大きなブレーキとして働く力に関してもちゃんと意識化、対象化しとかなくちゃならない。それは自身が悪であること、罪深くしての人間であるってことのその事実だ。自身のすくい難さに関してだ。ことの現れは劣等感であったり、無力感、二律背反としての自己の有り様における、対しての、そこに起こるジレンマ……。

敵の正体がほんとのところでは分からないってことと、そのあまりに強力なることに原因する。

ここではその起源に関してはもう語らないが、その種としてのものを発芽、アクティベイトしてしまったのはもう確実に自分なのだ。種のうちに、まだそれが赤ちゃんのうちに、焼滅スことができたら良かったんだけどね…。

その起源は根深い。先祖伝来、長きの時を血を渡って伝わってきてしまったるものもまた多い。
この時代に特徴的なる、新規なるものもまたあるにはある。

ことの核心は現実においての、その実行においての結実なんだってことが重要!。
これに対しては同じくして現実を、リアルをぶつけるにしかない!。

これがイエスのご受難になるのだ。

彼は実際その為にこそ、十字架上における残酷なる殺害を受け入れたのだった。
自身の命を、全人類の罪、それへの贖い、供物とする、なすべく。

このことからは特別なる勇気を頂くことが可能になる。

ひとのこころの内に、根付いてしまってるうら悲しさ、無力さに対しての。

(われ)(I)他人(ひと)()したるところの(つみ)(とが)を、(ゆる)しましたるが(ゆへ)
(われ)(me)もまた、(みずか)らが(おか)せる罪科(つみとが)におひて、お(ゆる)しが、(いただ)けますように。


この祈りの前提になるのは、自身のこころの内にて燻っている、根付いている罪の意識の放逐が一点。これによって、太古からの、そこに起源をもつものに関しては、忘れてもいいことになったのだ。あとは自分が今生において自身に、一族に、その血筋に、起源を原因を持つものらと、どう戦っていけるかになる。

理解ってもらえるだろうか?。あまりにも強大にして広大なるものに対して、削除が、かなりの割合が為された、行われたのだ。残りもまた強大にして莫大かる広大ではあるものの、事に臨むに当たってはイエスが付いていて下さる。この戦いが無事に果たされるよう、見えない形ではあるのだが、サポートを、導きを行っていてくださっている。ここにおいての”勇気を”もらうことになる。

今ここに述べたことをよく踏まえた上で、実行実践を、いい意味においての、果たしている中においてこその祈りであるべきなのだ。じゃないと意味ない。これが二番。

やはり、イエスのことをどう捉えているか、どのように理解しているかが鍵になる。

彼を、ご自身の手元から、絶対に離してはいけない!。これが三番。

貴方が、彼に、なればいいんだ。そのミニマムとしてのものに。ゆくゆくは……。


ただの奴婢(ぬひ)たるこのつまらなき私奴(わたくしめ)なる下僕(げぼく)を、(こころ)みんとされることのなかれ。

ご自身がこれから迎えられる試練のことを念頭に置かれて、特別に加えられたのだろ思う。
基本、我々としての常識を、我らが持つ思惑を、遥かに超えてる。一切の常識が通用しない。
場合によっては、そのひと次第では、とんでもないことが試練として備えられてしまう…。

なので、あなたがたとしては、極力、その身を低くしてなさいとの助言だったのだろう。

ある種、昼行灯としてのその身の固め方が正解。

平身低頭をもって、いざという時に(のみ)役にたてるようしてあればいい……。

間違っても、自ら、大きな責任を背負うことになる、そんな立場、そんな人間になろう
などとは、考えては、してはならない。

下座の下座にてその身を放下して、他の人の役に立つことのみに、専心してありなさい。

あなた一人のみにてであっとしても、目覚めて、ただ、在りなさい……。


補記:
何者でもないってゆうこの状態ってのはなんだ?。マインドが停止してる、動かす働かせる必要がないって状態だ。澄んで、ただ静かにしてあれるっていう状態。働かせる動かす必要性がないんで、どうしても、自然と、こうなる。エゴとしての人格がもう成り立てないんで、もうあまり五月蝿く騒ぐことがなくなってしまうんだ。それが成り立つべくしての基盤が、もうなくなってしまってる。こうなる為の最も簡単な道筋が、自分を低き者として自覚してあれってことになる。それも、日常において接せするあらゆる周囲の者たちに対してのことになる。これは単に思い込みにおいてで、よってで、果たしてはならないんだ。実際にその人達と関係してみてのことになる。するって〜と〜、やはりどうしても、いろんな反応が自分の中では起こってくる、きてしまうものなんだ…。この思いたるものの確認吟味検証こそが大事。大概は批判否定見下しとしてのネガティブな感情反応が多いだろうさ…。では、それのベース、温床ってのはなんだ?。関係性において、この自分を、その相手より高きに、置いてるからだ。このことの根拠ってやつも実は怪しい限りなのだ。意外と、そのあまり良く知らない知ってない相手ってやつは、この自分よりも立派なひとなのかもしれないではないか…。

まっ自分よりも健全である、偉い人、立派な人であるってことを、最初から前提として、その身を処してあるのが

なことではあるんわな…。無理してでも、常識を破ってでもやらなけりゃならないことがあった場合には、それはそれなりに、確信ってやつが、放っといても知れる、自覚されることにもなりわけさ…。このときにはやるべきことを徹底的に、迅速にて、疾風怒濤、疾風迅雷の如くして執り行えなければならない!。やっぱり、自然体にて、チャンと、しっかりと、目覚めてあらねばならないってことなんだろ。このことの為にも、頭ん中に、いらぬ考えや思い、誤解ってやつが、あってはならないんだとは思うんだが…。


もし邪悪(よこしま)なる計略(たくらみ)(うち)()ちて、また()れへと、()ちんとしてあるならば、
  その(われ)らの(すく)()しの(ほど)を、何卒(なにとぞ)、どうか、(よろ)しく、お(ねが)ひします。


この邪なる思いにおいて、仕掛けられてくる罠ってやつはいやんなるほど日常にて溢れてる。
人間、他人よっとのものともなれば蹴落とし、いいとこ取り、掠め取り、陥れる、足元をすくう、オレオレ詐欺に、CMなればみんな嘘、金銭を巻き上げんとしての詐術でしかない。
恐怖を梃子にしての暗示によっての略奪ばかり…。誰が責任をとるのだろうか?。
また、浅はかなるが余りに、ドツボへと自分から嵌るようなことをしてしまう…。
落とし穴としてのものは、そこら中に、仕掛けられている。
基本、どんなに注意をしていたとしても、これに陥ることは避けられない。

若くしての男ならば、美人局ことハニートラップが一番怖いだろう。防ぎがたし!。

ヒト、人間によってのみならず、もし貴方が清く正しい生き方をしたいと、すると思ってるとするならば、悪しくしての超常の存在が、そんなあなたを見逃すわけがないのだ。

!、泥水を飲まざる得ないような、それとしての状況が人生の途上においては準備されることとなる。法令遵守など元から、守れようはずがない、なかったのだーー!。

落とし穴ってのは、それは上辺からは見えない、分からないようなってるものなのだ。

ならば、一切を見通しておられる、ご存知あられる方の庇護を、求めるにしかないのだ。

イエスが一番いい。

彼を通して、通じて、神に願い奉るのが一番確かなことになる。

どちらであってもどっちにしたとても、厳しい指導であることには変わりはないであろうが。





  アーメン






あとがき:


基本、介護って仕事には大きなリスクがある。事故に際しては責任が問われるからだ。
なんかあったときには原因究明がどうしても徹底的に執り行われる。
ことの責任の所在を明確にせざるを得ないのだ。
ハッキリ云う〜、事故死のケース。ご親族からは多額の請求が起こってきてしまう。
なので保険の親元/胴元であられるところの厚生省は、現場に対して、事細かな利用者に対しての記録を要請してくる。日々においての…24時間を射程にしての、おいての……。
これは繰り返しにはなるが、なんかあったときに、事実関係を調べるために、ただそれ一点の目的にのみにてで!。これが現場において大いなる負担になる。なってる。会社としては、お役所に対して平身低頭の構え、絶対服従の方針なので、広報されてあるガイドラインのそのまんま、現場に強くことを為すよう要請してくる。記録をできるだけ細かく細やかに事実として残すってことを、介護者、ヘルパーらに対しては、求めるって訳だ…。

体内におけるあちらこちらが不安定であるってこともあって、イザという時にちゃんとした対応が取れるよう、これらとしての情報は、看護師、医者らとも適宜適切に、共有されてあらなければならない…。なんかあったときに責任とらされないように…。

記録記帳は人が、仕事終わりに、あったことを、そのことを、思い出して、思い返しての作業になる。人が〜だ。ことの担当のその人間が〜だ。もしものその案件においてとしてだ、誰が自分にとって、不利になるようなことを、記録として残すのだろうか?。改ざん、改竄としての行為は日常茶飯事だ。定型文をただ判を押すかのように書き込むばかり…。

問題は、もしもの場合において必要とされるその情報が、本一部でしかないってことになる。
0.0001%程度。では日常において記し残されたものはどうなる?。無だ。なんの役にも立ちはしないんだ。医者も看護婦も、そんなもん意中にはない。自分のこの目にて確認したことしか信じちゃいない。

大変なのは現場を担ってあるヘルパーさんたちだ。記録の多くは、その殆どは、就業後のサービス残業におて消化するしかない。リーダー、トップ達は、ちゃんとした記録を残すことをうるさく求めてるので手を抜けない。日々の仕事におけるその消耗疲労の上にタダ働きとしてのこの苦役が乗っかってくる。

基本、もし、これらのことを徹底的に、リアルタイムのこととして行うのであれば、もうカメラしかない。施設内のすべての空間を自動でモニターできるようするにしかないのだ。オペレーターは完全にAIにして。でもそこまでのことはできない。金銭面含めてまだ色々問題はある、でてくる…。


あの業界、あの仕事は、働く人を追い込むようできてる。不思議なでき、その構成、摩訶不思議なる配置になってる。どうしてか?。仕事として不自然な成り立ちだからだ。金銭の授受を絡めてはならないそういった仕事になる。家族も他人にことを任せるのなら、覚悟がいるとしてあらねばならない…。

もう一つ、最後に。システムなるものは非常に便利にして有用なるものだ。これはプログラムなのだとしてもいい。そこには自動性なるものがある。これこそがありがたいのだ。だが、これとしてのものは人自らが試行錯誤を現場にて行って、煮詰められ、極められた、その理解において抽出されたものとしてあらねばならない。要は必要最低限にして鉄壁なるものとしての、ものとしてあらねばならないのだ。この辺のことは以前に、だいぶ前に一回やってる、言った!。

このシステム、プログラムとしてのものにおいての最も愚かな行為とは、イレギュラー、例外件としてのものを、それだとして人自らが抜き出しにて取り扱うべきものを、標準化として組み込んでしまうことにある。結果、システムは膨大なるものになってゆく。操作が煩雑にして複雑なるものになっていってしまう。

その殆どが、実は無駄なのだ。そしてまた、システム、プログラムとしてのものの、
有用性そのものをも殺してしまうことにもなる…。

よく煮詰められ、よく見極められてある基幹業務のみをシステムに載せて、あとは人自らが臨機応変にて対処してあれる、できるってのが、理想というか、本来的な、健全な、真っ当な、仕事のあり方だ。いや、これしかないんだ……。

ところが実際は、99%は、先の例外事案を標準事例と見なして、対処としてのプログラムを増設しまう。このことは何故だ?。不安だからだ。最終責任者と現場との距離が遠すぎるってのも一因だ。トップとしてのシステムをもって、遠く離れた現場であってさえ、その彼らを制御することにご執心、ご熱心なのだが、ことの実際においてのその有効性/有用性に関してはまったく考慮を、ご深慮をしていない……。

さてまとめだ。

この世には恐ろしいことが、その環境としてのものが準備、用意去れてしまってる。この地獄としての環境を生み出した、造り出したるものは、実は人間なのだ。その怠惰が故に、その責任感のなさが故に、その虚栄心優位であるがあまりに。この自然と出来上てる、できあがってしまってるものを利用して、されて、両極は、我々に干渉を作用してくる、きてるまで。それそれの思惑においてで…。

この地獄としてのものにおいて、一人の脱出が適ったなら、だれか他の誰か一人が、更なる地獄へと堕ちることになる。これは必然としての当然の運び。必須必達の法則発動、発現なのだ。」




つけたり:


決して、笑かそうとして編んだものではないことだけは、理解って、信じてやってくださいね。




  Now days, my main purpose for living is to make people happy by making them laugh.





あれら、一連の祈りを捧げてのその後は、どうするのか?。

もういろいろと過ぎ去ってしまってて、もう、なにも頭の中には、

残ってはいないではないか……

その後では、その己たるものを、虚しくすることに

あるまでなんだ。

誰よりも低きものとして……

それにありてで、もう完全に足りる、足りてしまうんだ。

ある種、”無” だ。

基本、すべてのことは、その成り行きは、主に、お任せしてしまう。

*だからこそ、無、無価値なるものとしてのその身分に、甘んじ

のだ。

それでも日常の変化においては、それらに臨んでは、

然るべき自分としてのものが、自然と!、屹立、起動してくる。

*ここの、この現象が、とっても不思議。たいへんに興味深い...。

ある意味、

としての、それの有り様となる。

それを、それこそを、目指して、あるべきなんだ。

人生を送るべきなんだ。」















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