45.  ヨハ福より

文字数 13,058文字

この自分は呪術廻戦もサイコパスの新作映画もフリーレンもあれもこれも、まったく評価してないんだが、チェーンソーマンとダークギャザリング、この二作だけには関心を持ったんだ。前者は作画においてのセンス

。かってのクレイモアの作者を思い出してた。昔のフレンチノワールからの傷を、かなりお持ちのようだ。もしくは単に深作欣二ファンなだけか?。感覚的にはかな〜りに鋭いお方。感覚のみで深みはない。でたらめもいいとこ。自分は両作品とも原作は読んだことないんだ。でっ、You Tubeで解説動画を見るのが楽しみ暇つぶしだったんだ。そんなかで、聖書からの引用がなされていて、それがヨハネ福音書の六章からだったんだ。でも、ここにそんな話しは一切ないんだ。おかしいな〜って思ったんだ。ここんところの話しはどうでもいいんだ。ことは切っ掛けとしての運びだったまでで、重要なることはだ、そのことの性で本稿やることになりました〜!。正月休みの暇つぶしとして〜。テニスやれない、ないもんなんでー。草々

ほん一部

ね。それも最後の方は手付ずのまま放流する。直に完結させます。



6:27
Do not work for ”food” that spoils,
but for food that endures to eternal life, which the Son of Man will give you.
On him God the Father has placed his seal of approval."

ときが経てば、やがてにはダメになる、腐る、傷んでしまう、そんな食べ物の為

、働く、汗水垂らしているばかりであってはならない。もし、働くのであれば、永生にも耐えうる、傷まない、腐らない、

働くのだ、働くべきなのだ!。これを、あなた達に与える為に、私イエスは、人の子としてこの世へと遣わされてきた。父なる神のご意向、ご承認の元。

、前提ってのがあって、我々が通常生きてある、物質を基盤とする世界の、その上位には、物質としての一切を生じせしめている真の原因体、原因となっているメタとしての領域世界があるんだってこと。これが前提としてある。

行為や行動、これらの前には、それに先立って、目的やら動機みたいなものがある、あった、みたいな話しさ…。作家がいて、その彼の

、なんらかの

の元、物語は初めて、やっとこさ、紡がれことになるってな寸法。これらの動機やら目的、自分をどうしようもなく突き動かしてしまうインスピレーションとしての衝動が、いったい

結ばれているのか?、自分の一体どこの部位、何において、主体的に

?だ。肉は、それはただ単に、(真の)自己にとっての外部、それとしてのネットワーク機能、伝達/伝令器官でしかない。反射が習慣化されるその以前の、ことにおいて、真に体験をしているのは一体誰なのか?。それはゴーストだ。物質的な存在ではない。物質によってなる肉体の場に、これがあってこそ結び得る、これがればこそなにかを安定的に囲い続けることができるなにか。なにか抽象的なる存在、モノ、幽霊、魂、霊魂みたいなもの!。

私達人類は、どうしたものなのか、極端に狭量にして矮小な世界、それとしての、それにおいての考え、思考の元に生きてしまっていて、その内に、生きるばかりであって、本当のことは、ことが、まるで視えてない。分かってない。可能性たるものを、与えられてはありながらも、それをまったく活かしてない、活かしきれてない、開花させてない、顕在化させては、いないんだ〜…。

この六章においての話を語る前に、イエスは一つの奇跡を、いや

、披露してる。
あの

、無数に、大量に、増やしたってやつさ。
大麦のパン五つと魚二匹、これを約五千人が食べて、満足できる量にまで増やした。
ある意味、一瞬で!。

以下にその魔術の手順がちゃんと書いてある。ここに

ある!。

6:11


バンを手に取り、おそらくは頭上へと持ち上げた、差し上げた。そして、

父なる神との

、急ぎ執り結んだ。呪文としてのマジックワードは「感謝」の言葉。ことの前提、条件となるのが「絶対の信頼」。その思い、その確信。そして結合、連結、一体化が、果たされる。その上で求め、願いごとを述べる伝える。あとはオートマチックにて

。即座にて、ここ物質界に、そのビジョンにおいての結像が、為される。起こるっと…。

強い祈り/強い求めに対しては、現実は、その思いに対しての反応を

。これが

。では、ひとは、どうしてその求めを強く願うに至ったのか?至るのか?。なんとなく、ぼんやりとした思いでは確実にダメなんだ…。一種、闇雲、ヤケクソなれど、真剣に脱出口を、願い、探し求めていなくてはならない……。

、自分がいま生きているある、その状況要請において!。
ことは、既に、自分単体、自分個人の満足、その必要性、願望の域をでてしまってる。

この自分が、なんとかしないと、せねばならないとの切迫感が伴ってきてある。

こういった危機的状況ってやつが、人生においては

用意されてくる。
誰においてで

〜……。

これは理解のー為だ。「求めよ!さらば与えられん」の…。

理解においての大事なることは、このひとの生きる生きてある世界がどういった成り立ちになったいるかだ。この正確なところ、その事実現実を、人生において理解して、いかなければならない。その結果として、あなたは魔術師としての存在にもまたなるわけだ。それとしてのものにならないと

、ダメなわけなんだ……。世界を、真に、

にする為には。これは

あらなければならない。じゃないと無理なんだ。

魔術としてのその影響力、反映の大きさは、明確さにこそある。確信、信頼、理解に基づく。
何に対してだ?。本源、根源としての至高者、至高なるものに対しての!。これを手に入れる、培うことこそが人生においてのほんとうの課題。紆余曲折、試行錯誤を経て、経る中において、獲得、つまりは

結ぶを、しなければならないこと。

それは単なる言葉、概念なんかではない!。ほんとうは最初から、そんなもんなんかではなかった。天としてのなにかが確実に在〜る、居〜〜るっだ!。キリストにおいてのみのその特異性は、それとの関係性を、親子、父と長男のものとして、持つことを可能にしたことにある。距離感がおっとろしく近いものとして持てるようになったんだ。これはイエスのみが可能なことであった。なぜならば、彼が確信的に親子関係にあったからだ。そしてまた、彼を通してならば、わたしたちでさえ、天との関係を同じように持つことが可能になった。この心理的な距離感ってやつもまた、共同作業においては、大事な要項、その要素になる。効能が違ってくるからだ。

さって、まとめ。ここは魔術ってやつのその核心、その要項ってやつを話しておきたかったんだ。本源とのぶっといコネクトがまず為される、果たされなければならない。これは常時ってわけではない。そんなことは無理だ、こっちが焼け切れてしまう。次に、父たるその至高者に対しての崇拝、尊敬、恭順、献身、感謝、その思いの確証をもっての声明、放射。関係性を改めて認証、確立する。これをもって一体化、同化がうまくいけば果たされる。果たされてしまう。

そんでから、そのうえで、求めることを

お伝えする。これが我らの事業を果たす上で、この地、この領域においては必要なんですっと。あとの結果に関してはもう確信犯としてあっていい。*単に

とかの曖昧なものよりも、「皆が食べて飢えをしのげるようにこのパンを増やしてください」の方が、効果/反映は、絶大にしてまた迅速なのだ。*もの、内容によっては、少しばかりディレイがある、

必要とされる場合もある。*なにをいつどのようにに関しては神においての判断がやはり最良になる……。

要は、どんだけ、そのことが、我らの事業において大事なのかってこと。これがあなたにとって、おいて、必要だと、確信されてあるのか?ってこと。


6:28
"What must we do to do the works God requires?"

そんであなたは分かったっと、分かりましたっとなって、では私達としては神のお求めにおいては、なにを為すべきなんでしょうか?って訊くんだ。

6:29
"The work of God is this: to believe in the one he has sent."

神、彼が送った、送り込んだ、その誰かが、云うことを、

よって。
つまりは、この私イエスが語った言葉を信じて行うことが神の事業への参加になるって。

この回答は初心者に向けてのものにて限定される。ことの核心ではあるが実践的ではない。

生存における最も本質的なる課題は、糧を、つまりは食物を、如何に手に入れるか?これにある。これに尽きる!。これがないと死んでしまうからだ。だから、これ、食い物を、保証してくれるなにかに、奉仕する、従事するってのが、ひとにとっては絶体の定め、制約、拘束、支配されるべくしての条件になる。代替品としてのお金が、大事だって、ことにしてもいいだろう…。

人の世の内、それのみにての話しであれば、そこでの常識に、縛られてあるならば、ここの話しはまゆつば、曖昧なるものになる。必要なのは、話の前提となっているのは、あらゆるすべを含んでいる、そして然るべくマネージメントを行い、為している、極端に巨大な世界、宇宙全体に対しての自覚、認識、それへの理解なのだ。簡単には地球と宇宙全体。もちょっと正確にいくならば多層階もっての相互関係に依ってあるってこと。それのことを、日本人は、かって、自然、お天道様、天とだけ、ただ呼んでいた。ちゃんとおぼろげなれども理解はしてたんだ…。

6:32
I tell you the truth, it is not Moses who has given you the bread from heaven,
but it is my Father who gives you the true bread from heaven.

我は汝らに、ことの真実にして重要なるポイントを言明し、また強調しておこう…
それは、モーゼがー、などでは

とゆうこと。

実際に、行って、あったのは、我が父で、あったのだ。

6:33
For the bread of God is he who comes down from heaven and gives life to the world.

神より与えられしパンとは、(同じく)、天より降臨せしもののことでしかない。
彼は、この世界に、命を、与えるものなのだ。

上位界に、その起源、出自、由来を持つもの。それに、そこに、よく通じてあるもの。
この存在に比べれば、私達、現生の人類は、

分かっちゃ


人生の目的も、世界の存在意義も意味も。なので、真に生きているとは客観的には云い難い。
彼がやろうとしているのは、本源性への、完全なる復帰としての

。その世界観にて、完全に生きている、この自分と、同化させることをもって。

6:35
Then Jesus declared, "I am the bread of life.
He who comes to me will never go hungry,
and he who believes in me will never be thirsty.

イエスは、ハッキリと言明、宣言、宣告する
この自分が、この自分こそが、あなた方にとっての生きるパン、糧なのだ。
私に来たるものは、決して飢えることが


そして、私を信じるものは、乾くこともまた(永遠に)



まずね〜、こんなことがハッキリと言える存在ってのがなんなのか?って驚嘆すべきなんだ。
このひとが、

内面において、とらまえている、確信、理解しているのか?。
ことは現実においての(ことわり)からは、もう完全に逸脱してしまってる!。

6:37
All that

the Father gives me

will come to me,
and whoever comes to me I will never drive away.

スケールを違えての因果関係が、二つ、前提とされている。
あらゆるすべてを支配、コントロールされておられる方が、その存在がまず居る、在る。
これが(父なる)神。世界そのものとしての本体。自然だってことにしてもいい。
だって、この彼は、不可視にしてまた全知全能の存在なんだから。

イエスは子なる神になる。神によるその世界圏内に、

含まれて、また支配されてある

神であることが自覚されてある。かなり、もう最初から、神に対しては、意識的、確信的だ。それも親子の関係にあるってことをとしっかりと認識されている、ある。どうやってその境地にまで進んだ?、進み、

のか?。どっかで、これらのことは自明となった、はずなんだ……。

神そのものの差配においてだ。人生の途上に、撒かれてあったガイド、ヒント、教え、然るべくしての事態の展開、試練経験苦難を通して。すべてが、あるときに、一極、一点をもって収束したんだ。それも特殊な体験を持つ、通して。だから、先人らの誰もが云うことではあるのだが、すべてはまったくもってプライベートなる事柄で、他者に語ること、説明することは不可能なのだと……。

自然と整う。すべては勝手に整って

。当然に、ことのすべての背景にては神によるその采配が働いている。イエスは、ことの結果として、我の手に委ねられた者たちに対しては、

。よって決して見捨てない、見捨てることは、できないんだ…。好き嫌いをもって退けたりはしないっと…。基本、それは、これは、できないんだ……。

小さな世界圏内においては、それへと移ってからは、そこでは、今度は、イエスが、万能の、絶体の支配権を持つ。その世界内に、選択的に、自主的に、意識的にて移行した、住まいすることになった者たちに対しては、責任が、伴ってきてしまう…。

なんやら、よ〜わからん成り行きにて、そ〜、こ〜、なってる、なってた、ってこともあるだろさ。

。御方の思いそのお考えが、余りにも奥深くって意味深いってこともあるんでー。まっ、じっくりそれに関しては考察を進めていきゃ〜いい…。

ここにおいて、自分として

伝えておく、おかなきゃならないんのは、あなたの元に来るもの、至り来た者たちに対して、貴方には、

んだよってこと。イエスにおいても

そうだった。好悪、好き嫌いは、棚上げしなければならない…。*また無理をする必要もない。*イエスも

お隠れに‥度々(たびたび)なられてたでしょう?。www

6:51
I am the living bread that came down from heaven.
If anyone eats of this bread, he will live forever.
This bread is my flesh, which I will give for the life of the world.

我は、天の御国より、降り、来たりし、生ける、生きている、在る、パンなり。
人、もし、このパンを食さば、永遠に、生くるべし。
我が(汝らに)与ふるパンは我が肉なる。
この世に生きとし生けるものらの為に、(我)、之を、与へん。

結局は、本家本元たる本源

、それとのリンクを、
ほぼ夾雑物なくしての直結にて、回復させましょうとしての話なのだ。

神は基本、不死なんで、また自動的に、糧は(全体からフィードバックをもって)、
供給されてあるものなので、飢え、乾きとは、まったくもっての無関係。

これにおいての方法論が、ドラスティックにして決定的で、俺の血肉を食する、すする、取り込むことによって、リンクを築けよってことになる。

、ネットワークに、組み込まれなさいーーってこと。そしたらあとの話しがいらなくなる。かな〜り割愛することができるようになる……。

極論的には、お前は、おれはが今ここに生きてあるこの現実を、その身をもって体験することになる。つまりは、神との親子関係をもって存在、生存することになる。ゆくゆくは、オレ、イエスができたことは、すべてお前にもできるようなる。ハッキリ言っちゃえば、お前は、このオレに、同じくしての存在に、なるんだよって……。

彼イエスは、極端には我ら人類にとっては、新人類。
まったくもってのマスター・プロトタイプ、それとしての蘖、
お手本、モデル、異常進化をもってしての、その存在に〜…なんだ。

*言いたいことはだ、ハード的には、まったく、なんも、違ってはいないんだってこと。
*ならば、なにが、なににおいてが、特異、異常だったのか?!。
*”理解がーだ。真実、事実、本当のことにおいての、ついての....。

6:49
Your forefathers ate the manna in the desert, yet they died.
But here is the bread that comes down from heaven, which a man may eat and not die.

あなた達の先祖は(なにも食べるものが手に入らない砂漠において)マナを食べた。
しかしながら、その彼らは、やがてにおいての死が、避けられることは


だがだ、ここに、天の御国より降り来るパンがある。もし、

ひとが食べるなら、
その彼は、もう



*繰り返しになるが不死なる存在者としてのイエスと

になるんで!

6:53
I tell you the truth,
unless you eat the flesh of the Son of Man and drink his blood, you have no life in you.

お前たちに真実としての現実を、事実を、話しておこう...。
このヒトの子としての(生存を現在送っている)この私の肉を食すること、そして、その血を飲むことなくしては、お前たちの内に、人生は、(Life は)、ありは、しないのだ。

この Life ってのが訳するにおいては難しい。直感的には、俯瞰的には、ここに、込められている意味は、絶えずいつも機能している働いているその全体生の一部としての生なんだろうってこと。その身、そのこころ精神に持っている能力、キャパ1の00%をもってしての発動。意外とこれのほうが効率がいいんだ。安定稼働が期待しうる。本人ら当人らにおいても、こっちの方が、満足ってやつが、大きいんだろね。これは永久機関の一部としてのその立ち位置になる。この宇宙自体がなくならない限りは……。

6:54
Whoever eats my flesh and drinks my blood has eternal life,
and I will raise him up at the last day.

それが誰であろうとも我が肉を食らいしもの、そして我が血を飲み干したるものは、永生を得ることになる。そして、終わりの日には、私は、彼を、死者の中より、(間違いなく)蘇らせる。

これも、ここも魔術。投影投射をもって、糧としてのパンをイエスの肉へと変換する。
血を連想させてあるワインを血へと変換する。これらを実際に飲み食することによって、
ことは完了する。

聖餐(せいさん)式において、神父らがなにをこころの内に思っているのかは知らないが、
ある種の魔術、それの代行を行わなければならないのが真実のところ。

6:55
For my flesh is real food and my blood is real drink.

我がこそが

食べ物だ。
我がこそが

飲み物だ。

十字架上において、イエスは、

喉の乾きを、覚えられていた。
酸っぱいぶどう酒を、やや程までだが口に含んでもらえる。

血肉の通った...血となり肉となる…この辺の表現としてのものを参考にしなければならない。

真に、ひととしての生存を、十全に構える、務めを果たす、責務を果たして在る。

本当に生きる為には、そうして在る為には、どうしても必要なるもの。

最上位、至高神、ことの根源たるもの、方の、正体が”愛”になる。
これは、いろんな形、現れ方をもっている、してくる、している。
これがひとにとっての真の食べ物。

イエスは、彼の生そのものを人類を救うべく、供物として、差し出した。

あとは、あの魔術行為が連綿と繰り返されてゆくことによって、
彼の果たしたあのクリティカルなインパクトは、再帰、再現されてゆくことになる。
各人の生き方において。各様としてのそのあり姿において......。

愛を与えること、それに、姿/形を与えることにおいて、我もまた何処よりか、
見知らぬ誰かよりか、それを、これを、知らずの内に受け取る、受け取っている。

6:57
Just as the living Father sent me and I live because of the Father,
so the one who feeds on me will live because of me.

ちょうどまさにこのときも、生きて存在しておられる(天の)父なる神が、

、ここ(地上世界)へと、送り込まれたように、そして

、父なる神のお力添えのもとに、いまこうして生きてる、生きてあれるように、私を糧とせしもの、糧として食したるもの、食してあるもの、そしてその御蔭で生きてある、いる、いれる

、この私を、生存の基盤として、持っている、構えていることになる。



6:60
"This is a hard teaching. Who can accept it?"

「人肉を食え喰らえだとー!、血肉を飲み干せだとー!!」
 カンニャバリィーズムムム……やっ、ばーんんんん…
 そんなことできる、やれる、かぁぁぁあひ〜〜〜!って。

これは至極当然なる反応…。

話しなんでね。

本能的、生理的嫌悪忌避が、それらとしての念、感情が、当然に伴ってくる。

これが自然、普通。

ここね〜、重要だと思うんだ。この自分はね。

基本、この血腥い領域範疇ってのが既に昔っから封印されてしまってるのだ。
衛生上の理由が故だろね。でも死を隠蔽したことによって何かが失われのもの事実だ。
自分がやがてにおいては死すべき存在なんだってことの認識が棚上げされるようになった。

ことの真実、現実たるものの一断面が、ここに、透かして見ることができる。それは、それらは、ひとのマインド、それにおける価値基準判断を越えてあるんだってこと。ことの実際の全体像は、呼吸もできなくなるほどまでの、おぞましく、おそろしい領域ってやつも、また含まれてしるんだよって。蛆まみれの自分の死体ってやつ想像できます?。屠殺場にては?。
即座にブレーカーが落ちてしまうことになるでしょうっと。

そうした醜くまたおぞましさの限りにての現実も彼イエスにおいては極普通でしかなかった。
存在が我らとは違う違ってるってことが真実。またこのことは

ってやつにも
関係してくるもんだと思うんだ。我らと比べれば、よりダイレクトでかつ生々しいものであったはず。

ある種の連想における自動停止。これも修羅場をくぐり抜けて来たものらにおいては外れてしまってる。無効化されて極普通、あったりまえ、当然のこととなってしまっているのだ。

この種の経験もまた大切な学びの機会になる。現実を知るにおいての。

大草原の小さな家ん中で、家畜の解体をローラ達、まだ幼い姉妹が、初めてやるときの話しがあったな〜…www。

6:61
Jesus said to them, "Does this offend you?

この言葉に対して、お前たちは否定、拒絶、忌避の念を、発する、覚えるのか?!。

6:62
What if you see the Son of Man ascend to where he was before!

「ならば、もし、人の子が、もと居りし所、場所に、昇るのを見たならば如何に?!」

皆にとっての常識としてあるテーブルを、この

、ひっくり返しに動かれたっと。
更に、もっともっと荒唐無稽なる出来事だと思われる未来に確実に起こる出来事を、
引き合いに出されてきた。相対化ドライブの発動!。

実際に、このことを目の当たりにした時点で、一切は腑に落ちることになる…。

6:63
The Spirit gives life; the flesh counts for nothing.
The words I have spoken to you are spirit and they are life.

The Spirit、これこそがひとに命を、人生を与えてくれる、くれて、あるものなのだ。
肉などというものには、基本、所詮、なんの価値も意義も意味も、ありはしない!。
私が今あなた方に語っている、ある言葉、これこそが The Spirit なのだ!。
そして、それらこそが、LIFE!。

通常訳である「霊であり、命である」は置いといて〜…。だって、代数 a,b に対して、
また新たなる代数 X,Y 並べたまでなんだもん。 

端折るとこれはやっぱ、”愛”としてのなにか、エネルギー、エネルギー体なんだと思うんだ。
これに、触れたとき、これを、与えられてあるときに、ひとは一番喜ぶと思うんだ。
これに、誰もが彼もが飢えている、あるってのが、今の現代の世相さ。

貧すれば窮するで、これは、これから益々、極端なるものに、へと、至ってゆく......

6:64
Yet there are some of you who do not believe.
For Jesus had known from the beginning which of them did not believe
and who would betray him.

、ことの最初から、だれが信じないか、
また、だれが彼を裏切るのかを



誰が自分と真に縁があるのか、誰がこの自分に与えられてあるのかが、自然と知れてしまってたってこと。当然に、この自分と敵対することが確実なるもの、やがてにおいては、袂を分けることになるひとってのも分かってしまってた。

自分は不動。ここに働いてしまっているのはあくまでも摂理においてでしかない。

闇の子が、光としての世界を理解すること、これを選ぶことはあり得ない、まず不可能。

すべては各自の選択に委ねられている。

追記:

「くる者は拒めず、去るものもまた追えず」これが本当のところ。
この自分には基本、選択権はない!。またひとのこころの行く末をコントロール
することは

摂理との兼ね合いで各自が己が未来を決定してあるまで。故に、結果として、自身として、持たれるべくしての感慨、その方針は:
「くるものは拒まず、去るものは追わず」となってしまっているだけ。
これは背景にて御わす方を、畏れ敬う思いがあれば

独白。


6:65
He went on to say,
"This is why I told you that no one can come to me unless the Father has enabled him."

イエスはつづけてこう語った:

誰も、私の側に来ること、付くことは、できない。
父が、彼がそうすることを、そうあることを許さない、その限りにおいてでは。

あらゆるすべての動向、その背後にては、実際は神が、采配を振るっておられるんだっと。

ヒトの人生におけるその宿命、その運命は、ある意味、神に、握られてしまっている。

盤上の駒に、これをどうする、どうこうやることは、基本できない。

ことの大本、本当の核心は、このゲームマスターと貴方が、各個人が、どんな関係にあるのか?、いかな関係を、築いてきてるのか?ってことが重要になってくる…。どれだけ天を意識できているのか?、思いそ寄せる、寄せて、その存在を、その臨在を、感じて、察知できて、いるのか?。

ことはもう最初から理屈なんかではない。自身が備えてある良心との関係性の話になってくる。

その有り様、それの発達状況を鑑みて、差配を行われている、までなのがほんとのところ…。

貴方はなぜこの稿を、読んでいるのだろうか?。読むことになっている、なったのか?。


4:14
but whoever drinks the water I give him will never thirst.
Indeed, the water I give him will become in him a spring of water welling up to eternal life."

ここは、これは、訳さないでおきます。




                  ここまで




おまけでやりたいんのが、ことにおける、それとしてのパラダイムシフトを起こしたのは、荒木飛呂彦なんだってこと。第二部の創作中でのできごとのはず。三部からは、スタンドってやつが登場するでしょう?。あれから、あそこからすべてはおかしくなってしまったのだ。作品内がPCゲームとしての成り立ちになっちゃってるんだから。各キャラの設定はすべて、プログラムとしてのものだってことが言えると思う。

まったくもって自分は良くない流れだと思うんだ。
ヒトの生き死にが痛く軽んじられるようなってしまっているんでね〜。
義理や人情友情もあくまでも演出としての計算ベースのものでしかなくなってる〜。

そのことが起こってあった実際のタイミングが、なんと自分がアメリカにいたころの話なんだ。雑誌連載のタイミング的には1987年〜1989年のどっか。カーズがおっそろしく下劣なる存在へと変貌をはたしていたでしょう?。キャラの変更を突如行っていた。あそこはおかしいんだ。本来ならば(作者は)そんなことはできないタイプなのに……。カーズはカーズで思い入れ強くあったはずなんだ。だけど、何を思ってか、何が原因だったのかは知らないが、どっか空虚なる次元に、へと、作者は飛び立ってしまわれたんだろう。でもそこは

…。

彼が震源地となって、以降においては各所、各個人へと、伝搬してゆく。

原因は訳の分からないインスピレーションの洪水としての事態になってしまわれていたから。
そして、これは確実に新規なる表現であること、そして全世界的に売れる、評判になるものだとの妙〜〜な確信が、あったからだ。才気溢れてある若き表現者ならば、彼からの直接のお誘いを断ることなどまず不可能だ。いや単に、良くない意味においての大人に、なられただけの話だったのかも知れないが...。

とにかく彼がことの震源地!。


RPGゲームの進展発達に関しても考慮しなければならないのだが自分はこれ知らないんだ。


ただでさえマインドと云う名の箱、檻の中にいるのに、その中に更に強力なる箱ができてしまって、これん中に、皆が閉じ込められてしまう、そんな事態に、なってるような。それもだ、喜び勇んで誰もがこれを承認称賛してるんだ…。新規としてのテクノロジー表現、これによって、誑かされてしまってるんだ。暇なだからなだけー。スマホも一役かってるね。


現実からの遊離、夢見ばかりが深くなる〜…。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み