36.  ゴンジャ

文字数 50,506文字

                 超時空戦艦アマタカ
          https://www.youtube.com/watch?v=h0i3TEG9xG0


   ことの事態の異常なるを、また対処が確実に必要なるを知って悟っての緊急発進。



        惨憺(サンタン)たる分解砲へのエネルギー充填「99.999999999…%!




          さ〜てっ、ここの最後に登場のこいつは

?!。
              たぶんあっち…悪霊ニコライ…。


                    〈暗転〉







誰かさんの年表。Wikiにある情報を整理したまで。少し混乱してしまうのが、この彼女さんがダブリンで基礎教育を受けたあと、修練女として1931年にインドのダージリンに赴いたっての、1929〜1947年まで、この女性はカルカッタの聖マリア学院で地理と歴史を教えてたってところ。「おかしくね?」。おそらくは31年のインドにての初の着任がダージリンで、それまでにも時々カルカッタのミッション系スクールにて教師の仕事も臨時で行ってたんだろね。そんで、とうとうようよう本拠として、その身をカルカッタに移した?。


        婆になってからの写真ばかりなので、若かりし頃の彼女の面影を…





               一句有名なやつを添えとく、
           「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」。

                  みんなそう…。

       *デマとしてのもの、疑わしきものとしての写真はすべて削除しました。


誓願のときに自身にて選んだ修道名がテレサ。1937年、彼女が27歳のとき一生涯を修道女として生きる、カトリック教会の組織において、

、この身を捧げることを誓われた。それ以後、彼女は「シスター・テレサ」と呼ばれることとなる。テレサはスペインもしくはギリシアの女性名である「Therasia」に由来するらしい。その語源は「

」ことを意味する動詞「therizein」に由来すると考えられている…。


          ことの起こりの始まりとしての原因はコレ…
          【衝撃】漆黒!マザーテレサの黒い歴史
       https://www.youtube.com/watch?v=UqvtPIcwKFc&t=44s

このチャンネルはだ、どちらかと言うと〜比較的〜健全な方だと思ってたんだ。主さんたる方はだ、たぶん人がいいだけの…そんなに深くは考えない、考えたるものが及ばない、あくまでもミーちゃんハーちゃんとしてのア〜パー…極普通の、一般の女性!。(ハッキリ自分としての本音を言うと〜あんましこのひと賢くないわ…)。でも〜そういった至極一般的な方がだ、この手の内容にまで手を伸ばしてきたとなった以上、この稿をやらずにはおれなく「

!」っと。

かなり前から彼女マザーテレサに対してのネガティブ・キャンペーンってやつが、You Tubeにおいて張られてきてることをこの自分は知ってた。でもそれらにおいての主さん達ってのがすべて低俗にして凡俗なる、あくまでもサブスク狙い、また売名目的の、自己顕示欲のおばけとしての人間でしかないって思ってたんだ。お金目当てのユーチューバー。このことはあくまでも個人的な印象ね。だから〜、ため息つくまで〜、不快と思うまででで〜、別段気にもとめないでいたんだ…。ただ無視するに徹してた。

自分の確信として、黒幕としての存在が絶対いるね。資本力と情報力を併せ持つ、某らかの目的を持つ組織たるものが背後にては間違いなく存在してる。たぶんね〜、番組の制作自体は各現場の主さん達ってのに任せて、内容のコーディネートや演出を、協力をやってる。あくまでもテーマそのものと〜、その内容の裏付けとなる資料情報等、映像や画像の提供をやったるんじゃないかと思うんだ。いいネタとして販売しているのかもしれない…。

この現象自体はさして珍しいことではないだろう。芸能人のスキャンダル探しを、いざそれが掲載されたときのその雑誌の売れ行きをみれば、ことの現実、実際たるのを、ヒトのこころが何を喜び期待しているのかが分かる。歴史上、最もビッグネームとなるであろうあのイエスが、マグダラののマリアこと弟子と肉体関係にあった、そして子までもうけてたってな話の本が、かって世界中でどれだけ売れたことか…。この話しは前に一度してる。

問題はその黒幕としての存在が、たいそうな組織力と、行動するにおいての資金ってやつをしこたま、たんまり、持っているってことなのだ。彼等は、金を梃子に、それを餌に、ヒトを組織を動かすってことが巧みにして熟知してる。ならばだ、やはり、彼等としてのグループの存在が、その正体が、アレ等であろうってことにも説得力が、妥当性ってやつがでてくる…。

その黒幕にとっての、ことの最終目的は、世界統一を、共産主義をもって、果たさんとしてのことなんだろう。それとしての勢力だと勝手に思ってる。ことの達成、その手段/戦術/作戦としては「既存のあらゆる権威として崇められているものを、それに対して人々が心に、無意識に信頼している、大切に思ってあるイージを、尽くにして粉砕する!」ってのが、あるんじゃないだろうか?。悪意に染まった冷徹なる知性の存在をいろんなところであれやこれやの創作内容においてこちとらは確認してきているんだ…。ことの、この戦略としてのものが提唱されたのが、最初の理論構築を果たした権威ってのが、それとしての拠点たるものが【フランクフルト学派】かなんかだったけか?。崇高であると、尊い魂の持ち主であると、世間にて尊敬を集めてる評価されてあるその人物のイメージを完膚なきまでにして叩き潰す!。それを、ヒトの世間の目において、甚だしく貶めるをもって地へと引きずり落とす。信頼を失墜させる。あらん限りの工作をもって、塵汚穢芥としてのイメージへと、その人物像を塗り替える。ことの達成の為ならば、手段なんてもんなんら気にすつ必要はない。手段を選ぶってこと自体が戦士としての弱さそれの現れ!。まったくもって必要ない!。たとえ嘘であろうが、フェイクをもってしてであろうが、なんだってお構いなしだ。世間の、そのヒトとしての善良さ、彼等においての良心ってやつに、訴えかけること、働きかけることこそが、梃子とし使うにおいちゃ〜最も有効にして効果的なることなんだ…。ことが有効なれば、効果があるってゆうならば、最早なんだって使う、どんなことだってやるっと。そのリアルとしての結果こそが大事なのだと。世間においての、その善としてのイメージ、理想としての具体的なるイメージの尽くを、粉砕してしまうおうと考え、夢想し、また実際に行っている。ことは一種の洗脳をもってしての精神攻撃だって言ってもいいだろう…。

「対日本」ってのも長らく、すんごい長期にて、打たれて、きてて、それが現在はもう酷いことになってきてしまってる。気づいています?。Yahoo!ニュースやYou TubeツイッターSNS等の情報発信としての舞台の整いのことをいっているのだがねっ!。各自各個への直接伝達、情報提供としての窓口たるスマホが登場してからの今がもう酷いことになってしまっているんだ。かっての、あのまさにアングラとしてあった2ちゃんねるが、今じゃ〜堂々と日向にて、表にて、誰も彼もによって、その口撃批判としての猛威を振るうようなってしまっている。

ことの戦略ってやつは実は至極単純で、上げて落としてが基本。少しおだててから貶めてダメージを与える。これの繰り返し。かなり粘着質なやつらで、もう延々とこれやってきてる。虚栄心ってやつを煽って、その後に今度はこき下ろす。攻撃する。自信ってやつを徹底機に奪ってやろうと、希望ってやつを心底からなくさせようとしているまで。同時に、国内における程度の低い頭のいと悪きもの同士を争わせて喧嘩させて諍わせる。それをニュースとして絶えず発信する。掲載する。いっつも騒然たるムードを演出しておいてやるのさ。全国民の皆が一種のヒステリー状態になるようにと。それとしての思いをこいつを梃子にして作り出してやる。国体としてまったく成り立たなくしてやるぜと。そうしてやる。ず〜っと、そうしてきてる、されきて、しまってるんだがね…。現状たるものを、客観的に観る限り、ことは見事に、際立った結果たるものを伴って、その功を奏してしまっているようかのようにも、思える‥。

彼等の思惑としては、現行としての秩序、それ支えてあるもののすべてを、尽く、無効化してしまおうと、メチャクチャにしたらんとして、これを行っているまで。ことが果たされたその暁には結果として、すべての人々が意識的に無意識的に信頼してある価値としてのそのすべてが崩壊してしまうようなことになってしまうんだ。端的に言えば宗教としての伝統、それが支えてある封建的なる体制を標的に置いてるんだろうね。最早、なにがなんだか、なにがなんやら、尽くにして、もう分からなくなってしまうんだ。誰もが皆そうなる。なってしまう。現行としての社会を支えてあるそのすべての価値としてのコードは相対化をもって、流動的となってされてゆく。その効力の一切を失ってしまうことになる。そして、やがてにおいては、然るべく、現体制の崩壊へと、それとしての帰結へと、怒涛の如く、国民全員の一致、同意をもって、向かってゆくこととなるであろうと‥そう考え、また夢想しているのだ...。

コロナをもっての閉塞状態へ、個人への徹底的なる分断とせん、WHO等の国際機関による一律管理、これは下準備予行演習としてのものになる。国としてのその資産の略奪、物資の欠乏、急激なるインフレ。食糧難をもってしての危機の演出、第三次世界大戦へと確実に至るべきものとしての国際紛争の準備/仕掛け、移民による国内における騒乱。完全なる茹でガエルとしてのものへと人類を徹底的に追い詰めて、追い込んでゆく、狂気ヒステリー神経症へ至るべく追い詰めてゆく、やがてにおいて食料の欠乏をもって現政権それの責任者としての与党に怒りを向けさせる、現体制を担うものモノら一切に対しての絶望を抱かせてやる。怒りこそを抱かせてやる。ミサイルも当然数発は落とさせてもらおう。核をもってのネットの遮断こそがクライマックス。ならばだ、後のやがてにおいてとなれば、ことが煮詰まり果ててを迎えてのその暁には、その折に、ベーシックインカムをうたっての、それを餌にしての…、間違いなく新世界政権への移行への賛同は、またたくまに全世界全員一致をもって、全人類によって、果たされることとなるであろう…。(妄想として)


追記:

ことの核心的なる問題を、解き難くしての難問そのものを、明かしておく。「暇を持て余してある、いる」ってことがなによりも問題なんだ。ことの一切がここに端を発してくきてる。もう退屈でしょうがないんだ。こころ安らぐ落ち着く世界ってのがどっかで失われていまったんだ。そんで辛いまんまなのだ。もう気が狂いそうになってしまってる。やりたいことがどうしたものなのかなにも見つからない。?。なんにもなくなってしまってるじゃないか〜…。考えてみれば、生まれてからこの方、なんにもなかった!。楽しいこと、やり甲斐たるものが、なんも、何においてであったって〜…なかったんだーーー…。

なので、現状の一切が、そのすべてが気に入らない。気に食わない。それに、なによりも、見てれば分かることなのだが、何も変わりそうにないから…。そんで、今をそうあらしめているそのすべてとしての全部が、もう尽くが、問題なのだと、おかしくなってしまったのだと思うようになる。(手前勝手な歴史史観ってやつを、ここで持つ身につけてしまうことになる)。ああいったおかしげな思い込みをもって、一切を結論づけることとなる。そうして、標的として分かりやすくしてのものが伝統としてのすべての文化、価値、倫理。現行を支えてある制度ってやつのことになる。(単に対象化しやすかっただけなんだけどね〜)。そんで、あくまでも、短絡思考ってやつにおいてで、マシンガンの乱射みたいなことを…、なんでもいいから華々しくしての祭事ってやつを、やってやろうやないかーとっ考えることになるんだ。これがことの本質。すべて。たったのこれだけのこと…。

是非、自分のこととして考えてみて下さい。ここに、このことに、解決すべくしての切実なる問題ってのがあるのだから。各自に既にもうそれはある。もう一度、その問題たるものの本質を、繰り返すのならば〜「なんにもやることがないとき、その暇で暇でどうしようもないとき、皆様ならば、どうやって、ときたるものを過ごすだろうか?」。何も、解決策としてのものが、妥当なるその内容たるものが思い浮かないをならば、これを原因としてのヒステリー状態へと陥って、そんで終局、破壊衝動に走ってしまっているまでなのがかの勢力なのだ。それとしてのものでしかないってことが真実。

もし世界そのものとのリンクが切れてしまったなら、それを回復するまでのことなんだが…。
でも、その方法が分からない。誰もそのやり方を教えてはくれない…。回心ってやつが唯一無二の処方箋ってことになる。要はだ、その今とは、何もする必要がないまでの話しなのだ。ならばだ、その頭の中を空っぽにして、ただ静かにくつろいでいいれば良いだけの話しではないか!。まるで酒に酔っぱらっているかのように、木から木へと飛び移っているだけの、その猿みたいなマインドを、静かにさせる、鎮めてあるまでのことなのだ!。←習熟がいる。

       仕事は自らが作り出すべきものだということもいい添えておく。
           ニッチとしてのその市場を見つけるのが先か…。

とにかくにも、普通の、一般的な、ただ人がいいだけのっ、そんなユーチューバーまでもが、本内容、マザーテレサに対してのネガティブ・キャンペーンってやつを、それの片棒担ぎを、やり始めたなった以上、某らかの「

!」、違う、もとい、「発信をー!」、この自分としてもせねばならんわな〜っと、せなあかんのとちゃうんかい?!っと、思い至ってしもたのでござるのわけなんですぅ〜〜〜…(かってのその昔の大昔の篠原涼子ちゃん調で!)。

さて、愚痴と冗談はさておき、置いといてっと、先の年表に戻ろう…。

9歳までの生活はおそらくは裕福だったはず。お父さんってのが元から地元の名家としての出自で実業家であったそうだから。事業も手広くやってたそうな。やり手だったんだねっと‥。実務において確実に実行力のあった人であろう。また、奥の祖国たるアルバニアの独立運動の闘士としても活動してたらしい。この社会革命家としての資質があったんだね。「ゴンジャ」(blossomとしての意味)は確実にこのお父さんからの血を引いてる〜!。彼の死因においては政敵による毒殺だったてな説もある。なかなかに急進派だってこと。つまりはその彼の行動は、かな〜りに、ラジカルなものであったんだーーー!。※ここの情報は大事だかね!。

この辺のことにおいては、育ちにおいての環境、周囲からの影響ってやつを汲み取っておかなければならない。両親は伴にカトリックで信仰心に篤くしての人だったとのこと。貧しい人への施しを積極的に行っていたそうな。いたく真面目なご両親だったんだろう。そして、不幸なることにこの家庭は大黒柱たる存在を失ってしまっている。彼女が未だ幼くしてあるその子供の頃に、父親が死んでしまうという、一種の

としての体験を、持つに至ってしまってたのだ。サーヤもそうみたいだね。このことは重要にして決定的なる体験となる!。

それから9年後の18歳の時、彼女ゴンジャは故郷を離れ、アイルランドに渡り、そこの修道院に入った。物理的な距離のことを思えばこれは超大移動だ。ここにおいても慣れ親しんだ世界との離別/決別としての体験がなされている。もう戻ることはないものとしての決意の元に実行は移されたのだろう。我々一般的な日本人からすると…よく分からない行動になる。ヒントとなるのかもしれないが、彼女はかなり聡明な子供であったらしい。伝え聞くっところのインドにおける貧困に関して、そこの実状に、彼女は関心を、いや問題意識を持っていたそうな。あの地域インドはある意味特殊な世界になる。コーラの自販機でさえ侵入することが、設置することがつい最近まで適わなかったそなのだから。おっそろしく遅れた、古くからの因習に、塗り固められた、カースト制としての国であったのだから。ヒンドスタン…。※某らか、種たるものが、彼女の意識には既に蒔かれてあったんだ…。

そして、予予(かねがね)そうすると、したいと、心に決めてたんだろうが、到頭27歳の時に完全に

してしまう。これこそが最大にして決定的なる世界との決別になる。在家としてなんかではなくて、もう完全に

の人間になってしまう。俗世と決別してしまった。かって慣れ親しんだ世界との分かたれをもって、カトリックとしての組織内にその身を置くこと自ら選んだのだ。そうすることを、どうしたものなのか、良しとしてしまってたんだね…。このことに関しては、当人にしか分からんことでもあろうて…。

21歳の時から彼女は度々インドへ渡っている。カトリックが運営する現地の女子高の先生を務めるのことがミッションだった。地理と歴史が専門。先生として学生等から人気を博す。ユーモアとウイットにその語りが富んでたからだろね。分っかるわ〜。想像がつく!。そして、伝えるべきこと、重要なることにおいては、堀深くしての伝達たるものが、そこにはちゃんとあったってことだろう。まあとにかく現地インドにおいては、そこで、カトリックが運営してある組織内にては、至極まともな調子様子振る舞いにおいて、奉仕活動たるものをされてました〜っと。当然なることではあろうが、彼女は、実地に、インドたるものにおいての、そこの現実を、実状たるものを、最低最悪なるヒトの生存状態たるものを、自身の目を通して、その肌身をもって、直接にーー…知ることとなってたんだ…。

ところが、そこインドで、1946年の9月、彼女36歳の時、ダージリンに向かう汽車に乗っておられたその際に、

を受け取ってしまったのだ。おそらくは「イエスからのもの」であろうと察せられるその存在から!。それも走ってる汽車に乗ってるその最中においてで。この展開は、この自分においてともなると、妙に説得力たるものを持つんだ…。「あり得る」と。おそらく、これは確実に、現実において、起きとるなっと…。

その際に、天より伝えられたとされるその内容は!…ここに関しての既存の日本語訳のものは、ほとんど意味をなしていない、役には立たないものなので〜英文によるものをもってきた…。

On her train ride, Mother Teresa received what she called “a second calling” or “a call within a call.” It was a call to leave her life as a teacher and to serve the poorest of the poor in the slums of Calcutta. Not only would she serve the poorest of the poor, but she would call other sisters to do the same. Mother Teresa formed the Missionaries of Charity, whose goal would be “to satiate the thirst of Jesus Christ on the Cross for Love and Souls” by “laboring at the salvation and sanctification of the poorest of the poor.”

Google翻訳:

マザー・テレサは電車に乗っているときに、彼女が「

呼び出し」または「呼び出し内の呼び出し」と呼んだものを受け取りました。それは、教師としての人生を捨て、カルカッタのスラムで最も貧しい人々に仕えるようにとの呼びかけでした。彼女は最も貧しい人々に奉仕するだけでなく、他のシスター達にも同じことをさせよとの呼びかけでした。マザー・テレサは慈善宣教師団を結成しました。その目標は「最も貧しい人々の救いと聖化のために働く」ことによって「愛と魂のために十字架につけられたイエス・キリストの渇きを満たす」ことです。

注釈:

Call って言葉を使ったってところが肝心になる。要所。これは命令としてのその伝達のこと。「

」ってことはだ、既に 「The First」 としての、

ってのもあったってことになる。自分の想像では「祖国を離れて、アイルランドの修道院に向かえ!」かな?。どこか大胆なる行動選択があったその時点が、確実に関わっているものと思われる。あと二番目の表現においては、彼女に

を果たさせるべくしての干渉が第一次としてのもの。その渦中その状態にあって至ってから、然るべくしてのメッセージたるものが伝えられてきた。これが第二次としての干渉。そんで、あのような表現になったものなのだと思うんだが…。

そして leave your life as a teacher … 現在携わってあるところの一切の職、

から離れてだ。現業としてのその状態を辞めて、ご破産にしてとの意味になる。

そして最後、最も重要なる命令、「serve the poorest of the poor」となる。コレに対しての自分による意訳ってやつをもってくると、「貧しき者の内にありて、最もまずしくあるものらの為に(こそ)仕えよ」の意味になる。何を言っているか分かります?。このことの真の意味に関しては、

することになる。

そして最後のライン!、この二節が、特別に重要なることを意味し、また表している!!。

最も貧しい人々の救いと聖化のために働く
ヒトの子等への愛と、彼等の魂の真の救いの為に、敢えて、自らを、十字架に貼り付けに
 されてあったイエス・キリストが死するまでに味わったであろうその渇きを満たす為に!

ここに確定されてある Call に対しての、その解釈/理解は、彼女自身、彼女個人によるものだ。イエスの最後に関しての彼女の理解に基づいてなされたるもの。その上での決意表明となっている。これとしての、つまりは彼女個人の主観的な理解における覚悟なのだ…。当然な話し、彼女において、内容に関しての理解が正しく為されるべく、果たされるべく、聖霊による導きが確実にあったはず。完全に深くイエスのことにおいての理解ができている、でき得る人間であったればこそ、イエス、いや、神は、この彼女を選び、そして特別なるミッションを与えたんだよ。

※ここは「そうであってくれよ」としての希望でしかない…。

そして、ことは、人間の狭量なる了見を越えて為されてゆくことになる。一切は

、ヒトの思惑たるものを越えて、果たされてゆくことになった。

、実は、果たされてゆくこととなる。※運動としてのモメンタムがいったん形成されたならば、あとはその

衰えるまで自動的にこの運動ってやつは進行してゆく、続いていってしまうもんなんだ…。

the poorest of the poorがいったい誰を誰達としてのものを指しているのか?は、現地現場をよく知る彼女であれば、即刻瞬時にて、なんら迷うことも疑うこともなく、即座に思い浮かべられることになってたであろう。インドに誘導されてあった以上、もう彼等しかいない…。

え〜っと、ここでね〜、読者の皆さんとされましては、今一度、先のチャンネルの内容において、何が、どんなことにおいてマザーテレサが現在批判の的にされてしまっているのかを改めてご確認しといてもらいたいのですが〜。自分が整理して抽出するのはもう面倒くさいので。とにかく、あそこで語られ、また開示されている情報において、皆様ご自身とされましの、どのように思うのかを、どう考えるのかを、しっかっりと整理しといてくださいまし〜。

さて、もう少し、ことの経過を追跡せねばならない。あともう少しだけだから…。

テレサは

。それはもう彼女個人にしか分からんことよ。クリスチャンとしての存在でない限り、このことがどれほどまでにも重要なることなのかは誰も分からない。教会内部の神父、シスター等においても、実は、よう分からんものでしかなかったはずなんだ。←(偽のクリスチャンとしてのものが八割以上を占めている、そういったキリスト教徒以前としての存在によって構成されてあるのが本当のところなんだろうから。だから!ことにおいての妬み嫉み羨望から、女の腐ったような、破戒僧?根性丸出しの組織内における数多の神父らからは、もうえらい言われよう、えらい目に会わされてしまってた。足を引っ張られることになってたのはもう確実!。当然に目上のシスターらからもさ。)←これもある種の伏線として読んでね。

彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたが、バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、

彼女の活動に対する


それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた…。

変更:
  テレサは、主のお命じになられたことを、この自分一人だけとなったとしても、 
  即座に行動へと移そうと、こころ静かに考え、また決心していた…。

※この辺のドラマ展開がたいへん興味深く、またおもしろい。
※ある意味、イエスとまったくおんなじ展開だったのだ。単なる一個人としてのシスターが、
 神よりの直々のご用命を承りました。受け取りましたって上奏してきたんだから…。
※時代が違えば、魔女扱いされて封殺、封印されてしまっていたかもね。

1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られましたっと。

啓示としてのあのCallを受け取ったのが1946年の9月。黙想会へと向かう汽車の中。きっとそれから帰ってきて、即座に報告と嘆願を願い出たと思うのだが、許可をもらうには

が、かかったことになる。長いわ…。長すぎる。きっとね〜自分のこの思いを、この願いを叶えるために、延々と彼女は毎日枚毎日某らかの努力を重ねてきたはずなんだわ〜。毎日教皇様宛に手紙を書くとか。当然神に改めて祈ったろうさ〜。考えうるそのすべての手を尽くして、この二年間をすごしてきてたはず。その間どんな思いでいたんだろうかね〜?。ことがことだけに、すぐにでも、即座に実行に移したかったことだろうさ。確実に既に火が入っちゃってる状態だったんだから。でも、彼女は賢明だったよ、すっごく賢明だった。じっとひたすら往信を待ち望んでたってことがさ。後先考えずに自分一人で行動に移すことは決してしはしなかった。今後の本番としての試練に立ち向かうためにも、こういった先のことを読んでの、自制心たるものがどうしても確実にいった。何事においても現実主義者であらねばならない。組織の応援体制の元、行動に出ることがどうしても必要だった。※でも、ある程度の期限たるものは、ご自身で決められていたことだと思うんだ。おそらくは三年が限度、五年が限界として…。



この教皇様はなかなかに気骨のあるいい顔をしておられる。品がある。今のとは違って…。1939~1958年の間在位。

としての出なんだって〜。そりゃ〜気骨も身についてるはずだわ〜。第二次世界大戦(39〜41)におけるあのアウシュビッツへの対応を迫られてしまってた教皇様。大変な星の下に生まれ、また大変な時代状況下の元で、教皇をなされてたんだね。※然るべきときには、それに応じての相応しくしての人間もまた用意されてある…。

教会組織としては、それにおける要職を担ってある管理職たる神父たちは、たいそう困っただろうさ…。ことが余りにも曖昧で抽象的であったがために。「どこそこに教会を建てよ!」だったら簡単だったんだけどね。実際に「何を〜、どうする〜」が主のご用命に応えることになるのか、ご用命であるのかがサッパリ分からなんであったであろうから…。ことはだ、

任されることほど、人を

ってことはないんだ。結局、

、そのご伝令とやらを受け取ったとされるテレサ本人に、丸ごとにして委ねられる。一任されることとなった。そう、38歳の女性がだ、たった一人っきりで、それもまったくの丸腰で、ゼロから、あのわけのわからん、わっかんな〜い‥ミッションに、スラム街を初手の舞台として、乗り出してゆくことになったのでありましたーだ!。

この状況事態たるものにおいては、皆様読者におかれましては〜、

たるものを最大限に発揮してあらなければならないー!っとお伝えしておこう。ことはもう本当に異常なる行為なのだ、馬鹿げてる、もう頭のおかしい、キチガイか、なんかにしか行えないーッと言った行為行動になるんだ。その舞台がだ、よりにもよって、あのインドであったのだから…。確かにテレサ本人においてともなれば、長期において、矢たるものは引き絞られてはいたんだろさ〜。準備たるものが、どうしたものな為されてしまってた。そして、あの干渉が最後の一押、ことのキッカケとなってしまってたまで。

ことはだね〜、この与えられたミッションってやつには、ある意味、区切りたるものがないんだ。それがまずこないんだ〜!。ビジネス/商売みたいに起承転結が明確なわけでもない。儲け利潤をもって仕事の功を測るってこともできゃ〜しない。そんな訳の分からん仕事に、徒手空拳で立ち向かってゆくってことはだ、もう既に、最初から、自殺行為ってやつにも等しいことなんだてーーっ!。

どうしてそんなことをこの自分は言うのか?。自分は介護の仕事に六年間付いてたじゃない。だからこそ分かること言えることがあんだ。年取って老化において死に近くなっている人々の世話をするってことは、ほんと大変なことなんだ…。

今回の事において、自分が参考にするのは、要介護5の人達ばかり集められているフロアーでの介護の経験だ。もうみんな、一人では何も、

、できないんだ。ベッドから起きること、歩くこと、食べることも、しゃべることすら覚束ない。何よりももう意識が退行して…しきってしまってて、もう終始虚ろなままなんだ…。

自分のかっていた施設ってやつは、とにかく空き部屋を埋めたかったので、通称問題児と呼ばれる、ほとんどの施設で入所を断られてきた、退所を強制された、そんな後期高齢者たちだったんだ。そういったあぶれとしての利用者さん達ってのを積極的に〜で、集めてきてたんだ。現場の介護職員たちにおけるマンパワーなんか一つも考えない経営方針だったんだ。

そうやった集めてきた利用者さん達の中には、精神疾患としてので方もいらっしゃったんだ。もうこちらから交信を果すなんてことが完全に無理な不可能な人達だったんだ…。(←こういった状況の方においてともなれば年齢は最早関係ない。若くしてこちらに委ねられてきてた人もいたにはいた)。簡単な映像を言葉でお届けするならば、たくさんの方が、テーブルではもう突っ伏したまんまなんだ。それで、もう遠い目をしたまんまならば、なにをしてあげられるんだ?ってもんなんだ‥。

でも確かに生きてはいるんだ。そう驚いたのは食べることにおいてのその執念だ。その欲望は未だしっかり保持されてる。それはほんと碌でもない食材でしかなかったんだ‥。そのあれもこれもを同時にミキサーかけたやつを、スプーンですくって少しづつ口に運ぶ。ほんと少しづつ。誤嚥しないように…。ゆっくりではあったがちゃんと口に含まれてられた。中には、そのときだけは目を覚ましたかのようにバクバク食べる男性の方もいた…。

介護において、なにが一番大変なのかと言うと〜、そこには、なんの「やり甲斐」たるものが(ほぼ)ないってことなんだ。コレこそが介護においての最大の障害そして問題になる。そんなもん基本あり得ようはずがないんだ…。これは現場における、事実として聞いておいて欲しい。努力としての労働のそのすべては、ただただどこか、空へと、虚空の彼方へと、吸い込まれるかのようにして消えてまでの話しなのだ。ことのつまりは、この仕事たるものは、

てことなんだ!。これこそがそこにある問題の核心!。巷で語られる利用者さんから反応ってのも、実はあまり期待できない…。いやハッキリ云うと〜、そんなもんアチラさんにおいてはもうないんだ。(未だしっかりしている利用者らにおいては、権利意識ってのがあって、またプライドが邪魔して、されて当たり前、してもらって当然としての態度であるのが標準なのだ!)。虚ろなるのそのまんまとしての存在…。そういった方々を機械的に動かしているだけ。基本は柵付きのベッドに寝かしておくだけだけなんだけどね…。そういった仕事なんだ…。

この仕事を赤の他人に委ねるのならば、兵役みたいに国民の義務として徴集をかけねばならない。例えば、期間は延べ二年間、スタート年齢は高校生からOKで、実際は何歳からでもいい。この徴集に応えないのであれば、その義務を放棄するであれば、その個人に対しての介護の義務は、国としては拒否する。

これは自分としての独断として語るのであれば、男の仕事ではない。女性においての何世代も重ねて身についている本能としての対応力に頼るべき仕事になる。そして、二十代三十代の働き盛りとしての人間が、一生の仕事として取り組むべきものではまったくない。何故ならば、ことの内容と金銭としてのリターンが本質的には結びつかないからなのだ。介護はあくまでも奉仕としての仕事にしかならない。それをリターンを前提に頑張ることは、道理から外れるのみならず、全くの混乱、不純としての連結になる!。

よかろう…金銭目当ての仕事として。介護の仕事を考えるならばだ…それはもう介護給付たる国からの支払いを、もうないものとして、なくなるものとして、考えなければならない!。なぜかは言うまい…。将来に渡っての長期での収入の増加を願うのであらば、それのジャンプを求めるのであれば〜、金持ちのみを相手にする、そうすることができる施設にて、採用される必要がでてくる。※本当にそんな素晴らしい良い施設があるとするならば、その経営者は既に大金持ちとしての存在だ。それも破格も破格の大金持ちである必要がある。そしてその事業はだ、あくまでも、ボランティア精神において行っているまで。だから、利用者も入所に当たっては吟味をよくするし、ヘルーパーの採用においても、その人間の人間性も、よく吟味をした上ですることだろう。彼は自分と同じくして、この仕事が通常の常識的なる仕事ではないってことを、この仕事に当たる人達がとても可愛そうにしてまた哀れな人達であるってことをよく理解しているはず…。

ことはだ…もっともっと酷い状況、環境においてのことになる。そのマザーが奉仕してた人達ってのにおいてのことになるのだが…。まったくの文無し。国からの援助も当然になし。周りの人人達からの助けも当然にない。単に路上にて打ち捨てられているだけの人間達。そういった人々に対して奉じるっていう仕事に、これに全身全霊、その自らの引き絞られて、引き絞れて切って、しまっていた思いのすべてを込めて、命がけて挑んできたんだ。ならばだ、そうして、その仕事そのものと化して、約45年間も生存してきた、生きて人間としてそんな仕事を続けてきたならばだ、いったいどのような存在になってしまうことになるんだろうか?!…。

事実として、この事業をやり通すことにおいて、人間としてのテレサが持つそのすべてが一切が剥奪してゆくことになる。なった。人としての常識、通念、観念、自分としての好き嫌い、そのその対象としての文化コードの一切がだ。あらゆるすべての想念が観念が現実において、その非情なるダイナミズムによってで、特に世論としての対人関係おいて、他人ら無責任な評論としての意見それの奔流において、相対化され

いってしまうんだ。



ここにはインドとしての特別な事情がある。宗教間における対立。その対立の原因に伝統や教理としての違いが横たわっている。つまりは理屈。つまりは言葉。そしてこちらはこちらで神の子であられるイエスの教えを絶対視している。強引に行動をもってしての、その結果おいて、世の人々の関心を評価を理解を仰ぐしかないではないか…。

そんな風になっていってしまうんだ。いやもう彼女はなっちゃったんだって…。つまりは、ハッキリ言うと〜、テレサは人ではもはやなくなってしまってたんだ…。ことが終わりなきこと、果てなき事業であるからなおさらこのこと、この事態は避けられないものになるんだ。これはもう一種の、人間としての死、終わりだ。それ(その事業)と一体化してしまったなら、あとはもうモメンタムとしての仕事そのものが、今の自分を生かしている、自分をあらしめているってことのみになってしまう。もうそれは、その仕事としての世界そのものによって生かされているってことに他ならない。ことにおいて、状況において、作動しているだけってな存在になってしまうんだ‥。そのような存在にとっては、最早この世の地位や名声、称賛、ほか銀行預金の多寡なんてなんてこた〜もうなんの意味もなさなくなってしまうんだ。生活するにおいて、必要最低限が備わってある以上、あとはもう〜皆さん、どうぞお好きに、お好きなように、ご勝手、ご随意なるのままに〜ってことになってしまうんだ〜〜…。

決定的なることはやはりあの体験になる。あれがあった以上、イエス以外になんの求めもなくなる。彼の実在を覚えた以上、その彼に、認められること以外になにを欲する必要があるというのだろうか?。

ここは自分の経験をもとに断定して述べまくってしまってる。でもね、これが現実に起こり得るべくしての至極当然なる流れ、ことにおいての然るべしての結果、それとしての現実なんだ…。

身を粉にして働くってことが真実為されてしまってた。そんで、いろんな思いやら想念を浮かべてる暇さえもうなかった。そんなもんはことは遠にどっかへいってしまってた。手元にあったのは残っていたのは、あのCallにおいてのその体験のみ。それに奉じてあるだけが今の自分なのだ。現実において他人の意見を聞いてたらもおう切りがない。最初っからそれらはノイズでしかなかったではないか!。悪いがこちらの思うその最善において、ただただ従って頂こう…。


おそらくは、もう既に人間としてではなくなってしまってる。それとしては、もう完全になくなってしまってる…。更には、これこそが真実であったと思うのだが、もうなんもかんも分からんようになってしまってられる。理屈としての一切がもう足りず、当たらずとしてのものになるんだ。なってしまうんだ!。実際、もう彼女はその晩年においては分からなくなってしまわれてた。天国も、イエスも、死後の世界も、聖書の内容さえも!。言葉、コード、観念として表されてあるその一切が、存在基盤を失ってしまうことになってしまってた。既にそれらはもうどうでもいいこでしかないんだ。でも、ただ生きてあるその限りは〜、自分の勤めを果たしてあるとの思いは残る。それの権化でしかなかった。だが最早、それにおいての行動さえも、

としてのものでしかなかったのであろうが!。←これが聖化と呼ばれるものの実際。それにおいての流れ。これこそが天からの真の恵まれものなのかもしれない…。

事実、晩年の彼女はこういった思い、状態に囚われてしまってたとのこと。悪魔も現れてきていたみたい。老化における認知症からのものとも言えなくもないが、自分としては、”熟し”が、極端にまで果たされて達してきた進んできたからからなのだ思う。それが推し進められてきたことの証かな〜って、自分なんかとしては考えるんだ…。これぞ正しく、聖なる愚者、聖なる狂人としてのものに化されきてしまったことの証なのだ。だから、あとはもう何も言ってあげてはならないんだ。彼女が経てきた、その熟しの為に備えられていた、きた、ドライブこそ、この人の世の表舞台、外部としての、それらの人間、世間世俗からの、彼女自身に対しての称賛であり、また批判、糾弾、バッジングそのものであったのだから‥。それらが巨大な潮流となって、彼女自身に襲いかかってきてしまっていたのだから…。ことの始まりにおけるその渦中においても、その昔においても、ことはまったくの同じだったんだ…。

※この世とはそうしたものとしてでしかない、あらへんもんなんかもね。
 さすが、

支配してある王国ってだけのことはあるわ…。

面倒をみてた人々そのものが既にわけのわからんもんだったんだって…。意思疎通はもう完全にできなくなってしまってる。もうまったくままならない。得体のしれない、ただ不気味なだけの存在。あくまでも原始的な生存本能のみで生きてる、かって人と呼ばれてたまでの生体。それもだ、制御、コントロールなんてものが、まったく効かないものと成り果てしまっている始末のものなのだ。こちらとしての意思疎通の努力そのものが、もう無意味となってしまってるような人達…。人は苦しみに苛まれて、もうどうしようもなくなってしまうと、自身でも何もコントロールすることができなくなってしまうんだ。それで突発的に〜で、あくまでも衝動的にーで、話す、喋る、叫ぶ、動いてしまうようなってしまうんだ。それはまるで狂った機械かのようなが、表現としては相応しい…。



マザーはある時点からは、彼女自身が創設者となる「Missionaries of Charity」としての独立組織が彼女としての体となる。そして彼女しての単独の活動は、もっぱらその組織の顔としてのもの、スポークスマンとしての役割になってゆく。対外的なる宣伝、外部との折衝役としてのあり方が彼女の仕事になってゆく。彼女自身、もうなにもしないでも、することがなくとも、世間が、それも全世界規模における世論としての世間たるものが〜、彼女を一種のヒーローとして祭り上げてゆくようになってしまってた。そのような事態に状況になってしまった以上は、彼女は徹底的なる受け身をもって、世が求めるがままに、自身として求められるがままにを、行動していってたまでなんだろう。運動の火を消さないために。世の関心を絶やすことのないようするためにも。そこに、彼女としての本意不本意ってのはなかったはず。ありえなかった。何故ならば苦難に喘いであるキリストと見做すべき存在は、もう無数に、無限に、この世界中に、散らばっておいでになるのだから。御心ならば、御心ののままにを、世の声に対しても、徹底をされていたはず。←ここも伏線としてのものなるからねっ!。

この団体は日本では「神の愛の宣教者会」と訳されてしまっているが、これではあくまでも上辺の、ふわっとした感触、最早感覚的な理解としてでしかその意味をなさない。もう少し突っ込んで噛み砕いてその意味を訳すのならば…:

苦難苦境にあって喘ぎ苦しむ他者たちを、自らそのものだと認じて感じて思って、いや、最早、キリストご本人だと考え、愛をもっての介抱をする、無償の恵みとしての対応を、実際の行為行動をもって果す、供する、示すを標榜する、キリストの教えの

師団。

正にキリストが人類たるヒトの子らに命じたその内容が規約となっている。キリストにおいてでしか救われる道がないのだから…。

最終的には、この組織においての目的だったのだ。今もそれはちゃんと機能しているのかな?…。

組織的な運営となったその時点で、もうことは変質を余儀なくされていってしまう。形たるものができあがったその時点で、形骸化としての流れがそれにおいても始まったしまうものなのだ。マザーたる中心人物を失った以上、最早、この組織によってなされる活動は、なぜかすべて利権団体としてのものとなったいってしまうんだろうな〜っと思ってしまっているのがこの私!。

あの親父さんから受け継いである血が、自身の体内にて脈々と流れてあるそれが、もう突如、覚醒を果たしまってたんだろなっ。全身をその血が熱く隈なく駆け巡りだしてしまってた。あの革命家としてのその血が、性分としてのものが、闘志こそがだ!。

   以下にカルカッタのスラムの写真を三枚あげる。これは最近のものでしかないからね。
           その昔においてともなればもっとはるかに…。



テレサは修道院を出てカルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとには聖マリア学院(上記のカルカッタの高校)時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。



では「何から?」において、「教師としての顔をもって、その仕事をもってして始める」とされたんだ。正解だろね。ほんと一切は、元から

整って備えられているもんなんだ〜って…。あの聖マリアにおける勝手の教え子たちが、その彼女たちがマザーを応援すべく助けるべく駆け参じてくるんだ。その娘らの写真に自分は阿羅漢としての印象をその正体を観たんだ…。※まったくのゼロからではないっと。既に方策となるべくしての準備はなされてあったのだっと。(教師としての立場のことね)

1952年「死を待つ人々の家」の設立

Home for the dying. もしくは
Home for the Dying Destitutes(極貧としてのその地位にある)

この言葉にてあらわされてある意味をしっかりと理解しとかなければならない。ハッキリとここに明言されてしまっているのだから。「

」であると。そして、その人達というのは「極貧としてのその境遇にある人達」のことだと。ここにテレサが、主より、命じられたところの、「貧しき者の内にありて、最もまずしくあるものらの為にこそ仕えよ」において、彼女が誰のことを念頭に置いたのか、最終的に確定されることになったのかが分かる…。可能ならば、彼の地、インドにおける、その極貧としてある人々に関して知っとく必要がある。日本で言えば釜ヶ崎あたりの人達‥いやそれよりも遥かにずっと下だろうな…。たぶんシュードラか、その身分へと落ちた人達のことを指し示しているものと思われる。ズバリ、社会構成における最下層の人々、()()としての人達…。



ことのわかり易さの為に、この自分としてはまったく認めてないマズローの五段階欲求説の話しをもってこよう‥。つまりは、その人間が、自らの尊厳を保つ築く為に必要とされるその五段階のすべての欲求が満たされていない人達ってことになるんだ。誤解を恐れずに言ってしまえば、人間としてのはもう

ばかりであったはずなんだ…。その性分的にね…。知性も品性も一欠片もないような人間。いやもうそれ以前それ以下としての人間。それでも、その内には、こころってやつが未だ働いており、人として、まったく同じ思い感情を確かに持っている。でも、もう無理なんだ…。何がか?。「その彼等が安心して暮らしてゆける社会的身分や仕事を後に手に入れることが」だ。ましてや老人となってからの、体力的に弱り果てている、その状態ともなれば、最早、簡単な手仕事としての職にさえありつくことは適わないだろう。あのシルバーセンターにて登録の方々が、スーパーなんかでやっている仕事でさえもだ。

なにが一切のことにおいての問題だ?!原因なのか?!。この社会構造そのもの、それを形成している

。これもまた長きときを経て、激動としての流れにおいて、然るべく形成されてきたものでしかない。これを、おいそれと、個人風情が、短時間で変え得るものでもあるまいて…。

話しは戻して…、こうした、ハッキリ言って、もう現実においては救いようのない、救われることの絶対ない人達を、彼等こそを、自分のミッションにおける対象だと、されていたのだ。だから「死にゆく(だけの)人達だって」だって、ハッキリ

あんだよ…。そこはね〜回復を図らせるところなんかではないんだ。そんなもんではまったくなかった。それを目的にすることは適わなかった…。

では、ただひたすら、死の訪れを待つばかりとしての人達には、何をしてあげることが出来るのだろうか?。その結末は既に変えられない、もう絶対にことを覆すことはできない。死は最早、早いか遅いかの話しでしかないのだ。ここで、あなたならどうするを考えなくてはならない。もしご自身がこれらの人、人々と関わることになったなら、どうするのか?を。何ができるのかを?。そこにご親族としての誰かを当てはめて考えてみるのもいいだろう…。

基本なにもできゃ〜しない!。金銭的に余裕があるのなら、痛みをなくす、消す注射でも打ってもらえるだろうが。語りうる言葉さへも持ってはいないだろう。般若心経でも耳元で唱えてあげる?。すべては空より来たりてまた空へと返るまでだなどとでも?。法理に従い切るまでがあれとしてのエッセンスだしね‥。きっとそれらは本質的に、実存的な意味おいては、なんの役にもたたないであろう…。

片やキリストの教えともなれば、こういった境遇の人達に、救いとしてのビジョンを語って、聞かせるることができる。

それを!。ことの本当の真実なるは死んでからこそ明らかになるべきはずのものでしかないのだが!。彼を信仰してあるものらにとっては、その彼の教えを、全土隈なく述べ伝えることが私達の使命だと任じてあるものらとしては、そこにこそ、為すべくしての実務たるものがある!。仕事がありえるのだ!。

最後に愛たるもの

触れていただく。感じていただく。これは偽物であってはならないので、対応者は、その彼を自らだと、もしくは、磔刑たるものにおいて、死にゆくキリストご本人だと、限りなく同じ存在なのだと思って、そのキリストを愛する思いもて、その彼に接せねばならない。ここ、こそが、実務においての真の仕事になる。これはね〜、このことはだね〜、外からは、部外者としてのものが〜だっ、一覧や、短時間の滞在で、その内容たるものを、知ること分かることなどできゃ〜しないさ!。ことはあくまでも当事者間における、そのインティメートな事柄でしかないのだから。伝え聞かれる話においては、実際に然るべくしての反応たるものが、驚愕としての反応たるものが!、世話を受けたヒトにおいてはあったそう…。

これって基本、ヒトにはできないってことなんだ。その「他者を自己と等しいものとして、愛を注ぐ」ってやつがだ。その相手ってのにもよることだろうが…。そうだね、あのマザーにおいても、彼女クラスの人であったとしても、ことは同じだったと思うんだ。ある程度の意思疎通が、健全なる感受性が未だその相手に残っている、働いているってことに限定されてたとは思うんだけどね…。でもね、やはり真剣度としての覚悟の程は、やはり常人としてのものと比べれば、極端に違ってたであろうことだけは確かだ。ましてや、主が、ハッキリと、直接、彼女を

、お命じになれた、その内容にあたってであった以上は…。

ここで改めて年表に戻る。あと確認しておくべきことは残り少ない…。

1948年38歳のとき彼女一人の手によって彼女ただ一人っきりの状態にてすべてはスタートする。繰り替えすがそれもよりにもよって、あのどえらく野蛮で遅れたインドの混沌混乱としてのスラム街においてなのだ!。当然に護衛なんてもんはいない。そんなもん付いてる、付けれるわけがない…。


左の写真が二十歳代、そして右の写真が36歳のときのもの。もうまったく違う存在になってしまっている。眼差しがさぁ〜‥彼方に向かって、あっちら側に、結ばれてしまってる…。自分が信仰する世界観における、その最高権威としての方が、直接に、彼女にコンタクトを、果たされてしまったのだから…。結果、その彼女においてとなれば、この世のすべての計らい、常識、教会組織においての慣習、我が身の保身としての考慮配慮など、尽くにして吹っ飛んでいってしまう、しまってる。右の写真のひとは、もう完全に、この世のヒトが狂信者、カルトとして呼ぶところの人間となってしまっている。あとは…ことのすべての判断は、ことの実際の結果たるものをもって、厳正にして客観的なるをもって、判断評価するにしかない!。

ことはもうヒトの常識たるものがまったく通じない世界においてのことになるんだ。だから我々市井の一般人としての普通の人がとやかく、小賢しくも、ものを言ったり、判断批判などしてはならないんだ。属する世界が違ってしまっている以上、絶対に出来ないし、してはならないことになる。最後これも繰り返す「私達ができることは実際の現実においての結果において、それをもっての逆照射をもって彼女を評価するにしかない」。


           これあげときゃ〜もういいか?…

ミッションとしての覚悟自覚信念はあったであろうが、女であることから来る本能からの要請において、どえらい恐怖を、ストレスを抱えての行動であったことだろうさ。基本、できないし、それが長くで()つわけがない。たぶんね…視えない裏方の世界としての、それからの援助の手は間違いなく差し伸べられていたんだよ。きっと。例えば、何を、どう、どこで、どこから、なんてことは不思議と頭の中に浮かんできてた。そして、危機に際しては、何処からともなく助けとなるべくしての人々が現れてきてた。そうした奇跡としてのできごとをもって、きっと彼女の心は勇気づけられてたんだと思うんだ。そして、感謝の思いともに、その闘志としての思い意思は、いやましに燃え立って、燃え盛ってゆくぅ〜…。

ことはだね〜主が出張ってきてのことなので、そんな彼女一人の活動で収まるわけがないんだ。それなりの後の展開ってやつを、それもワールドワイドなものになる、あるべきものとしてちゃんと構想たるものが天においては持たれてた。だからこそのあの「ゴンジャ」だったんだ。すべては彼女が幼くしてあるときより、準備がなされてた。その為の、そが理由においてのあの父親の存在でありまたその結末だったのだ。

何がいる?、いった?。協力者としての人だ。同士、仲間、賛同者。
そして何より物を言ってくれる効いてくれる、すべてのトラブルを解決してくれるお金だ!。

聖書にはお金に関しての戒訓が山程ある。コヘレトより二つ抜粋:

食事は笑いのためになされ、酒は命を楽しませる。


財産が増せば、これを食う者も増す。

その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。
わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、
富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。

テモテよりも一つ
金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。
その欲望が人を破滅と滅亡へと突き落とすのです。金銭の欲が諸悪の根源だからです。
金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、さまざまな苦痛でわが身を刺し貫いた
者たちもいます。(I-6:9-10)

こういった戒訓のすべてを、必要とされる資金の獲得においても、
あの方はこころに留めていた。絶対に!、確実に!。

もう一つだけコヘレトより抜粋:

すなわち、愚かなる者が高い地位に置かれ、(真の意味において)富める者、
(真に尊くしてのその魂の持ち主)が卑しい所に座している…。

これがこの人の世の現実。もう摂理!。だからマザーはね〜、そのこともあまり喜ばしいこととは内心密かには思っていなかったんだ。でも、

として、こなさねばならなかったんだ‥。

さて話しを戻して、協力者としてのひとが、人々しての組織がいった。一人ではたいしたことできないし。そして場所と必要となる物資だ。これは、まともに確保するならば、おおきな資金が必要とされた。でっとりあえず今は考えないようにして、やれることだけに心を燃やして集中して励んでいったんだ。

あのGが説明されたところの「磁力」としての、それのセンターとしてヒトが強出力となった場合の話が思い起こされる。一旦、意思をもってしての、ことの目的の達成に向けて火の如く成り果てたならば、そのヒトたるものの存在は、ときに磁力としてのものを、奇跡を果す/起こす上での、絶対に必要にして必須なる効果/効能を、発揮顕現させることとなる。これもまた自然としての理なのだ。たぶんね、世界そのもの、宇宙全体との関係性の深化なんだろうと思う。すると、大本そのものが反応する、してくれることになる。瞬時に。即時即応。パンクチュアルにて!。

実際、勝手の教え子たちが助けとしてやってきた。組織としてのその展開の萌芽となる。また、いざこざ妨害とうの障害があって、それとの関わり合いにおいて、それを機縁として無償にて拠点たるもの、場所を手に入れる。万事塞翁が馬としての展開。ムーブメントとしてのものが発生し、それがどんどんと勢いを増して拡大してゆく。もうそうなってしまうと後は自然なる展開となるばかり。彼女自身の祈念としての思い、それにおいての行動そのものが、一切の中心として機能する。彼女がいる限り機能し続ける。万事すべて奇跡だ魔法だって言っても構わない。

ここで無理を覚悟で言っちゃうならば〜、彼女は俗に世間で言うところの、カルト、狂信者としての存在だよ。このことは間違いない。でもそれは現実世界との関わりを保った上での奇跡としてのものになる。単なる狂人としての存在ではなかった〜ってこと。よく機微を弁えられていた。慎重に組織の運営上、真に過ちとなること、組織としての存在そのものが危機となるは、一切されなかった。よくしての自己制御たるものが働いていた。確実に効いてた…。

さて、あの問題、批判非難の的にされていること、注射針の使い回し等に関して:

それはもうあくまでも形式としてのものでしかないんだ。もうそれで十分。だって、そこは死にゆくヒトの家なんだから…。回復させる、痛みを取り除くことを目的としての場所ではないんだ。いわばその死へと吊り下げられた状態としてある人々の、その心のケアを目的としての場所になる。死してのその後に、あの私達が信じてある天国へと、渡らせてあげんとしての、それこそを目的として働いている、奉仕しているある場所になるのだから…。もう難しい話しをしたり聞かせたりする必要もない。この私達のところに来たことこそが、もう主のご意向においてそうなっていることに違いないのだから。あとは、そのヒトの愛への渇きを埋めてさしあげるだけ。死へと完全に至るその前に、その苦しみを少しでも軽くして差し上げるまで。そうして欲しいと、そうあってもらえればと、十字架上でイエスがその死の間際に思い感じておられたとするならば…。

         「救いは天国に渡る、至るにしかない!」

この思い、確信、信仰において、なかば強制的なるを、強引にしてイカサマ紛いの行為であったとしても、手元に持ち込まれてきたこれら最下層のとしての人々を、イエスと地続きとすべく、こと行っていたまでの話しなのだ…。

だから、介護としてのその実態は、あくまでもロールプレイとしてのもので十分だった。
そこに運び込まれてきた人達が、ちょっとでも安心できるようにとの計らいの限りにおいて。

あと残りのあの巨万の富としての銀行預金に関しては、もう何かを語る必要もないだろう。あれはバチカンとしての口座であるってのが事実!。その区分け区分において、要は管理整理の為に、特定の個人としての口座があった、いったまでー!。それの現状についての確認、またそれの使いみちに関して希望や意見は言っただろうが、それはカトリック教会としての活動においてでしかない。もうそれとしてでしかあり得ない。要はだ、会社の”資産”として、計上が果たされてしまっているみたいな状態としてのお金になる。もしくは親の管理している銀行口座に〜〜〜、いや、これはまた話が違ってるわ…。

とにかくにも、他人の懐具合を気にする気になる我々一般人とは、根本的にお金に対しての思いが違う。富たるものは天に積めがポリシーで、金銭に関しての思いは、必要なときにいるだけあればいい、必要とされる時には、それは生き金として使えれば幸いであるとの思いで生きているだけでしかないのだ…。

「ゲスの勘ぐりもいい加減にしろや!」っとあの女には言ってやりたい。


さて、もうだいぶしんどなってきたので、締めくくりとする。

でもね〜この締めくくりってやつこそが本番なのだ…。

前に、だいぶ以前にあげたこれ、解説付きで、マザーが語るにおいて
何を念頭に置いていたのか、意味していたのかをやる!。

だから改めてこれ読んどいてください。

注釈として解説はあとでやります。

敬 具

天村崇



(I) Original

Total Surrender: “ Then, You are Free so "
 完全なる服従: ”そうあれてこそ、そうなれてこそ、あなたは自由の身となる”

Jesus said, ‘I have chosen you. I have called yo by name.’
イエスは言われました、
’わたしが、お前を選んだのだ。わたしは、お前の名を呼んだのだ’と。
Everyday you have to say, ‘Yes.’ Total surrender.
日々、あなたは ’分かりました’と言わねばなりません。完全なる服従の”証”として...
To be where He wants you to be.
かれの求めがあるところに、あなたは在りなさい。
If He puts you in the street,
if you everything is taken from you and suddenly you find yourself in the street,
to accept to be in the street at that moment.
もし、かれがあなたを路上におくのなら、もし持ち物すべてを奪われてしまうのなら、
そして急に路上生活者としての身の上になってしまったのなら、
その時は、それを受入れる。
Not for you to put yourself in the street. But to accept to be there.
路上で生活することは、あなたの求めではないでしょう。
でも、そこに在ることを受入れましょう。
This is quite different.
To accept if God wants you to be in a palace, alright,
to accept to be in the palace, as long as you are not choosing to be in the palace.
ここには大きな違いがあるのです。
もし、神があなたを宮殿におかれるのなら、
これも良しとして受入れる。
でも、それは、あなたが宮殿にいたいと望まない限りにおいての話なのです。
This is the difference in total surrender.
完全なる服従という意味では、これはまったく違う話なのです。
To accept whatever He gives.
And to give whatever it takes, with a big smile.
かれが与えるものは、なんでも受入れましょう。
そして、取り去られるものがあるのなら、
それは大らかに手放してしまいましょう。
This is the surrender to God.
To accept to be cut to pieces and yet every piece to belong only tho Him.
これが神への服従ということなのです。あなたが、切り刻まれてしまったのなら、
これも受入れる。いまだ、その肉片一片たりとも、かれだけの所有物のままです。
This is the surrender.
To accept all the people that come, the work that you happen to do.
これが服従するということ。あなたが出会う人々はすべて受入れなさい。
あなたにもたらされる仕事は、すべて果たしなさい。
Today maybe you have a good meal and tomorrow maybe you have nothing.
今日は、よい食事にありつけるだろうが、明日は、なんにもないかも知れない。
There is no water in the pump. Alright, to accept.
ポンプには水がないではないか!。よろしい、これも受入れる。
And to give whatever it takes.
It takes your good name, it take your health, it takes…
そして、取り去られるものがあれば、喜んでそれを手放す。
あなたの名誉、名声、あなたの健康、あなたの家族、あなたの財産、あなたの....
Yes, That is the Surrender. You are free then.
そうなのです、それが服従するということ。
そのようにあれてこそ、あなたは晴れて初めて”自由の身”となるのです。

                        Mother Teresa of Calcutta
                           (意訳:ByMe)


これが語られてあったその映像を観て思ったことは、たぶんね〜これって、一発どりの、原稿なしのやつだったはずなんだ。だからマザーとしての本音が、それによる事実そのものが、もう剥き出しで、ダイレクトに曝け出されるをもって語られてしまってた。ずっと抱え持ってきてた思いが、その信念が、為されてあったことの事実が、あったことの真実が、ハッキリと、ざっくばらんに、ただただ簡潔をもって語られてしまっているまで。これが、この内容が語りうるヒトってのはまずいないな。本物であったてことがこのモノローグにおいて、もう完璧に、分かってしまうんだ…。











これは日本文化においてともなれば観音としてのものになる。これにテレサの名が付けられてしまったのはやはりマザーとしての名声がここ日本においても強かったってことなんだろう。



コラム:

あの自分が以前に公開した手紙は、マザーが管轄するその組織の、各細胞に向けての手紙だったんだろうな。後続を育成するといったことにも彼女は粉骨砕身をもって励んでおられたわけだ。組織を自分の思うその健全な姿で運営するってことは大変難しいことになる。ましてや、物理的な距離が両者間にあったならば、もう無理なることになる…。これはかってパウロが経験したことでもある。社長さんやるのもすべてが自身にて目の届く範囲であるレベルと、組織が巨大化してしまって社員がものすごく増えちゃった場合とでは、そのマネージメントとしてのそのやり方はまったく違ってきてしまう。後にことは規定とマニュアル化をもってしての流れにどうしてもなっていってしまうんだ。でも、こうなったならもうば、パリサイ人としての芽が…。





(II) 注釈をもっての解説。

Total Surrender: “ Then, You are Free so "

 完全なる服従: ”そうあれてこそ、そうなれてこそ、あなたは自由の身となる”

なんに対しての服従なのか?。主の思し召しにおいてだ。アーメンにおいてのその意味する内容になる。そして更には、自分を取り巻く一切の環境/境遇/そこにおける声無き要請においても同じ思い態度にて応えること。端的には人々の要請に応えることに徹する。

善きサマリア人のたとえと、山上の垂訓なんか、もうマザー・テレサにおいてともなれば、その魂の奥底まで、刻まれてしまったことだろうさ…。

垂訓からいくばかりかを抜き出ししました。

「わたし(いえす)は、汝ら(使徒たらんする者たち)に命じておく。
 悪人に手向かってはならない。
 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 (※)
 だれかが、一ミリオン行くように強いるようなら、一緒に二ミリオンを行きなさい。
 


 あなたから、お金や物を借りようとする者に、背を向けてはならない。」(チョイ改稿)

このガイドを胸に、奉仕に励んでおられたのだ。でもね現実主義者としても、あらねばならなかった。そうでない限り絶対にこの事業は

。終焉を

むかえることになってしまう。だから、でき得ることのその限りにおいてで、実際の内容たるものは決定されねばならなかったんだ。取捨選択も当然そこにはあっただろうさ。「注射器はもう完全な殺菌ができない以上もうお白湯で洗うだけでもいい」とか…。その時々に行われたであろう決断における彼女の心の葛藤にこそ、その苦しみにこそ、理解たるものは、同情は、寄せられるべきものだと思うんだがね。

何処だと思っているんだい?。

追記:

一つの実例として...冷蔵庫の買い替えが必要だったんだ。壊れた。そんで奥さんに選ばせて上げたんだ。彼女はサイズ的に間違ったものを選んでんだ。支払いは自分だったので再考を願ったんだ。でも彼女は頑として譲らなかった。確実に間違った選択であることは分かってはいたが結果それになったんだ。自分が見つけてきたベストのものもパンフは渡してあったんだけどね…。やっぱり実際使うにおいてはそれはダメだったんだ。苦痛としての代物だったんだ。狭すぎる。深すぎる。整理ができない。使いにくい。約八ヶ月我慢した。最近、ハッキリと買い換えるからね!と伝え、文句を云うもんだから「馬には乗ってみよ」って云うでしょう?!と半ば強硬にてことを行ったんだ。実際それが来てから奥さんは一言も文句をいったない。まっこういうことも教えを実際に果す、果たさせる上で、準備されてあった状況ってやつで〜、あった訳さ。
※最近と云うか長くこういったことが多い。何をどうしても、どうやっても、細心の注意を払っても、思惑が裏切られてしまう。基礎がまた新たにされつつあんだろ。ことはその

、あちら側主導で、進展していっているまでのことなのだろう…。

おっと最後のラインが手付かずだ!。

アーメンの意思もて、すべてを主の采配に委ねてあるならば、そうあれたならば、あなたは自由としてのその境遇へと到れる。なんのことだ?。どこに我らとしての不自由があるというのだ?

私、私の、としての観念がそこにある限り、もしくは物質性としての価値に基づくこの社会に生きているその限りにおいては、自由などというものはあり得などしないのだーーってこ〜とー。

事実、世間ってのはいたく心がせまいでしょう?。みんな我儘で自己中心的でしょう?。そして何より人間は、やがてにおいては老化して最後には死んじゃうじゃない。全体最適化にたいしての制約たるものがそれはもう山程ある。その制約としてのコード大系によってこそ人格たるものは作り上げられてしまっている。

である限り、すべては制約の基で、元においてでしかあり得ない。またある時期を過ぎたなら、あとはもうただただ老いさらばえてゆくばかりでしかないこの体のことを考えてみればいい。自由など実際には何処にもない!。

(※)の解説を、そのことの意義を、単独で、抜き出しにて、行っておく...。
あなたの持ち物を所有物となるべきものを奪わんとして現れてくるものがいるわけさ。この状況は場合によっては、主が用意されてくださっているものとしての可能性がある。それはあなたにとってとても大事なものかも知れない。大切に思ってる。でも、それは貴方から去った方が、あなたの人生から取り除かれた方が、いいって場合もある。客観的な意味において。ハッキリ言って実はそうなんだ。でもあなた個人ではそれを手放すことはできない。どうしても絶対にできない。いろんな思い込みが働いしまっているんでね。

誰かがそれを力づくで奪いにきてるなら、もうなんの抵抗もすることなく、手放してしまいなさいって。寧ろ

、その相手に獲らせて、盗らせてしまいなさい、あげなさいってのがこれのメッセージ。※所詮そのマナーはあさましくしてのその極端としての行いのものでしかない。特に女であればだ、もう余計に…。でもそのまんまでいいんだ。貴方はただ傍観に徹していればいい。むしろ、そのことに、こちらが感情を動かしてしまうことこそがまずいんだ…。

それは例えば元いた社員から恨みを

かってしまっているそんな会社だとしよう。※(何故そうなってしまっているのかと云うと〜二代目たるとあるご婦人が、自分より年上の、古参としての、また高給取りで、かつ無能なる社員どものその全員を、無慈悲にも、情け容赦なく、ラジカルにーで、粛清してしまったから!、そして、なんと、長男までもを!)。そが故に、その会社は後の後には、もうどうしようもない転落としての流れを、それとしての展開を見せる、表してくることとなる。断定。そうなったならば、何をどうしようが、もうどうにもならないってなことになるんだ。この会社を奪って手に入れた人間は、きっとそのことを後々において後悔をすることになるだろう。片やあなたはだ、その窮地に没する浴することなく、主のお計らいにおいて、免れることとなっていたのだ。それも、それ相応の対価を現在は手に入れて…。すべてのことは、後の後になってから初めて分かること、ハッキリすること、明らかになるってこ〜とー。アーメン。とにかく自分に権力が集中することをその女性は謀りたかったんだ…。


Jesus said, ‘I have chosen you. I have called yo by name.’

イエス


。わたしは、お前の名を呼んだのだ’と。

ここはね〜重大な告白になってる。注目してたヒト、ハッキリことの真相たるのを確認した人、表したヒトってのを見たことなければ読んだこともないんけどね…。この自分がやっとく!。

あの Call とマザーが称した出来事に際しては、その存在は、

ってことなんだ。そして、その存在のことを、マザーはハッキリと

確信した、知ってたってことになるんだ!。

ことの出だしは、「汝、テレサよ!」かな‥。

これはもう、パウロが回心することになったあの体験に匹敵するものではないか!。ましてや、既に信仰の道に入ってた人であったとすれば、ことはもう驚天動地の、決定的にして、絶対的なる”刻印”としてのものになってしまう。生涯忘れることの適わないできないことになる!。そして、それだけ重くしての使命たるものが、その責任が、彼女には備わってしまう、のしかかってしまうこととなる…。

※ことがイエス本人からのものであったって〜ことで、俄然その心は燃えあがってしまう。
※もう生涯一生消えない。

Everyday you have to say, ‘Yes.’ Total surrender.

日々、あなたは ’分かりました’と言わねばなりません。完全なる服従の”証”として...

誰に対してだ?。世界をそのように、ご用意されている神にだ。この言葉の前に伏されてあるのは、世界の現れ実状に対して、また世間の人々の有り様、語り様において、不満としての怒りが前提としてある。何も上手くはいかないから。誰もがみんな思いやりがないから。貧しく、いやしく、あさましくしてばかりの心の狭い、強欲なる守銭奴ばかりだから。盗人根性の人間ばかりだから。でもね…たとえそうであったとしても、この事態も神の思し召しだと判じて、観じて、自分にはまったく理解の及ばないことではあるが、ただ" YES "と、受け入れなければならないんだとさ。ことのすべては神との関係へと還元されてきてしまうもんなんだ。ならばだ、その信頼、信仰の証として、もんくを、小言を、一切、一言も言わずに、批判としての言葉を急ぎ吐くこともなく、徹底的に控えて、ただ心静かに心穏やかなるままに受け入れてなさいぃーて。この行いのその肝心なる所は、その意義は…、神への完全なる服従の証として為されてあるべきもんなんだってさ〜〜〜…。リモス、これまた延々として止まず〜!。

To be where He wants you to be.

かれの求めがあるところに、あなたは在りなさい。

マザーが招聘された舞台、場所、国のことさ。

嫌だわ〜、恥ずかしいわ〜、面倒くさいわ〜とか、またなんか言われてしまうことになるんでしょうね〜フーとか…、疲れるばっかりで、なんの益にもなんないのにーーとか、またあの禄でもない神父らから吊し上げを喰らってしまうんだろな〜とか、またシスター等の間でややこしい騒動が起こってしまってるのね〜とか、‥もう止める。とにかく事のすべての背景には主の思し召しとして受け止める。主の思惑が働いてのことだと理解する次第…。ならばだ、徹底的にその状況からの要請に応えてあるまでのこ〜〜〜とー!。

If He puts you in the street,
if you everything is taken from you and suddenly you find yourself in the street,
to accept to be in the street at that moment.

もし、かれがあなたを路上におくのなら、もし持ち物すべてを奪われてしまうのなら、
そして急に路上生活者としての身の上になってしまったのなら、
その時は、それを受入れる。

このへんのことは、彼女が実際に体験したことを振り返っての独白だ。最初一人でスラム街にでかけていって、ストリート・ティーチャーをやり始めたじゃない。そんで、やっぱりそのへんは物騒なところで、脅されて金銭巻き上げられてしまった。いや、もっと酷いことさえもあったかもしれない。そんでボロンボロンなってされて、なんにもなくなっちゃって〜、ふとあたりを見渡せば〜同じくボロボロの薄汚くして、だただ途方にくれているばかりのそんな目をした人たちが一杯路上にはいるじゃないって…、溢れとるわいと…。んで、これもまた神の思し召しとしてのことの起こり、展開でしかなかったのだと得心して、アーメンって唱えて、感謝の思いを伝えて、とぼとぼと…ヨロヨロと…ふらふらと…痛む体の箇所をさすりさすりしながら、青タン作って付けられて、家へと帰っていったのでありました〜だ!。

Not for you to put yourself in the street. But to accept to be there.

路上で生活することは、あなたの求めではないでしょう。
でも、そこに在ることを受入れましょう。

ことはだ当人の思惑、希望や期待を越えて起こってしまうものなんだ。誰もそんな事態に至るなんてことは考えてはいない。考えたくな〜〜〜いー!。でも万が一、そうなってしまったなら、感情的になって泣きわめいたり、怒り狂ったり、悲しんでばかりいちゃダ〜メよーって。
一旦、自分の落ちたその境遇のすべてを受け入れる。冷静になる。その丈に自分を合わせる。
嫌でも!。その上で、脱出の道を探す。急がず焦らず。よく考えて。しっかりと現実的な努力を積み重ねる、積み重ねてゆく。それも長期で。たゆまず。連続連携させるをもって!。

This is quite different.
To accept if God wants you to be in a palace, alright,
to accept to be in the palace, as long as you are not choosing to be in the palace.

ここには

があるのです。

何と何との間における違いだ?。
なにかの内容もしくは思いが、それに関しての内容が、
文章にされることなくが飛んでしまっている。

ここでマザーの頭をよぎっていたことは、裕福な家庭に生まれて白亜の豪邸に住まいしていることにいたく満足している人達だとか、世間からの評価評判も高くして王宮に招かれてそこで表彰されてあることに殊の外満足している人々とかのケースのことだろう。そういった檜舞台に立つことによって虚栄としての称賛の的にされてあることに満足する、満ち足りてしまっている愚かな人々に関してのことになる。

彼女自身も何度も大層立派な舞台にスポットライトを浴びて立つっている。栄華としての誉れを受けるといった経験を既にたくさん持っていた。これは俗に世間で言うところの名誉、注目と称賛をもって、それらにおいて引き立てられてあったとしての機会、それとしての環境、それらを浴びてあるの状況だ!。

もし、神があなたを宮殿におかれるのなら、これも良しとして受入れる。

別段そんな大層なところに自分としては出向きたくなかったのだけれども、そんな縁台に立ちたいとも、立つつもりもなかったのだけれども…、他にやりたいこと、やらねばならないことは、山ほど。もう腐るほどあったのだけれども…、これもまた主の思し召しであると考えて、私は極力協力を果たしていたまでなのです。

これもそういった運びになった以上は、その要請に応えればいいだけ、応えなければならない話しなんですよっと語られるまで。下手におかしな理由を付けて、もったいぶって断ったりしてはいけないと。たとえその賞たるものが自分の生き方においてのポリシーに、反するものであったとしても、無下に断ったりしてはいけませんよっと。

でも、それは、あなたが宮殿にいたいと

なのです。

それらのことも

神のからの賜物であるとして素直に受け入れ、承認してあるまでとする。

自分のエゴにおいての欲求から、自分の虚栄心の満足ためだけに、そういったきらびやかな場や、大層立派な家建物に住まいできるよう願ったり、そうなるよう努力することではないのですよっと。その願いにお応えになることは神の本意としてのものではないのだっと…。

This is the difference in total surrender.

完全なる服従という意味では、これはまったく違う話なのです。

完全なる服従、その意味たるものは、「すべて神よりの賜物として受け入れてある」としての態度。その中身内容のいかんを問わず、素直に受け入れてあるままであること。誉れ栄華としてのものは好み、恥辱苦痛災禍としてのものは厭う。こういったより好みをもってしての態度ではないんですよっと。ぜんぶすべてを神への感謝をもって受け止める、受け入れる。これが完全なる神への服従の態度となる…。

※ここに入れとく。あのホームは、「

」は、マザーが完全に支配管理してある世界なの〜〜!。だからそこではマザーが独裁を引くことができる。でもいったんマザー自身が病気になったなら〜、それへの対応はもう外の、もっと大きな世界、それを管理監督している組織に決定権があんの〜移るの〜〜!。それが命じることには彼女心も逆らわないし〜逆らえなかった。組織ってのはそういうもんでしょう?!。すべては皆様が勧めてくださるままで結構ですって…。ここの追記は、あの「自分はちゃっかり最高の医療サービスを受けててたじゃな〜い」ってクレームに対しての説明として。

To accept whatever He gives.
And to give whatever it takes, with a big smile.

かれが与えるものは、なんでも受入れましょう。
そして、取り去られるものがあるのなら、それは、もう大らかに手放してしまいましょう!。

Gがさ〜、Mrs.オルガ・ハルトマンに彼女が大切にしている指輪を引渡すよう要請したことがあったんだ。大変な葛藤の末に彼女は指輪を外してGに渡した。そのあと直ぐにGは彼女に指輪を返してあげてたんだけどね…。この世における価値、夢うつつとしてのモノでしかない、それらへの執着偏愛を捨ててしまうこと、これこそが信仰においての課題になる。出家としての意味もそこにある。

人によらずして、神そのもの、その方が、強引に、強制的にて、
そのように取り計らって下さるまでのこと。

Re: ついでにこれも再アップ
 「Aqua lateris Christi, lava me」アニマクリスティにおける一節。



 「御脇腹からの水、われを洗い清め給え」って訳されているけれど、スバリをもって表す
  のならば「槍に突き刺された折に、その傷口より溢れ出たる血よ!(水よ!)
  この我を清めたまへ」ってことになる。水による洗礼が意味として込められている。
  つまりはこれは一種の鉄砲水としてのもの、それによる環境の激変。この自分において、
  主から観て不要であると思われるものを、お取り上げ下さいとの自分からの嘆願。
  障害になるものをどうしたものなのか人は自ら偏愛をもって抱え込んでしまっている
  わけさ。ことの良し悪しは実際には神にしか分からんもんなんだろうね…。

This is the surrender to God.
To accept to be cut to pieces and yet every piece to belong only tho Him.

これが神への服従ということなのです。

もしあなたが、強盗や追い剥ぎらによって、その体が切り刻まれてしまったのなら、殺されてしまったのなら、これも、このこともまた、受入れるまで…。どのような姿に成り果てたとしても、それでも、あなたは、いまだ、その肉片の一片たりとても、かれだけの、神の所有物のままなのです。

意訳の改訳をもって、その意味は補完したと思うのだが、無理して付け加えるならばだ…、マザーはカルカッタのスラムで、ほんとえらい目に会わされてたてしまってたんだと思う。殺されかけたことも何度もあった。身ぐるみ剥がされそうになってたんだ。普通、女性だったらもう死ぬほど怖い思いになるじゃない…、そんで、相手の言うがままになんでも言うことを聞いていしまうと思うんだ…でもマザーはここにある覚悟のままに、為すべきことを為すことだけに専念してた。つまりは、その覚悟において

。相手の言うがままにことを決して行わなかった。勇気を奮い起こして事態に対峙していた。立ち向かっていたのだ。この辺の経験があの言葉の成り立ちのベースになっている。断定!。

This is the surrender.
To accept all the people that come, the work that you happen to do.

これが服従するということ。
あなたが出会う人々はすべて受入れなさい。
あなたにもたらされる仕事は、すべて果たしなさい。

より好みをしてはならない。ことは必然として起こり、また来るものなのだから。
あなたの内においての何が誰が、ことをややこしくしているのか?。
ことにおいて引っかかってしまっているのか?。

あなたは棘たるものを抜かなければならない。
それを適わしむる機会として整ってあるまで、備えられてきているまでなのだ!。

ただし、馬鹿であってはならない。
片側においては、徹底的なるをもってしてのエゴイストとしても、あらねばならない。
本当の意味においての、真の価値たるものにおいての、
叩き上げとしての、実利主義者、現実主義者でなければならない。

Today maybe you have a good meal and tomorrow maybe you have nothing.

今日は、よい食事にありつけるだろうが、明日は、なんにもないかも知れない。

どんな生活なんだよ?って思わなければならない。どうしてそんな不安定な向きとしての暮らしとなってしまているのか?。さて、その立場、その彼等と同じ状況たるものに、この自分が至ってしまうことなんてことが、はたしてあるのだろうか?。

もし…あったなら、もしそのような状況に相成ってしまったならば、あなたとしてはなにができるのだろうか?。そして何も打つべき手もなかったならばだ、あなたはどう、どのように考える思うことになるのだろうか?…。

There is no water in the pump. Alright, to accept.

ポンプには水がないではないか!。よろしい、これも受入れる。

もう水さえも満足に飲むことのできない状況ではないか!。怒る。こうした境遇そのものを呪う。そして社会を、この国を、世界の丸ごとを憎む!。世界そのものが破滅してしまうことをただただ祈念してあるまで!。

And to give whatever it takes.
It takes your good name, it take your health, it takes…

そして、取り去られるものがあれば、喜んでそれを手放す。
あなたの名誉、名声、あなたの健康、あなたの家族、あなたの財産、あなたの....

収入が絶たれたというのに、請求書ばかりが未だ送られてくるばかり。誰も彼もが自分に金を無心してくるばかりではないか!。口座はほとんど空っぽだ。財布の中には小銭しかないではないか!。金銭に変え得るものはもう既に全部かえてしまった。それらも子供ら連れての遊楽において一日で消えてしまう。帰りに冷やかしまでで寄ったバラ園は、自分だけが楽しんでいただけ。家族は誰一人として関心を示しはしなかった…。近所から白い目で見られてしまってる。家族は実家へと去っていった。自分一人がこの家に住んでいる。生野菜ばかり齧っていたので、虫が湧いた。薬代が思わぬ出費になった。なにもかもが崩れ失われてゆく。何一つとして脱出の起死回生としての策は思いつかない…。

Yes, That is the Surrender. You are free then.

そうなのです、それが服従するということ。
そのようにあれてこそ、あなたは晴れて初めて”自由の身”となるのです。

転落は、崩壊も、ある程度までことが進んでくると、いったん停止を迎える。その状態を当人が気に入る気に入らないに関係なく、ことはいったんは間違いなく落ち着くことになる。平衡状態たるものを迎えたんだ。この状況にあって、しっかり意識を、健全なるものとして保ってあることが大事!。きっとそれはもうあれやこれや、かって頭を悩ましていた事柄のすべてを考えてはいない…。ただ現状からの脱出を、ことの改善を図るべくしてのその努力ってやつをやめないだけ。救済としての手が差し伸べられる、脱出においてのチャンスたるものが巡ってくる、来たらんことを信じて、期待して、願って…日々を、そこにある、新たに立ち合われてきた現実を、普通に、マイペースで、また真面目に、真剣にで、生きてるだけ。ただそれだけでいい…。

クリスチャンとしての世界観ともなればすべては神の所有物となる。
彼が自分の所有物をどう扱おうが、それは彼の勝手でしかない。
この前提なれば、もう彼にただ感謝して、願うこと以外に方策はなにもない。

                        Mother Teresa of Calcutta
                           (意訳:ByMe)



終わりとして...

ここでもう一回、整理をしておきます。

シスターテレサは汽車に乗っているときに、イエス・キリストからメッセージを受けました。

その内容は:

”leave her life as a teacher and to serve the poorest of the poor in the slums of Calcutta”で、

それは二つに分けられる。

①「教師としてある現在の人生/生活から離れよ」と、そして
②「貧しきもの内にて最も貧しいものたちに(こそ)serve せよ」。

この二つ

…。

のはこの二つ

…。

この伝達と同時にその意味に関してもそれなりにイメージとしての伝達もなされていたのかもしれない。がっ、一応ことのその内容に関してはマザーが独りで考えて導き出したものだとする。

①は簡単で、「現在の生活を離れよ」で「その代わりに違う仕事をしてもらう」。分かりいい。

問題となるのは②になる。カルカッタにおける「

」って誰?いったい誰のことを指していうのか?。この辺は実地にその界隈を熟知しているマザーの判断になる。ピンときてしまう。その対象として妥当なるものとされたのは、路上にて転がされているだけの弱りきった人達。友達、家族、近親者からも見捨てられてしまっているひと。もうなんにもなくってしまっててさ〜また今後においてもなんの期待も希望も持てないひと。弱り果てててもう何もできなくなってしまっている。だから、路上にて寝っこがされているんだ。それだけの人達…。おそらくその多くは老人だったろうさ。若者としてのものも、いたにはいたかも知れないが…。

これらの人達に

奉仕するってどういうことなんだろうか?。この内容においてテレサは考えることになった。その対象としての人数はもう無数にも等しかっただろう。そして尚、どんどん、あとからあとから、湧いてでてくる…。それらの殆どは程なくして死んでいってしまうんだがね。あとは川のほとりに集めてきて、焼いて、河に流すまで。これもあくまでも公衆衛生上の問題においてだ。ゴミを集めてきて、処理するのとなんの違いもない、変わりもしないっと…。

死に近いってどうゆうこと?。その死は基本、避けられなくしてのものだ。彼等は今、そのあぎとに飲み込まれようとしている。ほんの僅かの猶予において、そのおとがいの上に、吊り下げられているまでの話しなのだ…。「吊り下げされてある死」。

長きに渡ったであろうその試行錯誤と、ミッショナリーとしての立場、キリスト教徒としての素養、聖書からの学び、そういったものをもっての熟考の結果、一つのビジョンを、それとしての収斂を、彼女は自身の内にて、向かえることとなった。

現実との関わりにおいて結果として見捨てられて孤独としての境遇に苛まれてあるままの彼等、もう死すること以外に選択肢のないその彼等を

重ねて観ること。痛めつけられながらにして血もながし、もう今は

…それを彼等に観ること。

では、その今際の際に、イエスは、何をお望みになられていただろうか?…。

彼は、「

」と仰られたのだ!。ヨハネ19:28 ※英語では「I thirst 」。

この「

」ってのはどうゆう意味だんだろうか?…。

この意味は、よく、深く、考えなければならない。それぞれにおいて、それぞれなりの推察や考察がなされる、できうるものなのだから…。生きるにおいてともなれば必要なものなのに、ずっとそれが与えられてこない、きていない、だから、もう体そのものが悲鳴を上げて、それを叫ぶかのようにして求め、欲している!。ことの現象においては、確実にそれは”水”だ。ただただ水が飲みたかった。でも、口に含まされたのは、発酵されつくしたるところの酸っぱいワイン、それを含んだ綿が口元に差し伸べられたまでだったのだ!。

そう、あくまでも”水”が正解。それでいい。じゃないと、ことの辻褄が、ことの実際が、その意味が、分かりにくくなる。重要なることは、現実的に、実際を、具体的なるをもって、彫り深くをもって、語っておかなければならない。

我慢の限界にあって水を求めたのだが、その最後においても与えられたのは

ワイン、それも舐めれる程度でしかなった…。このことをもって、イエスは、「ことは完了した」、「成し遂げられた」とのアナウンスを残して亡くなられる。

つまりは、このすべてがセットとして当初から決められてあったのだ〜だ。

だ・か・ら、よっく推察考察がなされるべきもんなんだ〜。

実は、先の話し、あれは違うんだ…あれこそが深読みとしてのそれにおいての間違い誤解。浅はかにしての短慮、小賢しくしてあるがばかりの、理解においてせっかちであるが故の、主観としての思い込み…。正にそれにおいいての罠と呼ぶべき事態になる…。

イエスは、とうとう、まさに絶命せんとしての、そのときの訪れを悟ったまでなのだ。
それで

思い起こして「ことは完了した」と宣ってあったまでのことなのだ!。

ここはキリスト教徒等にとっちゃ〜呪いになる。この呪いを各人がそれぞれに解かなくっちゃならないんだ。実際は、そのキリストを投影するに足りる

とはなるんだけど。

マザーはずばりこれを行ったのだよ。それは彼女の言葉の端々に現れている。
悪いがこのことは確定にして確実だ。

…ある意味、ある面、それは

、正解であったのか、どうなのか?…、深読みとしての行き過ぎであった、それがあったのではないのか?…自分にはこれが分からないんだ…。仕えるの意味においてそれは極限としての、あまりにもラジカルな、あり方だったのではないか?とも思えてくるんだ。本当にあのあり方が、主においてのご要望であったのか?と…。

※意味の

、厳禁、

だといっておく…。
 ことは聖霊の参与があってこそのもの、その助けがあってこそ初めてそこでは許されるのだ。
※問題は連想は無限に展開されうるんだ。これの然るべきに焦点を合わせてくれる存在がいる。
 当然にそれは上位界に属するものとしての存在。

型ができちゃってて、もうそれへの

になってしまってる。

イエスと同じくしてもう死ぬことは避けられない。その彼は人類の救済の為にと、今十字架に釘で打ち付けられて苦しみに責め苛まれてしまっている。その彼が今味わってあるその渇きは、実は他者からの真実の愛をもっての対応であると、そう総括されてしまっていたのだ。そしてミッショナリーとしての勤めがまた片方にてはしっかり自覚されていた。そこにおいて絶えず意識されていたのは、「わたしが道なのだ。真理であり、いのちそのものなのだ。わたしによらずして、父のみもとに行ける者はない」(ヨハネ14:6)この言葉だったのだ。

苦しみの果てに私達キリスト教徒が信じ、すべての希望を託してある「天国」たるものに入れるよう、そのことにおいて私達としての最善を尽くすだ。私達教徒においては他に救いとしての選択肢はないのだ。上でも述べたが、この施設に運び込まれてきたことこそが、もうそういった救済に渡らせてあげるべきひとってことになったしまうんだ。縁は必然としてあるからね…。

ならばだ、なかば強引に、もはや

としての、その手段、手くだであったとしても、その洗礼としての行為も、皆様とされますと、合点のゆくこと、許されるものなのではないだろうか?。ことの有効性に関してはこの自分には分からない。死んで後にすべてはハッキリすることだろう。

社会の最底辺、最下層に生きてある人々、そこに位置されてしまっている存在、()()としての人達…。そのような立場にての生存であるからこそ、その彼等には、天国へと渡る可能性たるものがあるんだ。それが大なのだ。この世においてのその最後の生存が、これほどまでに低きものとして扱われ、苦しみに任せられてのものとなっている以上、もうこのことは間違いないことなのだ。←これは聖書にて表されてある奥深くしての真理になる。後は、その彼等を

として残る。だからこそ〜マザーはっ!…。原典としてなるのはこれになるのかな?「…who exalts himself will be humbled, and he who humbles himself will be exalted」(Luke 18:14)。そこインドの場合では、社会的身分という外的制約において貶められているわけなんだが…。そこがちょいと違うね。最後の exalted においてが肝心になる。誰が、その彼を高くにあげるのか?だ。そこに神が関与されてくることになるのは間違いのない話し!。トドメ:「低きものとして卑しめられて死したイエスが、父なる神によって復活しての後に、全世界の支配者という高き位置についた」この展開が背後にては踏まえられているまで…。

追加、Re: 罪の贖いとして痛み苦しみを受け入れる。

罪を犯すとはどういうことだ?。
禁忌としての行いをすること。

どうしてそんなことをしたの?。
分からない‥とにかくやりたくなってたのだ。

でっどうったの?。
すんごく満足した。気持ち良かった。

…というわけでめでたくこの行為は習慣となりました〜…。

潜在的に存在する可能性としての悪しき業が実際の行為において活性されて無事めでたくも

を迎えました〜だ。…以降は、この結晶化されてしまった何かが、強力に、その個人に作用することになる。ことを繰り返すことを強制してしまうことになる…。
麻薬をやりましたってのが一番いい例え。コカイン、ヘロイン、盗み、姦淫、略奪、嘘…。

何故、禁忌なのか?。誰がそうだと決めたのだ?。
それはあくまで、(ことわり)たるものに基づいて、然るべくそうなっているまでなのだ。

何の?、何においての理だ?!。
この宇宙というシステムにおいて。それは調和を最大の価値として構築されている。

自身の体において突如現れてきた癌としての細胞を、その病を思うのが一番わかり易い。
それは元々は自分を構成してある細胞でしょう?。
あなたはその癌細胞を取り除くこと殺すことに躊躇はしまい。

追記:この

も確かに生きてはいる。それらもまた某らかの外部との関係性において、その結果として、現在の自らにおいての様子ってのがあるまで。その有り様のままに生きてるだけ。つまりは、

のままに、行動活動してってるだけなのさ。そして、そいつらにとっちゃ〜自分がなにか間違ったこと、悪いことを行っているってなどとは一切思ってない。意識してない。そんな思いや考えは重荷でしかないし、元から皆無なんだ。むしろ現在、正しいことをこの自分達は行っているのだと思いこんでる。思想武装なんてもんまで果たしてのその行為なのだ。更には尚!生命としての「生きる権利」までも癌細胞として主張してくるのであれば、最早どうしようもない…。その主張が全くの虚偽としてのものであること、欺瞞なることは、それらが健常なる細胞に対してどうのように対処しているかをみれば分かること。そちらの生存なんてもんは知ったこっちゃないって。そのあくまでもヴァイタルなる侵攻具合。その迅速なる侵攻の有様を見れば知れば分かること。ことはもう理屈においてのことではないんだ。非情にして迅速なる裁断こそが、今ここでは必要とされてあるまで。もしそこにニューマニズムにおいての、それに流されてしまっての躊躇ってやつがあるのであれば!、そのあなたもまた、もうどっか正常では、自然では、なくなってしまってるのさ。眠りに落ちて、しまっている、までなのかもね…。

さて、話しは戻して、罪を犯すと、何かが自身の内にて

されることになる。

ことにおいてはたいそうな快感が伴ってくるんだけれども、一旦こいつを味わったならば以降は"Craving"(飢え/渇望/熱望/切望)としての衝動が、その身に備わってしまうことになる。自動にして超強制的なプログラム、それの定着の完了。こいつは、その後からは、ズット祟ってくることになるんだ。だから、それはもう一種の”呪い”だと考えるのが正解なのかもしれない。

※「結晶化」としてのタームはGによる発案だ。ほんと的確なる言葉のチョイスだと思う。
 このことはまた別の機会に。ただ一つだけそれはもう自然分解とは絶対にならない…。

呪いならばそれは解かなければならない。キャスト・アウェイしなければならない。

どうやんのか?。ことはその呪いってやつの内容種類にもよるんだが…一番手っ取り早いのはそいつを焼き滅ぼすことだ。どうやって焼き滅ぼすのだ?!。”強烈な光”をもってだ。それによる熱を局部に浴びせることによって。ことを明らかに自身にて知ることにおいて。ことの因果をハッキリと知る悟ることによって。その自分が行ったことこそを後悔して。その作業において味わう苦しみをもって。激痛を伴ってある起こる心底からの悔恨において。実はこれによる手しかその手段はないんだ…。

これにしかその解決方法はないってことは十字架上のイエスご本人が、その手本を、実例、実際を見せてくれている。だが、彼の場合は全人類の罪ってやつを背負っての、その贖いにおいてであったので、最凶としての苦しみがその対価として備えられてしまってたんだがね…。

ありゃ〜ヒトに耐えうるようなしろものではまったくなかったな…。ハイ、ここまで。

記録に残るいろんな聖者のその最後に関してを調べてみると、とんでもない苦しみの元に死んでる場合が多いんだ。ブッダの弟子たちにもそれが多い。キリストの直接の使徒たちなんか当然にそう。ジャンヌ・ダルクの最後においてなんてもう酷い死に方だ。何故そうなっているのか?。どうしてそんなことになってしまったのか?。

天国に入る為にさ、完全なる解脱たるものを迎える為にだ。そうなる為には、どうしても今生において身につけてしまった罪ってやつを、その業ってやつを、完全に精算する必要があったから。いや寧ろ、その機会に恵まれてあるってことを、それを与えてくださっているってことに、感謝たるものを持たなければならない…って云う〜、考え、教えってもあるにはあんだ…。

教会関係者は自分で自分を鞭打ちするって〜のを聞いたことない?。だから〜あの施設においてもこれと同じ考えでいたであろうってことなんだ。痛み苦しみは神からの贈り物であると。

皆さんはどう考えられます?

考えても意味ないけど。いざ自分がそれとしての事態に引き合わされたときには、こういった考えもどこかで御一考していただければな〜っと思います。でも、もし懐に余裕があれば、鎮痛剤としての麻薬を使われること最優先としてお勧めしておきます。追加分はここまでっと。

再開…。

でもマザーはその型において鉄火のごとく、正しく火の玉となって…

1997年の3月に決定的なる体調不良にて総長職を辞任してる。
そして同年9月に、87歳で亡くなられた。



1946年の9月にあった、あのCallとしての事態をスタートとするならば、
そのままの火の玉状態にて、

52

を駆け抜けてこられたことになる。

だれも、だれにも、絶対に、できないこと…。

これこそが奇跡。こっちのほうが人にとっては本当の奇跡なのだ!。

あの定形としての型があったればこそだ。

それにて、あらゆるすべてを当て嵌めて、さばいてこられたならばこそ。

それのみをもって、全力を尽くしてこられたなればこそ…。

ある意味異常。だからこその、彼女によるその奇跡だったのかも知れないがっと…。


お終い。













あとがき:

本稿において最後の方の自分の思いというか考えは混乱を迎えてしまってた。なにが問題になっていたのかというと〜、Serve としてのありかたが間違っていたのではないかとの危惧があったからだ。死に縁際にある(経済的に)不遇なる人々への対処、その奉仕としてのあり方は、せめて彼らをイエスにおいて天国へと至らしめてあげるに集約されてしまってた。あくまでもその一点のみのものでしかなかった。だからこそたとえ強引なその手法であったとしてもそれは許されること、必要なことでしかなかったのだ。

さて、ことの有効性はどうなるのであろうか?。外部としての他者による、云わば強制をもって為されたるその洗礼が、死後に効果を発揮するのであろうか?。

ことを一段下げて、たとえ本人の頭において、イエス、なんちゃらの話しを信じて、思いにおいてそれに最後を委ねたとして、「なんやらよう分からんが、あんたの云うようにしとったら、儂〜、死後はええ目ができるんなら、もうなんでもいいからあんたの好きなようにしたってくれや…」、そのことにおいて、”天国への入場”が、ほんとうにそんな彼らにおいても、適う/叶うこととなるであろうか?。

この自分の考えともなれば、それは、そうは、ならんやろ…とのものになる。それはあくまでも、外面、外見上の、整えでしかなく、有効性は、それだけをもってでは、期待できないのではないか?と…。

でっ、いろいろと…ことは、迷妄、蒙昧なる、頑固頑迷性としてのものに、落ちてしまっていたのではないか?との邪推も持たれてしまうわけなのだが…。

基本、そこに有効性はない。

だが、一事を持って、ことは翻る可能性もないこともないんだ……

聖書には面白いメッセージが一つある。

それは、天の父なる神は、非常に、おっとろしいまでに、

いいんだ。(wwww)

         いざ、与えることを、それを、決断されたなら、
           それはフンダンに、もう溢れんばかりに、
        恵みとしてのものを、救いを、くだされることとなる。

マザーの渾身の努力をもってしての、そのことにおいて、死ぬことさえも厭わない、それさえも覚悟しての、その一念をもってしての働きに免じて、そんな

承認してくださるってな展開も、ありえてしまうのではないだろうか?……。

 このことはあくまでもマザーを喜ばせたい、がっかりさせたくないとの思いが故に〜だ。


   考えてみれば、聖霊が、彼女の側で、ガイドを果たしていたことは確実だし、
  無意味な、無効化なることを、彼女がしていた、行っていたとは考えられないな。

  所詮は、外部からでは、その当事者の内面に関しては、何一つ分かるもんではない。

       (そこにー、何が関連して、働いていたのかってことがだ)

        分からないことに関しては、判断を、慎むにしかない……。




                  終わり









     こっから下は読まないで結構です。返って、この稿そのものを、
         汚す、毀損することともなりかねませんので…。

                   草々


蛇足:

カルトと呼ばれるものにおける真の問題は〜だ!…。誰か自分が権威だと思う思ってしまった人に

ことこそにある。その権威としての誰かはもしかしたら某らかの経験による特別なる理解たるものがあるのかも知れないが〜、他の人にとっちゃ〜それこそがないんだ。だから理解もなくその誰かしらかを盲信すると、そんで彼が/彼女が、説かれたままを、そのまま行っちゃうってことにもなるんだ。これこそがまずいことになる。その説かれた人達においてでは、なんの確執葛藤もないままにできちゃう/為されてしまうことになるのだから。ことは、良きものにおいても、悪しきものにおいてでも、磁力センターとしてのその効果は発現発揮されるってことになる。だから…所詮は常人の身とあっては、そういった作用に対しては逆らえないもんなんだろう…。あのヒットラーやオームの麻原彰晃みたいな人達にはだ…。個人がまったくの個人的なる体験において、それの理解の元に、発してある影響、放射、それらが備えて持つ磁力、これこそがカリスマたるものの真の正体。ことはだ、社会のその外に、起源を持つなにか、メタコードなのだ…。

※「自分を明け渡す」。これもワークにおいては

のものになる。
 その相手が、良き存在であること、愚かではないってことを、
 よっく確認してからのことになる。ご注意。

本日のYahoo!ニュースより 国際政治学者の三浦瑠麗氏(41)が、31日の『ワイドナショー』(フジテレビ系)に出演し、天皇と上皇の国葬である「大喪(たいそう)の礼」を「たいもの礼」と言い間違えたことにより、ネットで集中砲火を浴びている。

そうなるべくしての原因はこのヒトにもあるのだが、集中砲火ってやつを浴びせている人達ってのもどんだけ暇なんかとも思うわ。悪い業ってやつが、性分って呼ぶべきか?、人間にはあるってもんなんだよ。

ついでに言わせてもらうならば、テレビ、新聞、マスコミ…そうそう、あと学校の先生職ってのも、その手の人達が就職を大挙して希望する果す職場となっていたのだ。更には、難しい問題で、コリア枠ってのがテレビ業界ではあったんだ。小児も小児の、ハスナムとしてあまりにも低俗なる輩が、大挙して入社していってしまう…。要はあのフランクフルト学派がどうしたこうした何を言ったかは関係なく、とにかくなんでもんかんでも反体制としての、反伝統の、反常識としての抗議/抵抗活動/宣伝が大好きな人達だったんだ。ある種の傾向性を備えたドライブってのがあって、それにどうしたものなのか社会正義やら改革革命を唱える人達ってのは巻き込まれてしまうこになるようだ…。そんで一種のガイキチとしてのその顔を現すようになる…。メディアとしてのその業界はなんの存在も理解もない獲得してない、虚栄心自己顕示欲ばかりの、頭の回転だけが取り柄の、二束三文としての馬鹿が、挙って就職を果すところであった/あるのだ…。だから〜なのだ!。現在のテレビがネットがYahoo!ニュースがくだらないものばかり、もう悪意をもってしての標榜ばかりになってしまっているのは!。あれね、

ってやつがいっぱい、山程、原稿書いてる。それ投稿してるわ。絶対、背後にはスポンサーたるものがいる。金くれる異国の方々がだ。黒幕はハムニダ極左ファミリーと、チュウと鳴いて今日!としての組織団体、乞食たかりゆすりとしての合同連合組合。DSはそんな低俗にして低能使いをもってしてのゲスい方策は取らないって。もっとごっそりガツンとじわじわ真綿をもって首締めるをもっていただくってな作戦をとる。いやもうそれはあの小○恵三が総理大臣やったときからずっととってきてるんだがね。ことのすべては昭和の頃から、いや江戸後期から、既に、確かに、始まってはいたんだがね…。

メディアとしての会社は全て乗っ取られてしまってる。大株主として裏から采配を振るって。NHKも実はもうそうなんだ。あのおかしなコリア枠こそが問題っだった。要職にあるものらは、もうみんなあちら側としての人間。だから会社方針には逆らえないっていう事情も現場にはあるんだろさ。ゆでガエルとしての社員。ご不幸さま!。

あのテレサによる実行力とことの進展ってやつが問題。それ対しての世間からの関心ってのが異常な高まりを見せていったのだ。それは広範囲にまたたく間に伝達されていってしまってたのだ。この事態に気づいて、カトリックとしての総本山たるバチカンは、マザーを広告塔として最大限利用しようと思いだしたんだ。共産主義思想がその脅威を驚くほどまでに広げてたってことにもその理由はあったんだがね…。大々的に、ワールドワイドにて、キャンペーンってやつが、バチカンをスポンサとして、打たれていってしまうようなったんだ。あれらの賞の受賞も、当然にバチカンによってコーディネート、そのプロモートにおいて為されていたはずなんだ…。なんだろうね〜…ことにおいて、余計なる要素が加わってしまっている…そうなっちゃったんだ…。マザーにおいてのCallとしてのあの奇跡でさえ、ことにおいての一要素、として扱われる、埋もれていってしまうことになる。当然に、マザーご本人においてでさえ実はそうなのだ。当初の目的からは、もうずれずれとなってしまってる。いや、そうなっていってしまったんだろうな〜と思うのは、この自分の思い違い、勘違いなんだろうか?。

自分は無名のまま孤独にされど自由であることを良しとし、また心底から希望する。了。





























忍耐にも我慢ってやつにも程がある。なおもて時たるもののその到来に際しては、脱兎の如くして、いや猛虎の如くして即座に対応を迅速にて執り行わなければならない。こりゃ〜眠ってちゃ〜できんことよ。絶えずどんな境遇においても、いかな状況にあったって〜、目覚めていなさいだ。ここにも両極ってやつがある。我慢としての期間とそれの解放としてのタイミング。これこそがドライブとしての正体になるのかもしれない。ヒトたる存在を根底から失わしむるもの。そのことの、あとに残るのは〜…もしかしたら童心だけなのかもしれない。?































おまけ: ちょこっとだけヘーゲルさんをご紹介しておこう!。

ここはね〜上記にて語られてある「自由」に関しての相補的なるもの。

世界史の本体とは人類においてのその精神そのもののことであり、ヒトの精神それの発展過程こそを意味しているのです。……。そのもっとも具体的なあらわれたるものが世界史なのです。……。 ヒトの心、ヒトの精神が持つそのすべての性質/特徴は、自由への願望祈念欲求なくしてはそれらは存在せず、そのすべては””自由””を獲得せんとしての、その目的の為の手段であり、すべてはひたすら自由を求め、自由を生み出す為に備わってきた、自ら生み出されてきた進化の証としての能力なのです…。

精神にとっての唯一の願望、達成図ベクしての現実、また真理そのものなのです…。まさに精神こそはその起源その誕生時からその自己としてのすべての始めから、既に自由なるものである、※(ただし、そうではあるが無知のままなんだ…)という抽象的定義にしたがえば、世界の歴史とは、精神が

を叙述してあるものなのだと、そう言う、そう理解する、そのように総括することができるっと。……世界史とは自由の意識がより高度なるものになるべくして前進していく過程であり、わたしたちはその過程の必然性こそを認識しなければならなりません。……。(自由という)この究極目的へのささげものとして、地球という広い祭壇の上で、長い年月にわたって、ありとあらゆる犠牲が捧げられる。この究極目的だけが自己を貫徹し、実現するものであり、……、それこそが、宗教的観念を思想におきかえたときにあらわれる、自由の理念そのものに他ならないのです。」

なにを言ってるか分かります?。簡単に言えば、歴史たるものは、それはヒトの心/精神、それの進歩進化の道程としてのものなんだと、それにおいての道筋ってやつを表しているもんなんだって…。そんでえらい理想主義者としての総括になるのだが、すっ飛ばしをもって、もう面倒くさかったんだろうが、「求心力としてのそのヒトの心に渇望と羨望と絶対価値として定まってあったのは〜、”自由”としてのその境遇その観念だった」って言うんだ…。

ヘーゲルさんは非常に面倒くさいプロセスをもって語るが言われていることは正しいんだ。
あの語り口こそが問題なのだ。誰も付いてこれない。いけないし〜行きたくもない‥。
だからこの自分がちょっとお手伝いしてる…。

もう一箇所、精神現象学の序文より

「死を避け、荒廃から身を清く保つ生命ではな〜くー、
 死に耐え、死のなかで、おのれを維持する生命こそが精神の生命である。」

なに言ってるのか分かんないよね〜。自分なりに意訳するならば、窮地に死中にあってこそ、
その状態にあっての苦悩奮闘がなされてあるときこそ、そのときにのみ、真に自己としての精神は目覚めてあるのだと…。その苦闘は某らかからのエクソダス、自由解放を求めてのも〜のっと。

更にもう一個。Re: 絶対精神

ヘーゲルによれば、自己の精神としてのその本質は、自分の内にではなく,

,根拠を持たぬものであると…。その外部,とは主観的,客観的なそれぞれ視点で見られている領域があり,主観的、客観的,つまり両方の領域を通して外部の情報を熟知した上で始めて個々の精神が,どの領域の影響を受けることなく発揮できるようになり、またそれを自覚,吟味できる。そしてそのようになった状態のことを絶対精神という。つまり、この絶対精神とは、客観的でもあり、主観的でもある全てのあらゆる視点からの思考の性質を兼ね備えているといえる。」

これも簡単に自分として言い換えれば、神の分霊として与えられているものがヒトの中にはあるんだ。ヒトは人生において生きるにおいていろいろ試行錯誤をすることにおいて、苦渋を舐める、挫折、失敗することを最大の契機として、これを糧として、自身としての精神をその心の内を高度化、深化させてゆくんだ。そして現実との関わりにおいて、既に観念としてではなく、真実に神たるものの実在を、確信することへとやがてには至るんだって。そして、終局においては、それと一体化してしまうことまでにもなるって…。

絶対精神とは神のことを言っているに過ぎない。

また彼は、マインドとしてのその迷宮の罠をいかに食い破るかに関しては語られていない。
語っていない。それやるともうとんでもないことになるから避けたのかな?。この自分が知らないだけか?。読んでねへし…。

しかしだ、とにかくにも、弁証法的発展は慧眼なのだが、それは三の法則における理想としての顕現、その結なのだが、ことは簡単にはそうはならない。全センターを協働させるといった超人的努力がそこに為されて、伴ってあればこそ。その個人が目覚めに向けてが意識的に為されておればこそ。

よって、そのことの道筋は、おそらくは、選ばれたものにしか備えられてはいるまい…。

Re: おことわり

上のはWikiにあった文章を思いっきり自分なりに改稿したものになります。
多分に恣意的に過ぎますのでご注意下さい。

このヘーゲルにより理論展開が為されたあったがゆえに、あの呪うべき本、
資本論は書かれてしまったのでした〜。こっちは正解だったのにねっ…。

しかしドイツ人は理屈っぽいわーーーー!。自分とは肌が合わない。
自分はもっと遥かにいい加減…現場主義〜。www。

※実はね〜ここYou Tubeでイデオンの解説動画見てたら書きたくなったんだ。
バッフクランVS地球人じゃないって…。単に人と人との関係それこそが問題なんだって。
エゴを自覚的に意識的に乗り越えてゆくってその勇気がないてことこそが、
問題の核心なんだって…そうイデがーゆふてます〜。www。



ここももう少し内容をいずれにか追加する。



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