25.  磔にされて

文字数 60,668文字

なにをどうしたってこの稿は、誰にとっても絶対に読みにくいし、分かにくいものにしかならない!。ならばだ、それをも目的にして改稿に励むってのはどうだ?。同じバカにしか分からないお話しにする…。

ご用命によりての

です。

稿

。メンゴ。崇

まずはあの『主は火の蛇を民たちの内に送られた』から始めるのが順当であろう。

「火の」は紅蓮の炎の形象。まさしくそれを思わせる(よう)な様、状態。

そして、ならばだ[蛇]は?…。

「蛇は民たちを

」だ。「内に」おいてだ。

そしてこのことを原因として「民達の多くが死んだ」へと至ったとなる…。

経過においての詳細が欠けている…。蛇たるものはヒト存在に対しての、なんらかの強制プログラムみたいなものなのだとしよう。神によっての、彼お手製の

。要は”

”との含みが創世記においては書かれている。それは、それ単体として、独自の命を、意思を宿す生命体でもある。地を這うものでもあると…そうなってしまったものなのだという…。

ここにても詳細が欠けている…。いろんな解釈があり得るのだろうがここは一つ個人的な企みにおいての説たるものをご披露してみよう…。先ずは何をさておいても此処(ここ)なのだ!。それは[天駆ける龍]としてたとえられる存在だったのだ。ドラゴン…。とある天使のことになる。それは未だルシフェフともサタンとも呼ばれることもないそれ以前の天使存在としての”彼”。それが持つ権能に関しては皆目分からない。だが最上位界において、そこの王と、その専制者と成り変わらんとしたところに、それが持つ能力に関しては押し計られるのではないだろうか?。とりあえず、

とでも呼んでおこう…。

それは神の秩序たるものに反逆を行った。そして天にては戦いが起こる。そしてそれは神の軍勢に負けて地へと落された。それはこの地球のことになる。そして地の底として語られる監獄/地獄にて監禁される。彼の同士たる仲間達と伴に。その領域は、完全に閉じたるの異次元世界になる。だからそれ以降においてヒトが直接に彼と彼等と関係を持つことは不可能なのだ…。

追記:*ここ重要!。
今は亡き我が父は非常にプライドの高いヒトだった!。その気の短きは疾風雷撃の如く、またその実行力たるやヤクザの…いや、失礼、失言、軍神の如きヒトなりヒトのできであった!。会社起こして成功された方だったんだけどね。タイプ8。その彼が

怒りたるものを燃やす

たるものがあったのだ!。偉そうに自分を””付けで呼ぶ人間…。異常なまでに、そのことにおいては激情としての怒りの念が呼び覚まされてしまっていた!。また、なにやらムシャクシャしているおりには、自分よりも若くて歩きタバコしている人間が一人歩いていたたならば捕まえて殴ってた…「ヒィイイイ〜」。閑話休題。その騒動において、神に怒りを抱かせた、真にその核心的なる理由とは、その対象としての”もの/内容”とはいったいなんであったのか?!。余りにも激しい限りのその怒りたるものは、神にとってしての、至極自然な、生理的反射反応としての発露としてのもであったのだ!。それは【(おご)り/(たかぶ)り/慢心(まんしん)】としての思い、それらを抱いてなんら恥ずべきところのないところの心の状態のことになる。それがあってこそ、初めて、[反逆/反抗/騒乱]たるものが為されてしまうことになるのだから…。我が、完全完璧調和としてのこの世界の内にあって、そこに生存を構えたるの、我が創造物でしかなき者達が、反旗を翻したるとのことだと?…。このことに神のその最大限としてのその怒りの原因たるものはあったのだ!。*ここは今更だと思うかも知れないが、やけにくどくどしい物言いになっているなと思われるかもしれないが、とても重要なことなのだ。なぜって、こうした心の状態ってのは、ヒトにおいても最早、既に、恒常的にして恒久的なるものに成り果ててしまっているのだから。余りにも頻発せる事態ともなってしまっているのだから…。

               【地の底へと追い落された蛇

              何故に、これには

ある?。
        それは、なんと/なんと/なにに解釈することが可能なのか?
     それもまた三位を形成するものなのか?。ならばだ限りなく近似たるものになる。
その構成に関してを想像するならばサタン、ルシフェル、そしてクンダリーニとなるのかも。
          あちらにおいての聖霊にあたるものがソレなのかもしれない…。
            総体としての総称はサタン(敵対者)となり、
    それが分化を迎えてルシフー/アーリマン/クンダリーニとなるのかも。
     血生臭き残酷の限り、その行為の極みをことさらに好むのがアーリマン
    霊感の源泉たるその空域に根城を張りその領域を支配しているのがルシファー
人体深くにて潜伏する異次元体。影から幻想をもってヒトを操ろうとするのがクンダリーニ

追記:
それらが「いや〜こんにちわ〜」などと言ってやってくるわけではないんだ…。それら存在の自覚なくしてヒトは、代行者としてそれらの存在となってしまうんだ。これもまた転写、型への追随/共振/協調をもってのことにはなるんだが…。だから本人らは、あくまでも自分の正義、意志もてやってるんだー、生活の為に、生きる為に、世間的評価の為に〜ってことにしかならない。なってない。あのアニメの世界においては、ことのすべてが全部が

してるのが過つことなく確認できる。その優勢度合いが時を追うごとに増していっていることさえも…。終。


だがしかし、そこにあったドラマとしての””は、ヒトにおいてのものと、まったく同じものであると言える。「上位界からの放逐と堕天、その結果として最低位の獄にてその生存は変更された」は両者において、まったく同じ

によるものだと言える。聖書が語るところによれば、まずもってヒトたる存在はエデンでの過ち/罪を原因として楽園たるエデンを追放されてしまっているではないか。そして現在我々が生きるところのここ地球において、その生存環境は変えられてしまった…。ここに

たるものをしっかりと確認することができる。

追記:
それは悪しき蛇(サタン)が原因であったとは自分はしない。限りなく神に近似値たるものが辿る筋道、パターンではないのかと推測する。神として未完成なるらが陥ること避け難くしての陥穽。ドツボ。そこに仕掛けはない。神は関与してない。あくまでも自然なる事態。これも知るべきを理解する上においては必要なる行程なのかもしれない…。ただし、彼においてはことは固定されてしまう。より傲慢なるが故に…。よりにもよってのその彼においては…。そしてダウントレンドとして、未だ理解に達せられない中途半端なものらを、そちらに引きれようと引きずり込もうとする巨大な一極が形成されることとなった。ある意味においは、その中途半端なものらにおいては、この両極が形成されたるのこの環境こそが、助け/導きになるのかも知れない。二点を結ぶと唯一つの直線が描かれるでしょう?。ならばだ、あとは何方を選ぶの?の話でしかなくなる。終。

同型としての”刻印”が押されてしまっていると、その事態においての”呪”たるものが、両者ともに掛けられてしまっているのだとも言える。型とは刻印であり、また呪でもあありうる。この事態においてはなんらかの共振/共鳴現象たるものが両者間においては成立する/成立してしまう/果たされてしまうといった事態が推察できる…。

追記:
ことはどうしたって蛇側からヒト側に対してのアプローチが切っ掛けになっている。この理由、その原因に関しては自分は解らないんだ…。あの神からの寵愛がヒトにいては強すぎる深すぎるってのが理由で、彼がそのことに嫉妬の炎を燃やしたって説が最も有力なものになんだけどね。これは会社の二代目たらんとして奮闘してた時期が自分にはあるので、その頃に味わった辛さ悲しみってのが推測する上においての材料となる。(考察する上においての基盤とか参考とか情報としてさ。)妬みとしての風当たり、妨害としての障りはそれはそれは酷いものがあった。古参の方々、特に社長に近しい社員さんたちからによるものがひどかっんだけどね…。閑話休題。その実際の具体的なドラマとしての内容たるものは知らないでいいのかもしれない。現実の世界においてさえも、あたり近所を見渡せば、妬み嫉み恨みたるものが騒動が起こる上でのその理由となっているのがほとんどではないか!。ならばだ、やはり、それをも試練として、ヒトが乗り越えるべしての機会と捉えて、神は蛇の行動をあえて容認されていたのかもしれない。そして、ヒトがするその選択が、如何なるなものになりうるのか、それを見定めようとされていたのかもしれない…。

Re: コラムとしてとして…。
自分の視野の範囲においては、彼はあのバビロン捕囚の頃以前に、獄舎にて繋がれてあったその状態から解き放たれてしまってる。その後は振幅を伴いながら段々とその権勢は強力になってってる。その振幅の高まりに同調しての人の世の反応が/反映が、あのルネッサンスたるもの、十字軍による遠征、バロック芸術の隆盛、大航海時代においての他国侵略を目的とした植民地の獲得ムーブメン...

人身売買、黒人を商品としての人身奴隷売買...こういったことが何故行い得たのかをよく理解しておく必要がある。このビジネスは海を越えて遠く異国に人間を販売するビジネスだった。「国家がー」だよ、ハッキリ言って英国王室が〜だ、かの国が後ろ盾となっての国際、三国間貿易だった。あの紳士の国で有名なエゲレスだよ…。なんでこれに手を付けたかって言うと〜、未開の人々は純朴で捕まえやすかった。これが一つ。そんで、植民地や農園においての、マンパワーを安価で手に入れたいって人々は、海の向こうにワンサカいた。需要が大きかった。だから、先に、ことにおける供給の元締めになったもん勝ち、やったもん勝ちの状況たるものは、それが状況的にあったと言えばあったになる…。ここには一線があったであろうことは意識しておくべきだ。モラルにおける禁忌たるを覚える良心としてのストッパーが作用していたであろうことを!。これを堂々と誰恥じることなく率先して踏みつけにして、ことの先鞭を付けたのが、かの名高き英国王室だったのだ!。みなさんはイギリスって国がどんな国だか本当に知っているのだろうか?。キングジェーム編纂によるあの聖書を生み出した英国なのだよ!。キリストを奉じての国であるはずなのに〜!。もしかしたらだが、女王陛下?!直々の決定だったやも知れない...。「

だよ!声高にその方針を伝えてきたのは!!」。国家が後ろ盾となっての、つまりはスポンサーとなっての、この組織的な人身売買ビジネスはハッキリ言って大成功だったのだ!。強大な富を英国にもたらした!。このことはそのままいかに、いかに大勢の人間を、現地アフリカ含めての後進国から誘拐して、かどわかしてきて、遠い異国(アメリカ等)へ売渡したかになる。日本人も奴隷として拐かされててって、サムライチャンプルーで…。冗談はともかく、いや日本人も確かに奴隷として売買されていたのは事実だ、ダーティーな、今日日ともなれば犯罪的なビジネスによって、巨万の富をイギリスはその手にしてたのだ!。「フー…」ここまでは単なる前置き。

不思議なのはヒトの世界における文明たるものを誰が企画し推進しているか?なのだ…。英国領内に、巨額の外貨獲得がなしおれたればこそ、使い道が既にもうないと言わせるほどまでの過剰資金が特権階級層において果たされておれたればこそ、あの第一次産業革命、1760−1830、つまりは「機械によるコモディティの大量自動生産」たるものが果たされるようなっていたのだ!。この前後の展開、両者は

ってことを自分はいいたいだけ。繰り返しとく!。第一次産業革命は、その世界的な伝播のトレンド形成は、黒人奴隷の、奴隷売買があったればこそのものだったのだ!。これが歴史。過去においての真実。

ならばだ…こんなエゲツない筋書きを書いて現場に落とし込んで、更にその先の先まで読んで(世界大戦のこと)、経済によっての力づくをもって文明を推進するその主体たるものの正体は一体なんなのであろうか?。遠に人身売買に手を付けた時点でそれはもうイエスを信仰しての人間がやることではなくなっている。ならばだ、答えはもう言うまでもあるまい!。

ついでに一つの法則、パターンたるものを明確化しておこう!。あるフィールド内で、「善良なる魂の求めにおいて、あとのすべてが異常なるまでの高まりをもって追従する」こういったことがなされたならば、それに合い呼応して、その作用の三乗倍の反対側としての力がその場においては働くようになる。

例えば、隣国さんだ!。キリスト教の伝播が強力に起こったはいいが、十数年の時を経るに従って、悪しき力の虜に完全になってしまって

ではないか!。これにもいろいろと例を添えるべきなのだが、あのなんとか像と、○popと、かの国の国際的なロビー活動(工作)の内容を思えばなんとはなしにピンと来てもらえるかと思う…。(あの幼稚で薄っぺらな、アメリカンポップスの上澄みだけの楽曲、そのイメージ発信に、いたく反応して魅せられてしまっているのが日本の女性であることには、自分なんかは「やはりなのか…未だ尚もって、イヴたるもののその特質は変わらぬままなるのか」と思ってしまう…。)

簡単に言えば、「良き志しにおいての奮闘努力は、また、同時に、逆の、悪しき力の作用とその氾濫をも引き入れることとなる」のだ!。もしこれが真実なることなれば、どうすればいいのか?。これも簡単に言えば、「ことは、あくまでも個人の内において奮闘するに足りる…その結果も個人的なるもので足りる〜」となる。決して集団においての向上など目指してはいけないのだ!。

じゃ〜、この自分、作者はどうなのか?ということなると、自分の場合はあくまでも個人的な趣味の世界でことを行っているまでに過ぎず、このことの三乗としての悪しき作用力は、空の領域にて蕩尽されてしまうことになっている。または、もしくは、信仰においの守りが働くがゆえに、さして被害たるものを自分は被らない。その行為自体において苦しむのでそれが代償となっているのかも知れない。まあ、これはどうでもいいこと…。多分、弱小すぎるがゆえに、見過ごし、見逃しの対象となってるんじゃないかな?。これは実は希望的な推測。あのベルゼの中にも、この良き志しにおいての努力に対して、それを毀損するべく働く力の法則に関しての記述がある。実際Gはその作用力において、あの自動車事故に会うことが避けられなくなっていた…。

長くなったが、イギリスにおいては、御本尊としてのバチカンと、革新勢力としてのプロテスタントの間の、中庸の道を選んで、イエスの教えにおいて国をまとめようと真剣にしたんだ。このことはいいこと。だが時を経るにおいて、国力を財において高めたいといった欲望の虜となってしまう。そんで人身売買。それ以降のかの国の隆盛は言うまでもない。今の現代においても、その力は温存されている。まったく衰えていない。そのことの背景に、

力を貸しているかにだけは〜、警鐘を鳴らしておく…。基本EUサタンの体制下。中共も米も露も。サウジも。もう泣きたくなる…。だから〜、もうハッキリ言ってやるー、個人においての信仰、その奮闘努力しかありえないのーーー。終。

第一次第二次の世界大戦のことになる…。

この二つの大戦においては、特に注目すべき事態たるものが存在してた。あの期間においては、人類史上これまでにかってないことがヒトによってなされていた。そこには何があったのか?。為されてあったのか?。人間の『大量死』ヒトの命の『大量殺害』。それは爆弾や爆撃による兵器によってとか、ガス室においてで表されるように機械的な殺害であった。ここには徹底的にして完璧な「無神経さ」があった、もたれていた。まるで工場のラインにのせてヒトを潰してゆく行為にも似て…。あのGantzの中で、このことは表現されてた…。原爆を躊躇なく投下できたのは何故か?。隔離と遮断と機械による作動。この辺がことの理解としてのキーワードになる。あと、大量であること、あまりにも対象が多数であることは、思いとししては「うんざり」させてしまうようにもなる。各個の価値が極端に薄まってしまうことのも注目!。兎にも角にも、他人を殺すという行いが機械的にできるようになった。そして実際に、それが大量多数、国家規模の人民であったとしても、できることを実証してしまった。この事態は人類のこころに刻印として刻まれてしまっている。この刻印の影響下に現在のすべての人類はある。その影響とは何か?。当たり前からの乖離になる。現実からの乖離と言ってもいい。かって、これまで、至極当たり前であった価値観が、自然として備わっていた価値が見失われてしまうこととなった…。時を経てもその刻印の効力はなくなりはしないのだ。大気に刻まれており、それを自然と当たり前として私達は影響されてしまっているのだ。

皆にとっては、あれらの戦争はもう既に遠い過去のものになりつつあるが、近年ともなれば、更に数段進んだ干渉たるものが”彼”によって行われてきている。もうたぶん、怖ろしいまでにその振るう力たるものは強力になってしまっていっているであろうと自分なんかは思ってしまう…。より高度化して複雑なるものして霊妙なるソフト・パワーとしてのものにまでなりつつある。たぶんもう離陸してしまっているんだろう。地球圏における情報ネットを手中に収めてしまている。否、失礼。これはヒトの世における同調においてその反映としての成果であり、彼が実際に行ったことはまた別の内容があるのであろうが…。それに関してはヒトにおいてならばまず分かりっこない。分かり得ないことになる…。

閑話休題。あちらが

動けば、こちらも何故にかは知らねども分からぬままなれど、同じくしての本質において似たるの反応を動きを見せてしまう…。ここには直接的な干渉力みたいなものはまったくないんだ。だが不思議なことに、そういった加減にて相似としての反応を思考やら行動において為してしまう。たとえ両者の間に空間や次元を異にしての分断たるものがあったとしても共振/共鳴をもってしての関係といったものは成立ち得てしまう。このことによって果たされてしまう現象のことを自分は

やら

と呼んでいるまで。

先の

”Fall”たるものは、あくまでも自然に、然るべくしての展開だけのことでしかなかったのかもしれない…。単にそれだけだけの話だったのかも知れない…。何を言いたいのかと言うと…、ならばだ、いざ斯様なる境遇と成り果てたるの我が身ともなれば、もう神も悪魔も寄せ付けてはいけない〜って、そんなことを思考において考察の対象として取り入れてはならない〜ってなことなのかもしれない…。例えば盗みを働いてそんで警察に捕まって監獄に放り込まれました〜みたいな話し…。太陽に熱せられて気化して天に昇ってそこで冷やされて雨となってまたここに舞い戻って参りましたみたいな話し。ことはあくまでもそんな展開でしかない。ならばだ、それは「道理にしかあらず」として捉えられるべきではないのか?。ことはあくまでも自然に、あくまでも道理に従った形にて為されて果たされたに過ぎない…。いやなにここで仏教においての教えも入れて起きたくなったんだ。『仏に逢うては仏を殺せ父母に逢うては父母を殺せ』が思い出されていたんだ…。菩提心として語られる自己の本質において、それの命じるがままに生きてあれるなら、たぶんそれだけで十分なはずなんだ。それが一切を自然な形において、きっと教えてくれる。下るが道理に従っての然るべきことであったのなら、登るもまたそのことにおいての道理に従っての道筋においてでなければならない。神も仏も悪魔も羅刹も幽霊もそんなものを考えには一切持つなーだ。人類としての仲間ことを思って、それを愛するをもって、ただ「存在する」だけに徹していなさいって。これを為している人間ってのは、自己としての意識はもう消え失せてしまってるんだろうね…。

元来お話したるものは、なんらかの作者自身として体験として関わりのあった事象において、そこに潜む隠されたる意味たるものを、その経験の渦中において確実に検知したるの、その真実たるものを、抽出して、その意味たるを公にて言葉にて明かさんとして編まれるべくしてのものなのだ。ならばだ、その語り部たるものは、一切を、

理解していなければならない。体験や経験がこの表現としての行為においては、前提として絶対に必要なのだ。そして、その表現や創作たるものにおいてのその動機とは、単に大事なことであると彼において覚えられたその内容を後の世の人々に伝えておかなければ〜との漠とした

を覚えてしまっているからなのだ。ただそれだけのことなのだ。

先の話しはあれはあれで正解なのだが、そはりその道においても神仏の庇護や導きは必須のものとなる。あまり日常において意識する必要はないが、ことの反映の背後に、神在すが故にの恵みたるものを察して、それに感謝を覚えて返すことを、いや、同じ愛たるものの共鳴をそこに覚えることによって某らの思いの発露として、祈りを行うことは絶対に大事で必要なことであろうなとは思う…。こちらからの関わりがないまでも、それはそんなことには一切関わりなく、確かにして確実に、存在しておられるのであるから…。

お話しを元に戻そう…。またこの我らが生きているところの、この地上世界は天界からは離れた隔たった世界であり、且つ、なんということでしょうか〜、「ここ地上世界は、あの

の王国となっている」との信仰の先行者等においての確信としての表明の言葉にも重きをおくべきところかと思います。要はですね〜あのマトリョーシカ人形と同じ構造になっているんですよ。一番大きなすべてを包んで含んであるのがご本尊たる神様ではありますが、ある意味個々のマトリョーシカ人形も、その自分としての世界その圏内においては実効支配権を有している。またそこの支配を、その操作を行っているってこともまた事実にして真実なんです。

なんか落ち着きの悪い、居心地のいたく悪い話になっておりますが、簡単な話にするべく例を上げてみましょう〜…「あなたご自身のそのこころの内において、どういった傾向性が一番強いと思いますか?」とこのことを訊くのが一番いいのかもしれない。「やっぱ、ワレ良しの考えと違うんかな⤴?」(ジュニア)であったれば、もうことの理解はいとも簡単となってしまう。整ってしまうのではないでしょうか?。「でもやっぱ善人としてオレは生きたいわ〜」ってな思いも備えもったるの傾向性において、しっかりとした本心としての本音、希望であることもまた確かなことであるはずでしょう…。

ここはわかりやすやを優先してマトリョーシカを採用しましたが、実体は”フロー”(流出)をもって、派生的に〜を特徴としてで七階層が創造されたとするのが正しいのだと思う。「特異点たるものが突如出現して、いきなりそれが存在を顕し、そこから周囲に向かって放射放散流出が起こり為され、そして、それによっての/それにおいての/それに伴っての創造現象が順次にて引き起こっていった…」。これが自分の持つそのイメージ。それも多段階的にで。つまりは適宜なる段階を細やかにしてそれはそれは複雑な限りの作法にて、それを踏んでって~で創造されてきてる。そしてまた同時に荒々しくも単純なるの乱暴なるの限りにして、一切の無駄無きの、それを一点たりとも許さぬ決死の覚悟のモードにても。「唯心→唯物」のグラデーションがそこにおいては極端にビビッドな最高の色彩調和をもって達成されてきている。あくまでもことの具体的/実体的/実利的にして実践的なるの結果の達成/成立に向けてで。

てで。その達成こそを意志として。あくまでも「実利たるるもの」を存在の意義/核として。それこそを尊ぶる価値とするの方針にて。それは間違いなく最初からシステマチックなるものとなるべくの構想を目的として掲げていた。それは言葉たる観念を用いてのものだった。つまりはだ、それは元から最初から誕生すると同時にマインドたるものを備えたるのものであったのだ!。

とても大切なポイントは、すべては全部同時に一遍に

関係をもってして、その全体としての機能発現をおこなっているってこと。最初においても今も現在も、そして未来永劫にわたって…。極微としての素粒子から全体としての永久運動を果たしている大宇宙まで、そのすべてが彼自身なのだ。すべてをもって彼そのものの顕現なのだとも言える。I am that I AM これだけにてすべてが足りる。 分離分断は本質的にそこには一切ないんだ。アレヤコレヤの名付けたるものは、あくまでもヒトのマインドにおける、それにとっての、それのみにおいての、自分以外の外界を認識する上においての、便宜上の、ヒトにとって

の利便性に基づいての区分でしかない…。




  The Great Chain of Being, by Fray Diego de Valades, Rhetorica Christiana (1579)

物を考えるにおいては、常日頃の日常において培われ生活においての知恵たるもの、つまりは普通のあくまでも一般的な

たるものに根ざすのが良い。たとへば何故に神は”地獄”たるものを創造されたのか?。答えは簡単。ゴミの処分場、焼却場ってのは実際生活を送る上においては絶対に必要なるもの必須のものではないだろうか?。*背景には現象学の理念をもってすべて語ってる。*つまりは私なる自己単体においては、もうどうしたって疑い得ないものとなってしまっている、成り果てている、既に確信となってしまっていいる某らかの真実、または感触として確かにそのあるときに味わってしまった印象において、それらのみにて基づいて発想して語るの方法論。あらゆる耳学問としての理屈の一切は棚上げされてある。一旦全部忘れてしまうんだ。*更に、そのあくまでも私的なる確信においての、それを起点として構築された思索ネットにおいては、それと関連すると知らされる、妙に心の琴線に触ってくるなんらかの外部の情報源からも適宜盛り込み取り込みをしてる。*他者の意見としてかってこれまでに吸収した知識においては、その棚卸は、その行為が許されるポイントに至ってから。*その起点からの発想連想思考において、その過程においても、また思い出しや、偶然としての

情報の提供やら遭遇ってのもあるし、また確実にそういったことは起こってくるものなんだ。ある意味ことは必然なる関与として

備えられてきているのかもしれない。*自分が各エピに添えている絵なんかがまさにこれによってのものなんだ。全部勝手に意識に写り込んできいる。こちらはそういったものに対しては、やや危ういものであるのでは?と危惧しながらも受け取りをもって最終承認してる。落し穴、正解に辿り着くを阻むべくしてのトラップたるものも沢山ある。そういった悪意としての干渉たるものも繁盛に起こってきてしまう。ならばだ、やはりここにおいても聖霊の関与、それによってのサポートたるものが絶対に必要にして必須になってくる。サンキュー。


Re: チョイとコラムとして…。




左が普通一般的に表わされるところのウロボロス(尾を飲み込む)。これは有名な象徴である。自分の尾を噛んでいることから一者であること、そして円環を為していることから〈Α〉と〈Ω〉の一体化の状態を表していることが分かる。ならばこれは神であると同時に彼の顕現たる世界創造とそれの展開をも意味しているものとなる。なだばだ!何故にそれはをもって表わされているのだ?。それが移動において行う蠕動、それによっての恐るべくしてのスピードを備えているとか、そして原始的にして逞しき限りの生命力やら神聖力たるもを投影しているであろうか?。その体が線状であることから円たる循環を描くにおいてはそれが最適だったからなのか?。また更には上の絵のソレにおいては手足があるではないか!。蛇において手足は余分になる。これぞまさしく蛇足のことではないか!。たぶん…これはだ…ヒトとの関わりが深いってことを指し示しているいるまでのことになるのさ。そのことの暗示…。独断にて語るならば〜、それはヒトの中にありて、そこに生息する、存在している何らかの超越体。

のことになる…。ここで”神的”は「

」との意味においてて使っている。形容詞としてじゃ〜ないんだ…。もう

との含みで使ってる。ヒトの魂みたいなものとしてではなくて、またまったくもって別の存在形態としての

…。中にあることによって、その当人たるヒトに対して、

としてその効力を発揮する、神聖なるものにして、また超強力なる力…。オリジナルの絵から、それに関しての単純なモデルから、右の絵となって、これにおいては更に

に関しての隠された真実たるものが開示されている。今度は〈翼のある〉のと〈翼のない〉のとで二対としてのものになってるではないか。これは「二体いる」の意味ではないんだ。同じ一つの存在において二つの顕現としての可能性があるってことを言っているまでなんだー!。端折る。これは「サタンと呼ばれる存在なのだ」ってハッキリ言ってしまおう。こいつのミニマムの

ヒトの中には

しまってる。そこに生きて生息している。それがクンダリーニのことになるんだ。どうやってそれの注入が行われたのか、どうしてそんなことになってしまったのかに関しては自分にはなにも分からない。だがこれがヒトにとっては別物として中にて存在しいる。内にて〜だ!。独自の意志たるものを持っているかのようにして中にて生存している。ことはすべての人類、その一人一人の中においてのことなのだ。絵が語るところによれば、可能性のとしてにはなるのだが、ヒトは、自分を背後から駆る誘導する支配しようとするこの力を、この存在体を変容することができる…。つまりは「堕天せるそれ」を自分の中において自分がそれを支配することによって「天使的存在へと再び還らせる」ことができるんだ。それがあの翼のある龍のことになる。かって一度は堕天せるも、

、再び天駆けることができる状態へと復帰させることができ得るのだ。でもそのことにおいての「如何に?」を語ることは自分にはできない。各自がイエスから直接に学べばいい。彼自身がそれを為し遂げているのは確実なることなのだから。それは、サタンとは、もう

、そのヒトがその個人が、己が意志においての選択と、ことに向けての格闘としての努力の果において、やがてにてそれは「元の天使」へとすることができるのだ。その秘儀たるものが為されたるのその暁には、その個人においても、奇跡的なるまでの変容を遂げることとなるのは確かだ。彼はその龍にまたがって空を飛ぶことができる…。追記:ベルゼには、ことの理由に関しての説明があるのだが、あれは、あそこは…、何かを誤魔化している。あえて事実を隠していると自分は感じている。妙に何故かしっくりこないんだ。あっそうそう、ことはあの般若心経にてかたられるところの顛倒夢想がおこるべくしての、その発端ともなった事件でもあるんだよね。このこともお忘れなく…。追記2:クンダリーニを覚醒させて、そんでそれをなんちゃらかんチャラするは誤った道なんだ。結果としてそれは変容する、されたがいい。意識してそれと関わりをもってはいけない。パートクドルグ義務が唯一の縁。

追記3:ところでなんで神は三位一体で表されるのか?。なんで四位や五位でないのか?。「三」にはなにか特別な意味が効力があるのか?。三点あって初めて立つことができるとかが気になるのだが…。あのトリアマジカムノは三位においての顕現にその起源をもつことになっているまでで、三位であることの原因ではない。それはそうなんだからそれでいい…。とにかく神は三位だ。さて、サタンがもし天より放逐されて後に三位を形成したのならば、このことにはいったい何が言えるのだろうか?。そして、その三位の形成は、彼が堕天した下層へと落とされたことに依って沿って伴って引き起こっている。こっからは思弁的な個人的な空想で話しをする。それは限りなく神に等しい存在であった。ほぼ同値。違うのは、Sは、例えば「神ご自身のバックアップ」として胎化されたものとしての存在だったとしておこう。だから、神がおれれるその限りにおいては、その存在は無きにも等しいものでとしかならない。天使として実在してたとしても。真にエフェクティブとはなっていない。その真相はまるで子宮の中で眠っているような赤子の如き存在だった。確かにそうではあったのだが、ことありて、堕天放逐されてからは、神の王国から遠く離れるにつれて、本来のあるべき姿が万全なるものとして、取り戻されていく運びとなった。ただし、洋々、晴れ晴れと、そうなれた万全として回復された状態とは、地球という監獄に封印されてのこととなるんだがね…。*ここはね〜サタンが堕天において三位を形成したことから、帰納的に、彼が持つ本来の権能たるものを推測して想像してみたまでw。意外とこう考えるといろんなことがすっきり整合感をもってきてしまうんでね!。ここはあくまで個人的な空想妄想戯言!。兎に角、両端に神に等しき存在がいる〜もしくはある〜。蛇において、あの「 He made ...」 がある以上Sの創造者は神ご自身!。(自分は少し”それは違うのではないか?”と疑っている。彼とその取り巻き”熾天使たち”のすべては、ことの最初から彼と同時に、出現/存在していたと自分のイメージにおいてはなってる。紐付き状態としての””創発”としてセットで出現してた。なので、そのときにはSもまた既に存在して居たのだ…。最初から…。)その目的はもう既に上で言ってる…。*あのアザトースって神においての自分の解釈はまた独特…。あれはまた違う別次元のもの。神。また特異なる存在。異質とされえたるの神ご自身。あれも、Aも、神がご創造されたものになるのだが、それが持ち得たるの、その指向性には偏向が加えられてしまっている。”痴”たるにおいて、それにおいて、すべてのあらゆるものを解消化してしまわんとするところの神となってる…。あらゆる秩序の、あらゆるコードの破綻。蕩尽化。灰燼化をなさんとするところのもの。神。簡単に言えば宇宙のディスポーザーさ…。掃除屋。終わりのデッドエンドの向こう側、虚なる世界があれにとっての領土。デッド・エンドを越える、落ちてしまったが最後、あれの餌食となる。ホントややこしい…。まとめ:流れの各両端に二つの神的存在が在しまする状態となった。結果としてそうなった。そうなるのは必然の摂理でしかなかった。そんで最下流のその末端、デッドエンドには虚無がその顎として口を開けて待っている...。真にして明らかなる地獄。アザトース…。


       これはあくまでも結果として彼が手に入れるその能力においての表し。

          十牛図においては、騎牛帰家(きぎゅうきか)として表わされる事態。

この絵は大変分かりやすいにいいモデルになんだけど残念ながら自分の理解からするとこれは間違った表現になってる。展開がごちゃまぜになっている。それは真ん中のパート。[禁断の樹の実→仏陀→イエスの磔刑→経済活動によっての環境破壊]の部分。これはこの場所には組み込めない。創造の展開の如何においては、

でなければならない。また下降としてのスパイラルのある

がイエスの降臨としてのイベント。それをもってして人類の道は二つに分かれる。天への回帰を目指すべくしての上昇の螺旋が、イエスへの信仰の道において可能になったのだから。もう片方、つまりは旧来のトレンドままの人類は更に下方にむけて降下してゆくまでにしかあれない。比例関数的なるまでもの強烈な加速を時を追うごとに付け加えられながらに…。やっぱもう一枚の上昇の展開も添えての二部作とすべきだったんでは?と思う…。サンキュー


閑話休題。原理原則は、発現におけるその見た目を変えることはあっても、そこが如何なる領界領域にあったとしても、同じくして確認することができる。それは直接的なる作用力としてではなく骨子として反映において果たされてしまうようなそんな反応としての展開なのだ。何百光年離れていたとしても、ことは同期化されるをもって

と整ってしまう。だからこのことをヒトは原理原則と呼ぶのだ。同型ならば、そこにはなんらかの関係があるとも言える。ヒトと蛇との関係を思うならば、そこには同型としての””たるものを確認することができる。その刻印を

ってことになる。

この地球圏におけるその生存の意味はその意義は、その”型”たるものから解き放たれるべくしての努力を、そのことを目的としてのものとなっている!。もしそうすることができたなら、その状態においては、もうあの蛇との関わりは完全になくなってしまうこととなる。このことは一つ上の上位界への移行をも意味する。ならばだその状態での生存はまた違った世界観ともなるものなのかもしれない…。*ヒトがそれが持つ可能性の話しをするばらば、生きながらにして最上位の世界を、この地上にて生きるがままにして獲得することも可能は可能なのだ。その実例たるものをイエスにみることができる。人間七番。黙示録における「ダビデの鍵をうんちゃら」のラインがそのことが達成されたることの表明なのだ。*自己浄化を経ての一段上への進化となる。その結果世界はその現れを変更する。変更してしまうことになる…。

さて、”習慣性”なるものに意識を向けてみよう。癖、パターン、行動様式、常態、慣行、恒常化、傾向、体質、病質、偏愛、固執偏執、etc。既に以前にて、良きもの、快として認識されたるその内容を、それ以降、再度の体験を経験を嗜好/志向すべしとマインド内にては指令プログラムが

構築されてしまう。

このことは合理化を目的としてものであって別段良い悪いを言うべきことではない。生存における巧みさの獲得って意義もあるしね。ことはだ理性において、エラー、誤謬、狂い、過ちとなる内容において、その行為が常態化していってしまうことにこそ問題はある。

それは個人の勝手でしょうでは済まないこともある。一番端的にして分かりやすい例となるのは覚醒剤とかの話だろうね…。やがてにその人間はその身を滅ぼすことになるのは火を見るよりも明らか。そしてそのことの顛末は当人の不幸に留まらず、家族周りの知人をも巻き込んでの悲劇へと繋がってゆく。

過ちエラーとしての、その行動の型が強化されて根付いてしまうって事態ってのがあるわけさ。ネガティブ・レインフォースメントってやつのことになる。皮肉なことにコレに関しては自分ひとりでどんどんとやっていける。それにおいての強化は、あくまでも自前のみにてで足りるんだ。片や、良きこと、正しきこと、広く世に渡って奨励されるべき行いを強化する、つまりはポジティブ・レイフォースメントってのにおいては周囲の関係者が、その当人を褒めてあげることによって

初めて根付かせることが可能になる…。社会的な評価をその当人に与えることこそがそれを根付かせる上においては絶対に必要になってくる…。


Re: コラム1。Reinforcement
イマイチ世にては浸透していないが大変重要なタームになる。

Rein: あくあまで操舵手綱のこと。良心や理性がそれを握ることが理想。
Forcement:力づくで、力をもって、強制的なる加減においての意味。

ことは何度かそれにおける苦闘を乗り越えたならば、後においては楽なもんよってな話しに尽きる。ポイントを明かしておくならば、肉体としてのその欲求、それからの求めは可能な限り意志の力もて握りつぶす。これを習慣化する。タマス的なる傾向がその忌むべきことであることの目印。卑俗なる下卑たる浅ましきなる卑劣なるがそう。*暇つぶしみたいに思って日常においての細々とした衝動においてこれやるのがいい。*食事済んだらすぐ皿洗うってのが良い例かも。デザートのその前にとにかく先に一旦全部を精算してしまえだ。←家族にそれを強要してはなりませんからねー!。

誰が?何が?、何の?どんな目的において?なのかも重要。エゴにおいて何かの習慣的なるを強靭さを獲得しても、そこにはなんの意味も意義もない…。ハスナムたる存在になるだけさ。やはり良心たる本質と、それを愛してそれの意向を実現化するにサポート訳に徹する理性としての外に向けての顕現が習慣となるべきことであろう。*ここにも転写による発動たるものが確認できる。神を愛してそれの意向を実現化することがヒトにとっての仕事であるのが自然な姿なのだ。真にやりがいたるものもそこには自然と備わってくるようにちゃんと

いる…。


Re: コラム2。”習慣”に関してのことわざ集。


習い性と成る。

習慣は第二の天性なり

優れた道徳心は習慣からしか生まれない。私たちは、自分でつくった習慣のようにしかならないのだ。節制している人は節度ある人となり、勇気ある行動を続けている人は勇敢な人となる。

猫は美しい王女になっても鼠を捕ることをやめない。

他人と比較してものを考える習慣は、致命的なる習慣である。

習慣は第二の自然である。第一の自然に比べて弱いものではけっしてない。

悪徳は、習慣が始まるところに始まる。
習慣はサビである。それは魂の鋼鉄を蝕む

はじめは人が習慣を作り、それから習慣が人を作る。

われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、
むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬ。

悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり
良いことの習慣を多くつけている人は善人となる。

われわれにとって怠惰ほど有害で致命的な習慣はない。
にもかかわらず、これほど身につきやすく、断ちがたい習慣もない。

人間は理性の生き物でもなければ、本能の生き物でもない。人間は習慣の生き物である。

決心によって正しくあるのではなく、習慣によって正しくなり、単に正しいことが出来る
のみではなく、正しいことでなくてはやれないようにならねばならない。

人生の後半は、人生の前半に培われた習慣によって成り立っているにすぎない。

よい習慣から抜け出すことが、悪い習慣から抜け出すことよりもやさしいのは困ったことだ。

人間の強い習慣、嗜好を変えうるのは、さらに強い欲望だけである

生活とは、つまり習慣の織物である。

良い習慣は、悪い習慣によってキャンセルされる。

習慣は条件づけでしかありません。あなたが悪い習慣に条件づけられてしまっているならば、
また、あなたはよい習慣にも条件づけられることができるはずです。

四十歳を過ぎると自分の習慣と結婚してしまっている

諦めるな。一度諦めたらそれが習慣となる。出典: がんばれ!ベアーズ

習慣はわれわれの偶像であり、われわれが服従するからそれは強いのである。

心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。運命が変われば、人生が変わる

*出典元は各文を検索かけてみてください。サンキュー。

上のにおいては良い習慣は、悪い習慣によってキャンセルされるが一番身につまされる。
良い習慣は、悪い習慣によって

が自分とっては実感になる。 

人たるものは「易きに流される」もんだー!。この”易き”ってもの考察たるものは向うわなければならない。何故にこんなにも易きになってるんだ?って。どうしてそうなっているんだって。そうなるべくのトレンドたるものが外部に人間を取り巻く環境において存在している。ではこの流れってものの正体はなんなんだ?。なんとこれは喩えなんかではなくって本当に流れたるものがあるのだ。ではその存在はなんなんだ?。宇宙開闢、その創造のフローそのものがそれなんだ。こいつの仕事は未だ終わっちゃいない。途絶えてなどいやしない。今もいつも絶えず、ナノセコンドといえども休むことなく働き続けてる…。たぶん永遠になんだろうね…。進化向上帰還が人に拠らずしての与えられてあるミッション課題。これにノーを突きつけているのが現状における地球人類としてのその総体。エゴの求めるその向け先に進むが我ら本性だって…。まだまだ頑張れるゾイって…。温暖化も絶対力づくでなんとかするし、科学技術の力をもって、エネルギー問題だって原子の力をもってして解決する。寿命だってもう不死たるものを強引に遺伝子投薬によって手に入れてみせようって。これらって、ごっつい金儲けになるのは確実だかんなって…。

エペソのこのラインなんかもこの事態と関係してる…「(なんじ)何故(なぜ)にこれほどまでに堕落(だらく)したるのかを、()(わけ)たるを(かへり)みよ!(いん)となりたるを詳察の上に後悔(こうかい)し、最初の頃の様に(おこな)()せるよう、その態度(たいど)たるものを今一度、(あら)ためよ。」←これはイタチごっこになるのが常の話し。あとは気力の問題なだけ。押し負けて、押し負けてが続いて、やや程改善がなし得て、また負けて、されどもまたチャレンジするってな流れになる。


Re: 蛇たるものが関わり合いにおいて果す、それの主要にして特筆すべき効能。

それに噛まれたならば死に至るほどまでのヒステリーを起こしてしまうのだ!。気づくべきことがある。我々は諸影響の元に生きている。(このことを余り感じちゃいないが、気づいちゃいないが、気にもしてはいないが。)この影響においての加減たるものを調節してくれている存在が実はあるのだ。いるんだ。自分の力を超えたところで。それが自分の代わりに守ってくれている。この事態を神の加護するところって言うことができる。もしくは自然が、守護霊が、自分が積んできた徳によってでもあるのかもしれない。要は必要最適化を果すべく、ことの(作用力の)選別と、それの発現における強弱のボリュームスイッチを握っている存在ってのがあるわけさ。これは確かなること…。あの、”いざない”としての時節たるものは、守りとしての庇護が解除されてある状況のことでしかない。敢えて、庇護のない状況で、それらあれらからの作用力に対して剥き身において”戦え”がそのときたるものにおいての課題になる。ときを追うごとにこちらが強くなればなるほど、それからの作用は強まってゆく。強め

ゆくんだ…。神の深淵なる思惑を持ってね。年月を経れば経るほど、益々進みゆくにおいての、その信仰の証しすることは困難になってゆく。なぜならば〜!解除が「おおっぴらにて」なされいってしまうもんなんだからさ。補助輪たるものがまったくなくされてしまうってのが分かりやすかな?。それも一輪車状態なんだよ…。これもまた恵みとしての

でしかないのだ。然るべくしての匙加減の調整でしかないのだが…。もう大変!。あのマザーでさえもその最終末期においては神の実在を疑いだしていたのだから…。だからなのだ!導きたるものを益々祈らなければならなくなるのは!。増す増す強固に神たるものを意識して祈らなければならなくなる!。これも十字架としての、その真の実相としての姿においてのことでしかないのだが…。直接的には関係はありえないのだが、アレからの作用力たるものも〜、また地底の底の底からであったとしてもー、十分に、十二分にも届き得る…。地上の人類に対して影響を及ぼすことができる。できてしまっていーるー…。

あの『主は火の蛇を民たちの内に送られた』の意味はモーゼが率いる人々において、それからの作用の力を強力に上げたの意味になる。神は守りとしてのその傘を引っ込められたのだ。そのことの結果として、殆どのものが極度のヒステリー状態へと至ってしまってた。信仰心の証しとして求められる従順なること。難事に際しての忍耐と神を信仰するにおいて意志の力の練磨がそのことにおいての本来の目的。だがこのときは、かの民族にとって、またよりもよっての特別なる格別級の”いざない”としての時節だったのだ!。もっとも厳しくも過酷なる超強力な逆境としてのものが備えられてしまってた。その渦中においてのことであったのだ。最大限にて、そのすべてのものが耐えられない程までのものが、そこには”いざない”としての作用力が開放されてあった。繰り返しておく。この行程は約束された地へと向かうべくの「乳と蜜の流れる地」として語られた、彼等にとっての真に約束された楽園へと向かうべくしての、最後の最終的なるものとしての、最大級の試練としてのプログラムだったのだ。

容易くには絶対手に入らないものなのだ!。求めるものが大きければ大きいほど、その対価として差し出すべくの対価はより厳しくより激しく大量にして巨大なるものとなるのは避けられない。これは事実だ。ヒトはなによりも

のだから…。ことの最重要なる課題は神を、その見えず触れ得ずなる神たるものを、如何にヒトの子らが、確信として第一義なるものとして「そのこころに据え得ることができ得るようなるか?」にだけにあった。ことは各人がその個別の魂において、実地に、ことを得心するかにかかってたのだ。ある種のことは、体験をもってしなければ分かりはしないのだから。骨身を削っての奮闘をもってこそ初めて悟れる理解できるってことも確かにあるにはあるさ。そういった根本となるべくしての境地ってやつを彼等に持たせるべく、根付かせる為に、すべてはご計画設計の元に執行がなされていたのであった…。


Re: 蛇たるものの影響が強く働くと、ヒトのこころのその内はどうなってしまうのか?。

ヒステリーや癇癪はその顛末の、結果の一つでしかない…。その思いの向け先として形成される期待希望の内容物としての夢見が、その世界が、強烈に鮮やかなるものに、しかして豊穣なるもののようになってしまってる。その当人おいてのみにてわ!の話し。たぶんあの「霊験あらたかなり」ってのが、その個人の内にては引き起こされてしまっているんだろうね…。このことはAKB関連とかエヴァとかファイア〜とか近年のマンガアニメとの関わりにおいて、ご自身がそこになんに興味をもって、なにを面白がっているのかを参考にされるのが一番分かりやすい例となろう…。後ね、自分としては何故かまったく分からんのだけど、女性の下着だけって、それ単体になんの魅力が価値があんの?。セットとして初めて果たされる効能でしょう?。閑話休題。ベースとしてのドライブは獣としての本能になる。特に「死たるを忌避感もて回避する」と「性交の達成」のドライブが強力だ。でも、その結果は

簡単に自己を欺くことができちゃってるところに得体の知れない危機感としての疑念たるものが自分のおいては持たれてしまっているんだ〜…。本当に人類、特に日本人は、大丈夫なのか?。次いで「喰らって「満腹する「怠ける「楽する「眠る」なんてのがやはり強力なるものとして続くと思う…。*渾身の追記:美人はおっそろしく気が強いからねっ!。美人さんはどれもこれもみんな

からねっ!。このことだけはよっく心に留めておくべきこと!。できれば彼女とすることはだけは避けなさいー!だ。そんで額がやけに広いのと顎が驚くべくして逞しく発達しているのにもご注意を!。悪いが伊○美誠ちゃんとかサー○なんかがまさしくソレー!。これは魂からの善意としての忠告なのよ。神楽坂良庵こと天村でした〜♡。…でもさ〜考えてみたらきつくない女なんてただの一人もいないわ…。どれもこれも、それもあれもこれもみんなキツイわ〜…。更には荒いとまできた〜!。アヴェ・マリア〜どないなってますのん?。追記:この娘は長生きするよ〜。多分、百は完全に越えてゆく!。あの歯並び見てみー。



ヒトなるが故に獲得してあるマインドなるものの働きにこそ、それの作用の向け先はある。ドライブは簡単に言えば欲望のことだ。生存においては絶対に必要なことでもある。これもヒトのこころの背後にて強制的にで働いている暗き力だってことは忘れないでいてくれたまへ。

欲望には対象たるものが必要になる。ヒトなればこそで、対象たってなんでも良いって訳じゃない。そこには個人の嗜好としてのイメージなるものがある訳さ。手近に食えるもんであればもうそれで十分って訳ではないじゃん。この辺が動物とは根本的に違うところ。そのイメージたるもの観念としての世界が独特なんだ。いや、そうしたものが持ててしまうってること事態が異常なんだ。その世界を構築するに使われるているのが個人としての記憶。そして類として獲得している本能領域にて蓄積されている情報群。これらを材料にして個人の嗜好としてのその内容物はイメージ創造される。もしくは誰かによって表現されたるを採用する。丸パクリする。「好きなタイプは芸能人で言えば誰?」みたいなもんさ。ここに個人の拘りとしてのイメージが構築されてしまう。合成されてあるっていうことは分かってもらえるだろうか?。

蛇の影響、その力の干渉が働くのがまさにこのイメージの構築/合成においてになる。材料の組み合わせ、それらにおいての連想の筋道、その幅をもたせるべくして補助を果す。それのガイドによってなる夢見としての世界構築は…それは第一級の魅力ある作品になってる。当人だけにとってはね。まさしく夢見るワンダーランドってな具合さ。「うっとり」見惚れてしまうばかりかな…。実際にはそれが背後にて誘導を果たしてしまっているだけなんだけどね。背後にての準オペレーターにしてコーディネーターみたいなもんとして。霊体として幽体としてになるが、それ自体がそれ本体が出張ってきてしまう事態たるものも実はあるにはある。それが関わりを直接持つとなれば、それはもう怖ろしくもろくでもない事態にしかならない。痛く共振がたるものが果たされてしまていることの証拠であり、このことは後に大きな影響をその当人に残すこととなろう…。深刻なる刻印、絆たるものを魂の円盤に刻んでしまうに等しいのだから…。彼は最終的にはヒトに対しては悪意しかない。その夢見の果に地獄へと転落させるべくして干渉してきているまで。*自分がシカと確認したその実例たるものはあのマンソンのことになる…。


      この画家の作品がことの最たる例になる。哀れな呪わた魂でしかない。
            魅せられて、虜になってしまったのだ…。

ことはここにおいてもあの覚醒剤麻薬を引き合い出すのが最適になってくる。それはことの記憶の情報の意味開放を明晰なるものとして果す。結果、イメージの構築や合成がとんでもなく複雑にして高度になって豊穣にしてビビッドなるものになるのだ。いやいやそれだけには留まらない。それらを元に未来の予測予知まで行い得るようになってしまっているのだから。彼が天使的存在であることのその理由たるものはある。それの霊感の作用もてヒトには通常できえない為し得ないことさえもその個人の観念領域においては果たさせることができてしまうのだから…。*今ね此処書きながらあのヨハネのあった状況たるものも念頭には浮かんできてた。むしろ彼の内にての解説として此処書いたに等しい。

追記:ヒトには神と同じくしての世界創造の力がある。少なからず、そのイメージのCasting によって現実の世界は変革を遂げてしまう。しまっている。なかなかそんなことにまでは至れないのだが、その個人の空想や内的世界にだけに留まらない影響たるものもあるにはある。その個人の悪意に染まってのストーリー構築/構想に沿って現実がその後追いをしてゆく…。これはデビルマンにおける飛鳥了、つまりは永井豪自身においての例になる。彼は知らずの内に世に向かって呪を放ってたことになる。ではその結果は?効果たるやは?。

閑話休題。いつどこに辿り着くのかもしれない目的地たるを神に預けてただただひたすらに放浪する人々。苦節そのトータルは40年にも渡るものであったという。難行苦行もここに極まれりのことであったであろう。当然な話し、ぶつくさ文句もでてくることさ。その神たるものを憎んで彼の口利き役を名乗るモーゼを我らをこんな道行きへと引きずり込んだ張本人たアイツを痛く呪うようにもなったことだろさ。ここでのドライブは苦痛難儀不自由においての怒りを背景としての現状たるものの総否定。権威たるものの拒絶否定侮りとなって現れてくる。極端に不快にして不愉快なる現在ある生活環境から逸脱したい。このドライブにおいてマインドたるものが暴走する。それを促進して過剰にして異常なる内容へと傾かせていったのがあの彼からの影響力でありガイドだった。要は結果として人々は狂っていってしまったのだ…。発作的に痙攣的なるがそのすがた。この事態こそが決定的なる分断であり分離であり決別となっていた。もうヒトはそうなってしまったからは、なってしまったからには、罪たる存在そのものとして摘除は止むを得なくなる。断罪をもって群れよりの摘出がなされるしかなかったのだ…。

そして、ことの行われしは厳粛にして厳正なりしことかな…、神のおん前において当然にて果たされるべきことでしかなかった、このことを目的として、公に広く見せ知めるべきことでしかなかったのだ…。

夢たるものは情け容赦ない

をもってすれば容易くその根拠たるものを失うこととなる。それは当たり前の話し。それは余りにも脆くも儚いものでしかないのだから。ただの幻影に過ぎないものなのだから…。

群れたるものの規律を、そのアイデンティティを保つ為には、
それはあくまで当然な成り行きとしての粛清でしかなかった…。


*ここまでを第一部とします。


あとがき

死刑判決を受けた重罪人のことをあなたはどう思うだろうか?
ヒトは場合によっては気狂いとしか思えない観念を抱く存在ともなりうる。
同じ群れの一員として彼等を受入れうことが果たしてできるだろうか?。
また気概も勇気もないまま取り除けないままにそれが放置されてしまっているのならば、
その自浄作用たるものを失った社会には何を思うことができるのであろうか?。

「もう終わっとる」だ…。

ことは絶対規律としての世界の根源たる神のご意向に外れることとして集約される。それこそが罪であると。それは汚れとしてもたらされたものであると言っても良い。救いとして備わってあるその苦難難行の道を否定することは拒絶することはヒトにはできない。もしそれを否定するならば、もうそれは…

同じであることを容認すること、それであることを良しとすること、それであることを受け入れることに他ならない。

信仰においてはどちらかにしかないのだ。上流にか、下流にか。このどちらか。
中庸を目指そうともことの成り行きはそんなに甘くはないのかもしれない。
流れは留まらず。変化の作用はこちらの思惑を軽く超えてゆくばかりかな。

ならばだ、真剣に片方のみにて、その信を据えて保ってであるのが一番かも…。


第一部完


続きをまた入れにきます。

ここに連続して。

これ単体も三部構成になるでしょう。


 拝


天村崇


再開

Re: 第二部

それが独自にて主体性をもって関与したことによってヒトには良からぬ傾向性たるものが芽吹き、また根付いてしまった。それとはあのメタ存在のことを言うのだが…。それによる作用の特徴は「幻想性の付与だ」でいいだろう。エデンでの展開は、それがヒトの中にて作用することによって、神に食べることを禁じられていいた知恵の実を、その禁を破って食べてしまった。

何故だ?。その状況において食したいという願望が自制を上回ってしまっていたからだ。
何故だ?。蛇によってもたらされる幻覚の作用によって、その支配に染まることによって、
結果、その実が食するにあまりにも魅力的に思えてしまっていたからだ。

そんで、その実を食べることによって、ヒトは特別なる能力を得た。(完了形)

善悪を識り分ける樹ってのがあって、その実のことになる…。これを食することによってヒトの眼が開けることになるって…もう

なるって…。*ここの内容に嘘はないとする。

あの「知恵の実」って訳は少しうがった意訳だ。おそらくは真実からすれば近からずだがまた遠からずってな具合なのだろう。では正しくはなんだ?。善悪の観念を判断の基準として自己自身にて紡がれる想念の観念によっての思考構築、その総合展開ってのはどうだろうか?。

簡単に言えば、あれやこれや自由自在に考えることができるようになった。考えを持てるようになった。先の紡がれるって言葉に込めたその意味は”連想”があるってことだ。

で想念が湧いてくる
だ。拡散と直感をもってしての選択とまとめとしての収斂。その結果をもってしての更に新たなる拡散と選択収斂。最終的には巨視的にして、もう無限の連想展開を可能にしてしまうことになる。そんで

しまってて、目的たるものも忘れ果ててしまっててで、もう何が何だか分からなくなる。この辺は未だ神からは遠すぎることの実情が原因になってるんだろね。無限に対しての消化のキャパが小さすぎる…。

追記:上の連想の展開、その元になる思考の轍ってやつ…。これを絶対に見失わないでおれるのがAIのことになるのだろう。強靭なるその記憶力において。もしくは補助としてヒトの行ったそれを再現したりビジュアル化(見える化)してくれるようになる。新たなる思考の次元が開かれることになる。もうなってる?。プログラミングにおいて。ヒトの複製において?。絶。

面白いのがさ〜、禁断の樹の実を「ブドウ」として捉えてる学派もあるわけさ。あのゾハールを奉じている方々のことなんだが。自分はこの選択に妥当性を覚えるんだ。何故ってブドウって

枝をやたらと伸ばすじゃん。そんで、その実のなるのを見ればそれは鈴なり(grow in clusters)の様子にてなってる。そして更にはあのぶどう酒ってやつはひとを酔っ払わせるにゃ〜最高のもんになる。ワインなる酒がこれからは造られてて今じゃあ世界中の人間がそれを四六時中飲んでやがる…。この辺に連想の実際たるを、その機微たるものを感じてもらえたら嬉しいな…。



閑話休題。たぶん最大の難事はその蛇の

が、新たに獲得したその観念操作ってやつにおいて

にて機能するようなったこと。そんで、この機能発現が人類の中に

しまったことにある。ある種もう自動的にで。習慣的なるにおいてってことで…。

この事態が原罪たるものの正体。思いってのは考えってのは実地の行動に繋がってゆくもんだしね。ただ単に頭の中だけに終わるもんでもない。だから

本当の罪深き行いってのが人類によって起こされ為されて実行されてゆくことになるのだ…。


コラム: 蛇のその後の身の振り方。ちょっと整理しとく。

あのときそれもまた神を真似たのだろうか?。己が分身たるをヒトの遺伝情報の中に組み入れたのだ。いや、もしくは直接夾雑物(ウイルス)として注入した?…。これが後にクンダリーニと呼ばれるものの正体。以降それが持つ特筆すべき効力はあらゆるヒトの中にて自動的に機能することとなった。其れによっての然るべき連想展開が習慣になった。

神はこの事態に怒り、ヒトを地上界へと追放した。新たに身に着けて染まってしまったその悪しき習慣から脱っせさせるべく、そこの環境はすべて浄化のプロセスを目的とした形で整えられていた。実はその目的のみにて地球環境はある。それがもたらす傾向性を自らの意志の力によって否定し抗い乗り越えること…、極論的にはそれを自己の内から抹消抹殺することが課題。ことを他者に振り向けた場合が懲罰。

蛇に対しての裁きの内容は、
すべての家畜、野に生きてあるすべての獣のうちに、最も呪われるべし」
おまえは腹這いとなり、一生、ちりを土を喰らっていきよ!」

神による最大限の怒りを受けたあげくのその処遇だったのだ。そのメタ存在たるやは…彼によって創造されたるものの内、

へと落されてしまった。かっては空を天駆けることもできたその翼をその能力奪われてしまった。そして地の底に地獄の中に監禁されたのだ…。

途中の経過においても言い添えておくならば、その神の裁きたるものに不服として天にて戦いがおこる。そして彼の軍勢は負けた。そして地球の地底に誂えられたるの、その地獄にて、それは、その配下の者達と一緒に幽閉されることとなった。ここにサタンたる存在が人類に対して初めて確立することになる。だからこのときのことだったのだろう。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」は。イエスは天界においてこの一連のドラマを観ていたのだ。

言いたいのはだね〜それは変質を遂げるにおいてその名たるものが変わってしまうのだ。
その機能性、特質、役割において。自分としては観念界にて出没するそこを活動の拠点とする、その霊感としての領界にて大きく関与してくるそれの力をルシフェフ的なものって呼んでる。


今回のまとめ:

の転落における、その運動のダイナミズムってやつを感じて欲しい。
階層をまたいでの

としての事態たるやを。

一つの階層しか知らん訳だから、なにやらピンとこないのも分かるのだが、ここは天国と地上界と地獄の三分割にてなる階層をイメージとして持つのが良い。ことの補助としては宇宙の誕生にまつわる物理と量子力学等の知識が必要になる。You Tubeにはもうろくなものがないのだが、その代わりに充填として量子力学関係のよいチャンネルが出現してきてる。その内で抜群のやつを一つご紹介しておきます。「のもと物理愛」さんよるものがそれ。視聴に値する。
https://www.youtube.com/channel/UC4JkVuxindQ6PI_A9C7b-Lw/videos
あの三つの力においては重力を場を形成する一段上の一要素とみなして摘除するならば、残された電磁気力が中和力を、弱い力が受動性を(タマス)、強い力が能動性を代表しているのかもしれない。これは未だ要検討となってますが…。各々は適宜その限定条件下におい、受動たるものが能動的になってその代わりに能動が受動になったりすることもあるこをお忘れなく。あらゆるステージ、階層スケールにおいて、三つの力は間違いなく顕現している。これを理屈としてではなくて、実際/現場において確認して理解する作業が必須になってきます。サンキュー。

無から有が誕生している。原因の核心はビッグバンを引き起こしたものの存在だ。ことは始まりとして以降連続してこの宇宙の創造が然るべくしての加減にて進行している。そこに、構想としてのプランと、実際としての執行実行のプロセスが密接に関係した形で存在していなければならない。すべては、数式に還元されうる様子にて、整っているではないか!。

精妙霊妙なるから始まりその創造の進展の向け先においては、だんだんと

に囚われたるものへと変わってゆく…。単に振動数の低き状態へとだけでいいのかもしれないのだが。このことは「自由が効かない」のことばに全て集約することができる。全体を垂直に貫いての構造において、そのほぼ最下層にあたるのがここ地球のことになる。

なんにおいても登るは大変なことなのだ。また流れを遡るってことも同じくして。だがこれは甲斐のあることでもある。実際に行ったもののみが知ること知り得ることとなるのだが。山は登るに従い空気は澄んで見晴らしはよくなる。河も同じくして水は清く澄んで辺りは清浄の限りとなってゆく。肉の喜びとしてではなく、魂としての、精神としての喜びが、そっちにおいての充実感が、そのかさが増してゆくばかりかな…。

片や転落はどうだ!?。

悲劇悲惨阿鼻叫喚以外のなにものでもなかろう…。何故ならば以前との比較においてそこは地獄にしか、そうとでしか思えんもんにしかならないだろうから。屈辱に不自由に絶望に萎縮に極端なる脆弱化に、もう早く死にたいと願うばかりとなる。ならば、その境遇たるを脱して、再び元の世界へと返り咲いたればどうなのだ?とくる。それにどこであったって住めば都だ。地獄ったってそこにもすぐ慣れてしまってやがてには元気もでてくるさ!。そんで、そう、もし全権持ちたるのその権威者によって落されたとなるならば、その権威者の意向をもって、もう一度、かって所属していた階層へと上げてもらう、戻してもらうことも可能は可能ではなかろうか!?。これが唯一の希望と生き甲斐、やるべきこととなるのかもしれない…。

いや、もうこれしかないんだ。自力だけではことは到底もう無理なんだ!

宇宙における階層を渡っての降下ってことにもなればもうその個人の彼一人の一生の努力だけではどうにもならない。その超越者たる権威者の加担/協力/承認をもってでなければ無理。だからヒトにおいては未だその可能性は残されているとも言える…。

だがあの蛇においてはどうだ?あのサタンとして定まってしまったものにおいてはどうなのだ?。あの「おまえは腹這いとなり、

、塵を、土を、喰らっていきよ!
」の激しい言動をみる限り、彼にその可能性は一切ない。

地の底に封じられて、いっときは地上全土に渡ってのその活動を及ぼすべくの開放たる事態は迎えるにしろ、それもあくまでもほんいっときだけの話さ…結局、最終的には無限無間地獄、つまりはこの宇宙の寿命が尽きるまで永遠の責め苦を味合ひ知るしか他にやることないってな事態に落ち着くまで。

これはもう罪そのものとしての表しの代表格となったしまっている。そして罪たるものには断罪懲罰たるものが付き物になる。それは

//

がなされるべきものなのだ。神への信仰の証としても、それは断固勇気をもって、その信仰の証として、なされなければならいことなのだ。看過の、目を逸らすこと、ことを恐れるをもっての容認は絶対に許さることではない。

だからモーゼが荒野であげたるのはその蛇のことであったのだ。繰り返す。それは摘除摘出抹消がなされるべきものであったのだ。最厳罰をもってそれには臨まなければならなかった。これこそが神よりの勅命であり、またその信仰の証ともなっていたわけなのだから…。

    ♪おおええああおおええあああ〜 あの時、最高のリアルが向こうから…♪

これをモーゼが為したるが故に、また人々がそれを正しいこととして無言にて承認を果たしていたので、神は彼等を改めて受入れ、これまでのかれらがヒステリックに起こしてきていたその狼藉としての振舞いや公言悪口なるらを許した。その結果として裁かれるべくしての人々においても生き残ることができたのだ…。

                   【聖遺物】 



         モーゼがかって愛用されていたとされるそのアロンの杖
    これが実際

使われかたをされたのかは定かではない…。




         「ぶぉお〜…ぶおーーーぶぅオオオオオーーー!」(暗転)



補足:

自分の辻褄合わせの空想として…

*彼の分霊。もしくは彼自身をミニマム化した使い魔的なものがイメージ。
*ヒトが抱く妄念妄想において、その内容を、それが持つ力によって、
 より充填する充実する充足ことによって、更にその想念たるものの展開を促進加速する。
*この辺が特徴なのかもね。名演出家、ストーリーライター、コーディネーター、影の監督。
*あくまでもその当人主導のものであることをその人間に意識させた上でーが、
 それの果すべきこだわりのところ。
*それは特に肉の求めにおいて強く働く。
 属する社会集団においての優劣に基づく自己評価、自尊心、プライド、虚栄心。
 性の欲望における対象イメージなんてのが二大領域になる。
*真にはあらざるを、ほんものだと錯覚させる。
*あくまで私的にしてなる幻想にすぎざるものに、夢うつつにして形成されたる内的世界
 にて、ヒトは深く魅了されて執着を果すようなってしまっている。
*あくまで個人的にで性格づけられる、その私的なる個人世界にて格別なる満足を覚えて
 しまうようなった。
*この辺はおかしな話なんだが何かそれがあるとその個人に認識されたならば、それはその
 個人においては

あるようになる。あの道端に捨て置かれた綱をそれが風に煽られるか
 なんかで動いたなら、ことが夜間であったならば、それはもう本物の蛇として認識されてし
 まう。そしてそれは実際に実在の蛇になることもあるんだ…。←此処やばいこと言ってる。


    「旦那〜、あそこんところに落ちててのはこの馬用の鞍縄だけでげしたが…」
 「まさか旦那は昨晩これんことを蛇に見間違い為されたって訳じゃないでがんしょね〜?」


”夢”たるものを考えてみるのが一番分かりやすい。睡眠中にみる夢において、それは一体誰が創造しているのだろう?。当人なのだろうか?。きっとその自覚はあなたには絶対ないはずだ。ではなにをもって、なんによって夢たるものは紡がれているのだろうか?。また夢見の状態にあってこれは夢だと意識することは、なかなかに難しいことではある…。違うかね?。もしそれがありえるのだとしたら、理性において、そこには、なにかあり得ない矛盾する事態があること、それが進展していることを、その夢見の渦中において

意識するにしかない。←これできるからね…。

今ここで述べたのは夢たるもののその一般的なる特徴に過ぎない。こと問題は、この夢の創造過程、その体験においてアレが介入してきている場合のことになる。マインドが各センターに留めおかれてある某らかの

の印象を改めて消化させるべくして(反芻?)夢たるものは紡がれているのだが、この作業を進行しているマインドを”ハック”して、良からぬ方向へと眠れるヒトの意識を向かわせようとしてくるのだ。罪となる行いへの嗜好性/指向性を夢の演出加工誘導において植え付けようとしてくる。心配における惑乱、性における嗜好のドライブが元々その個人においては存在しててそれに色付けを加えることによって。夢の中と言えども罪たる行いをしたならば、それはもう刻印になる。なってしまう。結果、現実において、ことはやがてには果たされるべくしての、その準備その助走その吹込みともなってしまってる。枢要なるは肝心なるは魂においてのまさしく罪たる行いを、その当人において自覚的に自主的に意識的にで果たさせることなのだ…。






あとがき:

ことは既に最初からすべて確定してしまっている。

ならばだ…。



Re: おあそび二題。

その一)


               人生は旅にたとえられる。


   いつもどこいっても仲間たるものは側にいる。同じユニットにおいてとはなるんだが。
   彼等は実は幻としての存在でしかない。はっきりとは、本当にはよく分からない…。
   分かり得ない。責任も負えない。ありえるとしたら、それらもまた自分の分身としての
   思いにて接するまで…。悪しきもの、歓迎せざる人間等においても、その彼等が自分に
   対して果すべくしての、その役割においては感謝を持って…。


               このカーク船長はあなた…


仮想の世界でまた改めて仮想の世界を見ている。まさしくこれぞリアルってな感じで嵌ってる。別に構わないんだけれど現実がえらいことになってってるのは知ってるよね?。然るべくしての判断ってやつをもって今から準備しておかないと。そのときになってからではもう絶対に遅いんだ。夢にて呆けている場合なんかではないんだ!。たぶんコレが最良のアドヴァイスになる。『狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし』。
*自分からも一つ…「鶏口となるとも牛後となるなかれ!」。あなたが未だ若ければねっ♡。
  


その2)

                 ”罪” たるものの形象

        『 はッロゥゥゥ〜〜〜マ〜イフレンド(ヒトの子らどもめ)!



        ずばりその動きが、それにおける印象が、余りにも酷似しているが故に。
        でもこれはあくまでも表象、たとえとしての表象。実体はまた違う…。




     「それはいきなり、物陰から、飛んで喰らいつてきよったんじゃ〜!」
     「そんで、あっというまに儂の体の中へと、潜り込んでしもふてなっ、
          そんで、すぐ見えなくなっちまいやがったー!!!」。




その後に起こったことの描写。中に入り込んだ蛇は、それにおいて自動化された(プログラムされた)それとしての嗜好にのっとって、ある種の傾向性においてと、ヒトが得たマインドに適宜の割り込みをもって介入することとなった。最終的には事実上の主導権を奪うようになってしまう。あくまで影においてで、ラスボスとしてでとはなるのだが…。エゴがまさしくそれの巣窟としての砦なのだ。結果、マインドとの協業をそつなく抜群の相性を持って開始することとなった…。その事態の表し。透視図になっているのは、ことが内面においてであることの強調まで。このヒトは現実にはちゃんと生きて生活している。実地の、外見上の見た目は、ハンサムさん、美人さんでおられるやもしれない…。


早くこの事態たるのを脱しないことには、このヒトはゆくゆくは本当にこの蛇に抱かれたまんま死ぬこととなる。これは呪われたる事態にしかあたらない。地獄ゆきはもう完璧にして絶対に確実だ。このヒトが現在陷っている無意識にして無自覚的なる囚われ、常習、習慣から、どうしてもヒト単独では脱することができないもんだから…、イエスはこのことの展開を天から観てて、いたく憂いて嘆きて悲しみて、父なる神と相談して、抜本的なる解決の策をとることにされたのだ。ヒトの子らを、その存在を心から愛していたければこその、その愛の衝動において!。そして一案を胸にして、この地上世界へと降りてこられたのだった。根本はだ、始まりの始まりであった、あの罪としての行いを解消するべく。そして同時に、あれ以降ヒトが犯した罪としかならないそのすべての行いをその総体を一旦一度

解消するべくしての企みもて…。←神権の所有者でなければこのことはでき得ない、為し得ない。ことの内容は恩赦許しに還元される。これが行えるのは絶対的なる根本としての倫理規定そのものをまさに体現するものでなければならない。←ならばだやはり神と一体の内にある超越存在、もしくはそれ本人でなければこのことはでき得ない為し得ないではないか…。





それは男さんのみならずおなごはんらの中においても彼女等が持つその性質、性、傾向性に沿って、同じくその夢見としての力を存分に振るうこととなった。その事態をこの表象なんかは正確に表現できてる。*弱点が”鏡”ってのがいたく得心がいく話ではないか!。*多くにはその自省能力ってのが完全に欠けている。*ハッキリ言って私には訳わからん。w。


ヒステリーの一言では片付けられないんだ。そんな簡単な底の浅い話ではない。彼女等の場合は感情としての主観性に支配されているのが常態だからハッキリ言ってもう無理…。可能性があるとすれば伴侶がイエスの依代、つまりは転写をもってその課題に応えようとして踏ん張って生きようとしてるヒトである場合。だからここにおいても男性の責任ってのは大きいんだ。…なんにおいてであったかもう忘れたがもし彼女が信者でなくたって、イエスを信じるものでなくたって、どんなんであったって〜w伴侶としてのあなたが本物であるならば、彼女は”聖なるもの”として聖別されるってのが聖書の中のどっかに書いてあったな〜。*ここはかなり言葉足らず…。




上の二題はあくまでインターリュードとしてのものです。

これから本論が始まります。

では後ほど…。


Re: 最終部。イエスが行いし、その奇跡のダイナミズムについて…。

はっきり言ってそれは魔術になる。この言葉を使うのは気が引ける。だがこの言葉をもってでしか、そこにあった奇跡について語ることはできない!。上位界から、それにとっての下位にあたる世界に対し、恣意的なる介入をしたならば、それは魔術としての事象となって顕現されるまで。*上位界からしてみればことはあくまで常識の範囲にしかないのかもしれないー!。

これは甚だしくもイレギュラーなる事態になる…。恐らくは余程の権限がない限り絶対にしてはならないこと。鉄則のルールがこのことには敷かれている…。ことの結果に関してあらゆる面における可能性を考慮するならば、そのことに関しての、連綿と続くことになる派生的なる結果をも考慮するならば、取りうる手立ては極端に制限されたものとなってしまっていた。「受肉をもっての降臨」によってでしかその手立てはなかった。このことは大いなる苦しみをその当事者が味合うことになるだけでなく、そのものは二度と元の状態へと還り戻ることができないといった予測ももたれていた。更には、そのものがあまりにも精妙にして霊妙なるがゆえに、それも次代の宇宙を担うべくしての、その役目をその責任を負う存在体であったが為に、ことにおけるリスクは上位界においても途轍もなく大きなものだった。そのリスクとはズバリ宇宙そのものの代替わりにおける連続性、その成立如何においての話しだったのだ…。


 先に、ことの展開、そのダイナミズムたるものを以下のモデルにおいてご確認ください。



このモデルにおいて気を留めていただきことは上下の移動/転移においてとイエスが人間として宣教活動を開始するその前には人間七番とまで自己を完成し終えていたことの事実にある。あのヨハネが幻視において語った「ダビデの鍵をもつ」の意味がそこにある。敢えてでまるでそこにある意味たるものを読むものに気づきを催させるべくして、その企ての元、強調されて置かれてあった。ヒトとしての同じ制約の中その同じ条件下において、自己を神人として完成されたることには大いなる意義があった…。あと〜ことにおいての、そのすべてのキーワードとなりうるものとして意識してもらいたいのが”コネクト”なる概念。結びつき、融和、地続き、

としての関係の樹立みたいなもの…。とりあえず、ここではイエスが人間七番としてヒトの身してありながらも自己を完成したことにより彼自身が、

が、ここ地上において天界と同義と、それそのものを体現する存在となっていたってこーとー!。そうであったればこそだったのだ、本当の天界からの力の関与も、それが

であったとしても、存分に行うこと振るうこと顕現することが適うようになっていたのは…。*ヒントおきまくりwww。

最大の課題は(神を信仰するところの)「すべてのヒトの子ら」を救うことだ!。それも…彼イエスはほんいっときの短い間しかここ地上世界には留まれない。事情があって現界することはできなかった…。だが彼にとっての救済のその射程は、後の世の人々のことまでをも考慮の対象とされていた。これから生まれてくる未来のヒトの子らを含めての、そのすべてを救いの対象とされていたのだ。では、なにが、この後にはなされるべきなのか?!。どういった手立てが、策が用いられるべきだったのか?!用いられるべきなのか?!先もって皆さんご自身にてお考えになってみてください….。

ことはだね〜自分が語ればものの数行で終わってしまうことなんだ。でもそれを読んだだけでは腑に落ちることはあっても、なにもあとには残りはしないだろう。身にはなんない…。
ご自身の理解をもって先に某らかの答えに辿り着いておかれるのベストかと思います。


   イエス自らを構成する、その宇宙の一部になってもらう。
   自らに連なるコネクトを、

、霊的において達成するならば、
   そして、もし、それが、彼のその

客観的にて承認がなされるならば、
   あとはその宇宙における法則に従った形で、(のっと)った形で、
   ことは派生的にで進行してゆく…。そのあとのことは、すべてにおいて、
   自動的に然るべくしての結果が及ぶようなる。
   もう〜何処にいようが誰といようが何をしていようが全く関係なくなる…。


ねっもうこうなってくると魔術としての領域の話しになってくるでしょう?。だから宇宙物理学や量子力学に馴染みのない人にはことは一切眉唾にしかならないだろうね。あのアインシュタインが言うところの“不気味な遠隔作用”と大いに関係しているのだろうなと個人的には思われている。

*そのように思う根拠たるものが〜この私の創作シリーズそのものにおいてになるんだ。
*私には構想たるものはまったくないんだ。かってにそのようにさせられているってな感じ。
*ところどろこに挟まれてある悪ふざけは完璧に私自身によるものにはなるのだが…。
*これはちょっとしたイタズラをもってしての

なのかもしれないー!。w。


Re: コラムとして…。ダビデの星、ソロモンの印章。

フラグメンツよりGによる解説を抜粋して掲載する。

宇宙の知識の獲得のためには、人間は自分自身の研究と自己の内部の基本的法則の認識から始めなければならない。
この観点からすれば、もう一つの公式、

は特別深い意味を帯び、また真の知識へ導く象徴の一つとなる。

世界の研究と人間の研究とは互いに補助しあう。世界とその法則を研究することで人間は自分自身を研究し、また自分自身を研究することで世界を研究するのだ。この意味で、あらゆる象徴は自分自身に関する何かを教えてくれる。
象徴の理解には次のような方法で近づくことができる。現象世界を研究する中で、人は

、すべてのものの内に互いに相反する2つの原理の現れを見る。それら2つは結合するにせよ対立するにせよ、何らかの結果を生みだす。つまり、それらの現象を生みだした諸原理の本質を反映するのだ。

この深遠な二元性の原理と三元性の原理の現れを、人は宇宙と自分自身の中に同時に見る。しかし宇宙に関しては彼は単なる見物人であり、またそれ以上に彼は、一方向に動いているように見えながら実は様々な方向に動いている現象の表面だけしか見ない。しかし人間自身に関して言えば、二元性と三元性の法則に関する彼の理解は実際的な形で表しうる。つまり自己の内部でこれらの法則を理解してしまえば、いわば二元性と三元性の法則は、自己認識への途上における自分自身との果てしなき闘いの進路においてのみ現れうるのだ。

このようにして彼は意志の進路を最初は時の円環の中に、また後には永遠の円環の中に導きいれ、そしてこれを完遂すれば、彼の内部にはソロモンの印章の名で知られている深遠な象徴がつくりだされる。

ダビデの楯〉としても知られる。この象徴には古来様々な解釈がなされている。1つの三角形は水を示し、もう1つは火を示し、組みあわされた三角形は対立する諸要素の調和を表す、あるいは2つの三角形は天と地を象徴し、その間にあって両者を連結し均衡をとる人間をも象徴する、等々。ただしこれは、普通そう考えられているように、ユダヤ、ないしはユダヤ教の象徴ではない。


自己の内部で象徴の理解に達していない者にその意味を伝えることは不可能だ。これは逆説的に聞こえるだろうが、象徴の意味は、すでにこの象徴の含蓄するものを知っている人にしか伝えられず、したがって、その本質はそのような人にしか明らかにならないのだ。が、もしそうなれば、象徴は彼の知識を統合し、ちょうどその象徴がそれをつくった人に役立ったように、彼の知識の表現や伝達に役立つのだ。
簡単なシンボルには次のようなものがある。



これらのシンボルを表現している数2、3、4、5、6は人間の内的発展に関する特定の意味をもっている。つまり人間の自己完成と存在の生長の途上の様々な段階を示しているのだ。自然な普通の状態では、人間は二元性として考えられている。彼は完全に二元性、もしくは〈相反する一対〉から成っているのだ。あらゆる人間の感覚、印象、感情、思考は肯定的-否定的、有益-有害、必要-不必要、善-悪、快-不快に分割されている。センターの働きはこの分割の標識のもとで進行する。思考は感情に対立する。運動の刺激は本能的な静寂への欲求に対立する。これが、その中であらゆる知覚、あらゆる反応が起こり、人間の生全体が進行している二元性なのだ。少しでも自分を観察している人間なら、この二元性を自己の内部に見ることができるだろう。

しかし、この二元性は始終変化するように見えるにちがいない。つまり今日勝者であったものが明日には征服され、今日我々を導いたものが明日には副次的、従属的なものとなる。しかもすべてのものが同様に機械的で、意志から分離し、いかなる目的にも達しない。自己の内の二元性の理解は機械性の自覚から、機械的なものと意識的なものとの違いの認識から始まる。この理解は、その中で人間が生きている自己欺瞞をうち破ることによって進められなければならない。というのも、人間は自分の最も機械的な行動を意志的かつ意識的と考え、また自分は単独で全体的な存在だと思いこんでいるからだ。

自己欺瞞がうち壊され、人間が自分の内の機械的なものと意識的なものとの違いを見始めるとき、生における意識の実現に向けての闘い、機械的なものを意識的なものに服従させようとする闘いが始まる。そのために人間は決然と、二元性の法則に従って進む機械的なプロセスに抗して、意識的な動機から生まれるある明確な決意を固めるのである。恒久的な第三の原理の創造とは、人間にとっては二元性の三元性への変性なのだ。この決意を強め、それまでは偶発的、中和的〈ショック〉の働きで偶然の結果を生じていたあらゆる出来事にそれを絶えず誤りなくもちこめば、やがてはその結果は恒久的な道となる。

そしてそれは

。次の段階、つまり

、人間についても多くの意味をもっている。中でも、普通まず最初にわかるのは、全く疑問の余地なく、それはセンターの働きに関連しているということである。人間機械の発達とその存在を豊かにすることは、この機械の新しい、習慣化されていない機能から始まる。我々は人間が5つのセンター、すなわち思考、感情、動作、本能、性のセンターをもっているのを知っている。他のセンターを犠牲にして1つのセンターだけが優勢に発達すれば、著しくかたよったタイプの人間を生みだし、それ以上の発達はできない。

しかし、人間がその5つのセンターの働きを調和させれば、彼は〈内部の五芒星(ペンタグラム)に錠をかけ〉、肉体的に完全な人間のタイプが完成される。5つのセンターが完全かつ適切に機能すれば、それらは高次センターと結合し、そして高次センターは見失われた原理を導入して、人間を客観的意識、客観的知識と直接かつ恒久的に結合させるのだ。そのとき人間は6つの頂点をもつ星になる。つまりそれ

、自己の

ソロモンの印章

のだ…。

*完全にイエスが経てきたその自練発達進化の道を解説しているまで。
*何故に総本山にてはこの教義がないのかについても考察してみるべきかと。
*そりゃ知ってるさ。でも方針としては「由らしむべし知らしむべからず」となってんのさ。

Re: 実際はなにがいったいどうなった?。

善悪を知る木」なるその実を食べたことにより、ヒトは善悪を知るようになったと、つまりは善なるか悪なるかを判断できるようになったと…。いや、ここは「

」のままに、それまでにてで限定したほうがいいように思う。知るは「

」へと持ち越すことが可能だろう。だから両方の概念で括られるそれぞれの内容を体験をもって味わうことが可能になっただ。

この辺の文意としてのニュアンスは悪いダメだいけないこととだと知っていながら、分かってながらも、ヒトは実際には手を出してしまう、行ってしまうことが多いってことに脚光を当てたかっただけ。ならばだ、その実を食する前、元の健全なる状態にあったときにはどうだったのか?。果たして善悪の観念をアダムもイヴも持ってはいなかったのか?。その状態は神のご意向を絶対善として、その一律のみに基づいて、従ってで世界は運営されていた。禁忌もそりゃあったろさ。でも、そうであるならば、ことはあくまでそれに従うまでの内にしかありようがなかったんだ…。←ここはもう少し解説がいる。そんだけアレが影響力ある存在だったんだ。その一律に似たるのそれに匹敵する存在として彼等の前に現れていたのだ。更に言葉足らず…。

だからその実を食して以降は悪しきことを味わう、知るへの道筋が、いろんな訳の分からん理屈やら屁理屈をもって整うようになってしまったのさ。客観的には、天上の道徳律からしたら悪しきことであるにも関わらず、ヒトの身勝手な理屈において、それさえも場合によっては「OK」とするようなこととなってしまったんだ…。要は観念化において「絶対律」がいとも簡単に頭の中では相対化されてしまうようなことになっちまった。詭弁としての、嘘でしかない、それにしかならない言葉、あくまでも自己を己が面子をプライドを守らんとして放たれるの嘘偽り虚言の数々。それらの自制無き横行。それらによってなされる空理空論、屁理屈の大構築のことを言っているんだよ〜。バベルだよ、バベル。もうバベルも甚だしいってもんなんだ。メディアにおいて語っているのはもうガイキチばっか…。「 You too!」(読者)

何度も言ってきていることだが、その頭の中の思考の回転においては、内にて暗躍する蛇たるものの存在が大きく関わっている。それによっての誘導がハッキリと色を差している。じゃないとあれほどまでの情熱をもってのそれを傾けてでの、あそこまでのものを苦労したあげくに考え出せる訳が作り出せる訳がないんだ。パラノとスキゾが極端に増幅されてその両方の内容をごっちゃ混ぜにしたあげくに、そこになんの矛盾もそこに感じないでおれる神経の持ち主なんだから…。自分だったら遠にどっかで、それも初動の段階で、心底の恐れにおいて、絶対逃げ出してしまっているよ…。正常なる仮面を被ったままでの狂気でしかないよ…。あれって…。もしくは大人としての低能児がただ熱心に遊んでただけの話だったのかもしれないが…。


Re: 蛇こそが断罪されるべきその対象。Part.1

そう、それこそが、[OBJECT]になる。なのだ!。これは摘除摘出が総意をもっての抹殺がなされなければならない。だが、しかし、己が内において、このことを自分自身で行うことは至難の技になってくる。難儀も難儀これに極まれりってなもんだ…。

何よりも途方も無い代を重ねての、また己が人生において、それといっつも絶えず仲良くしてきての、その長きに渡っての関係において、それは根深く根を下ろしてしまってるのだから。またそいつが熱心にもたゆまぬ努力をことにおいては怠らなかったもんなんで、もう界面たるものがどこにあるのかすらも分からんほどまでにこちらと融合を果たしてしまっている…。

摘除、抹消を願うのならば、まずは分離から始めなければならない。そんで、次いで、真に自分たるものを、その領分たるものをしっかり確認意識して、そこを砦として、そいつとの戦いを始めなければならない。その戦いこそが、確執葛藤を原因としての火を内部にて、いこして煽るの行為にしかならない。その”苦”としかならない思いをすることを、あえて好ましきものとして望み求めることになる。「なんで奇特な方なんでしょう〜!」。だがこの火をもってでしか奴を滅ぼすことはできないのだ。とても長い年月月日を必要とするので、ハッキリ言って一代で完璧に為しうるものではないのかもしれない。でも、そうすることが、そうあることが、この地上においての今生においての生が、より良き進化に向けての、それに必要な努力であるのかも知れない。

一切の容赦なくしての、悪魔の如き非情さもて、徹底的なる根絶を、その接待の抹殺を目指すべきなのがあの蛇なのだ。これを行う為には、自分が立つ、依って立つべくしてのその土俵、絶対の普遍としての価値観たるものがいる。先ずは、その土俵たるものが果たして、それが本当に『善』であるのかどうなのかの確認が為されなければならない。このことは自分の魂のみが答えうること、知りうることなのだ!。

一つ…先もって、

見解を披露しておくならば、我々は『善』においてでしか確たることは解らないのだ。そっち側のみ。だけ。良心が本質がそれに関しては知っている。他のことに関してはそれにはまったくの無反応のままなのだ。良きこと善きことにおいては、それは自然と喜びを大いに表してくる。この反応にこそ、魂の核としてのものからなのだが、ここに、この不思議な事態に、それにおいての真の起源としての由来、機縁、故郷たるものを推察することができるのではないだろうか…?。

追記:ならば悪に関してはどうなっているのかって言うと〜、そこに確認されてある某らかの善を毀損するべくして、その内容やら行為は陰画的に析出されてくるまでの話しさ。悪単独としては独立したものはなにもない。*ここ重要だからなね!。*神あれたればこそ、サタンたるものもまた初めて成立しうるー!。

後三部ほどで〆る。

ゼイゼイ…はぅホぅへぃ…違う!はーはー…

Re: 蛇こそが断罪されるべきもの。Part.2

蛇たるものを断罪/懲罰することには、神に向けての、その信仰の証明の意味もある。「あなたのご意向に沿って我らはなされるべきことを果たします」かな?。ことの実行執行によって神よりの祝福を、恵みたるものの到来を期待するわけだ…。これの最たるものが磔刑になる。一般大衆の面前にて公開処刑をもってその罪人を○す。見せしめとしての意義もてであると伴に、神への信仰の、その証としての意味もあったわけだ。悪しきを、憎むべきを、呪うべきものを、強制的なるを殺害をもって、完全に社会/地上世界から取り除く。この事において、「正義は、我らにありーーー!」だ。

これは正しいことである。ただし!その対象が紛うことなく客観的な見地おいて「有罪」⇔「蛇たるものの支配に完全に堕ちてしまってて、もう自制たるものがまったく効かない、復旧も期待できない状態になってしまっている」の場合に限る。くどいが繰り返させてもらう。そういった存在は社会よりの摘出が物理的に〜で行われなけれなならない。←イエスの「殺すな」の言葉が思い起こされたので少しマイルドな表現に変えられた…。

この自浄においてなされる主体的なる行為が社会において適切に運営されている限りにおいては、メタ存在たる神よりの加護を庇護を恩恵を、そして何よりも進化においての導きたるものを、期待することができる。だがもしこの自浄行為がヒトの社会においてなくなってしまったならば、その自浄としての機能たるものが停止してしまったならば、地上に生きるそのすべてのヒトの子らが有罪としての色に染まってしまったならば、神、そのものによっての、直接的なる摘除摘出としての断罪の運びとなることであろう。これが預言されている怒りの日のことになる…。

その割合たるものが増大の一途をたどっているのだ。最初の、ことの一撃におけるその印象の刻印が、余程に、あまりにも鮮明にして強烈なものであったのだろう。*キメセクのことね。このことが理由の一つ。そして深刻なる事態たるものをもたらしていると判断された原因がもう一つ。ヒトの子らはことの重大にして深刻なるが余りに自責の念たるものに決定的にしてまた根深く囚われてしまってて、それをどうしても自力のみにては脱し得ないことになっていたこと。*神の怒りをかってそのホームグラウンドから放逐されてしまった事件。この事態を解消することがイエスが来られたことの最大の理由になっていたであろうと推測される。神によって裁かれてしまい、そして辺境の地へと追いやられたことが、心において余りにもショックなことであったのだ。その記憶がどこかにいつまでも反響していて、罪の意識に囚われたままになってて、このことが故に前向きに頑張ることができないでいる。(追記:ことは完全燃焼、それも至って前向きなる姿勢をもってしての努力が必要とされるものなのだ。なのにそれなのに、ことにおいてブレーキが掛かってしまっていることにいたく憂慮をもたれていた。)だからだ、神たるものが、直接にー、ヒトと同格同位体となってーで、ヒトの子らに許しを伝えることが、その行為が、なんの見返りも求めないままになされることがどうしても必要だった…。だからわざわざヒトの身とまでもなって、この世に降りてくる必要があったのだ。神として、アダムとイヴの犯した原罪を、それに起因してヒトがこれまでに代々に渡って連綿と続けてしまっているその罪の連続に対して、『

』ことが先ずは最初の根本なる主要としてのメミッションとなっていた。彼によって、彼ならばこそで、その一言によってで、ことは現実にして実際に、そのままにして反映を果たしてしまうこととなってい

…。←既に完結していることをお忘れな〜くー!

だがことは現実的なる作法、実際的なるマナーにおいてでなければならない。このことは因果を数式として考えるのであれば、足し算と引き算の要領に則ってでなけばならない。果たるものは上に表したものになる。ならばだ、その因となるものを用意しなければならない。ここでもう一度繰り返しておこう。蛇たるものを取り除く。蛇たるものの影響から脱する。このことにおいては大いなる確執葛藤としての炎にその身を焼かれ、その心に味合うことによってのみなのだ。前にもどっかで言ったが、ことは金の精錬に限りなく似たものとしてでしかあり得ないのだ。ならばだ、ここにその目的において合致する罪たるものの総量について思いを馳せるべきではないだろうか?。人類数千年分のそのすべての罪の総量を解消しなければならない!。まずこのことにはキャパの問題がでてくる。そして何よりもそれらを焼き尽くすべくしての熱量の必要性にかんしても算段をせねばなるまい。かなり想像力が必要になってしまうだろね…。とにかくハッキリ言えるのはヒト一人ではどうしようもない。なんともしようがないだろね…。

追記:神たるものの権能をもってチャラにすることも可能は可能だったろうさ。でもエネルギ保存の法則の見地から言えば、なんらかをもって負債たるものは埋め合わせをするしかないのもまた現実。これがヒトの世においての縛りなのだから。だから、やはり、イエスはご自身をその対価として完成させ、それを供物として差し出す必要がどうしてもあったのだと思う。

だからだ、そのキャパたるものを備えた、備えうる人間の到来が、その存在が、どうしても必要不可欠だったのだ。最上位存在、その

のご降臨、ご登場をもってでしかその事業たるものは為し得なかった。ここにー、イエスがー、いかに格別にして別格なる存在であったことかが分かる。ことは如何に人の身としての、その最上位までの進化を果たした仏陀であったとしても取り得ない為し得ない類の事業だったのだ。それはまさしく最上位の、それの極北によっての大魔術の展開、式打ちとしてのものであったのが実際だったのだ…。

完全にして完璧に無辜なる人間が、その洗練の精錬の清きの極北としての魂が、ヒトの世にて神を侮辱した涜神せりとの口実において、極刑を言い渡されて、磔刑に処された…。裁判官は、このヒトに罪たるものは一切見当たらないと宣言していたにも関わらず、体制側の重鎮も、陪審員としての町有力者たちも、そこに詰めかけていた全員が、口に泡を飛ばしながら、正体不明の憤りとヒステリーの虜になって、それに煽られて、それに完全に染まって取り憑かれての中、「とにかく彼に極刑をー!!!」と大声で、叫び倒してしまっていたのだ。その場を収めるべく、民意たるものには沿うべきとの思いから図らいからピラトはその判決を許してしまったのであった…。*なんと、最低の極悪人たるバラバを恩赦にしておいての、強烈なアイロニーを、強烈なる演出を伴っての展開となっていた。*完全に本体の意向たるものが反映していたのだろう…。

皮肉にしてまた逆説的なる話しではあるのだが…よく出来てる。それまでのヒトの子らによるその罪を、そのすべてを、収めうる”器”となりえるのは、無辜としての神の子としてのイエスだけだ。またその彼を殺すものの正体がまたその蛇なのである…。正確には蛇によるその影響に最大限にまで染まってしまっていた人々…。つまりは真に罪人と成り果てていた人々によってのこととなる。たぶんサタンたるその一群は、全くイエスのその目的企みたるものには気づいていはいなかったのだろう。ことの裏において今まさに為されようとしてしていることに関してを。その核事においてを…。そのことが結果ととしてなにを及ぼすかについてを…。ソレにはまったく思いも及ばないことでしかなかったのであろう…。


休憩に入りま〜す…


数式的には足し算引き算においてゼロにしなきゃならなかった。
ヒトの子らが為した、為してきたその罪の総量のことね。
その対価がイエスご本人そのものの命だった。

これにはさらに条件としての整いがアレヤコレヤがあってのことだった。あの上で述べた皮肉な舞台設定とかね。あとクライマックス直前にはボロボロに陵辱されまくっての最上位格が徹底的に貶められてとか…。そのことにまつわる強烈な落差をもっての蹂躙たるもの為されなければならなかったみたい…。弟子たちへの失望とその許しなんてのも付加価値を上げていってたような気がする…。要はだ、贄としてのその価値、引き算の総数たるものをあげるべくしてのとんでもない式打ちが行わていたのだ。贄としての価値をあげるべくしての魔術的サーキュイレーションが

周り続けていたのだと思う…。たぶん特別なる覚醒をもって天界に登ってそこから還ってきた体験をもって本式なるスタートとなっていたはずだ…。ここで個人的なる話しをするなばあの個人的なる体験の後、日本に帰ってきてからは周りの社会、日本の社会経済が驚くべきスピードをもって激変していってたのだ。ギアが数段突如変わってしまったような気がした。その変化の特徴はと言えば、旧来としての安寧安定恒常を支えていたものが尽くにして崩れ去ってゆく流れ(展開)といったものにつきる。これは平成の丸ごとを通じて、更に今の令和に至ってさえ尚も速度を上げて進行中爆進中なのである。もう夥しきまでのオワコンのオンパレード…。既に世界は見知らぬものへと変わり果ててしまっている!。これは個人的なる勘違いに過ぎないのであろうか?…。閑話休題。イエスにおいても特別なるその体験のその後は、それまのに生活して過ごされてきたであろうその環境は激変してしまっていたはずだ。まるで世界がその正体を突如表わすが如くにして過酷なる試練としてそかあらざるのものへと変わり果ててしまっていたであろう。それ以降のその道筋は一直線にゴルゴダの丘へ続いていゆく。その道はすべてご本人とっては尽きざる絶えざる苦しみの只中にていつも過ごしてあらなければならないっというものでしかなかった。それはあくまで贄として完成するべくしての過酷なる状況の整えだけになっていたのだ…。そして最終的には、その命を供犠の対象とされて絶命されるといった結末へと至る。そして更には、その死後のには地獄へとその居所を移すまでものリスクある選択をとられていた…。←これは伝説ではあるが事実であったであろうと思う。このときにしかそのチャンスはなかったであろうから。ただしそこは煉獄としての未だ決定的なる抹消が定まらないさまよえる死者達の群れが集まるところ、そこのみであったはず…。

先ず最初はその供犠の対象としての、その然るべくしての器としてご自身を完成する必要があった。そのために30年間という期間が必要だった。これは先もって定めとして決まっていたのであろう。

いろいろと悪辣なる妨害が彼の誕生に際してもあった。これは天の援助もあってなんとかしのげた。それはそれで大いなる試練でもあったのだろうが、やはりここでクローズアップすべきはイエス彼個人における課題、試練においてとなろう…。彼はヒトの子らを救う目的において、我ら人類と同じ制約の同じ条件下において成長する必要があった。これを経ることなく、これにおいての実地の理解がないかぎりにおいては、人類を救済するべくしての、その具体的なる策たるものは得られようはずがない。当然な話として彼はヒトの子として生まれる、その直前には”レテの河”を渡らずにはおれなかったはずだ。つまりは、一切合切を忘れ果てた上で誕生せざる得なかった。自らの出自もその正体も、天に関する記憶の何もかもを一旦は失わなければならなかった…。

そうしてだ、…幼き頃に限定しての話をするならば、悪いことの、良いことの、そのすべてをやりきったやりまくってたに違いあるまいて!。そりゃ〜スカートめくりもやったことだろうさ。口汚く友を罵ったり、落とし穴作って誰かを落して大笑いしてたり、牛乳飲んでる母ちゃんに変顔見せて吹き出させたり、猥談に花咲かしたり、ふざけたこと言うやつには鉄拳のパンチ喰らわせたり、なんかやけに距離感おいてくる父ヨセフに対しては暴挙とも呼べる奇抜なる関与をもって強引に関わっていた。疲れ果ててうつむいて寝ていた彼に突如またがって、その両手首を同時につかんで引き上げては「バロスペシャルー!」って叫んで…。後で彼から鉄拳制裁を逆に食らってたそうじゃ…。才気活発の〜天真爛漫なるのそのままにあらゆる悪事をやってきたことであろー!。じゃないと自分はゆくゆくにおいて彼の前には立てないではないかー!。トホホホホ〜…。いや…それでええねん。じゃないとヒトのことなどわかりょうはずもないんだから…。あらゆる悪事、そのすべての善良なる行いを経てきていなければならない!。

ここで皆様にご理解いただきたいことは、彼もまた、間違いなく”水の洗礼”を”火による洗礼”をご自身として然るべくしての環境下において潜り抜けて、完全なる達成を成し遂げてきているっていう事実。そのことの体験があればこそ、ニコデモに対してもあの様に語ることができたんだ…。

この辺は語れば恐ろしく長くなるので2Fの37話、前哨戦のあとがきをご参照ください。
要旨としては彼は実地に人間たるものを自己の肉体精神心において理解する必要があった。
このことが人類を救う上においては絶対の前提になっていた。

マリア様からなんらかの話しは聞いていたはずだ。
そして当然に旧約聖書を一般教養としてとして読むことにおいて学んでいた。
するとだ、その中の種々の預言において、自分のこととしか思われないような箇所があった。
*聖霊の介入によって直感が冴えていた。何故か確信として覚えられてしまってた。
そして然るべくとき然るべくして、霊感に包まれて、ヴィジョンの世界に入った。
そのことの了解は天上界への移動として把握されていた。←実際にそうだったんだろう。
そしてそこで神たるものとダイレクトにコンタクトを果す。
その内容は分からない。だがこの体験において、彼は生前のことの、そのすべて思い出したと観るのが正しいことであろう。特にだ、

を!。

ヒトの子らよ!。私は、お前たちの救いの為に、天から降ったのだ。
 おまえたちこの現世において味わうところの、その辛苦たるものを引き受けたのは、
 そうすることがやむを得なかったからではない。
 

のことからだったのだ!!!。』


『おまえが忍耐たるやを学び、この世の生においては、必ず訪れるべくしてある
 辛苦たるものに、文句を云わず、ぶつくさ呟かず、黙ってそれらを耐え忍ぶことを
 学ばせる為にだったのだ。』

この世に来たその時から、十字架上の死に到るまで、
 私には苦しみの絶えたことはなかった。』

『現世的な物の欠乏は甚だしく、私は非難の的と絶えず成り果てていた。
 そして侮蔑と罵りとを、私はこころ穏やかに微笑みをもって、ただ忍んでいた。
 恩恵に対しては忘恩を、奇跡に対しては冒涜を、教訓に対しては非難を、
 受けたるのだ!。』

出典:[キリストにならって]萩原訳、pp.234後半〜
「キリストの模範にならって、この世の苦しみを平然として耐え忍ぶこと」より抜粋。
チョイ改稿せり。


補足:
ヒトの子らの、その有り様が、天界にとってまったくの関係がないって訳でもなかろう…。
マタイ16章19節「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれることなり、あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれてしまうこととなる」。ここからは両者間においては相互にて影響が起こり得てしまう事態たることが明かされている。ならばだ、無関係でありながらも、ヒトの子らが果すべきことは確かにあるはあるはずなのだ。下位が上位界に反映をもたらす?。相互補完的なるがそこにある真実?。然し乍らも、イエスは、敢えてをもって地上界へと降臨する必要は、そこには全然なかったのだ…。言葉足らず。



ここで一つ整理:

天界からヒトの生存のその有様を観てた。
本来的にそこで果たされるべきこと、神が願われたことが行われていないことを知る。
何故にそうなってしまっているのかを詳察した。そして幾つかの問題点を把握された。
イエスは、ヒトの子らを憐れんでくださっていたのだ。この思いの正体が”愛”たるもの。
十全なる意味においてのそれ。
幾つかの問題を抜本的に解決するにはどうしたらいいか?。
それも今後においても継続して誕生してくる、そのすべてのヒトの子らを射程に入れてのものとして。あれらヒトの子らをなんとか救ってあげねばと思われた。
このことはなんら上位界にとって差し迫って必要なことではなかった。恐らくは別段介入を果すほどのことではなかったのだ。だが、しかし、神の独り子たるイエスは、介入を自ら果すことを決心された。

課題は三つ:

神と同権の立場にてヒトの子らに許しを伝えること。
また、彼等が積みましてきた罪の総量を対価をもって精算すること。

ヒトの身となって地上に降臨する。そしてその上で我が身を宮として天界を出現せる。人間七番と化す。そしてその上で、我が命を対価として差し出す。ここに天の父の介入ありてをもって蘇りを果たし天界へと帰還する。←このことによってヒトの子、信者としての人類とのコネクトが、天界にその所在を移したとしても継続されることとなった。断線していない。

ヒトの子らを未来永劫に渡って救うべくして、その絆となる自身とコネクトを果すうえでの要諦を伝えておく。その教えたるものは色々とあるのだが、最たるもの、その一番となるのが、他人を、他者を、値なくして、見返りを求めずして、我が身を愛するが如くにして愛すること。これはズバリ、イエスが人の世に降臨したることの動機としてのその実体にあたる。そして、神の権威において、神の元に還ることを絶えずの”今”をもってあなた達が決断するならば、一切の過去の罪は許されることを伝えて、「ならばだ…あなたちもお互いに他人があなたに為したる罪も無条件に許しなさい」との命令をされたのだ。ここにおいては型の反復をもって、同型/同質たるものに至り得る、帰り得ることの示唆ともなっている。どちらの型に沿うかによって、ヒトたるものはどちらの陣営に所属することになるのかが確定されてしまうこととなるのだ。そして最後にイエスたる最上位の存在がその身を罪人たる卑しきの限りのその存在たる人間となられることを厭わずであったこと、更にはその身上において蔑まれる貶められる虐められるの、そ蹂躙の極地たるものを敢えてもってして受入れられ偲ばれたることにおいて。真に謙遜たるマナーを学び、それを身に着けなさいだ。文句を言うこと、ぶつくさ不満をこころに思うこと、そのことの背景には、間違いなくエゴたるものが主導権を握っている。それが殊の外好むるところなのが…【(おご)り/(たかぶ)り/慢心(まんしん)】としての思いなのである。


ちょっと脱線になるのかも知れないが…

Re: 人間イエスと我らとの違い。

一応簡単にその違いを整理しておこう。ハード的には取り立てて何も変わらない。ややこしい内容の方面においもそれはそれで可能性としてはまったく同じ、同じ条件だ。違いとしてはただ一点のみ。我らの魂が分霊としての贈与でしかないのと比べて、彼のものはその母体と同格たる霊のその丸ごとにたるる。完全体としての独立した魂、その神の霊の丸ごとの持ち主であるってこと。簡単に言っちゃえば格とそのスケールが違うになる。そうであるならば上位界たる天界においても、それはヒトとしての肉体を備えたるままに自己たるものを完全に保つことができるー。元々そこがホームグラウンドなんだから、完璧に自在性たるものもを、これは権威たるものといった方がいいのだが、天界においてもそのままのヒトの身においても保証されることであろう。*ここで言いたいことはだ…イエスは天界に上がって後も、ヒトの肉体に収まりながらにして〜、彼としてのそのままに〜、旧来から元々から所有していたであろうその神としての権能を今ともなればより万全となった形にて振るうことができるーだ。*一つの大いなる保証になればいいな〜ってな思いでここ書いといた。言葉足らずが著しいが…めんご。*だからだ、聖書に描かれてある彼イエスを念頭に置いてそれを信仰して、彼とのコネクトを果すことが如何に大事であることか…。*はい。もうこれに関しては終わり。

ついでに父なる神とか子なる神って表現からは一つの仮説たるものが導き出すことが可能だろう。子なる神は「独り子」って表わされている。ならばこのことからは「宇宙たるものは代替わりが前提になっている」ってのはどうだろうか?。今の現在の宇宙が滅んだ後には今度は彼イエスが父なる神になるんかもねー?!。ならばだ、もしそうならばだ、次に創造される宇宙は例外的なるものになるのは確実だ。なんせ下位界、強度の物質界にて一度転生されてその環境に打ち勝った上で再度上位界へとそのままの状態にてお戻りになられた方なのだから。なんかピンとこないだろうね…。兎にも角に次代の宇宙創造は例外中の例外なるものになる。我らヒトの子らにとっては、そのイエスによって創造されるその次の宇宙ってのは大いなる喜びをもって歓迎すべきものになることだけは確かだ。それが何故なのかはもう説明はいりませんよね?。そうやってそうしてこそ鉄の意志もてまとめ上げられたバックアップとしての体制は最初から整うようできているのかも知れない…。

最後コネクトの恒久的なるその達成についてをもって、この稿は締められます。

ではまた後に...

再開

整理しとかなきゃね。

最上位界における三翼の一つたる神魂が、下位界となる地球に降下された。
その手段は直接的に階層を跨いでではなく、その地球における人間として受肉するをもって。
30年間という年月をもって、人間七番として自己を完成された。人神の出現になる。
このことによってこの地上界にては天上界が完璧に小スケールではあったが再現されていた。
この条件においてこそ初めて成し得ることがあった。*細々としたことはここでは割愛。
最終クライマックスとしての事業は、ヒトの子らがこれまでに為してきたその罪の総体を引き受けて、彼が代理となって断罪としてのそれの対象になること。これが磔刑の正体。供犠。
だから彼は徹底的に毀損されて潰されなければならなかった。
彼自身は真逆も真逆の、完全にして完璧なる無辜としての存在である必要があった。
その清さをもって、逆に、真の対象をそのすべてを吸引導引することが適っていた。
神としてのキャパ、その神性において、それらのすべてを収めるうる器と化すことが適った。
絶対なる否定をもって、完璧に彼は殺されなければならなかった。
ここに当事者らの思惑とはまったく違った形にて、一つの呪たるものが完成していた。
それは蛇によってこれまでにヒトによってなされてきた罪たるもののその総体を
対象にしたものとなっていたのだ。裏の真実においてでは。
その目的の為にも、彼イエスは完全に死ぬ必要があった。
このあとは今度こそ本当に神ご自身の出番となる…。
ところで神はあのモーゼ以降ながらくヒトに対して直接的なる関与をされてこられてない。
約千年を隔てて突如、対イエスにおいてあのヨハネによる水による洗礼時に関与を果たされる。
死たるものの前ではいかな神人と言えども為すすべはない。
ここに神による介入が果たされてヒトの子としてのイエスは死より蘇ったのだ。
この事態は既にイエスご自身がラザロにおいて可能なることを証明されてはいたが、これを伝聞としてでしか知らない我々とすれば、どうしたって「?????」でしかない。そうとしかならない…。根本としての根底としての常識が崩れてしまうので…。
まあいい…そうであったことにしておこう…。いや先にここで先と同じくして自分の体験をここにても挟んでおこう…。それは物を言うことはなかったのだけれどもイエスとしかならないものだったのだ。いろんな状況証拠から帰納的にイエスでしかなかった。それは上空からいと高きところからの交流となっていた。ならばだ、そこには円盤が、宇宙ステーションでもいたのであろうか?。いやそんなもんなんかではまったくありえない。あまりにもそれは圧倒的にして、まさに魂に直接届けられるかのようにしての人の意思をもっての伝達であったのだから。ならばだ、そこには真に天国があったとでも言うのか?。そうだ。たぶん天国は確かに上空にてあるんだろう。ただし、物理的に〜ではないだろう…。だから自分いおいてはこの直感知においてのみにては確信になるんだ。ならばだこのことによって派生的なりてにおいて、イエスは真実死して後に生き返って天の昇ったは事実として固まってしまう。じゃないと辻褄が合わなくなる。一切がナンセンスに堕ちてしまう…。しかし実際はそうとはなりえないんだ。すべては然るべくしてのメッセージを伝えてきてたし、今もそのご意向においてすべては整えられている。この稿を書いていることだってそうさ。自分は逃げようとしてたんだけれどね…。

追記:

イエスは、人類が原罪として背負う、その罪の総を解消するべく自身を死へと渡した。神に、そのことがなされることを願って/求めて、そのことの対価として、自身の命を、敢えてをもってして差し出した。そして、この供犠の完遂/完結をもって、世界は、変容を果してしまうこととなった!。

では、「その変容において一体何が変わったのであろうか?」。

自分が確認する限りにおいては、すべての人間の内にては、クンダリーニたる霊力が未だ存在したままになっている。それは未だ存分にその影響力たるものを各個において振るっているように観える。いや、むしろ、それによっての夢見たるものは、益々強力になっていってしまっているようにさえ思える。絶対神としての神が、イエスの願いに答えたことは間違いのないこと。イエスが挑戦したそのミッションたるものは完璧に成し遂げされていたのだから。そのことの証となるのがイエスの復活。その死からの蘇りとしての事態になる。ならばだ!、当然な話として神は

》》変えられたはずなのだ…。

許されたのは負債としての人類が背負うところの罪の総計、そのもの…。

また忘れてはならないのは、イエスによって人類、ヒトの子らにもたらされた根本的なる救済の道のことだ。これによってヒトは

となることができる。これはとても大きなことなのだ…。以前にはなかった状況になる…。

世界は、宇宙の丸ごとを意味するものとして、それは「システムとしてのものなのだ」と言える。これには間違いなく目的がある。その目的において、それに沿うべきもの、それを叶えるべくして、あらゆるものはシステム内にて組織化されている。*ここに関してご自身の体内の様子をご参考ください。そこれには間違いなくプロトコルプログラムにあたるものが存在している。人の世におてのことにするならば、決まりやしきたり、規定に法律律法がこれにあたる。システムなる言葉を持ち出したのには訳がある。これはあくまでも機械的なるものなのだ。それは私情を一切交えず、ただ対象に対して、それに即して、ただ然るべく対処するだけのものなのだ。このプログラムにおいて、最上位管理者たる神が、某らかの変更を加えられたのだ。イエスのその自己犠牲に応えて…。

チョイ脱線:

Re: 魔法少女まどか☆マギカ
この作品は、イエスによって果たされた””の変更の事態、宇宙そのものの改変がなされたるの奇跡からアイデアを得てる。しかしだ、悪質なまでにオリジナルとしての、あそこにあった真実からは遠く隔たったもの、まさに「真逆なるもの」としてなのだ!。間違いなく確信犯としてそうしている。そうであるが故に作者はそのアイデアの閃きにワクワク感と大いなる興奮を持って飛びついていったに違いあるまい。未だ精神的に、人間的に、未熟であるしかない少女達を主人公にもってくることによって、それをカモフラージュとして!、そうであることを笠に着て、裏ではとんでもない涜神行為を行っていたのだ。あの物語の創作のその背景には間違いなく悪意たるものが潜んでいる…。何故か?!。あの物語の中の少女たち、まどかもほむらもその他においても、彼女たちの願いは、み〜んな「我儘」としてのものでしかないからだ!。あれもこれもそれもあれも、み〜んなエゴからきている。それにおいての欲求でしかない!。これがイエスの果たした世界改変としんの奇跡において、それを暗に背景にイメージとしてもちながら、説得材料として表現されていたのだ!。*観客が知る知らないは関係ないのだ。知らずともことの反映は間違いなく大きく現れることを彼等は知っている。何故にか悪意としての呪は人々の心においてインパクトをもってしまう。そしてこのことが大盛況へと、評価へと、高い集客へと繋がっていくのだ…。自分はなんて罪深いことを製作者等はしているのかとため思ったものだ。「何を人々のこころに刷り込みを行っているのだ?」と…。要は倒錯としての作品なのだ。真実を嘘で塗り固めてのその蹂躙的行為としての作品でしかない。終劇に際しては自分は怒りを抱いて観てた。完全に

の奏者として、この物語の作者たるものは君臨している。自覚的にだよ…。

追記:天より降りてきたまどかはイエスの等のアヴァター。これをほむら自らの内に収めて反転させる…。ことの理屈や動機はこの際どうでもいい。個の内に宇宙の核心宇宙そのものを収めることなどできようわけがない。これを映像をもって観客を誑かす。そんな舞台仕立て…。

         この追記の目的はそんな話しをする為ではない!。
          とある作品のご紹介を目的としてのものだ!。

自分は過去改変の一切の物語を認めない!。この宇宙の理を個人風情がその根本から変え得るなどという発想など唾棄すべきのクズもクズなる発想でしかないのだが…。だが、この水樹 和佳子さんによる「樹魔・伝説」だけは

。人類の迎える破滅的な窮地を過去のとある分岐点となるタイミングへと時間跳躍をおこなうことによって、その危機は回避される。そんなお話しなのだが…。たぶんね…まどかマギカの「永遠の物語」は、あれの結末を考えたその作者は、この作品から影響を受けている。そのはず...。絶対にそう!。でもかって水樹 和佳子さんが設定した肝心のその肝たる部分は疎かにしたままで。いや、決定的にもう欠落してしまっている…。

ことはその物語を支える構造としての理論理屈とその筋道になる。もう詳しくはやらないが、過去改変によって地球の未来を変えるってことはそれはもう大変なことになるんだ。ならばだ、それを果すためには何を対価として差し出すのか?ってな話になる。水樹さんはこれを見事な物語の展開において完璧にそれを果たしてしまってた…描ききっていた〜!。これぞ奇跡のストーリーテリング!と呼べるほどまでのものにて!。

偶然に神と呼べる存在と

になってしまった。だが、その神になろうなどとは思いもしてなかった。そうせざる得なかったのは””彼””への愛、””人類””への愛において。ことはもうヒトとしてのその(ささ)やかなる望み、胸に秘めて抱くところの期待も、その心において恋い願うところの一切を、もうすべて、あらゆるそういったものを、完璧に諦めなければならなくなる!。ヒトを超える、人でなくなるとということはそうことなのだ...(断)。

もう一つ、この方の作品をお勧めしてきたい!。それは「イティハーサ」ではなくて〜、「月虹―セレス還元」なのです。自分は”彼”にイエスのアヴァターを観る。その万年を超える孤独を思えば、もうこちらの心がめちゃめちゃに突き刺されて打ち震えてしまってるー。両本ともに今ともなれば100円でどっかに転がっていると思います〜。了

閑話休題。話しは戻して、ヒトの子らに対してのシステムとしての認識が変えられた。簡単に乱暴に言えば、あのエデンにおける事件以降の、そのすべてのヒトの罪としての負債が、いったんすべて帳消しとされたのだ。借金がなくなったのだ。このことは気持ち的にかなり大きな変化にはなるわな。そうそう、これ言っとかなきゃ〜、その負債たるものが効力を発揮するのは死んでからののことになる。秤をもって厳密に測られるのだから…。

また脱線。ことはエデンよりこの地球たる環境にその身を移して、その負債としての罪を浄化するに務めるのがヒトの課題だったのだ。だが、しかし、どうしたものか、ヒトの子らは悪しき方へとばかりに傾いてゆく。そのことにおいては一旦は怒りと絶望するにおいて大洪水をもってあらかたすべてを無へと還したのだが、その後の人達、ノアの方舟にて救済された人々、その末裔たちにおいても、ことはやはり同じくしての展開となっていってしまってたのだ…。ここに、やはり新たなる契約としての”契”たるものを、神とヒトの子らとの間に結ぶ必要がでてきてしまっていたのだ。その事においては過去の根本からしての精算が必要とされていた。このミッションを引き受けたのがイエス。ご自身からそれをやりたいと申し出られたのかもしれない…。

神はかってあの洪水をもってして、悪しき傾向に染まってある人類を総ざらいにして抹消したことがある。だが、これによってではヒトの業たるものが消え去ることはなかったのだ。この残酷なるやり方を神さえも後に後悔されて、以降はこういったやり方は絶対にすまいと誓われている。エノク書。こういった経緯をも踏まえて、天界において考え出されたのが、ヒトの背負う罪のみを、その総体のみを解消して、ヒトの子らの生存は残すとしての策。ことの後、残された人々においてはイエスより生きるにおいての真にあるべきの道が教えられている。[愛]と[許し]と[謙遜]、そして[忍耐]がキーワードになる。このイエスの求めに従い。彼に連なる者となれたならばその彼等においては事後、死後、神がイエスと同じくしてくれることを約束して下さっている。イエスの復活はそのことが事実であることの事前披露としての意味合いもある一面としてはあったのであろう…。

閑話休題。影にあって、ヒトにおいてはその生存中においては

、それも生まれながらに持っているそれを、イエスはゼロへとリセットしてくれたのだ。そして、本来的にヒトの子らが為すべきことを改めて教えとして伝えてくれた。それは、今のヒトが、その身に習慣として結晶化してしまっている、その条件環境状況に則したものとしての教えをだ。

なので、救済が自身にて為される、これが本来は当たり前の作法なのだ、その為の条件状況環境造りをイエスは己が血によって果たしてくださったことになる。必要にして最低限のマナーにて…。

補足:グルジェフはベルゼの中で、それは宇宙にとっての大局的なる必要性において人体に埋め込まれのだとされる。そしてそれはやがてにおいて取り除かれることとなったのだが、習慣性としてヒトの中に結晶化されてしまっており、そのことにおいてヒトはかってと同じくして現実を逆さまに観るようになっているのだ…と語る。

なんなんだろうね…、なにかしっくりこない…。その結晶化されているで表わされるものが、自分においては「それはまるで

」みたいな感じで覚えられてしまっている事実と噛み合わないんだ。

ここは長々と書きましたが、その太極としての神が、イエスの供犠の達成に対して何をどうその反映を返してのかについて自分の考えを表しておきたかったのです。言葉足らずなることにはご容赦のの程を…。サンキュー。


閑話休題。死よりの蘇りをもって、自身の教えたるものを、我が身において証明したること。これがそのときに彼の周りにいた使徒、信徒らにとって大きな刻印となった。もう誰においてたって忘れがたきの出来事であったはずさ。もう誰にも消すことのできないそうすることの許されない記憶となった。これも一事。そしてイエスは天へと登られた訳になる。少しその肉体の組成は変わり果ててしまっていただろうけど人間のヒトの子の肉体のそのままにだ。ここも単独にて少し整理する必要がある。この地上界にてイエスの体をその領界としてそれを宮として天界が再現/持ち越されて/顕現されていた。ミニマムな感じなのだろうかね…。これは崩されたとしても神の関与において三日でその元の姿を取り戻す。そんで、そのヒトの子の肉体の内にて顕現されていたミニマムとしての天界は元の総体としての天界へと還った戻ったと。これを表したかったのが上のモデルになる。

要はだね〜”コネクト”たるものが果たされるべくしての、そのの根拠たるものが大事になってくるのだよ。それを媒としての関与はその影響力たるものは、あのモデルを見る限りにおいては確かに有効なものとして永遠に働き得るものであろうことが自分なんかにおいては確信できているんだ。要は説得力としての辻褄が完全に合ってくるんだ…。もうこのことに関しての詳述はやんない。ご自身で考えてみてください。階層を跨いでのその距離を分離を無効化しての効能が発揮される。実際そうして働いているんだって言えるんだ…。


Re: コネクトたるもの、その絆たるものの実際、その正体。


これやって終わり。

あとで埋めに来る。

良い日を!、だんだんと天気になってく〜る〜!


Re: This is my blood of the covenant, which is poured out for many,


一同が食事をしているとき、
イエスはパンを取りて、祝福してからこれを裂き、各弟子たちに与えてから言われた。
「取れ、これはわたしの体である」
「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」と。

また、ワインで満ちた杯を取りあげると、頭上へと掲げて、
感謝の祈りを唱えてのちに、すぐ隣の使徒にそれをお渡しになられた。
その行為は、皆で、その盃を回し飲みせよとの指図においてのものであった…。
なので使徒たちは皆その杯からワインを一口飲んでは次のものへと渡していった。
その行為が続く中、イエスは皆に向かって言葉をもって知らせていた。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。
「これは契約の血なり。多くの人のために、罪の赦しを得させんとして流するところのもの」。

これは最後の晩餐における一シーンになる。ここで大事なのは、The Covenant になる。この過ぎ越しの祭りををもって弟子たちは物理的にこのイエスとは遮断/分離/隔絶されてしまうこととなる。次に会うのは死からの復活を経てからのイエスになる。復活後のイエスは存在体としてはもうかってのこのイエスとは違うものになってしまっている。生存生命体としてのその組成は人間離れしたものになってしまっている。だから訳の分からん混乱が再邂逅において使徒らの間では起こってしまっていたのだ。まあこの辺のことは今はどうでもいい…。ここでのThe Covenantは完全に人間としてあるこのイエスと彼等十二使徒らとの間にて樹立されるところの、特別なる”絆”のことになる。それはもう決定的なるものなのだ!。

パンを、ご自身の生体として転写をおこなってこれを与えて食べさせた。当然な話として食べたパンは消化をもって取り込まれて自身を構成するその一部と完全になってしまう。そしてワインだ。これも同じくしてご自身の血と等しくなるよう変換を行っている。これを飲むことはイエスの血を飲むことに等しかった。ならばだ結果はパンと同じくしてまったく同じ血の流れる体となってしまう。

これはあくまで象徴的なる儀式としての面がある。だがことは真に魔術的なる意味をもっての刻印であったことも事実。イエスの肉と血をもって霊的な絆が彼と使徒らとの間には確決定的にに結ばれてしまっただ。*シチリアのマフィアにとっての伝統の血の掟はこれと同じ概念規定よる縛りだ。*確実にこのイエスが為した呪がモデルになっている。

Sanguis Christi inebria me.
 サングイス クリスティ イネブリア メ
キリストの御血、われを酔わしめ給へよ…。
このアニマクリスティの一節の祈りにては何を求めているかはお分かりですよね?。
*クリスティン・ハイってのがあるにはあるんだ…。これは自分の言葉になるんだけれどね。
*そっちの血が昂りをもっていま体を駆け巡っているって勝手に想像して自己満してるんだw。

ことの本質なるは彼との接点を保つことにこそある。なんらかのつながりを持っていること。だからといって教会で洗礼を受けて、礼拝に参加して、パンとワインを飲ませてもらうことが絶対に必要かというとそんなこともないような気が自分はする。それはあくまでも個人としてその形を求めるか求めないかだけの話し。こころの向き加減次第。気休めで良ければ〜の話でしかないような気がする。寧ろ、そんなところには絆を樹立するべくしての効力はまったくないんだよっと個人的にはしときたい。

ならばだ、どうすれいいのか?。

彼に求めればいい。祈れば済むだけの話し。

そして最後に、これも付け加えておかなければ…

マタイ福音書、七章より抜粋

求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。
すべて求むる者は得、尋ぬる者は見いだし、門を叩く者には其は開かるるなり。
汝等のうち、誰が我が子がパンを求めるに石を與へ、魚を求めるに”

を與へんや。
さらば、汝ら惡しき者ながらにも、善き賜物をその実の子らに與ふるを知る。
ましてや、天に在す汝らの父は、求むる者に善き物たるを然と賜はざらんや。

イエスによる説法ですね。これは昇天前のステージにおけるアドバイスですので、
今ともなれば直接に、彼そのものに、お願いすることも可能かと思いますよ〜。

長くのお付き合いに感謝いたします。
いろいろと改めるべきところ、加えるべきところはあるのでずが、
今はこれだけにて〆させていただきます。どうもありがとうございました。

*最後になってまた”蛇”でてきてたね。

追加、この直近のやつも入れておこう…

 我は、いまの、この瞬間にも、あらゆる、そのすべてのヒトの子の、
 側に控へして、其の者に寄り添ひ、見守りたるを行ひておる…。
 戸口の、前に立ちて、其のドアを叩ひている…。
 そして、もし、其の家の主たるものが、我の来訪に気づひて、
 その戸を、開け放つならば、
 我は内に入りもて、此のものと一緒に、食事をしよう。
 其れ以降、このものは、
 

…。


これはあのヨハネによっての幻視の内容なので、字義どおりに、そのままに、
イエスよりの真実のメッセージであるかと思います。



おしまい


fragments よりもう一箇所抜粋しとく... 

最後の晩餐で起こったことを理解するためには、何よりもまずある法則を知らなければならない。私が〈アストラル体〉について言ったことを覚えているだろうか? 

それをもう一度簡単に考えてみよう。〈アストラル体〉をもっている人々は、通常の物理的手段に頼らなくても、離れたところで互いに意思疎通ができる。しかし、そのような意思疎通を可能にするためには、彼らの間にある関係が樹立されていなければならない。このために人々は時々、未知の場所や外国へ行くとき、相手のもちもの、とりわけその人が身につけていて彼から

が染み渡っているものを持っていくのだ。同様に、死者との関係を保つために、友人はよく遺品をとっておく。これらのものは、いわば

をその後に残すのだ。それは何か空間の中でひき伸ばされたまま残った、見えない針金か糸のようなものだ。これらの糸がその物体を、それを持っていた人(生きている場合も死んでいる場合もあるが)に結びつけるのだ。人間はこのことを太古の昔から知っていたし、またこの知識を様々に利用してもきた。この痕跡は多くの民族の習慣の中に見られるだろう。

例えば君たちも知っているように、いくつかの国が血の盟友関係という慣習をもっている。2人あるいは数人の人間が彼らの血を1つのカップで混ぜて飲む。その後彼らは血で結ばれた兄弟とみなされる。しかし、この慣習の起源はずっと深いところにある。その起源においては、それは〈アストラル体〉間の関係を樹立する魔術的な儀式だったのだ。血は特殊な性質をもっている。ある民族、例えばユダヤ人は、血に魔術的な性質をもつ特殊な重要性があると考えていた。もうわかったと思うが、もし〈アストラル体〉間の関係が確立されれば、いくつかの国々で信じられていることに再び従えば、それは死によっては破壊されないのだ。

キリストは自分が死ななければならぬことを知っていた。前もってそのように決定されていたのだ。彼も彼の弟子たちもそれを知っていた。そして一人一人が自分はどの役を演じなければならないかを知っていたのだ。しかし同時に、弟子たちはキリストとの永遠の絆を確立したかった。そしてそのために、キリストは自分の血と肉を彼らに与えたのだ。それはパンやワインでは全くなく、

であり

だったのだ。

最後の晩餐は、〈血の盟友関係〉と同様の〈アストラル体〉間の関係を樹立するための魔術的な儀式だったのだ。しかし、現存する宗教の中でこのことを知っている者が、あるいはそれが何を意味するかわかっている者がいるだろうか? 

これらすべては長い間忘れ去られ、すべてに全く違った意味が与えられてきた。言葉は残っているが、その意味は長い間失われてしまっているのだ...。

この講義、特にその最後の部分は我々のグループに大きな議論を引き起こした。多くの者はGがキリストや最後の晩餐について語ったことで不快になり、また別の者は反対にそこに、自分たちの力では到達できなかった真理を感じたのである。*抜粋終り。






あの蛇の力をも存分に活用させてもろ〜て…、
それの関与を、影響をも、あえて受容した上で、
書かせてもろ〜てま〜す〜\(^o^)/。




あなたのこころの友
ペンパル崇でした…





















おまけとしてのギャラリー




Re: 

の正体は、いったい何なのか?



本稿において、敢えてをもって、消化しなかったもの。





こいつの名前【ギドラ】の語源はヒドラ/ヒュドラのロシア語読みだとか...。

なんと用意周到にもあの”露”が紐付けされているではないか!。

そしてこいつは、あの明けの明星たる金星から飛来したるの怪獣だった。

天界から落とされて地球へとやってきた?。

もうこれは完全にサタンの形象ではないか…。





イデオンでもいったことだが制作サイドにおいても所詮は、
然るべくしての形になるよう操られているのが実相。
あれこれ苦心惨憺した上であっても…鋭意工夫したとても…。





ならばだ、

もご紹介しちゃおう!。





ヒュドラにおいての元々の神話イメージ。























ギリシャ神話ってのは妙な創作なりて...あの中には人類にとって非常に重要なことが真実が秘められた形にて語られている。あれの上辺の話しは所詮は偽装でしかない。その薄皮一枚の向こ側になにかあることに気付けるかどうか、そこに隠されている意味を読み解けるかどうかにかかってる。かなり人生経験を積んできた、またお勉強をされてきた大人向きとしての創作なのだ。そして読み解けた者のみに、ことの真実が打ち明けられるようにそれに辿り着けるようなってる。


ヘラクレスは所詮は人でしかない。ただし、勇気ある人間。
試練を課せられる代表としての人間。
そして、それらと志し高くして前向きに奮闘する人間。

彼はヒュドラとして語れるクンダリーニの蛇と格闘するにおいて、それを討ち滅ぼさなければならない。この課題たるものが避けては通れないことを語っている。そうせざる得ないよう、お話しの進展ににおいて

こととなる。

キングギドラはサタンが三位として一体であること、そして、現代の現世においてそのパワーをいや増しに増してきてしまっている、既に完全に覇権を握ってしまっているんだってことを宣言するべくしての登場になってんだ。スクーリーン上において、そのことをアピールせんとしてのことだったんだ。

当然な話しハリウッドなんてもんは遠に彼の軍門に降っている。

金だ、名誉だ、名声だ!。虚栄の幻としての殿堂入り。まさしく大淫婦バビロン...。

そして彼が命じるままに、彼の意向のその求めにおいて、
彼の業としてのその自己顕示力のままに、
ああやってスクリーン上において存在を人類に向けてアナウンスしてるんだ。

そんでことの理解のない人類は大喝采をその映像表現に(彼に)送ってる…。
まったくもって皮肉な話だ...。遠離一切顛倒夢想が自分としては叫ばれる。

「求めよ、慕えよ、魅せられてアレよ!」。

さらば我が力は、この世界において、更に強力なるものとなるらん!!!。


たしかに、たしかに、すべては一切隠されてなどいない。

ただ、何方かの陣営にしか、
ヒトのその視線は関心は興味は向かないものなのかも知れない…。

察知すべきだ。

あそこ、あのスクリーン上の、あの存在は、確かに存在しているのだと。
あくまでも直接的にはその実在は確認できぬままなれど…。


あれを倒すべきなのはゴジラなんかではないんだ。

ゴジラこそそんなもんはいないんだ。完璧にいない…。
あれは世界大戦たるものにおける、その禍々しさ、そのものの表しなんだから。

「ゴジラが〜あれをやっつけてくれる」がそのまま、あちら側の、
彼のイカサマをもってしての洗脳なのだ!。だまくらかし。詐術。


人類、その各自が、各個こそが、そこに横たわってある課題の、担い手なのだ。

自分以外に、それを行い得るものは誰もいない。

そして男女ともに誰も、何人たりとて、この格闘闘争から免れうる術は、道はない...。



最後のモローの作品だけはなにやら怪しい。危うい。趣が違ってる…。
もう会話し始めちゃっているように視えるもんね…。
これもね、時代が下っての、ひとのこころのその変遷がゆえなのだ。

頽落の退廃のそのあげくに、平凡なるを厭い嫌い見下げたるが故に、
もういたく完璧に、ヒトの社会は、その文化は、
ギドラに表されるその正体に魅せられてしまっている。







この不動明王が持つ倶利伽羅剣は、

が、あれを平伏して、更に己が力として手に入れたることを表している。 
あの怒りの形相はギドラたるもの、その本体に向けてのものになる。



アーメン



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