8’  アレルヤ抜粋

文字数 14,881文字




          イエス、ご自身の愛、それ、そのものであるところの
(イエスはご自身の愛を、それのみを分離されて、かっておられた地上へとお戻しになった)

                  この”聖霊(せひれひ)”は…
     (それは、この世においてでは、”聖霊”としての存在と、なっているのだが)

            (ゐま)の、この現代(げんだい)今日(こんにち)現在(げんざい)(いた)ってでさへ

        (なお)も、まだ、未だ、ここ地上世界(ちじょふせかひ)におひて、(とど)まられた

なりて、


   御心(みこころ)におけるその(おも)権威権能(けんのう)(もと)(しか)るべくまた(もと)められたるが



   顕現(けんげん)()えず、いつも、(いま)()()こりて、また()()こされ、し、(つづ)けている。

  また、(あらわ)れ、(かた)られて、()れられてが、(じか)に、直接(ちょくせつ)人々(ひとびと)(たひ)して、()されており、

  この聖霊の、ご介入(かいにゅう)が、途絶(とだ)えしことなど、かって、今まで、一度(いちど)として…い〜やっ!





 それとされての、おかれての活動(かつどう)を、お(はたら)きを、ご関与(かんよ)を、お声掛(こえか)けを、ご干渉(かんしょう)自体を、

   (いま)も、()だ、‥いつも、()えず、(なお)も、まったく(おとろ)えること、(よわ)まることもなく! 

           継続(けいぞく)して、くださって、いっ…る〜〜……












マタイ12:31/32

人が犯す罪や冒涜は、どんなものであおるとも赦されるが、

“霊”に対する

(絶対に)赦されることはない。


      the blasphemy against “the Spirit”

人の子(イエス)の物言いに、言い逆らう者は赦される。

しかし、聖霊に言い逆らう者だけは、この世でも、後の世でも、






ちょっと、ここに関してを、一般的ではないアプローチをもって語るならな…

あの三つの力における[中和/仲介/和解]としての力のその正体は純粋な”愛”これなのだ。
ここちょっと難しい…。これはそれとして

在るナニカ、それとしての存在。
まったくもって純粋無垢にしてなる

存在。

ある意味、これこそが神なのだと、云うこともまたできる。

完璧に隙のない、完全なる一体化、相互を活かすべくしての調和、

これらこそを具現してある力。

これが本質、正体……。

でもこの力の顕現は外からは、ヒトの目からは、視えない。直接的には。

夫婦にとって子は「かすがい」ではあるのだが〜、子が

だとは



補記:
自分の子たるものに対しての愛が、どこからくるのか、なぜに起こってくるのかをよっく理解しなければならない。自分の深奥、魂としての領域から、自己の分身、我としての投影が避けようがないからだ。子はあくまでも契機。自分の中の奥深くしての領域から、これは異次元としての向こうっ側、イデア界としてのものにはなるのだが、そこからの力の流入の道を開く、具体的な装置、情報、対象、刺激、スイッチなのだ…。「神は一切を愛してある」が機械的に、自動的に、そこにては反映されているあるまで。我は我としての汝を心底から愛す。これが自然故に。

取りうる形態は無限に変化してあるありえるやはり見えざる作用力だってことしか言えない。

純粋に愛としてのナニカだってことしか把握できない…。

でも見渡せば、そっこら中に、これにおいての機能顕現が見て取れる。

聖霊は彼方にだけあるもんなんかではないんだ……。

またこれには自己を区分する制限する区分けってやつも、その本来性からあるはずがない。

おそらくは全宇宙に

充填されてあるエネルギー体としての総称。

もしかしたら”場”〜としてのものなのかも知れない…?

しかしだ、特別に、イエスの思い、考え、その目的に特化した、あの

色付けされてある至極限定された枝葉としての分岐のものも、あるにはあるんだろさ……。

そのあまりの純粋性があまりに、主体としてのこの力が非人格であるが故に、もし、これを裏切る、傷つけることがあったれば、ことに対しての復讐は、その応報は、一切容赦のない迅速なるものになる。こういった考えにおいてともなれば、ことはだ、信者であるなしに関係なく、愛としてのなにかの顕現を毀損する、貶める、裏切る、侮辱すること事態が問題になってくる。

イエスは、このことの危険性を、彼の見識、理解において、話してくれていたまでのこと!。

では、なにが実際どうなる?。

これの本質が和合/統一としての力であったなれば、結果に関しては簡単に予想が付く。

、何らかの形で、

起こってきてしまう。

肉体の不調和、精神が乱調としてのものに傾く、ものごとがとにかく上手くいかなくなる….。




あとがき:

これはこれで悪くない。まだ冗長に過ぎるんだけどね…。

でも総文字数がもうかなりの文字オーバーになっちゃうんで採用のしようがないんだ。

ここまできちゃうと削りようがない…。だっもんなんで、ここに別立てとして格納しとく。

させといたって頂く、頂きますっと。

そもそもはやはり3Fにおける第51話N.33すべては然るべくしてをやったことに起因する。

これから改稿かけてゆくんで、ゆくゆくはまったくの別物に、なんでしょよ……



おりじなる

聖霊(せひれゐ)(ゐま)この時代(じだひ)(ゐた)ってでさへ(なほ)ここ地上(ちじょふ)にて(とど)まられたままなりて、
御心(みこころ)その(おも)権能(けんのう)そのままに顕現(けんげん)たるやは()(おこ)りてまた()されして
介入(かひにゅう)途絶(とだ)へは一切(ひっさひ)なく(つね)(おこな)はれまた(はた)されて(ひま)(なほ)継続(けひぞく)されてある




ちょっと

しておこう……今更ながらではあるのだが…。


イエス、バプテスマを受けて直ちに水より上り給ひしとき、
視よ、天ひらけ、神の御靈(みたま)の、鴿(はと)のごとく(くだ)りて
(おの)(うえ)にきたるを見給(みたま)ふ。

And Jesus, when he was baptized, went up straightway out of the water:
and, lo(見よ!), the heavens were opened unto him,
and he saw the Spirit of God descending like a dove,
and lighting upon him:  KJ

イエスは洗礼を受けると、すぐ水面(みずも)から上がられた。
すると、そのとき、みるみる天が開けて、神の御霊が、鳩のようにして、
自分の元へと飛んで降って来て、それが、頭上に(とど)まりたること、
これを知った……。 byMe







まず最初に聖霊についてが語られるのは処女マリアの懐妊懐胎のその原因において。
そんで次がこのイエスのバプテスマ洗礼においてだ。
このときには

が姿を表してる〜、

、出現してた…。

それはまるで鳩を思わせる

のようにして、天国が開けて其処から(くだ)ってきたと…

まず天国は、神のおわす天界としてのものは、この世界に対しては通常は


出入りするためには

、開かれなければならない。
このことは、こちら、人が生息している世界からでは叶わない。
あちっ側のみの専管事項。

(つまりは天界は天国は家ん中、ここ地上は

ってことなんだろ。)

扉はどうしたものなのか

。なぜだ?。そっちの世界のことは、こちらっ側からでは伺い知れないってことの、その状況を、表しているにしかない。断絶、

隔たりってものが、やつがあるってこと。俯瞰において、そっちら側からは、こっちのことは、ぜんぶ、はっきり、余すことなく、よく観えてる、分かってる。

ちょっと脱線する…

平面世界においての壁は鎮護としての守りとしてのもの。自他を分かつ境界線としてのもの。
では天地としての垂直軸における境界線はなんなのであろうか?。それはなんの為に在る?。
オクターブとしての、それにおいての

としてのものでしかない。
そこに至り得たならば既にそのものはそちらっ側に属している。そんで新たなる進展としてのその一歩をもう確実に踏み出してしまってる。

平面世界においてそれを考えるならば、海と陸は、

分けられているのか?ってことになる。その境界は自然発生的なるものであるってのが特徴でありまた現実だ。

もう一個、下位の世界、そこにおける成り行きが上位界においても反映がもたらされている。
どゆこと?」(ケンシロウ姉さんで)
ことは回帰としての運動を含んで、定められてがなされており、つまりは源泉/原点へと還ろうとする運動、その衝動のこと、このことの完遂/完了が、源泉においての、その更なる進化を、その発展をもたらすことを可能にすることになるんだろう。なぜならば、実りとしての成果物が、無事届けられてくるんで…。幼くしてあった我が子が、無事、理想的なるその姿のままに至りて、求められてあった帰還を、無事果たしてくれる。それは、そのことは、天においても大いなる実り、以降においての大いなる助けとしての事態に、と、なんのだろう…。

追記:
もっと即物的には、量霊子のもつれの関係に、すべての階層があって、

、なにがしらかの反映が、相互にてもたらされて、もたらされ合ってしまってる……。もしここ地上においての道徳が廃れゆくならば、そして神への感謝奉仕の念それらとしての放射が止んゆくならば、それは天界の存在自体も危うくなってゆく〜ってこと。現存するあらゆる秩序の崩壊につながっていってしまう……。←その極点において、神はリセットを行われてしまう。これは、このことはかってあったること。繰り返されてきたこと。今回が四回目…。それとしてのものに、なる、可能性が、ある。

一オクターブをもって、その各個の世界は、完結、充足してる。

ことが果たされるまでは、その世界内にての生存にて、拘束、規定、制限されてしまってる。

生まれた稚魚は川を降って、己が生活世界にてその居場所を移す。そんで、然るべきときが来たならば、その成長が無事果たせたならば、かって来た川を遡って、生まれた場所へと帰還する。

これもまたなんかの反映、転写としての事態でしかない。

脱線終わり。



イエスが洗礼を受けるにおいて、天の天界の天国におけるその扉が開く、開いた。
なぜだ?。イエスが洗礼を受けるをもって、この世からの分離を、離脱を、
自らの選択もて、声明した果たしたに等しいからだ。
その彼のこころは、天界におけるその神の

との声明を、行ってあったから…。

神は、このことを喜び、

、祝福してたんだ。

なぜだ?

大変難しいことだからだ。

洗礼は、この世としての呪いに打ち勝ち、その催眠から目覚め、
本源たる神への帰還を、今生におけるその最重要事項として定め、
選択し、声明したに等しいからだ。

ことの表明の、その

として、なにかが、天より降ってきた。

だから、それは単に、神の愛としての思い、喜びなのだとの解釈も、またできるであろう。

聖霊は鳩ではない、あくまでも例えとしての表現、例えとしてのものでしかない。

ならば現実に於いてはなにがどうなっていたのか?

ことは、天空を駆けて急ぎ来るのその速度と、命あるものあるものであるとしての直感と、

(あった)かみ……。

これは愛そのものがそれとしての思いが

ってこと以外の何物でもない。

なので〜、イエスが父なる神にお願いして、自分なき後のこの世界に、皆を教え導き守る
ものとして聖霊をお遣わしになったってのは、イエスの愛以外には考えられないんだ…。

なんで、終局、神は愛そのものであり、聖霊もまた愛そのもの、しかし独立してあれる、
活動できるエネルギー体、分離体としてのもの。それとしての塊になる。

愛が共通項だ。これにおいて三位一体は形成される。それをもって構成されてある。なぜならば、愛たるものは誰においてたって、(おな)じものなのだから。*ここの話しは、この自分、天村が語るに於いては、いやに真実味たるものを帯びて、持ってきて、しまう…。そうなんだ。あちらにおいて抱いてあるもの、それとしての大切なるものは、こちらとしてのものと、まったくのおんなじもの、おんなじ質のものである、このことの直感が

あったのだから…。この認識自覚直感を与える、持たせる為にこそ、あの瞬間は用意されてあったんだろう…。つまらん例えとはなるが、それはお金みたいなもんだんだ。大切にしてる、思ってるでしょう?。多寡はあっても、お金はお金、同じ同体としてのものになるのだから…。持ち主が違っても、その程度や分量が違っていても、物自体はおんなじ。単一。イエスのその生涯も、人類へのその愛において、すべてが貫徹されてあった。その憐れみの思いに

、天界よりこの地上へと、降りてこられたってのが真相だったではないか……。*(マハラジが自身の専門専管事項として語るゴールドってもんも、

なんだろう)

聖霊は複数いる、あり得んのだが、

皆一つ、皆おんなじものなんだってこともまた真実なんであろう。だから…だったら、私達もそれを宿してはいる?。非常にチビっこいのをw。これこそがまた天国への入場を可能にする、してくれる、その鍵なんかもしれないーーっと……。

思いやり…。




では、地上にて残されてある人の子らへの自身の愛を切り離して送られたならば、
イエスご自身とされてのその有り様はどうなるのか?そこには


伴うのではないのか?それは、そこは、父なる神の彼への愛が、ことの欠損を埋めてしまってるんだ……。



I tell you that if two of you on earth agree about anything you ask for,
it will be done for you by my Father in heaven.
For where two or three come together in my name, there am I with them.

もし、あなたがたのうちの

、地上で心を合わせて祈るのなら、
天にいますわたしの父は、どんな願いであっても、それをかなえて下さるであろう。

、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。
マタイ18:19/20

”核”となるのは、イエスへの信仰。彼への信頼、彼が証した愛に呼応しての愛。

二人、二人三人としての個人が、イエスへの信仰において一つのまとまりになる。それはイエスの愛によって包まれることによってイエスとしてのその存在と同化する。すると、既に最初からイエスが同化されてある神本体との同化まもでも果たされる。全知全能であられるところの一者に含まれ同化した状態になる......。

これらすべての展開を適わしめている、背後にて媒となっている、働いているのが、(気づかぬままになのだが)、

思い、信頼、愛。このネルギー…。

二人だの三人だのは、これは、外部にて、その対象を求める、必要とするまでなのだ。
これらのバラバラが、阿吽をもってしての調和としての関係を達成する。
そこにて働いているのが愛。

イエスによってでしか救われないとするのは、本体本源をしっかりと意識できたした上で、
ここまであからさまなる愛の提示、放出放射を行えるのは、今後、一切ないであろうことを
見越してのことだったのだ。



追記:

ことの根本根幹として、神は愛のエネルギー、それとしての巨大なる塊なのだ。それのエネルギー生命体。それとしての存在体。これは、それとしての実現を、顕現を、志向する。つまりは愛としての、その具体的な行為を、行動を、必要としてくる。愛を果たす行う顕現するにおいての

求むる。求めてくる。求めてきてしまうものなのだ……。


特別追記:
それには元々からして名称なんてものはなかった。人語において限りなく近しくしてのものとして愛が浮かび上がってきた、語られてあるまで。人においてのこれの出現、顕現、表出たる事態を考えるならばだ…誰か、他者を、それを

捉えてしまってるってのが第一義だ。この誰かに、自己を、恵まれなかった、満たされてなかった、

観てる、思ってしまってる。その彼/彼女にておいての切実なる何かの必要性を、妙なることに、自分は今確信してしまってる。直感においてだろうね〜。そんでだ、重要なることはだ、今の自分には、それを与えることがで〜き〜るーーってことなのだ。(←苦しんだことのそのお陰で。)これは衝動としての思い、それにおいての行為になる。だから、「一方的にぃー」それとしてのもの行動にしかならない。ただ、与えて、教えて、知らしめてあるばかり。整えて、斡旋して、融和させて…。

根底にあんのは飢えだ乾きだ。ことにおける悲しみおいてのその経験だ。それにおいての対しての苦しみだ。余りに辛く悲しいことであったが為に、もう、他者においてそれを観るならば、見過ごせない。その相手がどう云おうが反応してあろうがお構いなしに、自分としてしてあげたいこをやって、行ってしまってる。

悲しんでいるいるひと、苦しんでいるヒトと、関わったなら、もう見過ごすことなどでき得ようわけがないのだ。 Urged としての事態になっちゃう、もう居ても立っても居られないってやつよ…。

きっと、よくツボをわきまえた、その対処、洗練された対応にはなっていると思うよ……。
そのヒト、その人間なりの、そのマナーにおいてで、それとは、なろうが……。

問題となってくる、っと云うか〜、不思議な事象としての話しにはなってくるんだが〜……
どうも、それは、容量的に、

、なってるようなんだ〜……。

問題は二つだ。与え得る、その総量において、無限になってるってはどうなってるんだ?。
また、その思いとしての、衝動によっての行為の運びが、尽きない、終わらないってのは、
どう云うことなんだ?!

答えとしてあり得るのは唯一つ。

源泉と同じくしての……、それとのリンクが、張られてしまってる。
そうであるからこそ、そうであるが故の、その発現、顕現だからだ。

他者へ与えられて失われる何かは、即座に、本源から充填が為されてしまってる仕組み。

電気とよく似た性質なんだろう……。(←電気ってのは

にて。)

もし、此処に展開されてある仮説が正しいのであれば、

私達は、神においての、その思いにおいても、理解が、持ちうるのではないだろうか?。

ことはあくまでも転写としてのその構えを持つが、自分としての考えだ。

その超存在は、最初の出現時において、途方も無い孤独を、悲しみを、そのことにおいての苦しみを覚えられた、覚えられていた、のではないだろうか?。それはまた限りなく繊細にしてナイーブなるものであることの、その可能性も、お忘れなく……。ご勘案給われれば……。

そして全能であることのその根拠となるあの創造の力を振るうにおいて、
愛が、それを求める思いが、すべての指揮を、振るってあったのだ。
ことの最初から!。

必要なることは、すべて、自分が辿ったことのその理解に基づく。
飢え乾き悲しみを知って覚えて経験していてこそのこと……。
これを経るもまた必然として、備えられていってしまう。

我と等しくしてのものを、同体と、なりたるの、思えたるものを、我は愛す。」


ついでにファティマにおいても...

あれにおいての新規性は、この部分のみ。

(こと)に、貴方様(あなたさま)よりの御憐(おんあわ)れみを、(はな)はだしく必要(ひつよう)とするであろう、あれら不遇(ふぐう)なる人々(ひとびと)

()確実(かくじつ)

()たされて



なぜに、天界としては、このメッセージを、わざわざ人の子等に、伝えてきたのだろうか?。

その祈りを、神に、捧げなさい。いま、すぐ、あなた方の、そのすべては、
この内容においてを、神に、求めなければ、ならないのです……。(マリア様)

何故だ?。

第一、第二の世界大戦下における、大量の犠牲者たちのことを、前提されてるってことは、
ほぼ確実だ。確実としてのはなしだ。

では、なぜに、彼らの為に、神に、彼らが無事に天国へと至れるよう、祈るのだろうか?。
そこには結果的に、なんらかの違いがあるえるのだろうか?。残された私達の祈りが、
結果を左右するとでもいうのだろうか?。

しないだろう。ことの結果は、当人たちと、神ご自身とのご関係にのみ、基づくはずだ。

では、この祈りは、

、ものなのか?。

その後の、いまに、生きている者たち、その彼ら自身の、為なんだろ……。

悲惨なる最期、不慮の死たるものに不運にも遭遇してしまったものら、先人たち、
その彼らを悼むことのできない、そんな奴らばかりと成り果てているならば、
もうそんな世界は無くしてしまおう…。こういった思いにおいて父なる神は、
傾きかけて、しまって、おられる、のかもしれない……。

だからこそ、その事態こそ、いまに生きている人達、あなた達にとっては、災禍、呪い
でしかないので、これこそを避けるべく、この祈りは届けられてきたのではないだろうか?。

じゃないと、加害者たるものの変更/交代をもって、ことの主体を換えて、あなた方全員、
皆も、近くして、まったく似たることに、おんなじことに、なって、しまいますよ〜って…。


追記終わり



ここで問題となってくるのが、それは、それらは、決して、この自分の思い通りになるもの、自由になるものであっては、

ってことなのだ。それでは、単に、この自分の自己満足の為だけの存在になっちゃう……。愛としての、それとしての資質的に、本領、本懐において、これでは不完全燃焼になってしまうってのが実情だ。それが、それとしての機能を、万全にて果たす、それが備えているその本然としての現れたるものを完璧に、真実、果たす為には、

、他の生命体を、それらとのダイレクトな関係が、どうしても前提とされてきてしまう。そこにおいての相互間のドラマこそを、必要としてきてしまうんだ……。

つまりは、

ってやつが、どうしても愛にとっては、欠くべからざるもの、必須必要事項になってくる。愛を、行動行為そのものをもって、表す。これがセット。これこそがこの衝動においての求め。愛が命じるままに

、それとしての本懐であり、これによるドラマにおいてこそ、愛はその自らの本領を、本分を、充分発揮することができるっと。それとしての本当の顕現を、果たすことが適うっと。おそらくは、このドラマを実際に経ることにおいて、それによって、愛自体もまた、変化すんだと思う。

これとしての本領は、創造の力としてのそのもの、その能力、その顕現でもあるらしい…。

イエスにおいては、あの十字架の試練を経ることにおいて、よって、彼自身とされてのその愛を証しされた。それで、それは、既に、潜在的なるものではなくって、なくなっちゃって〜、実現化されたるものとなる。ある意味、愛は、その具体的なる行為としての(たい)を手に入れたって寸法よ。こういった表現も、その解釈もまたできる、また適うと思う…。

まあ妥当なる解釈としては、この地球圏において、ある種の刻印が、果たされたってことまででいいんだろうさ。愛をもって、その

、為されたるのだ。ある種のトラウマよ、これ。このことによる事後のこの世界に対しての影響は大きい。再帰がもたらされてくるから、自動的にもたらされてしまうってのが、トラウマの魔力、その特徴、それの効能なのだから…。

どっかで既に使った例なのだが、自動車事故の現場にては、その事故は、被害者加害者としての役者を代えて、ことは、再起されることになってる…そうなりやすい……。

だから、これにおいて、十字架としての呪いが発生する。したんだよ。だがだ、これとしての流れを然るべく受け入れて、経ることによって、また、御本尊でオリジナルであられるところのイエスと同じくして、

ことになるのも、また、セットなのだ……。いや、いまのところ、これによる以外に、天国へと入る至ることはできない……らしい…。

イエスにおいてのその愛もまた、事後には変化を遂げているはず。
それはもう既に思いやら感情としての、潜在的なものとしてではなくって、
実現化、実体化を果たしたるところのその愛になる…。
それとしての、それにおいての格が、上がった、上がってしまってる……。

*ここは重要なのでピンときてね。
*思いやら願いを実現化したあとの貴方はもう前の貴方とは違ってるでしょう?。
*なにかが確実に変化する。存在のレベルがもう違ってる、違ってきてしまってる。
*以前よりは恐れにおいての、よっての躊躇を、しなくなった。まったくしなくなってる。
*本懐を遂げるにおいてのその実際の、真に有効性のある

が、
 既に、そこにては獲得されてあるわけさ。
*ならばだ、そこに流れるべくしてあるエネルギー自体もまた……より豊かにより強力に。

  父なる神の元へと戻られた、還られたので、

、ご自身から


          地上へと、ご自身の分体、分身として送り戻された。

          一種の

が効くスタンドみたいなものさ……

               これが、それとしてものもの。

    これもまた一つのストーリー、ただのたとえ話し、仮説、お伽噺の一種さ……。










つぶやき…:

たぶんね〜自分、文字数制限からの縛りでストレス溜めても〜とんだわ。

なんとはなしに思うんだけど、これからは混合としての事態が起こってゆくと思うんだ。
階をまたいでの

…。良く言えばクロスオーバー化だね。
それは既に始まって、しまってるけどね。

このことは構想としてのものではまったくない。それに拠らない。

老化(ろうか)だよ老化(ろうか)!、(わた)老化(ろうか)(せい)なんだよ〜〜!』(藁)


それが為だよ〜それこそがが、”性”なんだ〜wwwwwwっw。

最後には、真っ黒にか、もしくは、まったくのトランスペアレントに〜、

なってしまうんだろ〜ね〜……。


エロってのが、最近、増えつつあるってのも、少し心配だな〜。


それのエスカレートとしての事態も、また見通されてしまっている。


まだまだかなり〜にブレーキが……強い、効いてはいるが……。



       草々




  天村崇ことイオフィエルっと





メモ:

栄光と賞賛と賛美は...

ことは Glory の一言で足りる、もうそれだけで十分。

でも三位としてのその成り立ちを考慮、強調しなきゃならないので、

ought to be, supposed to be, must be, should be, 等を念頭に置いて、

Praised, gotten Applause, Admired, 等としての内容が添えられてあるまで。

偉大なる、真に王たるものに対して、持つべき思いってのが真実のところなんだろう。

不思議なのは、どうしたものなのか、我らはこれとしてのものを必要としているのだ。

恋い焦がれる思いまでのものとして。

これは何故だ?。

この問に対しての答えは簡単で、この自分は、自身が創造したものではないからだ。

元をたどるならば、父ちゃん母ちゃんでもない。それとしてのものではありえない。

このことをほとんどの人が意識していない。母ちゃん父ちゃんで落ち着いてしまってる。

信仰の基礎、基盤ってやつは、この辺にある。

原初の、イニシャルとしての原因体に対しての、感謝、御礼、礼拝、それへの服従宣言。



(はりつけ)をもっての(あがなひ)を、(もと)めたるが(ゆへ)に!


あそこの完全版は……


(はりつけ)にするをもって(その罪の)(あがなひ)を(

を)(判決において)(もと)めたるが(ゆへ)に!


になる‥



でも人の子らの(めしい)としての、その余りにも狭量(きょうりょう)なるジャッジ、話しにしかあらずして、
実際は

なので、カッコ内は省かれて、省略されて、消されてある…。

追記:

(はりつけ)


(はりつけ)



上の方が自然だとは思うんだが、これだと他人事、距離感を覚えるものになってしまう。方法論においての話だと、そのニュアンスのみにてに〜傾いてしまう。ことはだ、各人においても反映をもたらす。各人においても、

になるんだ。だから〜〜、なにか違和感を覚えはするがーー下にした。下のものに〜どうしても

。なってしまうんだ。

キリストを主とした以上、転写は、もう必然になる。今生において磔にされてしまう、

、その上で、生涯を終えるはもう自然なこと、あったりまえ。結局のその実際は、単に老衰よるもの、病院のベッド上でのことにはなんのかも知れないが…。





  日用(にちよう)(かて)

本日(ほんじつ)

(日々に)(われ)

、お(あた)へ、(くだ)



自分においてのイニシャルは“Please give me food day by day” なのでどうしても「日々に」を
組み込みたくてやったまで。修辞、レトリックでしかない。なくても構わない。



老婆心にて追記。



(した)

ぐらいの

祈り

…。

この辺の注意書きは、それは、絶対に、太陽信仰としてのものにしては、いけないんだーってことを強調しときたかったまでなんだ。天空に光り輝いてある太陽は、神によっての創造物、その一つでしかない。悪しき企みってのが昔からあって、このあるべきとしての対象から、また別の違うものへと、変えてやろう、スライドさせてやろうと、してきやがるのさ…。



ついでに天使祝詞においての自分の思い、もしくは考えを……。


めでたし、聖寵みち満てるマリア、
主、御身とともにまします。
御身は女の内にて祝せられ、ご胎内の御子イエスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪びとなるわれらのために、今も臨終のときも祈りたまえ。アーメン。


これが従来の、通常のもの。オーソドックスとしてのもの……。


最下段が問題なのだ。

『罪びとなるわれらのために、今も、臨終のときも、祈りたまえ。』

祈ってくださいーーだ。

ではどんな内容において、マリア様には、祈ってもらいたいのか?

我らのために〜、何を〜、祈り求めて、もらいたいのか?。


この部分、貴方ならなんと答えるのだろうか?。

そもそもだ、その内容に関してを、関係者から教えてもらったってことある?。

ないでしょう?。自分はないな〜……。

なんら思いなく、確たる内容なもく、それの定まらぬまま、祈るってどうゆうこと?。

これって、ただ単に機械的に念仏唱えてあるだけってのと、なんら変わりないでしょ?。

死後、閻魔の前で、そのすべての念仏は、ザルから溢れ落ちていってしまうことになる…。

数のみを頼りにしての祈りってのは、新約においても批判/糾弾/否定されてあるよね。

ご参考:
   また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。
   彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。(マタイ6:7)

これこそが形骸化としてのもの、その最たるもの、その事態のことになる。

なんで〜、今においてのものと、終わりのときにおいてのその具体的な内容を、

自分としては、加えて、添えて、みたんだ。

あくまでも想像、自身としてならば〜の、その仮定、仮説のもとに……。


できるだけ太文字、強調体は外してあるのはそうゆう理由さ。


でも最後のラインだけは、それが、できなかった、できないんだ……。



老婆心においてのその追記2でした。



過酷(かこく)なる現実(げんじつ)、これら、受苦(じゅく)受難(じゅなん)のありけることを、(すで)に、(さき)もて、()りながら!


ある種の人たちはこの世に転生してくるその前に、つまりは

を渡る前に、ガイダンスを受けるんだ。天界側として、これこれこういった展開になるのが必然にして確定事項なんだけど、いい?って……。

OKなら転生を許可しましょうって。

生存においてはいくつかの希望が叶えてもらえる。あれやこれやそれやはだめだけど。
些細なることにおいては便宜をつけてもらえる。希望をきいてもらえる。
例えば、美味しいものだけはなんとか、たまにで結構なので、食べれますように。
感覚的なる楽しみ音楽は、住むに自然に恵まれてある環境、地縁に縛られないよう、etc......。





検討中1:

侮辱(ぶじょく)され、鞭打(むちうち)されて、その(ゐた)みと(くる)しみを、()(こころ)に、(あじわ)()くしての()(はて)に!



侮辱(ぶじょく)され、鞭打(むちうち)されて、更には、自らが磔にされる、その十字架を!、背負わされたるの上に、長きの道を歩かされて…これら、我ら人の子等よりの拷問(ごうもん)加虐(かぎゃく)虐待(ぎゃくたい)、悪魔憑き等にいたぶられて、(なぶ)られて、(いた)みと(くる)しみ激痛(げきつう)をっ、更には、誰にも見捨(みすて)てられてあることの、その事実、その現実において!()(こころ)と、その精神(せいしん)の、(ことごと)くしてのその全部(ぜんぶ)()()くされ、(そこ)なわれて、(ほろ)ぼされ、し、()くされての、その(のち)に!


(しゅ)におひて(われ)信徒(しんと)(みな)一樹(ゐちじゅ)】ならんこと

(しゅ)におひて(われ)信徒(しんと)(みな)をもって、【一樹(ゐちじゅ)】としての存在へとならんこと…



検討中2:

御名(みな)が、至聖(しせひ)なるをもて、(あが)め、(たてまつ)られ、そして、(とふと)ばれんことを。

御名(みな)として語られた”I AM” が、まさに至聖(しせひ)たるものであることを、(あかし)してあるが(ゆへ)
あらゆるすべての生き物等によって、御身(おんみ)は、(あが)め、(たてまつ)られ、そして(とふと)ばれんことを。



検討中3:

【 天使祝詞 】



(さひわ)ひなる(かな)(なんじ)マリヤ、(われ)(しゅ)花嫁(はなよめ)
 (なんじ)ハ、

懐妊(かひにん)せん。

 恩寵(おんちょう)貴方(あなた)に、()()ちて、
 御子(みこ)イエズス、御身(おんみ)(とも)に、(ましま)せり…



現行品:

(さひわ)ひなる(かな)(なんじ)マリヤ、(われ)(しゅ)花嫁(はなよめ)
 (なんじ)ハ、

身籠(みごも)らん。

 恩寵(おんちょう)貴方(あなた)に、()()ちて、
 御子(みこ)イエズス、御身(おんみ)(とも)に、(ましま)せり…



*おもしろいのが上の検討品に一度は換えてみたいんだけど、頭上のジーザスがあまりいい顔
 をされないんだ…。だから

換えられない…。このことの理由を、考えることは、
 ワークになるかもよ。自分はもうやんないけど……。


追記:

自分が編んだ文章は記録に厳密に基づいたものとなってる。
つまりは、天使からのお知らせがあってから、”受精”は、果たされてあったってやつ。
ならば、結びとしての「貴方と共にイエスは現在いますよって」ってのが、あやふや、
宙に浮いてしまうってリスクが伴って起こってくる。

長らくこの自分においてもしっくりいかない構成だっただけど、
この度、やっと、辻褄が合う考えに至りついた。

ある一つの前提、とある摂理を前提とするならば、ここはあれで良いことになる。

それは、ひとは、生まれてくる前に、両親を既に選んでしまってあるってお話し。

ことにおける、考慮すべき事柄におけるその対象範囲は、非常に大きい。

核部となるのは今生におけるそのミッション。

だから、イエスはヨゼフマリアとしての男女ペアをことの最初、そのスタートにおいて、
もう既に選んでた。選択してしまってあったのだ。

とくにマリアに於いてともなれば、確実に彼のお眼鏡に適ってしまってあったのだ。

ならばだ、ことの受精のその前に、既にマリアと共に在ったって表現も、
きっと、成り立つことに、なるのではないだろうか…。

*貴方も、貴方にとってのご両親に関しては、生まれてくる前から、かなりのことを
 知ってた。分かってたのだ。そのうえで、敢えてもって、ベストとして、選んでた。


 (さき)天国たるものにおける

(あじ)

(おし)

()


 

気づけるわ。

非日常(ひっにちじょう)

その体験(たいけん)



ここね〜実は迷うところなんだ...。本僅かのフェイントなものとしての場合もあるからさ。
例えば、遠景の桜においてのことも実際あったんだ。その木から桜の花びらが穏やかに
少しばかり舞っていってたまで。遠景でありながら、どうしたものなのか、ハッキリと
焦点が結ばれてしまってあった。そしてややほど遅れながらにしろこれは関与としての
事態なんだって気づいたんだ。ご参考までに。





        "My Father, if it is possible, may this cup be taken from me.
              Yet not as I will, but as you will."
 ファーザー!この(さかずき)何卒(なにとぞ)、どうか、私より、()()ってくださーーーいっ!。
   されども…、すべては、御心(みこころ)のまま、私は(したが)い、()()れましょうぞ……。

























           “エリ! エリ! レマ サバクタニーーーーッ!”
    『神よ、神よ! なぜにこの私を、お見捨てに、なられるのですかーっ?!』

















人として、人の分限のままにて、どうしても殺される、死ぬ必要があったんだろう……。

     人の子等のその罪深さによって、そのこと、その事実実際においてで‥。

       それを我が身にて、極点にまで至るその味わいを知ると同時に、

             また許すを、実際に実行する為に。


   我が愛を、この世界に対して、向けて、その刻印を、果たす、残するが為にも……。

















                どっかで圧縮します。

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