37.  ラザロ

文字数 13,714文字

本稿にて為されてあるのはある種の考察だ。

なんについてか?

急所はイエスの復活において、

と同時に、ならばラザロにおいても考えなければなるまいて……。

まず前提として持っとかなきゃら〜、定めておかなけらばならないのは〜、

時間ってやつにおいてのことになる。

なぜか?。

この観念においてのみ変化としての事態が認め得るからだ。

おそらくは、この観点において

、時間たるものは存在してくる。
してくるようなってる。

この時としてのメジャーが、避けようもなく、必要となってきてしまう…。


時間に伴って起こる、その”変化”ってことだけでいい。

追記:だから、変化たるものに頓着しない場合には、時間は、存在してない、しないのだ。
   では、あなたは、なんの変化を気にしているのか。口座の残高?身長の伸び?体重?。


そう、今回の肝心なる考慮の対象としては、死後にて開始される腐敗のことを、

そのことずばりを、念頭に、おいてるんだ……。

追記:
これは、一度死したる人間が、再び生き返ったなら、果たして旧来の状態に帰れるのか?。
この問をどうしても考える必要が起こってきたから、だーかーらー!

ものごとは無常なり。留まってあること一定を保ってあることはまずあり得ない。

そんなことは、絶対にーー許されない!。

確実に移行

!。

より良くなっていくのか、より低劣劣悪劣等なるものへとなってゆくのか、このどちらか。

満足、嬉しい、楽しいってのも、づっとには続かない…。

つまらない退屈だってのは、どんどんとその猛威を増大していってしまうんだがね…。

いいだの、悪いだのってのは、どんな尺度においてのことなんだろうか?

人間の身勝手な都合ににおいての話ではまずあるまいて、

ここの、ここにおける客観的評価として、それとして有効なるものの見方が登場する。

必然としての偶然において、それは用意されたる。

ピタゴラス音階のことさ。

オクターブ、音の振動、それにおいての変化、
それにおいての、それを当てはめての見方、判断、評価のこと。

これにより上流と下流としての垂直軸が規定される。

実際に誰にでも得心されうるもの、わかりやすいものとして、承認されることとなった。

上方上流へと向かうがよろしくして、下方下流へと至るのがあまりよろしくないってこと。





このことは大きい。これ以外に的確にして、わかりやすいモデルは存在しないのだから。

これのこれにおいての重要なるところは、ならばだ、要は上は上で、下は下にで、理論的には、無限‥となっているではないか!。またことは繰り返しとしての展開が、それとしての反復としての事態が、含まれてる。あらゆるすべてが、

なってしまっているではないか〜!っと……。

終わりとしてのド音はまた始まりとしてのド音でもあ。だがそれは既に階層においての位が、位置が、まったく違ってきてる。同時にそのピッチ(振動数)そのものが、かってのものとはまったく違ってしまっている。追記:(このことはそのままにその階層においての”質”が、一切が、違ってきてしまってるってことに他ならない)。このことは実際にその音の聴覚おいて捕らえたときのその印象において、誰もが皆等しくして確認することができる。だからこそ〜の、その客観性…それにおいての評価メジャーとなる。ユニバーサルなものとしてになりうる。

端折る。

としてのものになってる!と、どうしても理解が定まってきてしまう…それは

伸びてゆくものだ。また右回転/左回転としてのもの、この二種が螺旋運動たるものにおいては考えられる。またエニアグラムにおいて指し示めされている、

っていうその事態は、その意味は、音階においてはどう捉えたらいいのだろうか?。介入においてのその結果が、また違う未来にておいて、反映をきたしてる…、果たしているというこの現実は、螺旋運動においてともなれば、どう表されているのか?。またこの事態は、どう解釈したらいいのか?。(これはまた別途、別の機会にて。)

先の無限ってのにおいてともなれば、人間が備えているその認識可能限界範囲ってのがあって、これにおける制限ってやつを、設けなけらば、前提としなくてはならない。人間を主体において考えるならばだ。無限としての連続においても、我らにとって意義のある範囲ってのは、またどうしても限定されてきてしまう。ならばだ、そこんとことにおいて

、考慮すればいい。それだってかなりのスケール幅を備えているんだから。


追記:

ややこしいのが、いろんなものが、いろんな要素があって、我らはそれらの

としての構成なってる。だから、良くなっていくものと、悪くなってゆくものらが、もうごっちゃ混ぜの状態にて構成されてしまっているんだ。すべてが連携関係するをもって、今ある自分は在る、なってるってのが実際。だから…自分においてのなにかが良くなっていってるってゆう場合は、それは例えば、精神においてとか意志力においてってことで限定がなされてあるならば、このことが実際適っているならば〜、別途、裏面においては「なんか最近あなた地味になったね〜」とか「おもしろくなくなった、つまんない人になっちゃったね〜」等の言葉で評されることとなる、なんかの無力化、弱体化、頽落劣化としての事態も

、進行してた〜してる〜ってことになる…。なにごとも一面のみにてで判断してはイケナイっと。それは単に馬鹿のやるこっとっと。



話しは戻して!、時間経過に伴って、物質としてのものは変化してゆく。だんだんと…。
変化ってことにおいては、メタ物質としての、魂やらアストラル体ってやつにおいてもおんなじだってことが言える。確実に、変化していってしまうことが避けられない。霧散して、消滅していってしまうばかり!。それらにおいての時のスケールってやつは、通常物質と比べるならば、えらく違ってきてはいるのだが……。

そんでだ、人が死んだならばだ、その体は、

ラザロ…。

エントロピーは増大の一途を辿るばかり。決して元へとは、もう戻らない。

自動的に、機械的にて、もう永遠に……。

散らかった部屋、散らばった机の上において、そこに求められる秩序ってやつを、回復するには誰かが、整理をしなおさなきゃ、手を出さなきゃ〜(

)ならない。でも回復されたるのその秩序ってやつも、また時たるを置けば、もとの黙阿弥にっ、なるってこともっ、また、避けれないっと。

*人間が。それなりの期間生きてこられる、こられているのも〜…
 なにかからの給与供給餌付けってのが

なされていればこそ。
 中でもその最たるものが、印象ってやつで、これが一番重要にして大事なんだろう……。

だから、ラザロは、やがてにおいて、どっかでもう一度、もう一回、確実に、


であろうと自分なんかは観てる、考えてる…。

確かに、

、イエスの超常の力をもってして、
あの”反魂の術”、”呼び魂返しの術”をもって、して〜、可能は可能であったのだろうが…。

世の摂理からすれば、このことは反する。理法、法理、道理からは、外れてしまってる。
ならばだ、この世においてでは、この状態は、長くには、続かないものだと判ずる。
これとしての成り立ち、その有効性は、この世ではないところ、天国としての、

、有効なる事態であると、そう思うべきなのではないだろうか?。

ラザロにおいてのあの復活は、死後において再び生き返ることがイエス自身のご権能において可能であること、その

であるとしての話しでしかない。でも〜イエスご自身は、そのことを為す果たす見せるにおいては、もしかしたらば、あの時点においてでは、

であったかもしれない…。ご自身の復活に

、証しとしての根拠を、その証明を、置かれたかったのではないだろうか?。でも、目の前にて繰り広げられている。近親者たるものの死に直面して、人のこころが、その死別としての現実に、その暴威において、打ちのめされてあるその現実にあって、そのお心をいたくを動かされてしまわれる。愛するものとの死別に際して悲しむ人々の、そのこころに同情されての、その

であったのではないか?!。

ことの刻印、死から蘇ることの、そのインパクト、その効果から考えるならば、
ラザロの復活は余計だ…。病を癒す、癒やしてあるとは余りに次元が違いすぎる。

新約としてのその存在意義は、この奇跡が、イエスに於いては、実際にあったること、
起こったることなのだとの、その報告、記録、以降の人たちに向けての伝達にこそある。


では、イエス、ご本人においては、実際どうだったのか?。

*先に言っておくならば、ラザロとは

既に完璧に最初から違ってる。
*ことはもういっときの、仮のうつしみとしてのそれにおいての復活ではあり得ないんだ。
*肉体において死しても、

死なぬとしての、その

、《存在》》そのものの、
 復活、現界、出現、となっていた。
*その事自体の開示のみにてで語られる、世が知り悟るべきことはある、あったるのだ…。

彼もまた確実に死んでいる。

その肉体は確実に、その時点をもって、

始まってしまっている。

覆水盆に返らずのたとえの通り、あの、ヒトとしてのイエスは、
もうその時点において、この世において、かってのの人間、人の子としての彼は、
居なく、在れなくなった。

だがだ、ここに〜、奇跡としての事態が起こってあったのだ!。

彼ご自身としての、彼そのものとされての

ってやつの、
それの独立においての、単独においての、その出現としての事態が…。

わかりやすく簡単に言うならば、

、みたいなもんさ。

だが、彼に於いてともなれば、その事情はいささか‥、かなり、異常なるまでに〜、
言語道断なるほどまでに〜〜、違っていたのだ。

ハッキリ言えば、それはむしろ

使

だった。

天使ってやつも、この地上にて現界されてるってのは聖書にても複数箇所記述がある。

あの「光体」としてのものこそが、イエスご本人とされての真実のお姿、その実体。

なにやらお伽噺めいたもの、その表現になってきてしまってはいるが、要はだ、
高次元体としての存在自体が、この低位としての物理次元にて、適ってあった、
出現してしまってたってことになる。

肉の体としての衣服は既に脱ぎ捨てられて、アストラル体ベースにおいてのその体と、
その組成と

再誕、再出現、再構成が、なされてあったのだ……。

だから!長きにわたる滞在は、も〜、できなくなってしまっていたのだ。

その()(しゅ)しばしのみ地上(ちじょう)(とど)まりにて、(われ)信徒(しんと)相目見(あひまみ)へ……

ここんところのことは、もう人には語ることのできない、わかり得ようはずのないもの、
その内容になる。

だから、ブラックボックスに、しとく。


*自分が語りにおいて、なにを、いったい、実際、やっているのか?
*開示されてある内容を手がかりとして、ことの実相を探るの、実例をもってしての見本だ。
*これもまた人が生きてくる中で養った、その現実感合理性に基づいてでなければならない。
*ある程度は、

、その欠落部分を、埋めなければならない。
ブラックボックスは最大限、小さく

ならない……。


大変興味深いのは、それにおいては、


ってこと…

これはなぜ起こった?起こって、

、あったのか?。

実際に、ご自身とされてのその心にて、肉の体にて、味わったこところのものが、
その反映が、本体としてのその霊体、アストラルボディにおいても、
起こってくるものなのだろう…。

一種のトラウマにおいての転写、事実においてのことの反映。

生きている間においての、その味わいが、その体験が、死後においての存在においても、
間違いなく反映が、為されてきてしまう、くるってことなんだろう…。
ここにおいては、

、絶対に、

んだろうな〜…。
現実に、そこに実際伴ってあった思いやら考えやら選択努力が、ことの結果を、その結果を、
左右する。人生ってやつにおいのその成果は、そりゃ〜複雑なでき、その評価対象になんだろさ……。数多の道筋を辿っての、それらあれら(複数の自分)、それぞれの実行拒絶忌避としてのその選択、その実際の体験においての、複雑なる結実、ってことにはなるんだろ……。

メタ次元に、メタ物質においてのことなんで、よくは分からない。知らない…。

でも、これにおいてともなれば、皆の見ているその前で、天へと、登って、

いったってことにも合点がゆく。これならば物理法則に支配されることはない。

天界においてこその、その存在構成と、既に、なられての出現が、

墓所にいおては適ってあったのだ。

ことの背景が、ことの背景におけるその実際内容が、かな〜りに秘教的……。

だから、この話しはここまで……。


えっと!あと身近にて長く暮らしてきていた弟子たちが、弟子たちでさえもが、復活したところのイエスに、その存在がイエスであることに気づけなかったって話しについて、関して……。

天界ベースにおけるその存在構成となったれば、それに対しての物理的光学認識においては、齟齬が起こってきてしまう。なんらかの介入をもってしての調整が、そこに果たされないその限りにおいては、人、人の子らにおいての認識が破綻してしまう。ましてや、

のそのまんまのお姿で、現れるわけにもいかななったであろうに…。使徒らのマインドを

、人間の姿としての認識が可能にされる、それとして見えるようにまで、

調

為されてあったのだ。(誰に何においてよってだ?。プラちゃんだよ…。)そんで、少し違和が伴う、伴ってしまってて、まるで知らない人間との認識に幾人かの使徒らにおいてはなってしまってた。でもだ、見た目より、彼の存在そのものに認識のベースをおいていた使徒においては、その感触をしかと意識できてた使徒においてでは、それがイエスであることが、どうしても、放っといても分かってしまう、そんなもんで、あったんではないだろうか?……。

*マインドの機能に、当事者に、齟齬なく現実を認識していてもらう、可能にしてあげる、
 そういった介入機能がある。ある意味騙してる。このことに当事者はまったく気付かない。
 気づいていない。いや気づいてもらってはそれでは困るんだ。気付かないままであること
 こそが、それにおいての義務役割務めなんだから。この機能を単独で表したのがジニー

さ〜て、残りはイエスのかっての肉体であったところの死体の方だ。

これもまた(かすみ)かなんかのようにして

ってわけではあるまいて。

そういった理解は、その収め方は、この自分は自分に許さないし、絶対認めない。

これは、こっちは、

、つけたたんだ。

聖書にての記述を読めば十二使徒以外に、

としての存在がいたってことが分かる。

あの「過ぎ越しの祭り」を執り行うにおいて、場所を用意してあったのはいったい誰だ?

?。

一人で、段取りのすべてをつけてた準備してたってわけではないだろう。

果たしてたとは自分は思えない。

複数人の

(?)が、黒子として、いた



これも興味深いのだが、大ぴらにその存在についてを、聖書は語ってはいない。

おそらくは「見守りの天使」としてのものらで、その存在であったのであろう。

ならば秘儀熟達者としての存在であり、天界と地上との架け橋的なる存在になれる。

この彼らが、天界との連携をもって、大石が取り除かれた後に、そのイエスの死体を、
そこより運びだしてあったのだ……。

その場には霊体としてのイエスもまたおられたのであろうと自分なんかは推察する、
いや

…。

*もといた/あった体の元、

にしか、出現できなった

いや、モーゼも、ユリアも、改めて、そこに、あの墓穴の中に、出現されてており、

以降の段取りについて、おいて、話し合われておられてたのではないだろうか?。


「この体の方は、いかが致しましょうか?」

『それは既に役目を終えたるもの、なので完全に人の目にはつかぬところへと、
 たとへば海へ、湖の底へと至るよう、運んでやってはもらえないだろうか……。』

「御心の、貴方様の、その思いのままに、アーメン……」



追加:

マルコの9:1に記されてあるイエスのこの言葉も大いなる謎なのだ…。

"I tell you the truth, some who are standing here will not taste death before
 they see the kingdom of God come with power."

「はっきり言っておく。ここに一緒に立っているいる人々の中には、
 神の国が力を伴って現れてくるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」


耳を疑うその内容、その事実ではないか…。

あの「怒りの日」たるものが到来してくるまでは、死ぬことのないものが、
実は今ここには、いるんだよと…。

不死者?。

イエスが語ってあったのは確実に使徒らにおいてのことではない。
その場には使徒らのみならず

もまたいた。
その内の誰かのことを指してのことだったんだろう。

そうならば、その存在は、確実に、人間ではない。

見守りの天使としてのその存在。


この

としての存在に対しても、おいても〜、自己の見解を述べておくならば〜……

元は人間であった者たちなのだ。それが天界に登るが適い、そこで天使存在へと変わる。

変えられる。

そんで新たなるミッションを与えられるをもって地上へと派遣されてきたる者たちなのだ。

その道筋は、その方法は、いろいろ…人としての再誕もまたその一つの方策……。

なぜに〜だ!?。人の子らの動静を直接、直に〜見定める為に……。

スタンドアローンとしての、それであることを特徴としての情報端末、センサーだ。

このことは当人らには知らされてはいないだろ〜がねっ。

かなりの数がここ地上にて存在していると思われる。

そして、また、それらは、入れ替わり、立ち替わりとしての役目役割で、
新たにウォッチャーとしてのものになったるもの、生まれてきたるものも、
いるのであろう……。

これがあのエノク。

おそらくは、あの彼が、最終コード、ことの開始のスゥ‥イッ……。(ネタバラシしすぎ)







                お終い





ご参照:

さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。イエスは言われた、「市内にはいり、

の所に行って、言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で、弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。
(マタイ26:17と18)


何々町の桶屋の誰それさんって固有名詞が弟子たちには伝えられ、与えられてあった。
この人はあくまで代表だろうと自分なんかは考える。



あとがき:


良い意味においての現実感、生活感ってのをもって、ものごとっては解釈するが大事。
それに基づいて理解するってのが必要にして重要だってことを、実例をもって、
それを踏まえて意識して、やってみたまで。なんでもかんでも鵜呑みにして信じるっ
てってのは土台無理がある。どっかで、ときを置けば、間違いなく信じられなく
なってしまうよ…。

もし、あなたがもしクリスチャンならば、今回の内容においては、ご自身とされての
その考察を、されていて然るべきなのだ。それも粘着質なるまでのその執念、
そのこだわりにおいてで。

面白いのが、長きに渡っての、粘着質にて考えていると、くると、きてると、
なにがしらかの答えとしての内容が、自然と、頭に浮かんでくるってことなんだ…。

いろいろと精査してみて、ご自身としてのされての、そのご自身としての、
納得、得心、了解のいくものとして、その内容は、その結論は、
持たれなければならない……。


probably it follows like this...


ここまで壮大なる舞台演出舞台準備をもってなってた、そんで語られたるの、

その霊体、天使体としての出現は、他には、一切、見当たらない。

だからこそ〜の、キリストへの信仰、その崇拝なのだ。




   草々



天村イオフィエル崇










だそく:

天国ってのに至っては、そこにては、いったいどうなっているんだろうか?

嬉しい、幸せだ、もう苦しみはないってその状態だって、常識的には、一般的には、

それとしての考えにおいてともなれば、いつまでも、その思いは、その気持ちは、続かない

無常なるはどこのなんにおいてであったって〜有効であるはずなのだから……。


おそらくの、その唯一の可能性は、もうそこ、それにては、時という観念が、

不要になってしまう、なってしまってるんだろ…。


だからこそ「永遠」としてのものが、そこにては謳われている、語られてあんだ。


なんだ…じゃ〜この地上にてもその時の観念たるものを持たなきゃ良いだけの話じゃないか!


ただ、今を生きてある、それにて、ただ在ればいいだけの〜、

そんな、その話なんかもしれないっと。


生きてる、生きて、在れてるってことだけで、その現実だけで、もう喜びなのだ。

いらぬこと、余計なことを考えるようなってしまってるから〜、

一切はおかしくなるんだ。




追記:

天国は、定められたものらのみが入場できるあの世!。
日本文化においては、仏教徒においてともなれば、そこは極楽浄土!。

そこにおいては、時間たるものがその意味を失ってしまう…だからこそのその永遠……。

ならばだそこには一つ問題が起こってきてしまう。
もう既に、そこでは

ではないかー!
きっと其処にては、そこでは、すべてが思いのどおりに即座に叶う!
思い通りにすべてが整ってしまってる!
苦としてのもの、確執しての体験が、一切そこにてはない!。

これはこれで困ったことになるな。

なぜならば、火をもってしてでないと罪が贖われないから、もう浄化できないから…。

向上、進化することも、当然もうできない。

たぶんことは選択になるんだと思う。

自分が思うんなら、地上への再誕でさえ、
受け入れてもらえる、叶えられてもらえることになるんだろさ…。
このコト自体が既に、特例、特別なる恩恵としてのもの、でしかないであろうが…。

天が永遠なら、地獄としての物質次元におけるこの地球も、地上もまた、
永遠に、存在し続ける、し続けてもらわなければ困る〜、ものなのかもしれない。
私らの為にね。

これが地獄の正体、それの存在意義なのかもね!?っと……。



方丈記で考えるのならば、永遠なるは河そのもの…

永遠なるものになるってことはだ、河そのものになるってこと、

それとしての一部に、なるってことなんかも、しれないね〜っと。

もう分断、分離、逸脱は、起こり得ない……そんな境遇、そんな状態。

それでいいだろさ……。


ことのその拘束を結束を制御を合体を果たしめている、くれているのが、

これまた

、「愛」の実在なんだろ。

その確認、その感覚、それのエネルギーってことなんだろさ。

じゃないと〜、ことは、絶対に、あり得ない!しぃ〜、適わない!!。




おまけ



https://www.youtube.com/watch?v=7iVyKDkqY80







云わわんでも分かるだろうが、右上の絵における連続性で、螺旋ってイメージのその根拠がそれとして総括されるべくしてのその理由が直感できるっと。老婆心で入れたまで。螺旋ってやつにおいてよく肝に銘じておくべきことは、それはそんなふうになってるなんて知らない分からないわかり得ないってことなんだ。またその変化においても分かりづらい。だって「ゆ〜っくり〜ゆ〜っくり〜」として変化でしかないのだから。ことにおいての急所は、あのインターバルとしてのポイントにぃ〜、今、自分がある、到達してしまってるってことに、気づけるかのかどうか…。ミ=ファはまだ自己努力の圏内、だが、最後のシ=ドの断絶は、絶対に自分だけの力では乗り越えられない。気付かぬとも、なんらかの助けが入ってきてる‥来ななくちゃ、ならないんだ…。神に祈り給えでしかないな……。

追記:

重要なることはだ、十進法になっているってこと。
最後の9は、9.9999999999…ってことで、ほぼ10へと至るその間際。
よって、限りなく10に近くって、もうイコール(=)だってことにしてもいいんだ。
そして、ことの完了と同時に、既に新たなる進展ははじまってしまってる〜っと。老婆心。


これに関しては少し寝かすってのも一つの手…。鋭意やる気を蓄えてから、それをもって再始動させる。なんどもなんどでもやり直す。でも、あんまり寝かし過ぎると〜するって〜とー、どっかで気が抜けて〜してもふて〜、もうなんでも、どうでも、いいや〜〜……ってなことにもなる。これはまた、これでいいと思う。客観的に必要なれば天が叩き起こしてくれるんで。新たなるモチベーションを、また違った切り口、そのアイデアを、与えてくれはることに、なるんでのでは、ないでしょかーーー!w。










これの真ん中としての展開は

、現実においては、あり得ないだろうね。(←どうしてでしょう?)。また左としてのものは、それとしての問題は、振れ幅が段々と大ききなっていって、どっかではスピンアウトしてしまうことになるのでは?。右端は実は誰にでも簡単。
でもそれは、それだけは、選んじゃ

っと。




一番上のステージは「贖われた」とされるもの。この状態へと至ることが各人のこの人生における課題。本事においてのその要点は、三つのセンターそのすべての調和して統合されたところにての発現にこそある。バランスが大事。一個でも抜けてたら、それは最早十全なる人間としてのものではない。一体化こそが要点になる。これへと至るためには、当人の努力も必要だが、外部からの助け、導き、影響、ショックってやつも、

、必須になる。だからこそ、自分を外に向けて、開いてあらないといけないのだ。じゃないと、このことはあり得ない、起こり得ない。現実と”ちゃん”と然るべく格闘してなさいってことでしかない。




これにおいて客観的メージャーってやつがわかりやすくなる。右端において未来が今に、つまりはそれからしたら過去へと介入してきてるその刹那が、その断片が、あるってことにおいてのイメージを持つことができるっと。ことの原因を言っておくならば、昇りと降り、行ったり来たりとしての振幅も反復も、また、規定されてしまってるんだ…。本源への回帰ってのが否応もなくセットされてしまってる。なににおいてのそれだったのかは、づっと後にしか、分からないんだけどね……。

*ご参考:うなぎは海底へと下る。産卵を目的として。鮭は川を遡る。産卵を目的として。
 共に共通するのはそこはかって自分が生まれた生まれでた場所なのだ。
 おそらくは本能においてプログラムがなされている。(←ではなんの目的で?)




この絵にある書き込みはすべてデタラメ。でも、統合ってやるにおいてのイメージを持つにおいては役立つ。また、ことは転落、堕落としての事態がいかに精神において影響を果たしてくるのかってことにおいても同じ。精神異常はなんにおいて起こって、発生してくるのかを知っておくべきである。それは誰にでも起こりうる事態なのだ。現実がひどいこと、辛すぎるようなってしまってるんでね。他人事ではな〜〜イっと。

追記:

上のもそうなんだが、マズローの欲求五段階説ってやつが背後にて透けて観えてくる。
これは基本関係ないんだ…。エゴにおいての人格においての社会生活を前提としての
ものは関係ない。いや!あるがなー!ってことではあろうが、そこに要点はない。

まずは”統合”ってことにおいての達成こそが課題としてある。
ではこの統合ってどうゆうこと?。
三つのセンターの一体化!…ってことでも実はない。この言葉はあくまでも要旨を、
掴みやすくするまでものでしかない。

要は今ある現実下において、そこに開けてある状況に対して、適宜、正当に、相応しく、
その対処ができるってことでしかない。ならば、自分の内面における三つの領域、それらの
反応において…、超越してあらねばならないってこと。ことの言葉の意味は、支配、制御、
コントロールが効いる、できる、できてるってことに他ならない!。
この状態は基本、幻……。おそそれとは手に入らない。
エゴ、人格において死なん事には、手に入らない。

物事においては、それにおいての自分の内面における反応は、だいたい二極にて分かれて、
その両極の間を振れてあるまでなのだ。好悪、積極的能動的ー受動的受け身的、反応無反応、
躁鬱、緊張弛緩、停滞前進、等々…。これらは二極間の、その間における振れ、として
総括することができる。してるっ!。

この振れそのものは悪いものだと良いものだとしての判断はない、できない。
ある意味ではありがたい動力伝達、それの供与としてでもある。
基本、根本原因は外から受け取ってるからね!。

ことの核心を手っ取り早く言っておくと、述べてしまうのならば、
ある種の超越状態としての貴方は、それとしてある貴方は、軸心として、
あらねばならないってこと。そこに存在の足がかりを、足場をもっていなければならない。

振れたる現象を意識しつつまたその事自体からは離れている、離れてあれなければならない。
それも…ただの傍観者でいいってわけではない。いろんな要素、いろんな力の関係性において
操舵を担当して、行って、あらねばならないのだ。(←これを神からのミッション、もしくは日用の糧として、とらまえてもいいと、自分なんかは思うんだ……。)

ここに、なにがどう為されるべきだとの、自分としての見識が、判断が、インスピレーションが、計画が、アイデアが、あってしかるべきなんだ。それは貴方の中から、あなたの本質から、自然とワキオコッテくるので、さしての努力は必要ないんだが…、それに向けての斡旋、操作を、操舵を行ってあるまでなのだ。これこそができないと、できてないとならないんだ…。


この、自分を構成してあるすべての機能、内面においてのすべての反応に対して、超越してあれる自分ってのはいったいなんなのか?。この問に対しての答えはいらない。それとして内外において然るべく介入、介在できているならば、もうそれだけで充分。これにとっての志向は、あくまでも自他においてのそれらを含んでの喜びだ。愛だ。なので、決して悪いことはしないし、できない。

以下は、後に宗像崇コーチから語ってもらうその内容なのだが……、
大地との一体化が、まず足場においての前提。ボールを打ち返してあるのはコレ。
そして体幹においての、それにおいてこそ、それを起点としてあってこそ、
自在なる運動が発揮される、行うことが可能になるのだ。
このことはそのままに、勝ち負けに執着せずしての、
あくまでも自在なるエースゲッターとしてある、あれるってことに他ならない。

ハッキリ言っておく、
これとしてあり得た日には、あなたはもう絶対に、負けることなどあり得ない……。

いまここに述べたことは、意識したり、努力したり、努めて行っているその限りにおいては
まだ本当、本物ではない。やがてにおいては、それとしてのものに、その状態に、かってに、
もうなってしまってる〜ってが一番いい……。


ps.ついでに…

Re: デール・カーネギーのあの二冊において。
「人を動かす」は、ありゃ〜ヒトの弱さ、人格においてのその利用の話しでしかない……。
「道は開ける」こっちは読むべき本になるな。意外と心配恐怖は無用無駄だってこと……。






いろんな表現において、これに近しいものがあると、それらを見てきたと思うんだが……。

み〜んな、直感においては、いろんなことを、ことの本質を、理解はしているのさ…。


これハ、スクリュー・アップとしての、その事態を、表してるんだ……

軸心が()れてしまってる…それが介在してない、意識されていない…。
神からの庇護に、加護に、誘導に、浴してない…。

信仰の価値は、知らず識らずの内に、この軸心たるものに、恵まれてあるってことなんかも
知れないっと。


screw up は和訳ではただ単に「しくじった」としかなっていないが、この表現が採用される場合には、ことにおいての前提がその背景においての含みある。「なぜしくじることになったのか?」、「どうしてしくじってしまったのか?」が重要になってくる。調子に乗って舞い上がってしまってて、可分を現界を分限を越えて、なんかやってしまってたのだ。そんで、アウト・オブ・コントロールとしての事態に、なり申してました〜だ。


大抵これとしてあった日にゃ〜、ろくでもないことになる…。


私めは

これとしてのもの〜、その状態になってしまってます。


だから、ろくでもなことばかりが伴ってきてしまうんだ〜(悲)。


だから〜〜、この稿も書かされた〜〜やることになってしまってたんだ〜〜〜(藁)。



messed up はものごとがごっちゃ混ぜとしての混乱の状況になってしまったがゆえの失敗。
あれやこれやを取り込みすぎて、自分でも整理のしようがなくなること。これもまた繁盛に
自分に於いては起こって、やってしまって、る〜〜〜。



真に、イエスの再来臨がかなったとき、はたして自分は彼をイエスであると、気づけるのか?。

彼は、ごく普通の…、むしろ、まったく存在感のない人間として、御わされる場合もある。

そんで、誰も自分に、この自分のことに、気づかないんので、

引き連れてこられた、これまた見えざる天使たちに、掃討を抹消を、お命じに、なるんだ…。





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