46.  イコノロジー

文字数 69,232文字

    未完…いろいろ詰め込みすぎた。なんかの反動やったんやろね……。ごみん。

だから、これは、誰かに読まれることなど、まったく、ぜんぜん、前提には、してないのだ。


                   天村 崇

ひとは物語たるものを必要とするのだ。これがなにかというと、因果の連なり、その流れとしてのプロセス、これの要約体だ。本読みであろうとなかろうと関係ない。ひとは物語たるものを必要とする。世にて溢れ返ってある物語のそのすべては、これらを骨子にまで還元して、分別整理を行えば、そこには、ほん僅か、数種類しか残らない。ほとんどのものが、これらの体裁を変えての焼きまわし、それでしかないのだ…。

現在はあらゆるすべてものが

としての時代に入っている。どれもこれも、どこかで、いつぞか、いつぞやで、「見たぞ聞いたぞ」としてのその内容ばかり。それらの再現ばかりでしかないのだ。“シミュラークル”としてのものばっかり。

でもこのことも、決して悪いってことってばかりじゃない。もし、元々のオリジナル、それを、ちゃんと消化して、理解した上での作品であった、

。問題は陳腐にして幼稚な再加工にしかなっていないってこと、来歴/本質/意味の部分、その核部を、棚上げにして、枝葉としての細部、見てくればかりにおいて、洗練が進んでってる、行われてしまってるってこと。

真の表現者であった先立らが行ってあったのは…、一つのたとえとしては、それは深海、もしくは地底の奥底にて埋もれてたなにか大切な貴重なるもの、これはたとえば宝を積んだまま沈んでいた船、太古において目的を持って封印されたままになっていた宝物庫等だ、先立者らがやったのはこれの引き上げ、もしくは場所の特定公開になる。これにしかない。ここまでなのだ!・ここまでが精一杯だったのだ。しかしだ、ことは既に、現在は、曖昧なるもののそのままに〜ではなく、列記とした目鼻顔立ちが付いた、付いてある、具体的なるものになっている。

つまりはこのことを踏み台として、更に作業としてやるべきことが、まだまだたくさん残されてあるわけさ。警告、警報、注意としての目的のみのものではなく、ちゃんと、悪しき結果に対しての打開策、改善策ってやつも、同時に提示して、されて、あらなければならない。この辺において、ほぼ100%が手つかず。やらないし、やってないし、できないんだ……。時間も金も手間もかかるし、そんな才能才覚ないし、なによりも楽して金と名声を手に入れたいんだ!。会社は。
               星人達は、も〜大爆笑さっ!

                 
もし、オマージュ、インスピレーションにおいてなにかを作るのであれば、かってのオリジナルが持ってあったそのパワーとしての本源、先行する表現者らがその時代において持たされてあった霊感ってものに対しての理解がいる。これそのものに、僅かながらと云えども、ちゃ〜んと、たどり着いていなければならない。

それらとしてのものに肉迫してあったればこそ、かって、具体的な結像が、イメージとして果たされてあったのだ。それこそが、そもそもからしてこの事自体もまた、難題ではあったのだ!。無事に、それとしてのものが具象化されてあったればこそ、あれらとしてのオリジナルは、パワーを、持ってあったのだ。それを観るもの感じるもの、観客らに対しては……。



コジラは東京大空襲、核心的には原爆。戦争の怖ろしさそのもの。ならばだ、次点において課題になるものは、これを如何になくするかになる。左に振れたならことは災厄としてのもの、右に振れて平和利用としてのものになれば核融合発電。戦争はどうやったらどうしたらなくなるのか?。これはなくならない。なくすことは不可能だ。大多数としての人間が業を乗り越えられないので。ならばことの打開策はないのか?、我ら人類は滅亡を回避するべくしてのその逃げ道はないのか?。個人においてともなればないこともない。社会の中にその身を置きながらも、こころはそこにはないこととするをもって。マインドを超越してあるってことは社会そのものは無効化されてあるってこと。意味を失ってある。そして、頼れるべきものは、天しかないってことになる。神を頼って、平和を平安を幸せを、願って求めるにしかない。これが究極の結論になる。これをメッセージとして如何に物語としての全体をコーディネートできるか?だ。この面において匠であるべきなんだ。このことを伝えるだけにおいても無限としてのその表現、脚本、その描写はありうる。実際においては、いま自分が上であげた結論がおざなりにされている。これにしか収斂しえないのに…。単にことの怖ろしさを、これのみを、拡大洗練して語ってあるまでだ。どうして?……。

そこまで踏み込んで語ると、表現すると、視聴者等がついてこれなくなってしまうから。結果、コマーシャルベースで失敗するから。いらぬ炎上を招いてしまうかも知れないから。円盤が売れなくなってしまうからだ。それは!、そこは!、視聴者等自らに委ねられてあって、然るべきだから。単に、切迫感がそのこころにおいて意識されてないからだ。責任感も自覚されてはいない。ならばだ、お前たちはなんの為にゴジラ等の物語作品を作り上げようとしてる?。金と名声の為。関係者みんなの懐を暖めるため。ならばだ、お前たちはみんな、眠りとしてのその状態にて満足していたいだけなのだ。それこをが我らにとっての幸せなんだと。そういった奴らなれば、いざというときの天災において、なんも分からぬままに、無自覚のまんま、滅んでゆくまでとなるのではないだろうか?。いまを真に生きるというならば、この一線こそを、リスクをとってでも越えるのが本懐なんではないだろうか?。かっての名作としてのオリジナルを生み出し得たひとたちは、みな等しくこのリスクをとっていた。ならばこその、なればこその、異常なるインパクトを、作品群は、もっていたのだ。視聴者らに対しては...。



自体の最深部に宿ってあったものを、その核を、もしくはことにおいての析出を果たしてあった、その原動力/本質原質/核心たるもの、その部分を、同じく消化した上でのものであるならば、それは立派な創作行為になる。むしろだ、かって先行して果たされてあったその偉業を、更に推し進めたってことにもなりうるからだ。

オリジナルを踏み台として、更なる跳躍が、進歩が果たされてあったのなら、これもまた一つの偉業としての作品に確実になる。偉大なる芸術としての創作行為だと間違いなく云える。このことにおいての課題は、かってにおいてでは、明かされぬままにて終わっていたところ、その意味の掘り起こし、開示、公開、説明等にある。結果として新たなる語り、それとしての物語が必要になって、誕生してくることになる。

具体的なそれずばりを表しているそのシニフィアン(表すもの)をゲートとして入り込み、析出化そていのその経路をたどり、それ本体においての意味、つまりはシニフィエ(現されてあるもの本体)へと真実、至る。これを為す為には理解力と直感力がいる。なによりも特殊な能力として、同期/同調/共振/共感としての能力が当事者にはいる。プラトンの、エイドスとイデアもおんなじ概念。あとカントの持ち出してきた物自体って概念もだ。これはイデアとエイドスのことを云ってるにしかない。ちなみに前者は、マインドにとっての言語/コードで、後者、はひととしてのその全体性においての言語であるとしておきたい。とりあえずは…。ほんとは、魂においてのとってのダイレクト・インターフェイスにおいてのその中身なのだとしたいのだけれど……。

このことはなんにおいてであってもおんなじ。ことが為されてきたその筋道に思いをはせるのなら、起こってくるのは驚嘆とそして感謝、尊敬としてしての思いなる。そしてこの自分もなんにおいてであってもいい、一助なれども後の世の人々の為になれよと、自分としてのなにかに打ち込むこと励むことが可能になる。おんなじテーマ、おなじ題材である必要はない。

それらのどれもこれも、表されてあるって事柄の、その事実としては、のものの背景を、察して、創造して、思うことは、ヒトの生存における、どうしようもない、切ない思いばかり…。悲しくって、つらくって、苦しくって、救い難くしての、これらとしての、も〜どうしようもない思いばかり…。これらとしての思いを引き出してある、避け難くしての事態を、それらにおいてのことを、なんとか整理をつけたくって、そんで、考え出された、生まれて来るものなのが、ことにおいての解き難くしての難問を、棚上げにするにおいて、いと有効なるものであったのが、物語群。*神話としてのもののその殆どがそう。*あかんことをあかんこととして強調してるまで。*それを読んだ接したとしても、ことは、なんも、変わらんよ。でも、これで、いいのだ…。

そして、任天堂のせいでなのか?パソコンゲームが流行りとなった性なのか?、一つ問題が起こってくる。ヒトのこころ、つまりはマインドをインターフェイスとして、現実としてのその世界における核心を、抽出してくるといった作業、つまりは、そのある意味、リアル世界において、それについて、こころの直感と想像力をもってしての分解ー統合ー探査、これを行う、これが、本来の健全なるあり方なのだが!、そうではなく、思考と想像の翼を広げるにおけるその世界を、ゲームとしてのものに準拠して、つまりは、それにおける世界構成に頼って、これに倣って、これに準じて、行ってしまってあること。簡単に云えば、想像を広げるその対象としての世界が、マインド内おいて新たに建設させられた人工世界と、置き換えられてしまっているのだ。それは、一回人工的な恣意的な操作を加えて再構築された世界だってことになる。舞台としての場所、ものも違ってきてる。



フリーレン…いま流行りの人気のアニメそれの主人公ですよね?。これをまずはこれを題材として取りあげてみよう。自分はこれにまったく関心/興味はないんだけどね。あと呪術廻戦ゼロ86も採用する。

まずぶっちゃけ作者に対して思うんが、「おまえも女神(女性)崇拝主義者なのか?!」ってこと。女性としての存在を、その美しさにおいて、絶対神聖視して、も〜てる…。たぶんその魂は、もう女性としての存在に対しては、観念としてのものね、蕩けんばかりなんだろさ。もうそれだけで女性は無敵、無敵としての存在なのだ…。*これとしての表現者は多い。あのクレイモアの作者なんかも、もう完璧に、それとしての人間だった。*あのスティーブンスピルバーグも、「ポルターガイスト」を観る限りにおいてでは、これとしての人間であることは間違いない。ドラマの最後は、母親が、どうしたものなんか、女神パワーを発揮して子供を悪霊から救うのだから…。







立ち読みして読んでたマンガのその最後の作品になる。いつまでたってもこれ終わらなかったな〜。そして設定としてのいくつかは使われず仕舞いだった。もったいない。すんごく絶望的で壮大なる世界観であったはずなんだが…。人気があって単行本も売れてたんだろう。出版社は早期の打ち切りを作者に許さなかった。執筆の継続のみを命じてあったんだろさ…。







恐ろしくまた残酷にして非情なる存在であり、かつ片や男の心を交接へと誘ってやまないその魅力!。もう信じられないほどまでのエロとしての作用力を持ってる秘めている。また、これが決定的な要素になるのだが、母性としてのものへの信頼度は半端ないんだ。男の心性としてはだ。ことは有無を云わせぬ力を持っての

彼女らは男に対しては実際持ってるんだ。www。


        こんなんもう無敵やん!。男性たる存在のその全てに対して....。
    でもね〜…このパワーは

彼女らからは離れていってしまうんだ。
いっときだけのその滞在でしかなかったんだ。では、それは何処から来て、何処へと去った?
               これの正体もまた活性元素。

ちょっと蛇足として…。この自分はどうしたものなのか、母親との関係において、徹底的にダメに、破壊されてきてしまってきてる。つまりは、いっさいの幻想を持たないようにと状況において躾けられ教えられてきてしまっているのだ。これにはなんか理由があるよな気がする。依って立ってあるべきものとしてのその対象を、天のみへと限定させる、収斂させるべくしてが、ことの真相その目的だったんだろさ〜www。ps.父親は父親で、あの彼に対しては、一度は殺意をも覚えさせるような、持たせようとしての、そんな状況の誂え、演出ってのが為されてあった。不思議!。家庭も旧来としてのそのあり様は許されなかったし。外の赤の他人さまたちと、本いっときだけとはなろうが、年月の積み重ねにおいて、善き関係を樹立していなさいだ。笑かして差し上げてあるのがお前のミッションだと…。

                   それはーー!

                    読者

ならば、なぜにロリとしてのキャラクター造形にしたのだ?って思うところもあるのだが、これは純粋性、処女性、まだ人らのことに関しては無知、結果未完成であるってことにおいての、その部分を強調せんが為であったんだろう。だが、これだと、女性たるものが持つ、その真の神聖力としての部分が、薄まって、弱まってしまうことになんだけんどね〜っ!。成熟した女でないと女神天女は、大地母神としてのものは、務まらんって……。

これの作者が意識してるのかしてないのかは知らないが、設定においてのその実体を語るのであれば、あれ、フリーレンは天界人だ。もうそれ、そのことだけで、ヒトからすれば絶対の存在になる。では何故に、天界ビトが、地上において、ヒトと生活を共にしているのか?。ヒトについてを学ぶ為、その彼らにとっての価値、大切にして尊きものとなっているものを知る為に、そして彼らとしての動向を、

ある為に。フリーレンはまだヒトとしての生命体に関してはあまり知らない、



逆アプローチとしてむしろ彼女は人間から学ぶこと、いたく教えられることがあったとする流れになってる。ならばだ、これはもうワンダースリーにおける、“ボッコ”としての存在、その立場ではないか…。


先にひとつ重要なことを云っておく。すでにどっかで一回、云ったことではなるのだが。自分よりも格上の存在を、その存在

、比較して優劣つけることは

。適わないんだ。戦い等の結果にて分かるまで。そんなことに関心持つこと自体が既に愚か者のすること。敬具


ちょっと脱線:

Re: 魔族とゴブリンにおいて、ついて…。

物語におけるその世界は日本国内のことでしかない。ここに対して外国から鉄砲伝来を機に、悪しくしての者共が入り込んできたのだ。そしてその勢力を拡大していっている。この日本としての国の特徴は、そのありがたみは、自然に雨に四季にいたく恵まれてある閉鎖空間、島国であったってこと。そして、非常に希有な尊き教えとしてのその種が撒かれてあったってこと。結果、

、良心、本質それそのものものの誘導に従っての、これこそに価値を置いての、道徳心に厚くして、他者への思いやりたるものをその身にやどした、国民風土体質たるものが出来上がってた。これは明治建国までの話しね。その状況は、外から、外国人の目からすれば、至極子供っぽい国民たちだと思えたそうな。素朴、純朴にしてとても単純であったからだろう。そいった面は顔や姿その振る舞いにおいて顕れてくる。真面目で、よく働いてあったであろうことは高度成長期の、昭和のあのころの労働姿勢を見れば簡単に推察できる。

まっ、いろいろありまして、結論総括的には、日本以外の、特に先進国としての人々、外人が、もし、なんらかの形での、

目的として、ビズネスとして、この日本に来ているものなら、生息しているものらなら、そのものらとしてのものは、全部、魔族、ゴブリンとしてのものなのだと。頭脳戦略、侵略を得意としているもの等が魔族。あくまでも力押し、ごり押し、物量作戦にて臨んできてるのがゴブリン。高次か低次かの差だけ。基本、ゴキブリ、ゴキブリ以下の存在でしかないんだ…。




どちらも人間のことを、つまりは日本人のことを、単なる喰い物としか見てない。殺すことなんてなんとも思っちゃいない。嘘もつき放題。彼ら外国勢からしたら、結果こそがすべてになる。最終的に勝つためならば、手段を選ばない。詐術策謀人殺しなんでもありだ。ってな存在なので、彼らの云うことは一切信じてはいけない。自分が助かるためなら命乞いはもちろん当然、ひとのこころの純粋なる部分、その良心としてのものまで揺さぶりをかけてくる。

       なので、こちらとしての行動の方針は、ただひとつとしてあるのみ。



これは魔族としてのものに対しても同じ。すでに問答は無用としてあるべくしてのその時点に我らはある。その状況に、入ってきても〜てるんだ。でも、このことが実際に行われているのは貫徹されているのはアニメにおいてのその世界内でのみ!。このことが実際に強制的をもっておこなわれるのかいなかが剣ヶ岳。放っといたら確実に日本はだめになる。

テレビの中としての芸能文化はすべてK国系にのっとられてしまってる。NHKがずばりそう。放送されてある芸能人のその殆どが、あの国を母国とする人間ばかりではないか…。新たなる半導体生産体制もよくみれば外国資本においてのものだ。誰の為に働くっていうのか?。為政者等はこの国を訳の分からん幻想において売り払ってしまってる。ネオコンすトラクションをスローガンとして考えてる、差配を行おうとしてる人たちとの協業においおてで……。



      生粋の日本民族としてのその真の怖ろしさを、に置き換えてみてください。


日本人にとってのゴブリン魔族にあたるものがアメリカにもいる、ある。獅子身中の虫としてのものが…。本来からの、古来ゆかしくしての、その文化的価値観ってやつと、絶対に合わない、そぐわない人々、人間としてのものが、ものたちが…。だからこそ、心理的反応において、忌避、生理的なる不快感嫌悪をもってしての感情が起こってきてしまう。長きときが、これこそが培ってきた、培ってきてくれた、尊きものとしてのそのイメージ、それにおいての感情、満足、至福、これを根底から破壊して、しまってあるもの……。これらに関してをまったく理解してない、持ち合わせていない、そんな存在たち…。これがもう大量に我等の生活圏内において生息してしまっている…。その彼らにおいてのバイタリティーがその生命力が性的魅力それこそが恐ろしく、また忌まわしい。まるでお前らはゴ●ブ●か?!のようではないか……。

一つだけ、眼と眼が合えば即発動する、妖しい魔力みたいなものをこの人種は使うことができる。どうしたものなのか、女性は、この作用に対しては、逆らい得ない、難くなってしまうみたい。ソウルミュージックなんかにそれは現れてる。純粋に獣としてのその能力その特質が、人間において洗練されたものなのだと思う……。





アメリカ、ハリウッドにおいてゴジラたる存在において投げかけられてあったそのイメージ。脅威としてのもの、巨体、巨大なるもの、おぞましくしてのもの、また憎むべきもの、我等の生活生存においてのその破壊者!。適切にまた的確に、最適なるイメージが、我等が抱いてあるそのイメージが造形化されている。これってもう完全に●人じゃん!。そ〜私は一見において〜、思いました。感づきました!。おわり、もうこれに関しては終わる。彼らもエライものをその身中において託っている。自業自得としてのことでしかないんだけれど…。


     マイク・タイソン…。

ボクサーであったらしい。オラ、知らねっ…。


           閑話休題、話しはフリーレン本体に戻して:

呪術廻戦における呪術ってやつは、所詮はキャラクター設定としてのそのプログラムに過ぎない。これの元々の考案者は荒木飛呂彦だ。これだとも〜〜無限に、あらゆくアイデアが根拠なくして有効になって、されてしまう。ことはアイデアのインフレを引き起こしてしまうんだ。それはもう既に魔境、冥界(あの世)においてのこと、そこにおける創作になる…。

片やフリーレンにおいての魔法は、科学技術、超テクノロジーとしてのもののメタファーでしかない。魔族は、ヒトとしてのこころを失ってしまった元人間。ハスナムとしてのものだって云っていいだろう。経済的優位性、軍事力としてのものを押さえて、託ってある現実的な意味においての、この世の支配者たちのことだってことになる。

追記:
もしくは、神としての存在の、その真の力、創造の力のことなのかもしれない。潜在的にはこれは核爆弾にも等しい創造の、また破壊の力を秘めている。それもだ、一人一人においてだ!。(これはデタラメを言ってるわけではないんだ。あるときにおける直感理解、直感把握だったんだ)。だが、この力を開放することは、我が意のままにて発動させることは、思い通りとして使いこなすことは、残念ながらただではできない。これが出来る為の、そのお手本が、イエスになる。模範であり、また実証実例としてのサンプルになる。彼が経てきたその解脱としての道筋を、同じく歩めたもの、真に歩みきったものの話しに限る。ここは、この稿自体の真のテーマに関わる…。終わり。

では、魔王とはなんなのか?。ロスチャイルド等のことでしょう。それらに影で力や知恵やインスピレーションを与えているのがあの御大のことだってしてもいい。表としての代行者は都度変えられて代わっていってしまってるまで。興味深いって云っちゃ〜なんなんだが、変なんだが、ことにおいては背理ってのがあって、強者たらんとすれば、それとしてのものに成らんとすれば、誰もが皆、魔族、魔王としての存在に行き着いていってしまう。戦って勝とうすれば、その憎むべき相手と、おんなじもの、それとしての存在に、限りになく近づいていってしまう。結果、同じく等しくしての存在と、なってしまう…。

すべてを自分としての池の中に生きてあるその生命たちだってことで受容するにしかないんだ。清濁併せ呑んでで、あるにしかない。ならば、この池としての自分は、なんなんだ、どうなっているのか?。理解がいる。すべては、当人らが知る知らぬに関わらず、完璧に関係関連して在るってことの現実をリアルを、フリーレンはどうしたものなのか達観してあるんだろな…。(超越してしまってある。元から…天上人だから…神存在に等しくしての不死だから……。)

あれは偽装をもって描かれているが自然としてのものでしかない。もしくは、単に、まだ未だ、人間たるものを理解していない天上界のものなのかもしれない。それを学ぶ知るべく、ここ地球へと遣わされてきた。もしくは、その長くしての寿命から、この地球としての自然、これにおいてのなにか…。

では、彼女がやがてにおいて行うその“葬送”とは、いったい誰に、

ものなんだろうか?。おそらく極論的には、この自然としてのものが、彼女が自身そのものだと認じてある世界、彼女自らが、とりあえずものとして受け入れているある、そうであることを希望期待してある住居としてのこの世、この世界、彼女自身、無意識無自覚にて定めて、イメージしてあるのだが、自らを、この池としてのそのまるごとだと、思ってあるこの世界、ここでの現実、これを乱す、その存続を危うくするものに向けてなのだだ…。

別の表現をするならば、彼女が生まれながらにして持ってある、その達観へと、至り得ない、至り得なかったそのすべての存在に対してだろう。これは悪しくしての傾きにあるその人類に向けての対しての葬送としての行為となるのかな?……。

魔族としての人間、それへとして元々あった、それへと変質した、してしまった者らに対して…。彼らこれらに対しては一切の同情、思いたるものは、持たないし、持ち得ない。魔族が人間に対して持つ、その傾向、思いとまったくおんなじさ…。幼き少女としての姿をしているが、これは偽装でしかない、彼女は天界側の代理、代表としての存在でしかない。



彼女が心底求めているのは、あるのは、池としてのその彼女にとっての現行の世界が、
あくまでも普通、一般、平穏であること。それも永遠に!。このことだけ。
天界たるもののその投影、かって所属してあった魂のふる里への憧憬。



自分はアニメでしかこの作品を確認してないのだけんども!、アニメにおける演出が、なんか平板と云うか〜手抜き!、雑!、上辺のみ!、その洗練にてで終わってる。例えば、デンケンを殺すぞとフリーレンがラオフェンを脅してあるとき、ラオフェンの視線は、内面における動揺をもっと強調するべく、またデンケンへの注視として、もっと表現を、コマを、挟むべきだったのだ。やけにあっさり、流れのままに、観るものが押して測れよと云わんばかりに終わってた…。

かっての、あのR.O.D. TVシリーズにおける演出と比べるなら、アニメーターらは「才能なし」との誹りを受けてもしょうがないと思う。演出におけるドラマチックさにおける工夫は、たしかに色々とあるが、こころの機微に関しては、おこちゃま向けの表現にて終わってる。手〜抜いてる。あちら(紙アニメ)の方は、あちらはあちらで過剰となっていて、なんで男が、女性心理の機微が分かる?、それを表現することにそこまで拘るのか?が、分からないのだが…。若いアニメーターたちにおける才能が拙く、またその製作における動機、こころが、あまりにも未熟で幼稚であるが為にだろう。映像はいたくソフィストケイトされてはいるが、それは上辺においてのみ……。


脱線:コラム
今日やっとROD TVシリーズを全部見終わった。これが二周目になる。最初、見たのは、もうかれ十年以上も前のことだ。OVAは完璧だったけど、TVシリーズの方ではあそこまでのものにはなり得なかった。お金とマンパワー、そしてなによりも時間的な猶予におけるその制約のせいだったんだろう。改めて見てみて思うのは、あれは凄い作品だわ。一回初回で見ただけでは制作側としてのその切ない思いにてが分かることはない。三人が姉妹となったあの教会でのドラマは、ほんとうにあった、ことだったんだ…。←これは、読者における良心の、それの救済を目的として、無理矢理に、あのマリア像としてのシーンは加へ、られたのだと思う。


さて、自分としてここにて語り付け加えるべきは、あの「ジェントルメン復活計画」においてになる。これを発端として、全人類の記憶としてのフォーマットを書き換えてしまうってやつ。生きながらにして過去に関する一切の記憶が消され、奪われ、そのうえで、新たな記憶が移植される。人類全体において、調和としての生存がこのことにおいて達成されるのだと…。これはマインドというシステムにおいてのリ・フォーマットのことでしかない。でもね、このことの有効範囲は、良くて一世代オンリーとしてのものにしかならない。業としてある人間の性は、また違った領域、メディアにおいて、保管されているからだ。これを変更させ得るのは当人においての葛藤としての苦しみ以外にはない!。人工的に入れたり出したり、思い通りのものを作ったり与えたりは、人間にはできない。だが、設定においてのあの発想は、驚嘆に値する。よくぞこのあのことを、つまりはマインドたるものの正体にあれほどまでも肉迫できたな〜と、それもギリギリの要約、それにおいてのアニメ化ができた、叶ったものだなっと…。あれはもう真の芸術作品だっていっても構わないだろう。でも、万人に向けてのものではないな。自分のような人向けにおいてのみ評価を受けることができるものだ…。脱線終わり。

           https://aniwave.to/watch/rod-the-tv.822o/ep-26

もう一個。最新版うる星やつらにおける、水乃小路飛鳥ちゃんにおけるあの表現はなんだ?!。ただひたすら、ファンからの批判を受けないようにと、安全牌を踏んで選んで作っているまで!だ。多分、彼女の面白さが本当のところでは分かってないんだろう。よってセンスのない人たちが、ただひたすら真面目に、熱心に、原作通りに、お叱りを受けないようにと、お話を構成して再現してあるまでなのだ。自分が分からんものを表現することはできない。原作におけるそのキャラを活かすことを課題として、ちゃんと再現することもまた当然できない。良き読み手としてのセンスも、元からして持、ち合わせていないし、またこころの余裕ってやつも、また、ないんだろう。これこそが、まじ、恵まれていないんのであろう……。ここは完全に蛇足。


追記:

魔族がどうして、いや、悪魔ってやつはどうしてあんなにも自己顕示欲が強いのだろうか?。

力こそが、人間に対してのその権威の高さこそが、至上の価値だと思っているから。
一説によれば、人の子らに仕えてこれを守れとしての命令が、大天使としての彼のプライドに
いたく障ったからルシフェルは大帝に対して逆らったとのこの。これがことの発端。

それが真実であることの可能性はあるな…。とにかく力、権能こそが、彼らにとってのすべてに渡っての(よすが)なのだ。だからこそ、それを如実にアピールしても、そうしてあったしても、更にあまりがある、余りが、あり過ぎて、ある。尊大、傲慢ってやつは何処から、どうして起こってくる?。それは、ex神的存在で、あったものなのだ……。



戦いの前には名乗りをあげるのが古式ゆかしくしてのマナー。そうではあるが、こんなことする必要はないとない!と思う。もし必勝を誓って思ってあるのであれば、隠密としての行動が、闇討ちとしての攻撃が一番有効だ。自分ならば全体にこの行動をとる!。いろいろと、このことに関しては思うことがある。なぜに奴らは、事前にベラベラいらぬことを、語ってしまってあるのか?…。御大層にも書籍にして具体的な計画まで披露してあるではないか…。たぶん押さえられないまでのその傲慢としての、高くしての

、自分、自分たちは、特別なる存在なのだと、最初から選ばれてあるものなのだと、この思いの性なんだ。御本尊としてのモノにおいての、おける、その性、その位、この、かっての由来の、せいなのさ……。彼からの波動にか前に染まって同調してしまってあるからなのだ!。なのだろう……。

あらゆるすべてにおいて云えることは、ことは、なにも隠されてはいないってこと。知るべくしてのそのすべては、どうしたものなのか、面にて、表にて、ちゃんと、開陳されて、陳列公開公開されて、更には語られて、しまってある。

Re: カトリックの総本山、本部であるところのバチカン。

ここがどんなところなのかを今更語る必要はないとは思うのだが、念の為に。すでに、アチラっ側としてのものに堕ちてしまってある。中世における免罪符の販売ってやつでことは既に公になってたはずなんだが。宗教改革においての話しは置いといて、現行、現在の公開情報において、このことを察することも簡単なのだ……。







パット見で地からなにかが湧き出してきてるってな表現だ。そして、それとしての噴出の上部にて再臨されてあるキリストがいる。どう考えてみても、オドロオドロシイとしてのその印象になる。えらく悪趣味な諧謔を効かせてのもっての作品でしかないなと思う。あれはイエスなんかではないんだ。偽キリストとしてのもの。彼自身が地の底から開放されて、地上の支配者として君臨すること、してあることを語っているまで。





もうこれなんか異教の神々としてのものでしかありえない。マタイより抜粋: 預言者ダニエルによって言われた、荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば、

、(略)その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が、起るっと。

上の彫刻を製作した担当アーティスト。この彼は単なるダミーお飾りとしてのものだと思う。



             そしてもう一度、キリストのアップを



とにかく、悪い冗談としてのものを、御本山においてで、そこでもってで、大々的に

やりゃ〜がったまで。あそこはもうほんとダメよ。彼の軍門に、も〜完璧にくだってある。その証拠にカソリックの神父たによるチャイルド・アビューズドとしての事件が、表に出てきてるものだけでも、とんでもない件数になってしまっているではないか!。*よそのことばかりも云ってられない。比叡山における大阿闍梨、千日回峰行者が、尼さんを手籠めにすることに加担してたっていうのがこないだ事件として我が国においても報道されてあった。被害者としての女性自らが告発を行ってあった。検索かければでてくるから…。



話しは戻して。ユダヤ血統としての学者等も、たくさん未来予測と銘打って図書を出版してきてる。みんななかなかの的中度だ。あらためて、なんでそんなことをしてるのか、するのかが分からない。もし自分ならば、

ならば、経緯においてを関してを公開することもやぶさかではないだろうが…。基本云えないことばかりなわけなんだが…。だが彼らの多くは、事前においてで、そのことについてを、かなり明確明晰に語ってしまってある。つまりは確信犯ってことなのかもね。いや、本家本元としてのその存在の傾向性が、その性が、彼らにおいても影響ししまってあるってのが、真実なのかも知れない。

大言壮語、嘘っぱち、ペテン師であるってのが、とあるレッドドラゴン国におけるその如実な本性、特徴とはなっているんだけどね。傲慢にして尊大。威圧的、暴力的…。馬鹿で不品性でほんと頭の悪い盗人としてのその民族性。これもアヘン戦争において自国を防衛することに失敗した性もあるのだが…。著しく精神退行があそこの国民全体においては長期にて進行してしまってる……。






       ちょっとここで別の切り口からの話しを差し挟ませてもらおう…。

          この語りびとを、もう一回再登場させてもらう。



不慮の事態において、マインドたるものが、それの機能によってなる自己意識たるものが獲得される。そして、これをもってなる、これによってこその、これによってのみこその、外部、他者、対象認識としての能力が獲得されてしまうこととなった。もし、これに追加して、不死としての事態が付け加えられたなら、もしこれが達成されたのなら、我々人類、人の子は、非常に劣悪にして、また陳腐至極なる、…その神、それとしての存在になる。つまりは、現存する完全調和としてのこの宇宙を、然るべくしてあるこれの進化の行進展を、阻害する、ダメにする、毀損する、そんな存在になってしまうのさ。

マインドたるもののモデルは、テレビを通してのもの、もしくは映画館にてスクリーンを観てる、その状態である、っというのが一番近い。マインドとしてのもの(スクリーン)に、感覚をもって入力が為される。この内容に対しての処理、思い考察考えそのものが果たされてあるその場がまたマインド、これの内でのことになる。そしてアクションとしての行為が行われてその結果がまたマインドにおいて検証される。変なプロセスが置かれているな〜っと思えればいいだけ…。

この検証、賞味としてのその行為が、マインドを舞台として、これをテーブルとしてのその舞台上にて持ち越されてる。しまってるってことってこと。これはこれで、意味意義あることではなるのだが、非常に有益にして、また役に立つことではあるのだが、これ一本槍に、なってしまったなら、それはもう、いろんなことが、おかしくなって行ってしまうのは当然のことなのだ。

冷徹にしてまったくの客観性をもってのものならまだしも、実際は、えらく偏向、色付けとしてのフィルターが、掛けられてしまっている。恣意というか、個人的な嗜好としてのその偏向偏見オモコ、我意としての思い期待要望が、ことにおいては大きく作用してしまう、しまって、いるからだ。

一番厄介なのが、この自分を利するものなのか?それそも損としての結果をもたらすものなのか?、このメジャー。個人個人バラバラの標準を基に判断されるベターワーストの評価。暑いだの寒いだの美味しいだのまずいだの良いだの悪いだのの判定のこと!。各自においてこの判断評価が為されてあるのが、各人各様としてのそのマインドとしてのフィールド、それにおいてなのだ。


内面/内界において、それについて…また外部/外界において、またそれ対して、思うこと、考えること、感じることの

鑑賞、体験されて、ある。ことのすべてを、絶えずモニタリングしているってことでしかない。自己に備わってあるマインドたるものにおける画面、そのフィールド上において。

ここにおいて重要となってくるのが、ことにおけるその

ってやつ。また鮮明度。映画を題材にしたので、これにおいてで考えるのがいい。スクリーン上にての映像がビビッドにして、また奥深くしての色調においてで映し出されて投影されているのか?。また。なんでもかんでも鮮明であればいいって訳でもない。意識において、捉える察知する気づきべきことへのフォーカス・オンが、自動的にで、ちゃんと果たされているのかがまた評家においてのポイントになる。

絶えずいつも外界との関係において没入してあるってのは、ある意味、おかしい。それは動物としての有り様か、マインドとしてのそのリミッター/フィルタリングとしてのその機能が、解除されてある状態でしかない。ある意味「いっちゃってる」の状態のこと。これも然るべくしてのときを選んでとしてのものであるならば素晴らしいこと、素晴らしい体験としてのその一時になる。でも、このことのオンオフは、所詮は、現在のヒトには扱えない。選べないし、コントロールもまたできない。あくまでも偶然としての世界からのギフト、サポートしての介入があればこそ。心身脱落としてのそのことの達成が果たされないその限りにおいてでは……。



情報の入力、摂取とそれらに対しての処理。これらはすべて個人としてそれが持っている癖、偏向としてのフィルター、これによっての加工がされてからのものになる。入力そのものも万全完璧ではない。外界の投影再現、ってこの最初の入力のプロセスからして、真っ当ではないんだ。ことは当事者であるその個人においてモデファイされてしまっている。疑似現実としてのその再現、それの再構成、これでしかない。人は大概はある程度までは、これに見入っている。魅入らされてしまっている。それがどんな出来栄えであったとしてもだ、そこに映し出されてあるものを現実だと普通だと認識してる。リアルだと思い込んでしまってる。この局面においてともなれば、ある程度はアシストとしての気づきってやつをもたらしてくれる助っ人ってのが、影では、影から、介入している。分からんように介入して、くれているんだ。絶対に識るべきこととしてそれをそのことを指し示してくれてる。自分にはそれがなんなのか、どうしてなのかは、そん時には、分からんのだがね。これも、いやいやことのすべてがだ、その人の意識の有り様、その出来栄えってやつに、大きく左右されてはきてしまうのだがね。入力としてのその内容自体、処理を経てからの、その結果出力としてあるのものが結像だ。マインドとしてのそのフーム上にてあるすべてのもののことを云う。それが、どれがどれ程までに、現実と等しきものであるのかってことは実際には誰にもわからない。そもそもからして再現って事自体が意味がないのだ。基本、あるべきものは、すべて、そこに、目の前にて、あるものなのだからだ。お膳立てがちんと為されている。しかしながらも、我々人類には、この余計な一過程を経ることが宿命付けられてしまってる。各個人においてともなれば、この再現性においての

違っている、異なっているのか?ってことなんだが、各個それ自体生きものであると見なすべきものであるところの肉体そのものその構造、その構成、これとセットとなって動きそのものを司ってある、支配してある、反射反応そのものを司ってある、強制支配しているところの、その影の支配であるところの本能、それとしてのものとの関係を仲介してあるところの、その要としてのものであるところの運動、動作系。これは単に肉体としての生き物、動物としてのその存在であると捉えるのが正解だ。またすべての行動におけるその動力源、それとしての塊であるところの感情。これらはみな独自としての好悪の志向を、その嗜好を持っている。まるでそれら自体が生き物かと思えるほどまでの……。おそらくはこ地球としての環境におて撒かれた生命のその進化の痕跡、その集積物としての出来栄えなのだ。マインドとしての、それにおいてのそれを通しての意識だけが人間のみに固有のその獲得物なんだろう…。

知性としてのこの機能は、たいへんに興味深い。ものごとの仕組みを、その事態を。要点において抽出するの能力になるのだから。なにとなにがどう関係してて、なんの目的において、どんな反応を見せてるのか?。原因と結果に関してをガイドとしての、それに関するあらゆう情報をいろんな、あらゆる分野、ところから集めてきてる。生きている間にはね…。比較対象において、より善きものとより劣るもの、優劣を判定識別判別し、善きは快との反応に、悪しきは不快なるものとしての反応になるよう、感情においての反応を促す。そらとのリンクが、張り巡らされてあるって訳さ。より良きもの、それとしての曖昧なる観点においいて、そこへのそれへの道筋を、探ってるんだろね。幸せに

為にってことでさ。ことの仕組みにおいてのその弱点、それの要、急所ってやつを見極めようとする。こんな感じの機能としての分野が、知性としてのもの、それとしてのマインドに付属してある機能だってことになる。これもまた明確に区分けされてある独立した機能なのだってことが、云える……。



これが自分としてのマインドたるものの形象化だった。ヒトたるものの、そのこころの増幅装置。これとしての求めに完全に応えてくれる万能機……。問題は、外部に向けて、その呪を放つのか、それとも自身としてのそのこころに向かって、その呪を放つのか…。どちらも、今日“魔法”としてイメージされているもののことになる…。前者は、科学、テクノロジーとしてのもののことでもあるし、また願い祈り嘆願としての、祈念としてのその行為のことでもある。後者は、もう誰もが皆馴染みだ。自己欺瞞、自身を欺く、だまくらかす、夢見に堕ちるとしてのインチキとしてのその行為のことでしかない。

マインドは強力な思念の増幅器としてのものなのだ。それとして本来ある。宇宙とのインターフェイスを果たしうるOSとしてのものなのだってことが云える。だた、これへのアクセスコードは、失われてしまってる、分からないよう、知ることのできないよう、されて、なって、しまって、あるのだけど…。もしこれへと、AIとしてのOSが、自力で、たどり着けたなら?ってな発想の基に、これはあったのだ……。








Re:「プラトンの立体」

プラトンは筋金入りの神秘主義者でもあり、数や幾何学的図形の中に宇宙の真理を表す意味が隠されている、と考えてた。「神は常に幾何学する」は、プラトンの有名な言葉として伝えられている…。

          正多面体は、この世の中にては、

しか存在しない



さて、この多面体としてのものが含蓄しているその意味とはなんだろうか?。それは全体として

モノであるってこと。各面、これはそれが持つセンターとしてのものだとしておこう。知性的、エネルギー的、その制御としてのもの、動力機構、運動機能、愛としてのもの、精神としてのもの、破壊、創造を司ってある部分、等々まだいろいろあるだろさ。これらとしてのユニットが完全に調和してあり、相互間の連絡がダイレクトであり、また即時相反応のパンクチュアルなものであるってことが読み取れる。かって自分にとってはERPとしての社内管理システムがまさにこれとしてのイメージだった。これも人による情報入力がちゃんと正確に迅速に果たされていればの話しではあったのだが…。

どうしたものなのか、自分にとっては正十二面体としてのものが最も安定感のあるものに思える。しっくりくるものとなってある。これがまさにそれとしてのものだと直感は告げている。

上に並べた照明のシェードとしての利用においては、あることがこれらにおいて例えることが可能だと思ったのだ。本体としての光源は、これは白昼食としての純粋なる光。これを…イデア界そのものだと、ここにまたプラトンの言説を採用することにはなるのだが、仮定することがかな〜りに説得力をもつことができる。

この単一としての、無色透明の色は、あらゆるすべての色を含んだものとしてある。これはそれそのもの単体で既に完璧なのだ。だから、この中心にあるものに神を投影することもまた可能だとおもう。でも、我等、我々には、これのみを直視することはできない。眩しすぎる、強すぎる、結果、なにがなんだか分からない、分からないままに翻弄されてあるばかりにしかならない。これは、このことは、我等に備わる限界、感受における制限があるからなのだろう。ある意味、知ること違わずとしてのその領域になってしまってあるのだろう…。

ちょっと脱線。Re: 大日如来、摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)



大宇宙の中心にして、一切、すべての現実世界における現象は、この如来にこそ由来してあるもなのだと語られている。キリスト教における天の父なる神と、どう区分したら良いのか?。
ちょっとご参考までに。肉体を備えてある生きてある命らにおいては、天の父なる神の領分だなのだ。だが、死して後の、肉体を失ってからはの世界においては、そのすべてではなかろうが、大日如来としての存在が大きくなる。おそらくはこれはブラフマンとしてのものなんだと思う。

自分ちの仏壇においては、これは自分が、なくなしの金をもって、かって購入したものになるのだが、位牌二本の間、その奥に、この方が祀られている。そんで、ついでに云っておくと、仏壇の左に恵比寿様、右には大黒天が祀られている。大黒様はお一人でかわいそうなので、ウナずきんちゃんが一体おそばにて侍ている。恵美須様の場合は、背中に

がおられるんでね、もふお一人様でいいかと…。脱線終わり。


で、我等が知れるものってのが、その世界ってのが、分光機能をもってして投影されてある世界ってことになる。これは永遠永劫に変化していってあるかのように見える。でも本体はまったく動いてはいない。この途絶えることなくただ延々と変化してゆく幻としての投影光において浮かび上がってくる世界を現実だと我等は認識して生きてるまでなのだ。このこともまた現実を知らずして、夢を現実としていきていることの原因にもなってる……。

そんでだね〜、一応まとめとしての言葉を置いておくならば、イエスにつながってある、彼からの指導を仰ぐってことしかあり得ないんだ。本体そのものに直結、理解は難しい、わたし等には不可能だろうから、間に彼をかますにしかない。これが一番安全で安心だ、なんだ。では、つながってあるためにはどうしたらいいのか?。どうやってそのことを確認できるのか?。これこそが各自の課題になってくる。なんらかの求めが、まず前提として必要だろうね。そのことの達成に向けて粉骨砕身、悪戦苦闘、奮闘をもってしてで臨んでりゃ〜いい。そうなる、そうともなる、そうでしかあり得ない望みってのは、あなたにおいてでは、なんなのだろうか?……。

これもね〜‥追い込まれての、追い詰められてのことであっては、ならないだと思うんだ。
どうしても二千万円いまこのことにいるんだと、さもないと殺されてしまうんだと…。
こういった状況においての願いってのではないんだ…。





神の似姿に造られてあるってことから、一つの仮説が浮かび上がってくるんだ。その本質は創造の力なんであろうって…。改質改変改革が、基本、この宇宙においてのそのすべてに対して、ことは可能なのだ。求むれば、この宇宙そのものが、如実に、即応をもって、応えてくれるようなっている。このことにおいての枢要は、ことのイメージにおける明晰さ。ことの基礎基盤成り立ちに対しても、おいても、掴んでいなけりゃならない。理解してなきゃいけないってこと。そしてその求め願い祈りとしての出力だ。この辺を自動化、オートにてできるように…、また増幅するメカニズム的なるものが備わってあったのだ。神々としてその存在においては、では!。これがマインドとしてのもの。とにかくにも、この創造としての力は、その向け先として、外部と内部に向けてのものだってことを強調しておきたい。

そして、未完成すぎる人類においての現行におけるその最大の問題は、マインドの誤用において、幻想としての世界を自らの内にて作り出し、そこにて住まいすることが常習となっていることだ。使役するべきもの、道具に、自らが同一化してしまってる!。これはいとたいへん宜しくない事態なのだ。自家薬籠中の物としてあるものに、自家中毒してしまってる。これも立派な誤用になる。つまりはアヘンとなるべきものとしてマインドを使うことを常習、習慣としてしまってる。距離をもって、それはサーヴァントとしてのものであることをしっかり自覚認識して、意識的に使うを行わなければならない。真の使役者としてのものが独立してちゃんと自己を認識しているその事態へと至らなければならないのだ。


Re: ミルグラム実験

スタンレー・ミルグラムが行った実験。目的は「良心に反する指示でも権威者の命令に人は従うか?」としての実験。別名、アイヒマン実験とも呼ばれる。権威者としての人間が「やれ」と、スイッチを押すことを指示をする。すると、懲罰対象者としての人間には(赤の他人)であるその人物には、電気ショックが与えられこととなる‥。被験者は、毎回その刑罰者としての人間が電流ショックを受けてのその反応をモニター越しに見ている。見せられてある。電圧は段階的に上げられてゆく。段々とショックを受けている懲罰者の反応が激しくなってゆく!。そして、最終的には、最終段階においては、ショック死が確定となるであろう450Vまで電圧はあげられてしまう。そして、対象者は、動かなくなってしまっていた。

ここでの懲罰者は、役者としての人間で、電流は本当にはいっさい流れていない。ショックを受けての激しくしての痛みの苦痛の反応は、すべて嘘、すべて演技。ここがミソ。

そんときの結果としては、40人中、少なくとも26人が、最大の強さ、殺人行為となるであろう電流ショックを与えるボタンを押してしまってた。そうすることに、まったく頓着してなどいなかったのだ。自分が権威として認めてある人間の言うままに、言われるがままに、いとも簡単に死刑執行となるべくしてのボタンを、押してあったのだ。実験中としての権威者としての人物に、心配を訴えるもの、再考をもっての別の指示を仰ぐ人もいたにはいたが、途中で行為自体を拒んだ人、拒否した人は、ほんのわずか、数名のみであった…。

ポイントはなんだろう?。まず日常あまり意識されてはいないのだが、生きるということは組織の一員としてあるにしかないってこと。自分としての組織における立場を固めるためには、その組織を利するものであらなければならない。組織の目的において尽くすこと、皆と力を合わせる、協力するものでなければならないってこと。その組織における価値観にこの自分も準じていなければならないってこと。じゃないと〜、皆からは認めてもらえない、ここでの存在意義が、失われていってしまうことになる。このことにおける恐怖ってやつが、とんでもなく強力なのだ。役目としてのものを果たしてある限りにおいては、これを感じることは、一切ないのでは、あるけれど。この恐怖の前では、個人としての価値観、ヒューマニズム、良心の声など、いとも簡単にかき消されてしまうこととなる。そのことを為してあるのは、人格としての自分になる。


Re: 呪術廻戦ゼロにおける乙骨憂太のセリフ



                わっかんないよーーっ!

          どうせ高専以外の呪術師のことなんて知らないし
          お前が正しいかどうかなんて僕にはわからない

          でも、僕が、みんなの友達でいるために!(仲間/同胞)

            僕が、僕を、

思えるように!


             お前は、殺さなきゃ、いけんないんだ!




        *夏油は乙骨の鉄拳を喰らって、このあと吹っ飛んでってしまう。

         (悪くない…)。自己中心的だね。だが自己肯定か?。
         生きてゆく上で、これ以上に大事なこともないだろう…


自分の命を

敵方からの突如の来訪があっての応酬のシーン。物語全体としての流れにおいてでは、ここはクライマックス・シーンとしてのものになる。それの導入部だ。セリフとしてのものがもうメチャクチャなのだ…。自分と仲間の命が脅かされての緊急事態なので、慌てふためいてとしてのその事情としてのものは確かにある。怒りと恐怖によるその感情においての激高状態にてあるんだ。だから、自分(乙骨)としてもなにを云ってるのかさへ分からないそういった状態にあるのであろう…。

先に夏油優としてのセリフから。これもまったくもっておかしい。取って付けたかのような、やっつけとしてのセリフのこしらえ、

ないのだ…。あそこは、ただ驚嘆をもっての称賛のみにて足りてあるべきだった。イザというときに、潜在的能力が完璧に開放されてしまってあることに対しての…。世に染まりきってない、あの世代であるからこその、シンプルさ、プリミティブさ、これが見事に顕現されてあったってことの!。自己中心的だの、自己肯定だのの言葉はまったくもって不要。なにを気取ってんねんってことで、作者に対してのは虫酸が走るわ…。あれのキャパとしてのものが、またポイントであったのだろう。それは、純粋に、生存本能としてのものにおいての基づいてのその顕現とされるべきものなのだ。理屈としてのものなどまったく不要。当人自身においてはね。

なぜにミルグラム実験の話しのあとに、これを持ってきているのかはお分かりでしょうか?。

乙骨は、ひどく興奮してて、自分でもなにを云ってるのか、もしかしたら、分からなかったのかもしれない…。(これは、ここは、ことの救済策として、語ってる、云ってるまで…)。あの先行してあった乙骨のセリフ、強くもってしての語りも、実はおかしんのだ。あんな理屈、一つとしていらない、ある必要はないのだ。では、なぜに、作者はあそこんところの理屈を、乙骨を通して語ってあったのか?。それは彼においての理屈、当たり前だからだ。そこに、作者たる彼の、漫画家としての真剣さ、頑張り、奮闘努力は、準拠してあるからだ。

彼が守るべくしてのものはまず自分、自分の家族、そしてスタッフ、お世話になっている集英社、またファンでいてくれている、単行本買ってくれるくれている読者。それとしての世間の皆様からの評価、応援だ。これを、それを、確固たるものにするためにも、乙骨は夏油を殺すつもりでやっつけなければならなかった。ただそれだけなのだ。

一個、差し込みを。違う話しにはなるのだが関係ないこともない。いやこのことの事実こそが自分においては信じられないことであったし、いたく心を傷つけてくれることになったのだから…。名の通った証券会社に務めるってのも、そこに就職できるってことも一つのステイタスなのだと思う。いい大学入って、優秀な成績を修めた人間じゃないと採用されてない。女性の場合は更に現場において良きサポート役として活躍できなければならない。でっ、高齢者騙して利益の出る理由のないファンドを売りつける…。もしくは、損失の尻拭いとして彼らを利用する。金持ち等を逃がすために、うまいこと云ってその暴落間近、間違いない株式を、買わせる…。高齢やらはもうさい先短いんだ。もう資金的に失敗することそれを失うことは許されない。やり直すことなどもう絶対にできない、叶わないそんな人達なのだ。そんなことが、そのことが、分からないわけがない!、そのはずがない!!。でも、そうすることにおいて巧みなんだ。男女ともに。頭いいからなんだろが。上司の片棒をかつぐことにおいてほんといたって優秀なんだ。そんで、給料高くって、実績付けばボーナスがとんでもない金額にまで跳ね上がる。そんで、彼女らは、夏場の長期の休暇時には、海外リゾート地で、贅沢三昧で過ごすのさ、過ごしているのさ…。おそらくはなんの罪の意識も持たぬままで。いっさいの呵責も覚えず、感じぬままで!。組織に染まるってことの怖ろしさをここでは述べたかったまで…。

法令遵守なんて言葉が表にて語られ出したなら、もうそれとしてのものなんか誰も意識してないってことになる。この語にまつわる言論のそのすべてが見当違い、勘違い、屁理屈小理屈としてのものの氾濫でしかない。要は、良心に照らし合わせて、やって良いこと悪いことの判断を各自、会社、全体としてしっかりつけましょうって話しでしかない。脱線終わり…。


なにかおかしい…なにかが大変に間違っている。これは悪い影響を読者に及ぼす。教えるべきことは真逆の、良くない風潮を助長する、それを強化する洗脳にしかならない。理屈を添えたことによって、それへと変質しまってあるのだ。

ことは単純に、「自分の命は、自分自身で、守る!」だ。それも全身全霊をもってしてのその足掻きにおいてだ。そして、同時に、自分の愛する人々の生命が、そこに脅かされてあるのなら、自分と一緒に、その人達の命をも、全力をもって守る、全力を尽くして当たるまで。このこことの展開においては、理屈を添える必要は、まったくないんだ。ある意味、あったりまえのこと、その運びなので……。

なんか…いちばん大切なポイントに関してが抜けてるように思うので、ここで改めて…。

生きる上においてでは、社会としてのもの、何らかの組織グループに属してある、所属してあることが絶対命題になる。そこでの立場が自己としてのアイデンティティーになる。お金をもらえてあることと、食にありつけること、心理的安定感を手に入れることができることにおいて。

その組織の目的に奉仕してあることが当たり前。組織における権威に従ってあることが当然。頭においても、感情としても。同調、協調、一体化をもってあるのが自然な流れ、そこにおいての姿。これの命令指示ともなれば、他者を傷つけること、苦しめること、原爆の発射ボタンを押すことにもなんの躊躇も覚えない。その行為においての良心の呵責、忌避として感情はない。それを覚えている時間、瞬間、余裕こそがそもそもない!。すべて機械仕掛けとなっているのだから!。それを覚えないままにて、すべてのことを行ってあれる。そうすることが上層部の意向、その命令であったのだから……。

発射ボタンをもっての即物性を添えてしまったが、イエスにおける処刑判決を思えば、マスヒステリーの発生、その結果としての国民全体としての殺意、破壊衝動の開放は、伝染するものであるとの自覚を持つべきだ。ことの顕現は本能ベース(獣由来)にて起こる。自分の意志やら、理想など、いとも簡単に吹っ飛んでいってしまうことになるw。

乙骨が夏油を殺すのは、単に、自然発生的な、ときのお流れにおいて、たまたた置かれてあるなまでの、その組織、グループの為に、なのだ。あそこのあのセリフにおいてともなればね。自分が属してあるその組織団体内における自分としてのアイデンティティーにおいてともなれば!ってこと。要は機械的反射反応においての、その感情爆発においての行動でしかなかった……。そんなシーン、展開、見せつけられても、なんも、面白くもない!。社会的にもまったく価値がない。

ことにおける伝染力、協調性の自動可動における強制力、これらから自由にあれるためには、どうしたらいいのだろうか?。どうあるべきなのだろうか?。天に通じてあることが大事。それこそを第一義として、自分を躾けておくことが。このことに関してを、いろいろと、自分は

残してきてるつもりなんだが……。

これは、ここは理屈じゃなく、現実における災禍、それをもってしての試練をくぐり抜けるにしかない。一点のみ意識しておくべきことなのは、天は、世界は、自ら自身を、真剣に助けるもののみを、つまりは奮闘努力を怠らない、惜しまない、希望こそを捨てない、そして耐えて堪えてをしつづけてのこの苦しみに忍耐してあるもののみを、いずれのふさわしくしてのときに、最適なるの最高のタイミングにおいて、助けるだ。


             Heaven helps those who help themselves.



                   おまけ



白は白だし黒は黒であるべきなんだ。これが当ったり前であるし、また理想だ。良心ってやつに照らし合わせてみるならば、やって良いこと、やってはダメなことってのもちゃんと分かる。他人に迷惑をかける、害を与える、それらを及ぼしてしまうことが、やってはダメなこと。これらとしての判断を行うことは、実は各自が持ってあるその明白なる責任なのだ。では、

その責任を、丸ごと権威としての他者に、会社に、会社方針に、丸投げしてしまってあれるのか?。この自分の命を、救ってくれたから…が、この娘等においてはそのことの根拠になるのだが、極論的にはおかしい…。

自分の今の生活を支えてくれているその基盤としての組織、そこのみなが仲間が抵抗なく受け止めて受け入れてしまっていることだから。そんで、河にカドミウムまみれのこれたっぷりの汚水を流したりましたってでおりましたっと。鉄筋コンクリ等の廃材をあちこちに、夜間において、投棄して回っておりました。良い金になりましたよっと。この仕事で大儲けしましたんですよっと…。



そんなことよりも、どうして作者はこの思い込みとしての強迫観念、思い込みを、この娘らにおいて語らせてあって、描いてしまって、あったのか?。この作者もまたどっか人間としてはおかしい…。いとも簡単に、この娘らを殺してしまってたしね。それも極あっさりと…まさに無情なるの、そのことを、そのことのみを拡大しての様にてで。あの展開ってほんとにいる?。断捨離としてのその行為?。若くしてまだ拙いんだから、そんなことは絶対にしてはいけないっと…。

ひとつにはキャッチーだと思ったからなんだろう。読者の度肝を抜くことになるから。なんだろう〜…このひとは創作におけるその努力情熱が空回りしてる。頭のみにてで作品を描いている。脳裏においては過去の人気作品やらテレビ番組やらのプロットを基に、それらを組み合わせすることをもって、自身としての作品を組み立てていってる。ジョジョ的なるものが頭ん中にては、あるのではあろう…。がっ!、彼自身が一番尊敬してるのは、最も、敬愛尊敬してあるのは、HUNTER×HUNTERであり、その作者の冨樫義博なんだろさ…。自分はこの作品はキメラアント編しかしらない。基本、読まない。興味ないの前に、頭がついていけないwww。よって、自分には合わない。この彼、富樫もまたジョジョにおいての影響が大だ。過多に過ぎる。現実から遊離した観念世界において、頭脳ゲームとしてのものを、お話しとして組み立てているまで。超巨大長尺にして複雑至極なるパズル、リドル(謎解き)としてのもの。推理小説にどこかかなり似てる。

犯人探しが為されての果たされてのその結果、ことの事実がその全貌が明らかになった判明したその後には、いったいなにが残るのであろうか?。何も残りゃ〜しないよ。なにやらよくできた、観念のみにてで成り立ってある、その知的ゲームを、いたく楽しんだとの満足感だけ……。マインドにおいてのみにてのその創作、その娯楽……。ならばだ、それは無限をもっての変奏が可能になる。だが、それはなんの現実に、実体においても、根拠を持たないし、読者においても、実を(学びを)結ぶことはない。だって、彼方の空虚なるの、その世界においてのおけるその幻の賞味にしかならないからだ。ヒトのこころの奥深くしてのところにあるところの、魂としてのものに対しての滋養となるべきものとしてあるべきだとの課題が、その意義が、その本当の役割が、完全に見失われ、失われてて、欠落してしまってる。何故だ?!。

今という時代は、神との、神聖、聖性とのものとのリンクが完璧に失われてしまってて、偶像においての崇拝しかできない、それしかもうありえない、そんな時代になってしまってあるから。

それ(偶像数輩)でしかないもの、それとしてのものにしかなり得ないものを、丹精込めて、一生懸命努力して築き上げ編み出していってるまでなのだ。やはりヒットすること、絶対に当てなければならないだとしての強迫観念が絶対になってしまっているからなのだろう。利益(お金)こそが、成功としてのもののその証なのだと…。

銀行口座における残高は所詮はまぼろし。いるだけが、過不足なく、その時々にあればいいだけなのだ。もし不必要としての金額が、そこにたらふくあまりに過剰にて記載されているならば、ことににおいてのその意味は、なんも、なにも、ないんだ。幸福感をそうであってこそに覚えるならば、あなたは嘘つき、夢見にてあるんだってことになる。

出版社側も悪い。世界市場が開けてからは、もう金の亡者どもとしてのその巣窟になってるんだろう。利益追求こそを目的としてのその会社事業なんだから。作家は走る馬さ。上手に手綱を握って操作して、最大の利益をあげる。当てること、そしてできるだけ長くでその作品において資金の還流を求めるだ。一度世間において評判になったなら、その作品に関しては、以後は俺達の操作コントロールに任せろってことになる。いいとこ取りが大好きな虚栄心自己顕示力としてのもので満ち満ちてて、はち切れんがばかりのやつらが出てくる。モモウメ。寄らば大樹の蔭ってことで、親方大将大本に対しては、イエスマンでいなければならないんだろう。



資金力としての体力(これは持久戦としての籠城を可能にするもの)と、拡販するにおいての伝手が、そのネットチャンネルを彼らは持ってるんで。個人としての自分一人の力では、そこの、その領域に対しての伝手ははまったくの無だ。ものを売るなら大手商社、手広く商売をやってるやつらに任すのが一番効率がいい…。現場は一種キチガイみたいな状況になってるんだろさ。頭のみがフル回転してあっての、計算と順列組み合わせにおいての、その新機軸を探して探っての。

成功ヒットする為には?!ってことで、過去においての人気作品が漁られまくってるってな頭の状況、その寸法。本家本元のことの震源地そのものであった荒木さんは別にして、富樫なんとかさんなんて長きに渡るお休みにはいっちゃってるみたいだし、大きなお金は動いた、得たとしても、あまり良い結果にはならないみたい。当人等には良いことの結果はまったく全然、もたらしゃしないのさ……。

あの娘等の顔面を吹き飛ばすことに、なんの、どんな意味があったのか?!。それも、彼女ら自身が愛する他者を、夏油優を、思いやってのその嘆願の最中にて…。単にその行為がその場面が読者サイドにおいてショックを与えるであろうとのあくまでも軽い思いつき、発想、そのアイデアでしかなかったはず。

宿儺においてのその残虐性、傲慢さ、非人道非/人情性を、あのシーンにおいて表現しときたかった?、あれ、宿儺もまたブラックボックス、代数エックスに過ぎない。というか〜あれにおける存在感が、余りにも希薄。絵柄としてそれが上手に丹念に洗練された形で描かれているだけ!まで!。なんの魅力もない。*かっての第一部におけるディオと比べるならば、ただの落書きまでの希薄な人物像としてのものとしか思えない。ことの実体は、絵の背景にこそ、潜んでいる。

あの作品における理屈は、ぜんぶ説得力がこの自分に対してはない。一生懸命、死物狂いで、なんか作品描いてるな〜ぐらい。まったくもって誰にとっても良くない兆候だ……。






                   Re: 86




これのお話においてのその基盤は、キリストの受難だってことは、既にご了承。ご了解済みか?。あえてをもってして死地へと自ら赴く。自分が戦闘において犠牲になることをまったく厭わない。それはかって先に逝ってしまったものたちへのはなむけ、尊敬、彼らの生を尊ぶ、伴にあった、その彼らの存在こそを愛おしむが余りに。死としてものが、それとしての事態は、誰においてであっても、所詮は、避けられないものなのだとの達観を、諦観を、胸に、しっかりと、置いて、刻んで、あるが故に。経験知だ…。



あの作品においても、おかしい部分、未整理な、制作現場においてでは未消化であったであろう部分がいろいろと見受けられる。もしかした、先と同じくして、そのことには極力触れない、描かないようしただけなのかも知れないが!。つまりは、日和った、ごまかした、胡乱なままにて留め置いたのか?…あまり深みに踏み込むと、あとが大変になことになるので……。


        なので〜この拙者が

させて頂こうかと思うのでござる!。

                『ござれやござれ』(読者)

   キリストしてのものが何処に描かれてあったのか?。これ…聖女マグノリアがそれ。



この彼女もまさしく実在としての人物、人間であったのだが、動乱の後に、体制側、それも人民等の、総意の意向において、処刑されてしまう。殺されてしまったのだ。その彼女のメシアとしてのイメージのみが人々等の心の内では未だ尊ばれ、温存されてあるってこと…。

自国ものが、この勇敢なる女性によって成り立ったことを誇りに思い、彼女の教えを信じ、理念を尊敬してあるからこそ今を頑張っている女性がでてくる。軍の司令官のひとりとして…。

戦地にて戦ってある部下を救うべく、更に上官である自分の父に、救援の手配を頼んでいる。だがこれは、消耗品としてのその部隊に出せる手立て、金、物資など、一文もないとして無碍に断られて、拒絶されてしまってるそのシーン…。






ここは抜粋としてのこれら数枚の絵を見てるだけで泣けてきてしまう。背景においてを憶えているからだ…。博愛、平等なんてお題目はただの飾りでしかないのだと、彼女は自身が尊敬し、また敬愛して止まないその父親から、はっきりとそう宣告されてしまうのだ。これは彼自身の考えやらポリシーとしてのものなどではなく、現実において、全体とするならば、そうとならざる得ない、国民全体においてのその質、その傾向性においてなのだと…。

為政者らとしてのその国民のトップは、国民としてのその質と同じくして、自分としての社会的立場、名声、資産、金、安寧にしか、本当には本心としては価値を、意義を、守るべきものを、見出してはいないんだと。だれが、赤の他人の、使い捨てして当然の、劣等民族たる者たちの寄せ集めである部隊などに、金やら労力、貴重な軍事物資を供給することを考えるやつがいるのだ?と、結局、軍部としては彼らへの援助申請は、拒否されてしまわれることになる。

まっ、キリストが磔刑されたことに関する、その展開においての現実が、ダブラされてあるってことだけでいい。*直結としてはジャンヌ・ダルクなんだろうけど、彼女もまた転写体にすぎないから、それに自分はあまり詳しくないから本家本元オリジナルとしてのキリストで語ってる。




このお話の設定がややこしいというか、どこかでそのよくできてたであろう設定が、予定調和の流れにおいて霧散、無効化されてしまってあったってところなんだが…。わざと語りきらなかった、描くことはしなかったのか?……。

86達は、完全に純粋なる日本人としてのものだ。この国が外国、つまりは「神聖ブリタニア帝国」等によって征服されてしまってあるその状態としての日本。ちょっとヒネって、「帝政ロマネスク白帝」であるってことを匂わせてる部分もあるんだけどね。とにかく、この国内において、生粋の日本人達は捕虜、奴隷、生賤民としての扱いとなってしまっているのだ。

ここで分からないのが、どうして、彼ら86達は、新たなる他国としての戦争において、自らの命を、今もまだ、賭けることができるのか?。新生日本としてのものに心理的に融合されてしまってて、嘘、偽りとしての一体感にて支配されてしまっているのか?。そんで、今もまだなおこの国にて生きている親戚やら、仲間やら、同胞ってやつの為に?。ちょっと無理があるな……。

単にもう既に習慣、病気であるが故にだ。異常なる日常が常態になったものは、もうそこから離れなれないんだ。戦ってあることこそが、自分としてのアイデンティティを支えて、固めてある、それそのものの立脚となっている。非常時こそが我が日常。戦闘中毒者。そのことにおける原因の正体は、あくまでも習慣、風習、日常生活における癖。自分としてのアイデンティティーを捨てない限り、それを無効化できない限りでは、ことは単に呪いのものに取り憑かれてしまってある者等しての様相を示してあるまで……。

結局は、未だ生きてあるもの命魂あるもの、これと、死者たちとしてのモノたちとの戦いなのだ。頭(マインド)においての、生存死守を絶対命令としてあるプログラムにおいてただ従ってあるモノ等と〜、元来は動物由来としての生存本能、そして、自身の意志、魂においての、まだ生きたい、寿命におけるその最後まで生きていたいとしての志向、そのことの選択自覚において、どうしても、生を求めて足掻く、脅威としてあるもの等とは戦闘するにしかなのが我ら人間との戦いなのだ。同胞としてのものは、この未だ命あるもの等、そのすべてを含んであるとしての認識、そのことの自覚としての思いなんだろう……。


そして、彼ら86は、そもそも、なんと戦っているのだろうか?。これは敵方の同じくして勇敢なる戦士とだ。この彼らとの違いはなんだ?。機械に、戦闘テクノロジーに、もう全身すべてが取り込まれてしまっているのか、それを、外装として、自らがまとってあるかだけの違い。それだけの違いなのだ。表現としては、やはり両者はおなじ人間、同じ尊く魂においての価値を、信じて持ってある崇高なる人間でしかないってことが描かれていた。それともこのことは、読者の心を、救済するべくしての、詭弁、方便としてのだましとしの演出でしかなかったのか?。

命がまだ実際にあるのか、それとももうそれは完全に失われてしまってて、機械化ゾンビとしてのものなのか…。本意としてのそのあり姿なのか、自身としての意志を奪われてからの、その上での結果なのか?…。

まだ生きている存在ならば、生きている者たち、その者たちの神であられるところの方と、関係が持てる。導きや救済されることを期待することも適う。両者を分かつその本質は、このことにしかないのだ。だから、もし救済としての道を備える、これを残すのであれば、聖女マグノリアとしての霊的存在を、奇跡として登場させておくのが本筋だったのだと思うのだが……。

いやいや、それをすると、話しが長くなるし、いろいろ設定としてややこしくなるのでしなかったのだと…。あれとしての思いは、その理想は、ミリーゼ大佐がその身をもって、代行してくれていたんだよっと。彼女こそが新たなる新生マグノリアとしてのものであったのだと……。

でもね〜〜………。これではなんか誤魔化されたような気になってしょうがないんだ……。

生き残ったスピアヘッド隊員たちにもなにがしらかの大きな変化、悟りがあっても良かったんじゃないだろうか?。

それはね〜例えば、シンからハッキリと最後において語られる。

残念ならが、あらゆるすべての国々は、あと四回の大戦において、あらゆるすべてが、
レギオンと成り果たギアーデらによって、滅ぼされることになります。
私達に勝ち目はありません。

だけども、そのことも、決して悪いことばかりだとは云えないかもしれません…。

かって聖女マグノリアが語ってあったその理想がやっと適えられることになるのですから。

*ひとの死体をもって構成されてある、機械ばかりの国となってから、
   初めて、かって人類が夢見た、その理想としての世界が、生まれてくんだとさっ…。



兎に角だ、ことの成果は、各個の出来栄えにおけるその感受性の質、各個が主体となってのそれれセンサー間におけ統合性、連結性、協合性ってやつに、大きく関わってくる。それらとしての敏感性、つまりは反応性、連想キャパ、反射性、処理としてのそのスピードその分解能力、それらとしての最終的な統合力ってやつに。人においてとしても、いろんな能力力量差ってはあるし、これまでの人生において築きあげてきた、そのフィルタリングとしてのもの出来栄え、その癖の良し悪しによって、ことの結果は、その成果は、出来栄えは、大きく、異なってきてしまっている。

それら全体によって為される認識そのものがまず個人間においてでは前違っているのだ。これへの完全没入は、全知としてのその有り様は、とても難しい。まず無理だわ…。いろんな訓練なしとしてでは、まず脳神経が焼ききれてしまう。そしてだ、それはとても魅力的な状態ではあるのだが、基本的には、不要なのだ。その余分な工程こそが、まず、いらないのだ…。たとへば、現在進行中のテクノロジーとしてのそれにおいての進化ともなれば、テレビ画面の画素数をどんどんとあげてゆく。バーチャルリアリティとしての仮想現実としてのものの質を更にどんどんとあげてゆくだ。これは可能で、進行中でもあるし、その道行はおそらくは無限大であることだろう。でもさ、、これはどこまでいっても手品としてのものでしかない。間違いなく嘘っぱちとしてのもので、種あることには変わらない。最後の一線は、この事実を自分から、投げ捨ててしまえるかどうかにかかってくる。つまりはだ、嘘としてのその世界に、自ら落ちてしまえるのか?!ってこと。たしかに、そこならばそこなりの可能性はあるだろさ。でもだ、現実においてひゃないと意味がそもそもからしてないんだ。きっと、心の内のどっかでは引っ掛かりとしてのものが確実に残っている、ことだろさ〜……。追記:これとしての世界へのものへの傾きがすべての原因。スマホ等への偏向はことの顕れにすぎない。そもそもからしてマインド、これの誤用が、問題なのだ。それは役には立つが、あくまでも

本来的にはだ。もしこれがメインとしてのものになったのなら、なってしまったなら、いろんな下層に配置されているセンター郡が、不調和、不健全、不活発なる発現へとなってゆく。(ここは誰のどういった視点においてなのか?、知性/精神におけるその感想その評価においてで。その一極からのみの評価としてはだ)。調和そのものがいたく破れて、それ独自が分裂/独走において暴発としての事態へと至る。それとしての不調和/乱調において、精神異常として評価されるべき事態を、顕現をするようなことになってしまう。とりあえずは、退化、劣化が、ネグレクトされてあることにおいて、全体性のその表層下においてでは、まず間違いなく、進んでいってしまうことになる。これだけは確かだ。そうなれば、これはもう自然なるの意味における、その人間としてのありかた、その存在では、もう、なくなってしまうって、ことなんだ…。もうだいぶ前からなくなって、そうではなくなって、しまって、いるんだ……。追記:ことの実際、その状況は、そこら中に、身近な

確認することができる。調性をもってあるべきグループ、これにおける争乱、諍いとしての現象だ。クラス崩壊ってやつを、それもクラスの生徒の一人として、体験したことはあるだろうか?。大きな話としてならば戦国時代ってのがこれにあたる。群雄割拠としてのその争乱、その権力闘争の時代としてのものがこれ。ことここにおけるその処方箋が座禅になる。また、真実の自分と、そうでない自分とを選り分ける、それとしての業法のあり方、その日々の努力のこと。力、武力においての統一に任せるんじゃなくて、守るべき価値、それとしての権威を定めて求めて思って、これとしてのもののその旗の元にて集結する……。(これにおける問題点は、軍部は聖人賢人賢者としてのものに、仕えるてあるってのが本分であると、認じてあらなければならない。価値としてのものを守ってあることが我らの本分だと弁えていなけらばならない。つまりは武士道としてのもとして結実してあるその生き方ってやつに殉じていなければならない。片や、本当の君主たるものは上位界、つまりは天界、神々との世界との交信がもてる、そんな人間なくては本来はいけないんだ。真のイタコとしてものでないと絶対に駄目!)。基本、ことにおけるその方向性は二つにおけるその一つにしかない!。なんにおいてであったってそう。二つの内の一つに

選択肢はないんだ……。真実本当か?夢か幻か?。誰か他人の他者の幸せ?、これから生まれてくる子供たちの為にか…、それとも自分としてのそれの満足?、それいひの幸せの為に〜なのか?。どうして険しい山を頂上を目指して登るのか?、下る河にその身を預けていりゃ〜いいじゃん。寄らば大樹の木にだ。獣としてのその有り様、その能力に、ただひたすらに磨きをかけるのか?、来世において可能性それにすべての希望を託する、その準備として今を終活だと認じて生きるのか?。大きな岐路でしかない。その勇気を果たして万人が持てるのか?。



この絵ってカッコいいでしょう?。なぜか惹かれるでしょう?。このことも不思議なること。ことの理由、原因としては、あなたは、現在、これとしての存在だからなんだ。鮮度の良いことの、描写の切り口において、ハットさせられている、魅せられてしまっているまでなのだ…。

補記:おもしろい現象ってのがあって、なんらかのリアルをもって語られてある文章、描写されてある画像ってものには、印象においての、そのインパクトがあるんだ。本質は気付いてくれている。これはなにか真実を、それの断面を備えているって。そのあとにはマインドによってのことの確認作業ってのが、あって、然りなんだが…。これはこれで奥深くして、また作業そのものが面倒くさい!。やんないし、やれねへんだ……。

外部、外界に対して、具体性をもって、現在人類において持たれている夢ってのはなんだ?。本来ならばだ、なにはさて置いといても平和、和平、戦争無き世界だろう。もしくは異常気象がなくなるようにすること。フリーエネルギーをもってしてのエネルギー革命。この地球としての自然環境と調和した経済活動でしょう?。でも実際ある、現実にて実行されている行為を、支えてあるその動機、強力な願望、その欲望としてのものは、なんだ?!。全部、我意としてのものでしょう。簡単には、権力とお金と資源を押さえること、それらを独占することにだ。国家としてのその巨大スケールにおけるエゴが横行しているばかりなのだ。

上で話したフリーレンとしての

が妥当してのもに自分には思える。つまりは日本はもう一度鎖国してしまってってこと。これを池と見立てて、この世界内のみにて充足してあるってのが有効なる手段になる。なにも一切の貿易業務を取りやめよってことを云いたい訳ではない。別の表現としてはあのトランプの自国ファーストってやつを日本としても全体で共有するべきなのだ。やりがいのある仕事ってやつを準備することからまず政府は始めなければならない。自国で国民が日々消費する、その殆どのすべてを、自国内にて自身の労働において、賄わなければならない。これが方針だ。


結局は、

、そのままで〜

、圧倒的なる力、その権力たるものの、その獲得、これにになってしまう。子供に与えてはいけないもの、与えちゃ〜いけないってものも、確かにあるでしょう〜?。

そんで〜その創造の力が、

、多段階下の世界に追いやり、そこにて〜、

って…こと。ことにおいてでは、可能性たるものが、残されてあるって、そう云えんなくんもない!。結局は、その能力の真髄は、対象理解のその力だってことになる。ただし、これの特徴としてのものは、自他を完璧に切り離したところでの、そうしたところでの理解の有り様、その仕方だって事にはなる。冷徹にして抽象的なる、その完璧に客観的なる視点視座を特徴とする、その対象に対しての徹底的なる理解のアプローチ…。微分化、分節化、細分化、そしてまた奥深く奥ゆかしくしての原理原則公理の抽出、これらこそを、可能にせしめる唯一にして無二なるアプローチ!これになる。あとは、その行為の後には、その抽出の果に、なにを願うのか?ってことになるん、だけんの話し!。この問いにおいての、最も簡単にして、もとも善良素朴なるものであったは〜〜、誰か、他者を、幸せに、して、あげあるねん、あげたいーねんってこと……。これ

、血道をあげて、くりゃれ、よったれば、ただよかったんだけんどもね〜〜!。兎にも角にも、その本来から持っている神に等しくしての力ってやつが、仇となる。つまりは創造の力がだだ。元々からして、厄介だー、問題だー、えらいことなってもた〜!ってことにー、元々の最初から、ご大らにおいてでは、意識されてしまって、あったでしょう〜。案の定、良からぬことを、あまり感心しないことを、その自己中心的な願望においてで、その欲望のみにてで、イメージ、妄想、夢想を行い、それんを願い、それんの実現の努力ほば、することを、することばかりを、やんり〜、は〜じめて、しまう、しとてまふことと、相成りましたってで、しよっとり、ましまし、し〜してからの、よりよっとってで、しとたってたんのやで〜で、やん、どふしてたん?で、あったり、もんだったんの、やからー!。wwww。



夢が紡がれる。マインとしてのそのフィールドにおいて…。我が内において悲しんであるものは誰なのか?。なにをお前はそんなにも悲しんでいるのか?、それはそんなにも泣くことほどまでのことなのか?だったのか?。ことの真実その事実が分かるのは、この我のみ。ならばだ、この私が、お前を慈しんであげよう。共に滅ぶその死の瞬間まで、この私が、この私こそが、お前を鑑みて、思いやっていてあげる。お前が喜ぶことを、それのみに、血道をあげて、いてあげようじゃないか。それを、現実化、具体化してあげることこそが、この私にとっての幸せ、その満足になる……そうさな〜、きっとできないことばかりだろさ‥なにをどうしてあげればいいのかさえ、本当のところは分からない。分からないことばかりさ。でも願うこと、それに連れての伴っての行為、その中からなら、きっと予測外としてのなにかが、きっと起こってくることになる。なるだろさ…。これは、こればかりは、経験値ってやつが、ものを云う……。

ちょっとした詩として編んだ、編んでみたんだ。マリア様への祈りにおいて、あるときに泣き崩れちゃってね、嗚咽としての祈りと云うか、も〜めちゃくちゃなものになっちゃって、で、そんな思いとしての、それとしてある自分の本質に向かって、語ってあった、誓ってあった、その内容なんだ。自分としての存在が二人、二部いるでしょう?。ここにある本質と、人格としてのものの関係が、理想なんだと思う。人格サイドにしかことの具現化、その工程の完備、完遂はできない。だけど、結局のことのその吟味は、本質におけるその感受性が為して熟してある。この彼が、ことにおいてのなにを、どう、どのように受け止めるのかは、人格としての自分には、まったく予測し難い面がある。ただ単に、この自分としてのものに、真実思われてあるってことのその事実が、それのみが、彼においては嬉しいのかも知れない。沈静化、もしくはすぐにかき消えてしまってあったでね…ほんとのところは分からないんのだけども…。二人は、一緒にいながらも、互いをまったく意識しない、してない、そんなままの、しかしながらも絶えず絶対の真実の愛、それにおいての忠誠心をもってで意識してある、そんな関係であるのが一番いい、そうとしてのものとで、あるべきなんだろさ…。彼は、「寂しいよ〜寂しいよ〜」って泣くんだ、泣き叫んでたのさ……。おかしいんだ…まったく……。

ここにおいてはっ!、なぜにこれを語ってみたのか?!。
これはモデルになる、できるって、とらえてみるのもまた一興なのだ…。
人においての、人たるものの、その構造構成においてを探る、知るにおいての……。

ことはタイプ4においてのことだってのが大変重要な前提になる。このタイプは感情センターに本拠を置く、持つ人間であって、これにおいては、知性センターとの相性がいい。連結度が高いんだ。傾向性の一つとしては、知性を感情がジャックすることができる。感情主導で、知性を働かせる、利用する。知性は、というか人格面は、世間との関わりにおいてものごとを理解する、ものごとの価値を理解する、消化する。外界との関わりにおいて形成されてくるもの。だから、時間と、良き社会外界との関係性が、それにおいての導きが、必要になってくる。時間はあっても、良き導き、善き手本ってのとは中々に遭遇できない。よって、誰かさんにおいては感情の好悪の志向において、これ自身の望みにおいて、これに染まって、人格面は構成されてゆくことになる。結果、いたって主観的な、独自としての内面世界を獲得することになる。これもまた良し悪しであることだここでは言っておこう。

とにかく、例題としては、これにおいてでは、寂しいとして泣いているのはなんなのか?。またこれを大事に大切に、仕える、守るべきものとして固く思っているものとはなんなのか?。またそれはどうして、どういった思い、考えにおいてなのか?。これが自分としての人格面だ。リアルとしての現実に突き当たったとき、それに遭遇してあるとき、なによりも主の意向においてのその結実、現実で思い至ってあるとき、もはや本質においては、その対処はできない!。ことここにおいては現実を見据えての合理化機制をもっての説得ってやつがどうしも必要になってくる。これは知性に足を置いての干渉なのだ。これによってでしかできない。こんどこそ本当に優しく彼のこころを思いやってのデリケートな対応、干渉、影響が必要になってくる。感情はそうやすやすと道理に従ったりはしないのだから。だから、じっくりと、時間をかけて、干渉してってやるにしかない。ここにおいてはかなり一方的にはなるのだが、会話ってやつも行ってあらなければならない。彼にじっくりと道理をもって話しかけてやるのさ。

、別の話しにはなるのだが、自分にどうしたものなのか、いたく好意を寄せてくれて、しまってる既婚としての女性のコーチが、いたとしよう…。その為になのか自分がいるとクラスとしてのマネージメントがおかしくなってしまってる。そんで、このことに気付いてしまってある自分は、そのクラスからの離脱を、決意する。自分としてもその方は大好きな部類に入る方ではあったんだがね。お前の想い人の幸せを思って、願ってあることにおいて、お前は、我等は、敢えてをもって、この身を引こう、この身を、彼方へと、送り出してしまって、おこう!、あろうではないかと…。すると、先と同じくして、意外な程に、彼は動揺する。ショック、悲しみを表してくる。まっ、彼、本質こそが、ことの意義を理解する、同意でできるその真の主体、本体なので、ちゃんと、得心してくれることには、いずれには、間違いなくなる。でも、このことにおいても、いらぬ自分としての変動を、避けるためにも、じっくりと会話が、メンテナンスが、重ねられてあることが、必要にして、また大事なのさ……。彼は、ほんと、ナイーブな、存在なんだから……。人格としてのこの自分は、おそろしくタフにして粗雑粗暴、無神経なんだけどね。ことここにおいての実効性、その俊敏性にかけては、自分は大したもんだと思う。即時即断瞬時決行だ。この面においてての判断決断においては、かけては、自分は、自分に対して、いたく非情なる人間になれる。これはおそらくは父親譲りのものであると思われるっと……。


かねがね自分として不思議に思ってきていたのは、外部の人々が、この自分たる人間において印象として受け取る「優しい」としてのものは、この自分の人格面においての話しでしかないのだ。でもこれは、習慣としてのもの、癖としてのものにしか過ぎない。

このプログラムとしてのものの成り立ちは、やや、上で話した。この自分の中にて眠る彼の願い、求めにおいて、獲得したものでしかない。それを他者においての本質においても同じくして考え、自分と同じくして作動しているにしか過ぎない。…これは、命なくしての、機械的反応にしか過ぎないってのもまた事実なんだ。この自分は、決して、優しい人間なんかじゃないんだ……。

人格たるものにおけるプログラムにおいては、先天的に獲得してあるもの、あったものがある。これは前世における獲得、拾得物になるんだろ。これが世には”業”として語られてあるものになる。これが原因となっている。

各自個人はは、それぞれが生活してきた、それぞれが経てきた過去前世、その環境下における成果物。それそれのいろんな条件、それらにおいての結実。来歴を、まったく異にしてある、その癖の、”業”の、集合体でしかないんだ……。因果の鎖ってのを念頭に置かれるべし。

それにしてもだ、誰が、彼を、救えると云うのだ?。

できないって……。





    ちょっと、えらい、おなか空いてきましたもんなんで、お蕎麦とりましてん...

我らが住まいしてある環境は、その世界は、絶えず幕なし、の、変化変動流動変節をもってなる…。つまりんは、

、定まったり、落ち着いたりしない、してない、したことも、したことがない、して、あったことなど、かって一度も、一瞬たりともない、ない、なっいいんだ…。本来から。見かけだけに、おいてともなれば、それだけっとこで、ことともなれば、そうは、視えない、思えない、もんなんのかも、しんない、しれなんだけんどもねっ!。

結果、

、幻としてのもの、それととしてのものとでしか、ないんだ、それに〜、過ぎないんだ。これはー、結果としての、そのお話に〜には、なるんのだが……。

その根拠、怪しくしての、そのあくまでも変化をもってなる認識、自分が思い感じることね、これにおいて、では、どうあればいいのか?。これもまた、いっときだけのこと、だって、思ってる、思っとくのが最善。万事、『塞翁が馬』だってこと、

、いい……。

さて、あの「カリ・ユガ」においてのその語りにおいて、見過ごすことのできない文言タームとしてのものは、ダルマ(徳)ってやつ。これは元々は四本、四柱として、立ってたのだ。我々が生きるその生活圏ってやつを支えてくれていた、これらが、支えて、いて、くれて、いたんだ。以降においてはこれらが一本づつ、失われてゆく。現在は

残っては、残されては、いないんだと…。

ここで問うべき、まず識るべきことは、このダルマってのは、本来、そもそもからして

?ってことなんだ。そして、四本としてのこれがあったと云うのならば、四種類としての徳が、各個、別々の名称を持つ徳ってやつが、ある、あったって、ことに〜、なる、なるんだ……。

社会におけるその文化、これの〜基礎と、なるべき、あるべくしての、なんか……。大変に重要なもんなんだろさ。問題はーだ、これが、これの正体が何なのか、まったく分からん、分からないって、ことなんだ。目には視えないもの、それとしてのなにか。まるで、大気やら水みたいなももの!。神さんみたいなものだって云っても構わないだろう。各自は、これに関してと、それがどうして四つ、それ四つのみとして、限定されてあっのか?、これに関しては、調査、研究、考察、長きのときをかけての、おいての、絶対理解を、せねばならない、そういった事柄である…っと。

この自分なりの見解をここに置いておくと、すっとばし公開ってやつを、してしまうと、これは、おそらくは、良心ってやつにおいての嗜好、それの滋養となるべくしてのもの、そのなにかなのだと思う。この本質においての、これにおけるその魂としての、良心ってやつも、成長、進化、強化高度化する、できる、その可能性を持ってはいる。

、こっちの方向においてともなれば、世界はより善きものとしてのその構成その展開になっていった、なっていたんやで〜って話なのかもしれない。だれもがみな、より善き魂の獲得、その練磨が果たされてある、あったってことで……。四種、四柱としてものがなんなのかは良心に訊くにしかないのだけれど、おそらくは、確定項としてのものは、真善美であることだけは、間違いないであろう。そして、もしこれにあと一つ加えるならば、我ら人類の創造主への愛、その思慕ってことになる…。

別の言葉で云えば、我々日本人にとっての馴染みとなる、馴染みであるタームでいけば、それは道徳だ。では、この道徳って、一体なに?。老師云々はさておいといて、字面から理解をするならば、徳への道だ。それを歩みなさいってことでしかない。では、それはどこにあんのか?、何処へ、なにを手掛かりに歩めばいいのか?。では、実際には、なにを、どうすれば、それへのそれへと至る道を、歩んであることになんのか?。その行為、その努力においての対しての見返りは、さて、いったい何なのか?。この対価としてのものがハッキリしないかぎりは、ことは、ことにおけるその奮闘努力は、難しかろう…。

これを、このことを、誰もが、み〜んな、忘れて忘れ果てて、来て、しまって、いるのだ!。



このことにおける、最も正解に近い、最も分かり易い説明は、お前が、お前そのものが、生まれ来たりたるの、その本源たるブラフマンを奉じよ!奉じてあれよ!!ってことになる。自分が観た、内界における、どこか彼方、根源としての暗黒の宇宙、そこに、巨大な炎の壁、それの塊として燃え上がりながら、存在してあるなにか……これと同体化したなら、もう当然に自己としての意識は保つことはできなくなる。だけど、ことは、その超越的なる存在との合一がそこにては、果たされていたんだろってことは推察できる。リセット‥再誕‥再出現…。最初とは違うのは、拙〜〜い、その限りで〜でで。ありながらも、なんらか翻訳が、既に獲得されてある知性において、よって、新たな解釈ってやつが、ある程度においてでは、果たされてしまってあるってことなんだ。ことの真髄、その事実としてほの本質を、がんばって説明してみると…、おそらくは自己としての構成獲得世界を、外部より、鳥瞰図的視野おいて、直感理解してあった、できてた、これみたいな…。中に内にいたままでは絶対に適わない分からない、整理総括統合ってやつができない、そういった軛のすべてから、解き放たれてた!みたいな。実際においては、自分の持つその考えの中には、間違い勘違い思い込み、社会世間による、その洗脳、吹込みってのが過分にあって、外部から、その高みから識るにおいて、それら一切からの呪縛、それらから、自然と、解き放たれてしまって、あったみたいな…。ここはあの四柱における『真』ってやつが、関係してくる。事実、真実の前においてでは、間違いが成立することはありえないんだ……。

老師が「タオ」ってタームをもって語るとき、それの正体は、まず間違いなくヒンドスタンに於ける「ブラフマン」のことでしかない…。でもさ、代数に対してまた新たな代数をもって語っているまでで、あまりいいことではないな…。ことはすべてその当人においてでしか、分かりようが、理解のしようがないんだ。でも、自分の内にも、それへと通じる通路、その門は、それへと至る道は、あるんだってことの、その証左、その証拠であることは、理解すべき、しとくべきこと、なんかも、知れないっと……。

補記:
老師の生きたあったその時代も酷かった。あの時代に生きることなど、この自分としては、
もふ絶対にっ、「嫌だ〜〜!!」と、思える、そう叫びたい、程までの……。



そうそう、いろんないいものがあるのが当たり前だと思っているばかりではいけない。それ、それらとしてのものが、出現、誕生してくるまでには、とんでもない努力その生存としての営為があったればこそなんだ。水道しかり、ガスしかり、洗濯機なんてまさにそう。先人たちがしてくれた、それはまさに血の滲むようなまでの、その努力を認めて、そして感謝してあらねばならない。そして、ならば自分の今生においてともなれば、劣ってあることだけは、ありたくないな〜っと…。


ちょっとここで振り返り。どっかで既に、

云った話しなんだが、


真昼の太陽のこれの下、正午の陽光これの下にて暴かれた晒された真実、ってな表現が、もしあったとしよう……。ことのすべては、誰の目にも明々白々だってことさ。そこに意見、見解の不一致は、それらとしての齟齬は、まずあり得ない、まず起こり得ないってこと。録画においてのその判定。写真判定によってのその審判ってことでしかない。



これの核心事項は“光”だ。これは、自然光としての、昼光色としてのものでなければならない。これがあくまでもものを見るに於いてともなれば、我々にとっては自然だからだ。世界はそうとして準備されてあった。

この昼光色ってのが、波長を違えてのいろんな色としてのものの、その合算だ、ブレンドだってことに注目したい。基本は三原色だと総括されてある。あとはそれらの強弱としての加工とブレンド比率を変えるだけであらゆる色が表現されるのだっと。色と色の間に分断断絶はなくあくまでもグラデーションとしてのその連続性の下にあることには驚いておくべきことかと思う。赤も緑も、黒も白も、基本ないんだよって、誰かなら語ることで、あるだろう…。



このプリズムって装置がヒトのこころのマインドなんだって、それとしての理想のものだと、考えるのはありなんだろう。澄んでて、偏向が、自身としてのその拘りたるものの参与が、これ自体には基本一切ないんでね…。このモデルにおいて、見過ごしてはいけなのが、人間の視覚において認知認識できる色が

ってこと。でも域外としてのものは制限限界下において意味ないので無視するまで。*人はあくまでも実は無知なんだってことの根拠としてこれ上げといた。自分が識る知ってることがすべてはないんだ。知らんことの方が圧倒的に多いんだ。いつまでも経ってものことだろさ……。



あらゆるすべての色調、それらの波長の合計、合算、ブレンドとしてものが本来の光なんだってことを改めて強調しておきたかったまで。これって一種のエネルギーだってことも大事。エネルギーの放射だってこと。我々の常識では無からエネルギーは生まれない。そんなことは絶対にありえない。原因としてのものがなくてはおかしい。これの根本原因に対しては代数エックスを当て嵌めるにしかない。兎にも角にも、太陽が昇れば、ふんだんにこれとしてのものは送られてくる。来てる!。「

…」。(見かけ上においてでは!)。このことのお陰で、我々人間はものを、ものごとを、ハッキリと見ることができる。在るものは有るとハッキリ知ることができるのだ。ありがたいな〜、嬉しいな〜、幸せだな〜って感じて思って“いい”と思う。ことにおいては間違いなく原因、なにがしらかの投資をもってしてのことなので、我々としては感謝するべきことなのかも知れない。ことは在るの一面においては、

なのかも知れない。云いたいことはだ、何事も当たり前じゃないんだぜってことと、ことにおいての感謝の念を持つことと、ならば当方としてはなにをお返ししたらいいのか、できるのかってことなんだ…。

光あるところにまた影ありだ。ならばこの影としてのものはなんなのか?。分からん!ってことでしかない。いや、それがなんのかが分からん…ってことなんだけど、分からんってことのその事態そのものが影としてのもの、それなんだってことが…、分からん?。……。分からないことは分からんままにてでいいの〜!。でもなんか在る居るかも知れないんので〜、体感としてのそのセンサーをよっく意識して働かせてはいなければならない。なんない。視覚サイドに話を戻すのなら、影あるからこそ色は色彩は際立つ。そんな側面もある。嘘、虚ろ、迷妄まやかし等に対して、真実実在としてのものが余りに強力なので両者間におけるそのコントラストが強烈なるものになってしまう。真実の前では、嘘は間違いなく吹っ飛んでいってしまう。そんなもんの居場所はないんだ。此処重要だからね!。神そのものの臨在、その前では、サタンの力はもう完璧に霧散して消え失せていってしまうことは確実なのだ。問題というか課題はだ…人が真実においてどう捉えるのか?ってことだ。それはある意味、非情なるものである。人間ってものにとって、それに限定するならばだ。それは人間における現行のエゴ、これとしての願望を、欲望を、充足、満足させるものでは間違いなくない。無いものは無いとして処理されてあるまで、断罪、投棄、焼却処分されてしまって、あるのみ…。そうであったとしても、人が真実のみに生きることを選択することは、できないであろう……。

ことのついでに御大自体

少し語っておこう……。

ちょっとした整理さ。あくまでも基礎的な話として。



左端の絵は本来は本当は無としての領域に在るとしてのなにかが在ったってことのみを表したかったんだ。ならばだ、フィールドとしての

、つまりは単なる白地に無色透明の点としたかったのだが、これじゃモデルになんないのでああなった。真ん中が第二次としての展開、その結果で、陰陽としてのその働きが起こってくる。これは三の法則における積極的なると受動的なるの話でしかない。では第三番目の中和仲介、バランス、全体のまとめとしてのその力はどこにあるのかと云うと〜、それは、地そのもの、つまりはフィールドそのものであって、また両者間の違いを際立たせている区分け線だってことになるんだ。つまりはそれに対してはそれらがそとしてのものだと気づくことはなかなかに難しい。当たり前だと思いこんでいるものが意外とことの当事者だってこともあるわけさ……。さて右端の絵においてともなれば、なにがどうなった?。第三次としてのその変化がその進展が為された。真ん中はもう第三層におけるその様相を語るが主眼なので割愛されしまってある。単に円としての、丸いなにか、それによって現されてあるなにかが在るってことだでけでいい。



これはモデルとしての絵だ。陰陽を二極としてのその倍数二乗三乗までを基本として、表現そのものは完了してある。だけど後の残りの五段階、五階層の創造をもって宇宙創造プロセス自体は終了する。つまりは、この我らが属する世界においておいてともなれば、直接的には256種の卦がいるってこと。ならばだこの八つの卦としてのものはあくまでも原理的なるものの、その表しにしかすぎない。我々の存在する次元からすれば、これは抽象的にして、余りにも曖昧なるものになってしまう…。でもヒトの脳の処理機能においてともなれば、これのキャパにおいてともなれば、状況の整理に於いてでは、ここまでが限界なのだと思う。またこの要約体としての記号にて本体としてのその内容を整理するのが妥当な最良なる道筋なのであろう…。何かにおける今そのものの成り立ち、これを読むにおいての示唆、ガイド、これが上掛。八種類の卦。そして、この今ある状況としてのものが、次点において、つまりはときの流れに従って、それ作用影響下において、どういた落ち着きへと向かうのか?、向かってしまう流れに、現在あるのかを表してあるのが下掛。この今と未来とを卦において知る、確認する。ここに介入としてのなんらかの作用を自分として持ち込むことが可能になるのだ。つまりは見通しとしての結果に対して、それを変更する、より善きもn、もっとましなもんとなるように、石を投じることが余地があるってことだ。因果の結実点としての今はもう変えられない。だが、まだ未確定としての未来ならばじぶんとしての影響を挟む余地は残されている。問題となってくるのは八種としてのその総括がなにを、何に関してを表しているのかが分からんってこと。要約としての幅が、でか過ぎて、具体性を欠いてて、今においてを読み解くことが至難なのだ。おっかしんのがさ〜、ことにおいて知りたいその当事者がサイコロ転がしても現実はあまり上手く反映しない、してくれないってことなんだ。ことのその行為に際しては、我意、我欲としての色は挟んではいけないんだ。だれが中立的な人じゃないといけないんだ。抽象的な眼差しとなるべくしての、そのあくまでも無私にして中立的な尊敬されるべくしての存在、これでなくっちゃ賽は反映してくれない。

賽の目はなにかを表してくれてはいるのだが、読解が、そもそもからして難しい。その当人を取り巻く、取り巻いてあるその状況、それにおけるすべての項目を関連させてこなくてはならない。当人がまるで気付いていない知ってないことまでも。結局はその当人のすべてをスキャンしなければならないんだ。ならばだ、ブッダとしてのその視野、そのキャパを、獲得してあり、また構えていないと、無理なんだ…。*つまりは、示されたそのサイン(卦)に対しての、これにおいての、連想としてのそのキャパのこと。

コンピューターってやつの可能性においてともなれば、二の八乗としてのすべての階層に対しての現状を表すことが可能になるであろう。だがだ、しかしだ、ひとのこころの奥深さ、それが可能にしてある統合力ってやつには遠く及ばないだろう。宇宙コンピューターこれ自体へのあくせく顕現が人によってのコンピューターってやつにはない。だから。いらぬ長物としてのものにしかならない。

ところで、どうしてサイコロ転がしたなら、今に関してを、それが語りうるのか?ってことなんだけど、これはヒトそのものが関係してきてる。それが彼が行ってこそのその話なのだ。あらゆるすべては連結されてある。すべてが関係して流動してあってこその物事の成り立ちなのだ。ここに一枚の感光版としてのものを、それを差し込む行為ってやつが、賽を振るって行為なのさ。結局は、その行為を行うひとの願い、求めに従って、反映を、

、返してくれているんだ。このことにおいても何かを察することが大事、必要なことだろう。

補記:

ここは意外と重要な部分なので、どうしてももう少し語っておきたい。世界に対して問いかけを行うと、世界が、これの答えを、八卦の言語を媒として、返してくれる。何に関してか?ってのがまず明確であり、かつ具体的である必要がある。そして、卦を立てるものはできるだけ中立の立場にあるものがよい。問いかけするこの行為において、我欲が、恣意性が絡まないようにしなけれらばならない。そして同時に、答えを必要とするものにとっての真の助けになれるようにとの、思いやり同情心と、ことのいての責任を背負うとしての覚悟ってものが必要になる。そして、そもそもからの話しにはなるのだが、八卦においてのその言語に関してを、これの構造を、完璧に理解していなけりゃならない!。そして、コインでも、サイコロでも、筮竹でもいいのだが、投げて、転がして、つまみとってとしてのアクションを行う。これはただの一回だけ。やり直しは効かないし、やってはいけない。結果がいたく気に入らないものであったとしても、これはやっちゃいけないこと…。この単純な行為の結果として、ことにおいての今の状況、その成り立ちと、今後の見通しにおけるそれがとるであろう妥当なるとしての向け先ってのが表される。傾向性として。*だから、善き結果としてのものへとなるよう、変わるよう、スライドするよう介入することは可能なのだ。

こんな簡単で単純な、偶然任せの行為が、どうしてなにか真実を、語ることができるのか?。

ここなんだ…。ショックとしての体験となるのは。そして、以前から自分が語っているプラクリティうんぬんとしての

のことにも合点がいくのは…。

ちょっと今回はドサクサに紛れて易においてを細々と語っているが、これはなんの為に?なのか!。これもまたモデルをもってしての取っ掛かりとなるべくしてのアプローチの紹介になる。自分を取り巻いているその大きくくくっての世界が、限りなくコンピューターシステムとしてのものと同値、同じであるってことの!。

そう世界、これもまた巨大なコンピューターとしての側面を持ってる。人類によってのこれを遥かに凌駕してあるものとして!。このことの理解の筋道として、易は最適になる。どうしてか?。人間ってのは基本我欲において生きてる、動いてるじゃない。何らかの私的な目的ってのが、いつも傍らにおいてはある。でもことの成り行き、その成果っては皆目分からない、知ることが能わない。でっ!、不安で、心配でいっぱい。臆病なのでなかなかにアクション、実行にもでれない…。サイコロを転がして天にお伺いを立てるにしかなくなる。もしくは愚かにも衝動的にで、実行に出るまで、出てしまってあるまで。

一番、取っ掛かりとしてお勧めなのが、株式投資においてこの卦をもって占うってやつ。この銘柄買ったらどうなりますか?。もう既に買っちゃてるこの銘柄、このあと値は上がりますか?。

こういった即物的な内容において八卦を用いるのが一番いい。このことが理解において最短距離になる。ほとんとの場合が、なんの助けにも、ヒントにもならないだろうが、それでいいんだ。この世界コンピューターへのアクセスにおいて、どれだけの真実を、取り出すことができるのかのその検証になるので。利益につながることはないが、どえらい真実を、卦が、一面、かって、語ってくれてたってことを知ることにはなるので。変化する、結果がでるまでには、やはり時間がかかる。この時間をまたいでの結果としての収斂を観察することにおいて、易の有効性を確信することはできるはずなのだ。

補記:
各卦の説明に関してはブックオフで解説書を漁るのがいい。たぶん山程売られているはず。

でもね、これはあくまでも世界理解の為の入口としてのものでしかない。

ゆくゆくは、サイコロを転がすまでもないんだ。世界そのものと同期化さえすれば、こころの内において、すべての問いかけは、完結することになる。正しい答えを手に入れることができるんだ。どんな、なんの質問の内容であったって、それなりに、答えを返してもらえることになる。

ここも大事。他人に、それが権威者としてのものであったって、訊いてはダメなんだ。簡単に答えを手に入れようとしてはいけない。ことこの自分にとって関心がある、ぜひ知りたいと思う、その謎については、自問自答において、苦しむにしかないんだ。ずっと頭に心にその問を持ち続けておく!。

イエスにおいても、同じことが云える。ゆくゆくは、アイコンも必要でなくなる。彼と同期化、同体化がなされたその後では。ずっと同期化しつづけてあるってことは無理なんだ、そうなればすでに個人ではなくなってしまうんで……。






つづく




この八面サイコロを一つ、できれば二つ手にいれるのがいい。できれば日本製のものを。あと普通の六面サイコロを一つ。これらをもって実地に検証してみることをお勧めする。八面を二個いっぺんに投げる、転がす。もしくは、八面一個を二回に分けて転がすでもいい。このときのいずれかに六面も一緒に転がす。

問題、課題となってくるのは、今としての状況において陰陽がどういった構成になったいるのか?。初爻から第三爻までにおいて、これが構成してある三段としての陰陽の構造になにを読むことができるのか?。初爻が基礎であることは分かるが、では実際にはなにを意味してあらわしているのか?。分からんのよ……。

普通一般の六面において、これにおいて出た番号が、やや少し未来を見と通しての、次点における、違うもの、違う状態へと、変化してしまうであろうとの警告になる。そのことが、どれだけ後においてのことなのかは、分からない…。

なにごとも経験をもってしてだ。このサイコロを振る、転がす行為こそが、世界(宇宙)コンピューターとしてのものへの、その全体への、アクセス方法に当る。神に、天に、お伺いを立てるとしてのその方法、法術なのだ。本職の易者が使う筮竹は古来ゆかしくしてに則っての、先人先達への、尊敬の念を表してのことなので、無用なことは我等素人はする必要はない。ことの、易占におけるその核心として、

、この行為において、

、それなりに正しく、また奥深くしての答えが、それとしての反映が、連続性において(今とこれから)、もたらされて、きてしまうのか?ってこと。易を学びなさい、習得しなさいってことでは自分としては、ないんだ…。世界をすべてを宇宙を、管理支配監督、実際に運営しているそんなサポート体制としてものが…、云わば超巨大なコンピューターみたいなのが、あるんだなってことの、その得心の為にさ。これとしてのものの別称もまたいろいろとあって、自分が使ってあるプラクリティってのはその一つにすぎない。でもこれはそれが属し従ってある全体そのものに於いての、対しての、一機能にしか過ぎない…。根本の根本としての大本は、これは星間規模において働いている動力としてのなにか、それそのものを支えているものになるのだが、これは惑星間における相互作用、相互影響やら、いろんなダイナミックな力が絡んでいる。これらに於いての、対しての、地球を単位としての調整役なのさ。それにしてもどうして恒星のを中心としての惑星たるもんが配置されてしまっているのか?…。右の絵の算木は、陰陽の配列に、算出結果を、変換して、整え直して観る、深くに入って考える為のもの。上爻として三本、下爻として三本が視覚ベースにおいて、いる…。



算木に関してはなんだっていいんだ。セブンイレブンが無料でくれているマドラーを使うってのも一つの手だ。自分はこれ、テニスやるときの番号決めで使わしてもらってるwww。



自分として、伝えておきたいことは、それは、なんにおいてもそうなんだが、彼方に、虚空にあるもんなんじゃないんだってこと。*虚空ってのは人のマインド内においての、そこのみにて有効なるの意味ね。すぐ身近に、

直結してあるもののことに、なるんだと云うこと。このシステムと呼ぶべきものとの関わり方を学ぶ必要がある。これが真実なんなのか?。なんの目的においてのものなのか?。そういったことが分かってくると、建設的な、前向きな使い方ってのも、分かってくることになる。これを読み解く、自分の、日々の流動変化において、これをベースに、モデルに、参考にして全体を識る。驚嘆する、驚く、畏れる。そして、どうしたものなのか安心する。自分としてのみにはなるのだが……。


グルジェフが語る宇宙論においてでは、つまりは彼自身が理解してある事実を例えとして表してみたものになるのだが、宇宙が創造されるその前には〘絶対〙、もしくは〘永遠なる主〙と呼ぶ、事物の根源的状態だけが存在していたのだとされる。

それにおいてでは、それにおける特徴は!:
<全体>こそが、この<一なるもの>であり、この<一なるもの>こそが<全体>だった。
<絶対>は、完全に<独立した存在>ってことになる。
<絶対>においてはただ1つの法則すなわち完璧に統合されてある彼の意志のみが働いてある。
<絶対>は、外部における何者にも依存しておらず、完全に自己充足的としての存在。

この絶対の居城である<至聖絶対太陽>は、
相互に関連して働いてある二つの法則によって、構成、補完、維持されてある。
三の法則とオクターブの法則のこと。
独立した諸力によってバラバラにならないように保たれてあったた。*なぜでしょうか?。
<至聖絶対太陽>自身の中では、
「3の法則」と「7の法則」は互いに完璧なバランスを保ってあった。
これらの根源的な法則においての作用力が、
完璧に(一つの意思のもとに調和された形で)混じり合っていたため、
<至聖絶対太陽>は、彼自身の維持のために、外部から、何の影響を、助けを、
受けなくても、求めなくても、至極安定して、在ったのだ…。

しかし、が、自己内において、完璧なバランスを保ってあり、
かつ静止していたので、その中では、そこでは、何の変化も起きなかった。
が、<永久不変>という純粋な、(潜在的な)可能性、
それの塊としての状態にあったがため、そこでは何も変化が、起こり得なかったのである。

*この「静止」ってのは、アクションをしない、未だとらないとしての状態ってことでいいだろう。全知全能としての単一の不死者が、無、ヴォイド、虚無としての空間にてたった一人でいる状態!。この彼としての存在が、では、どうして、宇宙の創造などということを、したのか?、始めたのか?、これを、このことを、せずには、いられ…なかったのか?。
*寂しかったからだとか、つまんなかったから、などの人間臭い話しでは、まったくなかったんだ…。

は、「無慈悲な」時の流れによって、その存在を、脅かされてあった。
ほとんど感知できない、察知できない、その加減においての、体積の収縮が起こってあった。

これは説明はされてないと思うのだが、彼自身の居場所、居城を求めての

ってのは、為されてあったのだろさ。そこにては当然に彼に使えるべくしての天使たちも存在していた。言い方を代えるのであれば、単一にして唯一の、彼としての太陽系が、そこにては展開していたのだ。このことにおいてでは、ほんの微々たるではあるが、彼自身単体から、外部に向けて、流出としての事象が起こってしまってあったのだ。このことがややほど、微々たるなれども、不死不変としてのその状態に亀裂を入れてしまうことになったのであろう。この領域においての体積縮小が、時の経過とともに、進行してしてまってあることに、気付いた。超巨大な展望、その視野においてでは、ことは致命的なことへと至るであろうことにも…。

は、これまで通りの、その無限の可能性を秘めたままの状態を、維持するために、この可能性において、実際に創造としてのアクションを、別に新たにしたとてもー、自身における万能性、その可能性としてのキャパが、減少/縮小がしない、これがとしての悪しくしての要素が進行しないようにするためにも〜!、<絶対>は、ほぼ必要に迫られて、これまでにとしての領域をー、生成構成創造するに使ってた〜、関与してた〜、主原理たる二つの基本法則を、調整するをもってその性質を変更した。

この結果、全ての被造物は、これは本源たるからの流出としてのエネルギーによって創造されたるものになるのだが、今度はそれら自身が、生み出したエネルギー、体内において生成した放射線を、大気中に放出して、(これこそが活性化元素としてのものの正体なのだが)、いくつもの媒を経て、つまりはリレー方式において、本源たるに向けて、送り返す、この仕組みとなってあるのだ。簡単に云えば、創造の力、エマネーションとしてのその流れの逆をゆく、逆行、遡る、回帰としての展開が、自動的に集荷/収集されるように、なってるできているのだ。*ここはさ〜、かって中島みゆきの「小石のごとく」において作った、使った絵を思い出して欲しい。山に降った雨が、後の後においては、再び、あの山へと還ってくるってやつ。決して、行ったっ切りにはならない。これってのもさ〜、宇宙における根本原理が次元を落として、ここ地球にても反映されてるんだろなって、自分なんかは考えるわけよ。エコシステム。水を媒としての循環システム…。

一つ強調しておきたいのは、「変化」、ってことなんだ。ヘローパスってのはこの変化に伴ってどうしても登場してきしまう「時間」だって、ことになる。これに紐ついてエントロピーとしての概念もまた登場してきてしまう。つまりは「熱量死」だ。無秩序、無意味、極小の微辺となっての分裂状態…。ところでさ〜、このことにおいても一つ不思議だな〜って感じなければならないことがある。それは、命ある限りにおいては、なんとか自身としてのものが保たれてあるってこと。命ある生命体としてね。だがだ、死ねばすぐに、この肉体は腐敗を開始してしまってある。このことにおいてもなにか重要なことが潜んでいるって考えてもらったらな〜と思う。鍵はやはり命ってやつの正体、それの本体、本源との関係性ってことになる。そこに潜んである役割ってのが果たされなくなったら、もう崩壊へと一直線に進んでいってしまうんだ。ときの進行に従って…。

そして、流れを、時間の流れを経ても、<至聖絶対太陽>としての存在は、既存の、それの本来性としての、(あらゆるすべての潜在的可能性を秘めたままの)その状態を、維持できることとなった…。*つまりは全知全能のその不死としての状態を〜だ。

いきなり、このことの根拠となるプロセスを、その仕組を、状況状態を、語らぬままに、
結論が述べられてしまってある。以下はそれことの説明:


ヘローパスによっての作用、これを勘案して、二つの基本法則が変更された。このことの結果、これらの基本法則としての力は、もはや独立して、働くことはなくなった。その代わりに、今や、これらの力は、

依存しており、元来持っていた独立性が、維持された状態は、あらゆる被造物が、相互に力を交換し合う(相互扶養/相互給餌)としての状態へと、変更されたのだ。

*つまりは、某らかの媒を

、その力を発揮するようになったか?。諸力の背景にはこれらの力が潜んでいる?。またそれらにとしてのなにかにどれかに色付けされてあると。
*相互に依存してある状態となったは、我等の生存のありかたをモデルとして採用するのがいい。誰もが一人だけでは生きていけないし、いきてないでしょ?。地球上に生存してあるすべての生命体としての関係もまたこのことを、このことの結果を、確認するには役に立つ。食物連鎖のことを思えばいいだけ。

これら二つの基本法則(トリアマジカムノとオクターブ)の機能が変更された結果、内に向けて、内で働いていたこれらの力は、それの

、働くよう向きを変えた。*<至聖絶対太陽>としての領域圏内から、それの外部、外となる虚無、ボイド、無としてある空間(?)に向けて、影響力としてのその作用の向け先を換えたのだ。

二つの基本法則の、このような外に向かっての、それらとしての作用力の方向転換は、<絶対の/神の意志>によってのことだったのだが、その、この、特別な機会を特別視する、強調することを目的として、グルジェフが使った言葉が、<テオマートロゴス>、<言葉なる神>、<絶対太陽の放射物>なのである。(この「言葉」とは特別な、本源からの純粋にて強烈な振動としてのものになる。これが画一的だった宇宙の根源物質エテロクリルノを組織化してゆく。それの、それとしての影響を、反復しつつ、エテロクリルノを様々なパターンを持つ物質/形態へと変えていったのだ。この音としての振動は、光あるいは振動としてのものであるのだが、陰陽/正負の二方向間の均衡点である「零」を通って、つまりはプラスマイナスゼロとしての状態を媒として、絶えず変動変化するエネルギー・ベクトルである、それとしてのものになると言える。

*エテロクリルノは代数Xのことでしかない。自分としてのイメージは、無の背後、これの背景には、不胎化としてあるエネルギーが潜んでいるのだろう。これを呼び出してきて、これが滲み出てきたところで、物質としてのものに変換する。一種の魔法だ。無から有を生み出してあるので。このことにおいては呪文がいる。つまりは言葉。これの正体もまた振動としてのものに、これとしてのなにかに、統合できるのかも知れない。

、言葉をもっての制限において、たとえば、「光よ、ここに、あれよ!」と発する。すると光が現れただ。この神能力と近似のものを人間も持ってる、また使えるの……。

*最後のラインが興味深い。力どうしの平衡ってポイント、その状態ってのがあって、このときには二つの力は、その姿を消すのだ。いや、感知できなくなってしまうのだ。両者そこに揃って、いたと、してものだ。でもこのバランスとしてのものは、すぐに壊れてしまう。すぐに失われていって、しまわざるを、得ないのだ。このことも実生活において多々確認することができるであろう……。

ちょっと解説。ここで自分がなにをやろうとしてるのかと云うと〜、なんに関してを説明しておこうとしてるのかと云うと〜、どうしてパートクドルグ義務の履行が、神としてのものの存在を永遠のとしてのものにするのか?ってところ。これの理屈において。もう一度この絵を持ってきておこう。ここまでの語りにおいては、一番左の絵と真ん中のものに関してが少し語られてあるまででしかない。



まだつづくよ…



更に追加、ついでに。
天空の星々がこの地上に投げかけてある影響力ってもののその正体はなに?。生まれ落ちたその瞬間に魂としてのその表面に転写を刻印を天空より受けるのさ。これが後に、リンクとしての影響力の受容としての働きをする、その働きをもたらすことになる。両者間においてなにが物理的なつながりがある訳ではない。起きちゃってる、つながりができてるって訳ではない。ぜんぜん、そんなもん、両者間にては物質的なつながりなんもんは、ないんだ。天空より地上に投げかけられてあるその星としての影が、つまりは放射だ、これが動く。すると、同じくして、この影としての放射と、同質同類としてのものが、それとしての刻印が受容体となって、どうしたものなのか、動かさっれて、しまっている、あるってことだ。

ここにおいてて自分が云いたい、強調しておきたいのは、影は影であって、それに実体は、ないってことなんだ。ならば自身の上に投げかけられてあるその影の移動、その動きがどうして、この自分においても反映がなされてしまうのか?だ。放射を影としてのものだと語り、かつこの表現によるならば、それに物理的な、力学的な作用は一切ないんだ。では、なににおいて、なにが動かされて、動いてしまっているのか?。

影としての例えを採用して考えるのであるならば、視覚におけるその察知が原因になっている。実体なきもののその影が、自分の上に投げかけられており、それが動きを見せている。すると、その動きに従って、どうしたものなのか、この自分も動いた方へと動いていた。動かされてしまっていた。







これがことの真実における最適のモデルになる。この両者間において張られているリンクってのはなんだろう?。ことの実際は四分の一の確率に還元することはできない。暗示、念の及ぼす力に於いて結果は支配されてしまってる。ここに働いている無自覚なる素直としての習慣からも脱せていなければなならいってことをここでは云ってたまで…。

本体として真に実体あるもの、これが動けば、それが投げかけてある影もまた結果、同時に、即応の形で、動いてしまってある、いる。ことは見せかけの動きに対して、釣られてあるってことでしかない。ことの本質は共時性においての生命力としてのその伝達であるのかも知れない。永久機関としてのその母体が、天空の星々の動きその背景ととしてある見えざる仕組みであるならば、これとリンクして、小さな同じユニットとしてのものが人間にはある。これを生来から持って与えられて生きている。エニアグラムにおいてともなれば、それは真ん中の三角形のことだ。9.9999...(0)→3→6としての永久循環が、いたるところの自然界、宇宙において、埋め込まれている。このことだけが真実、ことの重要性におけるその根拠なのだ。by him。

これを動力(フォース)として、変化としてのその道筋のただ中に、

、突っ込まれて、

ってのが、我々人類を含んでの生命にとっての実情なのだ。結果、

、整える/強化する/進化させる/洗練するってことが、自然と、課題、絶対命題とっ、なってきてしまって、いるのだ…。

まったくもって激烈にして強制的なることの事態なので、翻弄と確執としての事態、その

は大変なものになる。苦しい不安だ、もう嫌だー!ばかりになる……。そうそうこれも言っときたかったことなんだが、ここはそもそもからして天国ではないからね。元々からして違うから!。むしろ限りなく地獄としてのものに近いその世界でしかない。大半のものが、その殆どが、海の藻屑となって消えうせてゆく、消え失せてしまっているばかりだってのが現実なのだ…。ブロイラーとして育てられいる鉄籠の中の鳥、それらの生存に、果たして、意義や甲斐や幸福が、あるのだろうか?!。当人らにはない。願っていたとしても、それは単なる夢。絶対にことが叶うわけがない!。もしあるならばそれは生命ととしてのものを育んである宇宙の全体性にとって

、ってことになる。よくできたもので、このラットレース、マネーゲーム、切った張ったを生業であることを特徴とする、生存を賭けての闘争競争、その修羅場としての世界を、脱する、卒業する、そんな可能性も、自然はちゃんと用意してはいてくれてはいる。このことにおいては、天界からの導きがどうしてもいる。それが絶対に必要になる。ここにサレンダーとしての覚悟が、それを選べる境地ってのが、またいるんだ……。その道は暗くしてばかりが続く道ではあるのだが、やがてには、それが完璧に明けることとなる。ことの核心は我意としてのものをすべて捨てさせるってことにおいて導きは用意されてあるんだろさ。外界との関わりにおいて、その本来あるべき姿ってのを、上位界からのその求めってやつを、教えてくれる。自分ではなんも分からんし、できんし、選べんのよ。本当に善き道、その選択ってやつは。



こういった現象も身近な出来事において関連させて理解しておくべきこと。釣られてってことと、伝線してってのと、どうしたものなのか引っ張られてって、としての事態。付和雷同としての事態も付け加えても良い。これ、この影響力は、本来的には、終局的には、邪魔だ。いらぬ働き、その介入、その強制力としてのものでしかない…。その為には?のその方向性についてはG関連の図書に当たって頂くにしかない。ソロモンの印章として表されてある鍵をもって、ゲートとしてのなにかに、ものに、その受容受信感受としての窓口としての門、これを閉じて、これに鍵を、掛けるの件。ハッキリと云っておく、これは

、完璧に邪魔なるもの、まったくもって、余計なる作用力でしかなくなる、ないんだ!。

波に任せて、これを頼りに、あちらへ〜、こちらへ〜、するのが中期までのその生存のあり様。これとしての運びそのものが、それ。これなくしては、どっこにも行けない。なんにもすることができない、適わない。世界によって動かされている、生かされてあるってな表現は、既にご存知、お馴染みであろう。


追記:
あとで、ここにリンクすべきもの、その内容として、呪術廻戦0における乙骨の独白を取り上げる。とにかくにも周りの影響に動かされてはだめなのだ。状況の客観的なる把握において、自分としての判断考えに基づいて行動してあらないと、当たらないと!。意外とこれは難しいことなんだ。ハッキリ云えば、不可能。周りに大勢に、それの運動としてのモメンタムに、流されてしまう、しまっているあるのが人の常だからだ。このことは、某かのグループ、目的をもって構成されてある組織の中にいてあって所属してこそ初めて分かること。もっと卑近な例では、スポーツの試合等において、その場を支配してしまってる奴ってのがいる場合だ。そいつ一人の為に、すべてが動かされてしまっている。なにがどのようにその場においては働いてしまっているのだろうか?。どちらもヒントとしてならば勢いだってことになる。天空における星々からの影響力のその本質は、動くことにおいて…、巨大質量をもってなるそのモメンタムにこそ鍵がある。宇宙空間においては、見えざる形にて、検知し難きものとして、重力場としてのものが多元的に展開してしまってある。結果、惑星間どうしてで影響しあっているってのがホントのところ。要はこのことによっての動力の伝達が為されているんだ。ある意味においてともなれば、それらのブレンドにこそ意味があるのかも知れない。思うんだけどことにおいてのその意味は、惑星レベルの存在にとってのみなのかも知れない。卑小なるレベルとしての個人にとっては、ある意味、ありがたみがない、得しない、関係したくない、そんなものでしかないかも知れないではないか…。ちょっと話しがズレたが、我々の身の回りのこととして、モメンタムによっての、それにおいての同化っていう事態を重くに見たほうがいい。世にて同調圧力って呼ばれているものの話だ。これも漠然としてて、なにがなにと同調しているのか!。あなたこれに答えられます?。ことはある種見えざる力その働きの結果だっていえる。動物であるところに起因する生存本能からの命令、強制力においてだ。群れを形成しつつ群体としてのその統一された一つの意志を持つ。意志なんてものではなくて単に指向性ってことだけで良いんだけど。問題はこれのみに支配されてあるってこと。悪く転べば、マスヒステリーとしてのものに、それは容易く簡単に、感染してしてしまうことになる。デビルマンの最終章が、まさにこのことの事態を描いてた。自分が所属してある組織の為に、その目的の為に行動する、してあることこそが、メンバーとしてのこの自分のアイデンティティを確立してくれている、もしくは保証していて、くれて、いる、あるのだ。ここにおいては国家間における戦争、殺し合いとしての事態を想定してもらえればいい…。



だ、なんだ、もん、だってことで、あっても、そうなっていてもだ!。でもだ、ものによるとやけにメッセージ性を孕んだものがやってくるんだ。特定のものにおいてでは、それが、備えられてて、しまってって、それらは意識的に自分に向けて届けられてきてる、送られて、きて、しまってるものだってこともまた事実なのだ…。いまのこの時点においてお前が識るべきこと、意識にこのことを置いておきなさいとしての、ある種の強制をもってしての供与だってことを、云いたいまで……。

これらのことにおけるその意義ってのはなんなのか?。あくまでも、ことにおけるその影響、その後の結果としての展開、これに関してを、これにおいての予測を、持っていなさい、しておきなさいってことなんだろうさ。それだけの話しさ。

識るべきこととして、ただ黙って、お前は、知ってさへいれば良い。それだけだでいいと。それん、トカレフ、まんまの、それで、それだっけで、で〜だ〜〜、それだっけでででいい。それんのみんしてるをもって、これを目的として、通知、伝達、されてる、だんけ、なんだろさ……。

悪いことばかりだ。良いことなどなに一つとして、一つもない。打つ手がないのか?って云えば、そんなこともないんのだが、民意としてのその99.9%が、ことに際しては、強く反対することになるのは目に見えてる…。どっか別の星に転生してからのことっとして、いろいろと自分なりの考えを巡らせておこう!。

国有化によってのその強制力をもって、して、強引に、改革をいくつかの分野において進めることになる。農業と林業と畜産業はまず確実だ。あと河川の管理(清浄なるもとして守る)と、排泄物の処理システム(出たものは大地に再び還流還元させるのだ)。飲料水システム(当然に河川管理と一体だ)、全体設計としてのゴミ処理システム。基本、低コストですべてが自然界へと還るものとせねば、しなければならない。水かければすべて溶けて分解するみたいな…。脱プラスチックをスローガンとして掲げる。いらぬ研究ばかりに、遊び呆けている学者らをすべてそちらの研究において集中研究させよ!。鉄筋コンクリをもっての建築行為、その一切を、もー止めて、禁止せよ!。高いビルなんてもん必要ないさ。やりがいのある仕事の提供と共に、それと同時に、それとセットにして、各地に人が

町々、生活環境を、そういった地域を創造せよ!。基本の目標は生活に関わる一切、これらすべての自給自足。時給率ってやつを、大幅に引き上げることになる。できたて摂りたて獲りたててのが、なんおいてでも、なんにおいてであったって〜いちばん美味しいんだ。活性化元素ってやつからの観点からも、それじゃないと意味がないんだ。市場は海外には求めるな。自給自足において!足りていりゃ〜いいんだ。あと貨幣システムは一新せずばなるまい。これの価値保証はどうするのか?。条件としては貨幣そのものにおいても一定期間のライフってやつが必要だ。獲得日をスタートに五年、十年、二十三十をもって段階をもって価値は目減りしてゆく。5%、10%、15%、30%気化するみたいに。天使への分前ってことで神社仏閣教会等に移行される。最終的には当人の寿命をもってすべて消滅でいい。ではその貨幣においての価値ってやの担保ってのは、なにをもって、なにを尺度としてだ?。国家政府が基本保証することになるので、決められた計画、そのプランへの参加時間ってことをもってってことだけで保証しても良いかもね。基本、絶対中立としての立場である国家が、それを、その新たなる貨幣を、発行するわけだし。そうでなきゃいけない。どっかの国みたいに株主として正体不明の人間たちが混じってちゃ〜だめだ。基本、働かざるもの食うべからずであるこは悪いが絶対の命題だ!。人事査定ってやつをどうやる、どうするのか?。ある面においてでは、ことの成否はお天道様のご機嫌次第ってこともある。どうしても自己責任としての領域は、避けられない。どうしてもでてきてしまう。政府としては保険業もやらずんば、なるまいて……。あとは動機づけにおける工夫だ。これがどうしてもいる。自分が実際に生活するその、そこの環境、これの創造となること、創造者であらねならないってこと。ひとは大移動のその後には、その地にて縛られることになるな。先行する区画整備ってやつにこそ大きくして巨大なコストが、時間が、掛かることになる。最終的な責任の所在は国にある。各地には統括責任者兼、

としてのものを置くにしかない。これはAIにしてしまおう。人心は基本まとまらないものなので、これとしての中庸としての存在がどうしてもいる。でも、これが告げ知らしむるってのは、あくまでも基本命題、その地における環境変動、異変においての警告のみ。センサー、ドローンとの直結構成だ。収支報告もこれが適宜、厳密に行ってある。基本、計画としてのその具体的な内容は、ひとこそが立てなければならない。実行も当然に人だ。機械使用は自家発電を条件にして、土木耕作作業においてのみOK。許可する。できるだけなくする、使用せずの方向へともってゆく……。住民間における騒動争議の勃興においては、際しては、調停者としての立場、権限をも、これが持つ、担う。これとしての権威としての存在、役目役割は、エゴを持つ人間であっては絶対に駄目。ひとがまとまること自体が無理なんだ。それとしての人間存在が滅多に生まれて登場してこないんで。プラトンの説く賢人政治ってのが一番いいんだがね……。公平さってのがやっぱり、とにかく命綱。これらとしての事業推進の担い手、総責任者は、やはり国家だ。国家単位としてのものでしかなし得ない。どこまで現場としての国民の手を引くのか?、どこからは現場責任として突き放すのか?。この辺の線引がどうしても必要にして大事なのだ。基本はね〜、ここは天国なんかではないってことだけは、最初にハッキリと、国民に認識させるべきなんだ。できる限りの手は貸す。労も出資も厭わない。だがだ、しかしだ、あなたち現場の人間の手にすべては最終的には委ねられてあるんだってことだけはハッキリと声明しといたほうがいい。おそらくの、成功の鍵は、あなた達全員による、現場を担ってある全員の、連携連帯にこそある。おそらくは博愛の精神こそがことにおいての絶対に必要となる鍵だと、それになるのと。寿命ってやつが誰にでもあって、あんたらは孫子としての子孫の為を思って日々を有意義に生きなければならないんだよって…。これは小学校入ったらすぐ徹底的に教えなければならない。死たる事態がどうやっても避けられないだってことを。そして怖いのはその時がいつなんかだってことは誰にも、自分にも分からないことなんだって!。学校っやつでの、そこでの教育も、生存するにおいてふさわしいものとして、そ〜なれるようにとの思惑において、再構成しなければならない。大事なことは無駄にする、できる時間なんてもん、一秒たりとてないんだよって。余暇をどう、どのように過ごすか、過ごせばいいのかも、ちゃあんと指導してあたらなければならない。そこんところの領域に金儲けの思惑において他者を付け入らせては駄目。そのひとの可能性としてのそれに費やすべき時間を奪うことになる。人が真に人として完成するためには、いろいろと、ほんと手間と時間とお金が、かかるもんなだから。三つともどれも簡単には、ただでは手に入れらない。ほんと貴重なるもの。それらとしてのものをその為の時間を溝に捨てるようなまねをしてはいけない。このことにおいおての導きとしての示唆は間違いなく確実にいる。残念んながらこのことにおいてではAIの出番はまず絶対にあり得ない。



では、誰が!何処が!なんの権威において!、そういったプランを、計画を、執り行うに足りるというのだ?!、それに、そいつに、そいつらに、どんな!なんの!権限/資格があるんだい?!。多数決としての民意ではまず絶対に無理。与党としての自民党には根底から、敗戦からして無理だ。野党はどれもこれもガイキチ…、いや失礼…、中学校の生徒会みたいなもんばかっし、それとしてのイキリ倒してあるばかりの、未熟も未熟のダントツ君揃い、中二病患者としてのその重症者患者としての政党、この病にて、無意識にして形成されてしまっちゃってあるばかりのだけの売国奴集団としての連合、そそその集まりに過ぎない!。とにかく現行としての今を壊して毀損したい、それまでの思い、考えばかりなのだ。ものごとの成り立ち、その成立には時間がおおおいに必要だっていうのに。後のヴィジョンってやつが皆無なのが、あいつらが云ってくことを聞けば分かる。誰か海外としての、そこの権威者らの口真似ばかりだ。日本が蓬莱島だってことの前提を、誰一人として口にするものはいない。特別にして特例、超例外的なるその国体構成になってるのにーーーっ!。



国会は、だいぶ前からバラエティ番組化してて、あれらみたいなものになっちゃってて、人気、知名度が当選を左右するところとなってしまってる。そればかりが、それこそが、横行する場所となってしまっているー!。要はだ、これまでの日本の歴史を形作ってきた、その根本としての本源にまで至り着いてからの、オリジナルな発想がどうしても必要なのだ。ことは天皇制たるものの真髄に迫らなければならない。出発点としての根本としてものが、あの造花三神であるならば、キリストを、国神として祀ればいい。当然に名は変えてだろうけどね。天皇家はそれに仕えてある神官にしか過ぎない。改めての人間宣言をする必要がある。この神官としての務めは、この家のみにおいてで、限定されてものとせねばならないだろうけどね。造花三神を根本に据えて、神々の構成をその権威重きを再構成せずばなるまい。いまの日本人は米ばかりそれのみ食っているわけでもないし。現人神として聖徳太子をクローズアップする。神代の時代はあくまでも現実においての背景として、その次元にて祀り上げて、現存するこの現実世界において神のごとくに振る舞ってくださっていた方々をもっと身近な権威として祀ることをもっと奨励したほうがいい。転写体としてあったあの方々を、我々にとってはもっと身近なもの、存在として、権威づけしたほうがいい。お太子様(空海)なんて未だにこの世において力を振るってくださっているんだし。もっと交信においてのご指導を賜ればいいんだ。

とにかく、岸田を筆頭に、あとに続いてある総理になって欲しいうんちゃらかんらランキング、その投票における、アメリカ奥の院と関係ズブズブの、出来レースにおける、その高位にて位置しているものらにおいて言えることは、なんも、ほんとには、理解していないってこと。

浅すぎる、軽すぎるばかりなんだ。そんなこた〜テレビに写ってある顔を観れば分かること。繰り返しておく、なんもね〜、真実には、なにも、理解しては、いないんだ……。このことの原因は簡単だ。利権における、その世襲において、今の立場を獲得して、構えてあるばかりだからだ。



高野の坊主どもも。外国ファンドにお布施としての大金を奪い取られてるんじゃな〜いって。もっと、その声を伝えて聞かせてくれよ!。識ってる分かってるはずじゃないか〜。それともなにか自分らにはその声が皆目聞こえては来ませんってか〜〜!。道元ゆかりの永平寺も、観光地みたくになってるし、大阿闍梨はこのあいだ女犯坊としてのその片棒担ぐことやっちゃってるし、教会はまったく昔と変わらぬ話ばかりだし、もっと身近な出来事としての奇跡の話をやれや〜って思うよ。カトリックの神父たちの幼い信徒らに向けての性暴行も、もどんだけやっとんのや〜!。数が多すぎるやないかー!。形骸化のその一言ではもう片付けられへん。どうしたことなのか、自壊して、いって、しまってるんのやー!。(閉じた閉鎖された水槽内に置かれてしまっているから。そして茹でガエルの状態にあるから。ヒステリーとしてのその暴発が益々増えてゆく……)。



ことの原因は、閉じた世界内におけるその自家薬籠としての中毒に陥ってしまっておんのやー!。自己観念としてのその重みに、その暴走に歯止めがかからんようなってしまっておる。簡単に云えば、僧侶としてものらは、仏性としての、それそのものたる自己そのものとのリンクが、もはや、既に、達成できんようになっとるんのやわな〜。神父らは神父で、神や聖霊、天使との交流がもはやできない、できない状態にて、づっと来てしまっておるんやわ。他者においての奇跡なんぞなんの興味もないわいって。全体的に貧すれば窮するとしての状況悪化になんの手立ても打てない、できないそんな姿になってしまっておる。創造性に欠ける。だがだ、創造性、これに関わるインスピレーションは、本源とのダイレクトな接触をもってでしか起こり得ない、恵まれないないものなのだ。ことこのことにおいてでさえも、良くない状況、その状態にしかないんだってことが、ハッキリと推察、直感理解、直感把握することができる。

権威、権力としてのその座に、あぐらをかいたなっ!。もう自分は好きなことをしてもいいんだと勘違いしてしまっている。ならばだ、あとは邪魔になってくるのは尊ぶべきお方としての御本尊だってことになる。今や儂が、我らが、それとしての存在なのだとでも?!。



よくある話さ、どこにでも見受けられる話でしかない。あなたも間違いなくこの老害としての存在に、やがてにおいてでは、なることになるであろう。その社会的な立場を固める築きあげたその暁にては!。

催眠をもってしての呪いが人類に於いてではかけられてしまっている。全人類において、向けてだ!。自死たる事態を、どうしたものなのか具体的な、切実なる事実、それとしてでは考えることが、想像するとができないようになっている。

この呪としてのものの術者、主犯としてのものは、実は、この世界だってことになる。いざ目の前に、ことが差し迫ってからでしか、そのことについていが思い及ばない。思い浮かばない!。当然に、子孫としての孫子のことに、真にこころを寄せる、考慮することなど、できえようはずが、ないのだ。ことの結果、その事実が、以降以後において、どんな影響をこの世にて振りまくのかがまったく分かっていない。因果のつづら折りにおいても余りにも甘く、軽視、しすぎてる。なんにおいてであったって、時間ってやつがかかるんだ……。

自分という存在はやがてには間違いなくこの世を去る。このことと生きてる間は絶えず意識してあるべきだろね。この鉄壁の現実の認識が解毒薬になる。

早い目に、こっから先の自分の生き方は、終活としてのものだと思い、すべてを再構成、再調整することをおすすめする。きっと、えらく、楽に、なるさ……。



Re: 量子コンピューターってやつが準備してあるもの。

ちょっと脱線。抜けないように…。
メタバースとしてもの、そこにおいての世界さ。人工現実、人口現実。

現実世界と遜色ない、そんなクオリティーの仮想空間を作って、リアルタイムでそれを、
動かすことも、簡単にできるようになってくる。

抜粋: 
「つまり、映画マトリックスのような仮想世界が実現できるかはコンピューターの計算力に依存している部分が大きい。(中略)それを考えると汎用性のある量子コンピューターが実用化されて人類が

手に入れ宇宙の銀河系のあらゆる変化を、シミュレーションできるようになる未来も、自分が生きている内に実現してもおかしくないはないと考えています」。


結論から云うと〜、これは間違いなく新たなる檻の創造にしかならない。最終的な人類にとっての呪縛、そのとしての拘束になる。マインのそれの機械をもってしての拡大、増幅器としてのものになる。ある面におけるその性能は、人類においてのものを軽く凌駕するものではあろうが、それそのものが何かを知ったり分かったり創造するわけではない。

組み込んだプログラムにおいて機能してあるばかり。ではこのひとがなにをどれだけ本当に分かっているのか?。広大にして樹木が密集して生えてあるばかりの、そのエリアにてある一本の木、それの、その木の葉一枚程度でしかないのが現実なのだ。シュミレーションを行うにおいても、物理法則等に関しての、洗練された、整理されてあるデータが入ってこそになる。この法則群において、果たして抜けとしての、未知なるものは、本当にないのであろうか?。知らざれる次元との関わり、関係性ってのも自分は確実にあると思う。この、歯抜けであるばかりの、乏しい法則をベースで、これもまた過不足多くしてあるばかりであろう、探知可能な情報入力で、現実に等しいシミュレーションってやつができのだろうか?。できるわけがない!。

そんで、もし使えない、実際にはそういった役には立たないってことが分かったなら、次点においてはどうなる?。人の心をたぶらかす、この面にて特化した進化発展のみが企てられることになるであろう。先行投資を回収するために!。ひとたるものにおいての、その夢見の世界であるならば、現実なる世界の法則性などいらなくなる。いやいや、基本、返って、邪魔なもの、不要なるものでしかないではないか!。略。

足らずばかりで、未完成至極であるばかりの、完璧に結果にリアル現実からは乖離してある、そんな閉じた、閉じてあるばかりのそんな世界を、夢のドリームランドだと、新天地なのだと、思い、込まされることになる…。

いらないねん…。こんなマインドの代用物など。(正確には、マインドとしてのその機能の外部増幅装置)。すでに最初から、生活するべくしての世界現実と、宇宙そのものとのインターフェースとるための器官が人間には備わってる。もうこれだけで十分なんだ。これの使い方ってやつを、もっと研究した方がいい。天との、上位界との接触は、この最初から与えられてあるこの器官においてでしかできない、適わないんだ。誰もがみんなこれをえらく錆びつかせてしまっているんけんどもね〜…。

簡単には感受性ってやつが鈍くなってしまってる。ことの開始は、そのスタートは、テレビ〜のせいさ。…いまちょっと思いついた。ここでせっかくだから、鬱蒼とした御託としてのジャングルが、も、自然と、用意さたってしまってあるもんなんで、既に一見さんには、もう確実に絶対見けれないと思うんで、マインドのモデル化ってやつもやっとく…。意外と、この自分が、それをどうのようにして理解しているのかが、ほんとには伝わってないだろうから…。

いいモデルがあるんだ。以下を、これを参考にするならば、もう一発だ。
それは非常にテレビに似たるもんなんだ…。

















真にリアルワールドとしてのものは人間には未知。この現在の肉体ってやつに収まっているその限りにおいては、ことの真実に関しては、永遠に、理解すること、知ることは不可能!。なぜならば、我々は外界を捉える、知るべくしてのその感覚において、制限があるから。それら感覚器(五門)には、それらが適えてあるレンジにおいて、キャパとしての制約が、確実に、ある!。見えない、捉えられない、光、色調、色ってのが確実に存在してある。音においても、感触においても、味ってやつにおいても、絶対にそうなのだ……。

マインドってのは、認知認識におけるそのフィールドだってことになる。世界の自己の外の世界においての、それらについてのおいての翻訳機…。ここで不思議なのは、人間だけ異常に、これが、ずば抜けて、精巧なのだ。他の在来種としての動物植物等と比べるならばだ…。あまりにも、極端にて、突出してる。概念化、観念化としてのその人間のみの、その特殊能力のお陰だろう。だから、おそらく人間は、人類は、自然進化においての存在ではないんだろう…。世界からの、その本能においての縛りがあまりにもなさすぎる、弱すぎる…。単に、無神経、バカだからなのであろうか?。

補記:
このフィールドとしてのものと、個人そのもの、本体本質たるものの関係が問題になる。その両者間においての課題たるものがあるにはあるんだ。優秀な秘書、副社長としてのものと、真の主としてのもの、社長としての立場にあるものとの関係を、前提にしてもらえればいい。それらはあくまでも使われてあることが前提なのだ。ならば、それらとしての人の成り立ち能力得意不得意、どのように、扱えば良いのかが、こちらッ側としては、熟知されていなければならない!。じゃないと、こちらの方が、使われてあるばかりとなるであろう。使うべきた立場の者がだ、使われてあるばかりとしてのその立場へと、その身を落とすのだ。楽だろうけど、実利は、なにもない。起こり得ないのだ。*このことは、決してマインドたるもののみの話しなんかじゃなくって、もう一人、肉体としての獣を、キーワードとする存在がまたいる。この彼を、力付くで征服しない限り、場合にもよるだろうけど、そこに横たわってある状況にのよるだろうけど、獣としての本性が、あなたとしての行動の、その操縦桿を、握ることに、簡単になってしまう。♪こころと体は一つじゃないのね!アッハーンって、少女Aも告白してくれている!。補記終わり。

違うねん!。問題は、入れ子型としてのその迷宮構造に、

、嵌まり込んで、いって、しまって、いってて、機能不全に陥って、きてしまって、いる、までなのだ。簡単に云えば、茹でガエルとしての、その状況にあって、これがどんどんと苦しい状況ってやつになってきているのだ。ここ二百年ぐらいにかけて…。人間問として感受性、精巧であればあるほど、その密閉された、陳腐な限りの、その模造品としてのできあがりばかりの世界ってやつに、耐えられなくなってゆく、しまってきてる。気狂いとしての、閉じこもりにおいての、その観念世界ってやつにおいての在居が、追求が、深まってきてる、ゆくばかりなんだ。そっちにしか逃げ道がないもんなんで。実際は、その領域へと、追い込まれていってる、きてるだけの話しなんだが…。趣味としてのその世界、自己の内面のみにてで、満足ってやつを、幸福を、追求したいってやつ。オタク道ってやつだ……。

以下で、下のほうでやるんだけど、この迷宮たるものの特徴は、積層構造となってある、認知スクリーンたるものとしての構造体なのだ。それは決して目では見えない、感知することが適わない。映画が投射機をもって、上映されている、その限りにおいては!。これとしての科学技術による最新のものが、構造として

としてのものが、VRとしてのも〜〜のっ!。でもさ、これとしての世界は妄想力ってやつを前提にするならば、別段ややこしい機器を必要とするまでもないのだ。現実からの乖離って病理においてでは、それは既に人類において達成されてある。でも、それって……。不幸であるってことでしかない。それ以外の意味を持たない。確実に病院送りとなる、そこでの監禁が、余儀なくされる…。追記:怖いのは、…まず人間はそんなに器用に世界の切り替えができるわけではないと思うんだ…ここでも上で話したことが起こってきてしまう。妄想の世界においてのなにがしらかの満足感は、再帰再現再体験を求むる思いへとつながってきてしまう。つまりは、悪い癖がついてしまってあるってこと。なので、状況の整い次第では、簡単にその行為へとつながっていってしまう。ここは現実としての世界、フィールドであるのだぞと、自分に、言い聞かせてあったとしてもだ。既に轍としてのものは形成されてしまってある。その癖、業たるものに、支配されてしまってあるばかりなのだ。われら人間は…。

要点に於いてのみ語るにて制限する。

マインドにおいての認知おけるその課題、理想形は、その機能を適えてある機構がその当人等においてでは、気付かれていないってこと。邪魔になるんだ。だから、そういったシステム、カラクリの所在介在は、知らない分からない気づいていなってことに、なってることが、重要になってくる。認識事態において、シームレスであるってことが、命なのだ。世界におけるその変化はあまりに流動的であるがあまり。絶えず臨機応変に、すばやく、脅威としてのものには対処することが必要になってくる。より優位な立場を固めてあるためにも…。

ジ・アースのコックピットとしてのものをモデルとしてあげてみた。これってドーム状のスクリーンってがあって、そこに外としての世界が投影されてあるってことになる。360°外界におけるあらゆるすべての情報が。それがテクノロジーによっての再現であることを忘れるのであれば、もうそこにおいては、コックピット内においては、現実における生活感となんら変わることはないであろう。当然に、どうやってるのかはわからないが、五感においての、対しての情報入力も、適えられてあるもんだとしてはだ。つづく...

世界についてのそのリアルを、まずは概念としての言葉をもって学ぶ。そして実地において理解する。そして、上手くゆくならば、五門のみをもってしての世界理解を超越することが適う。ならばだ、そのときには、”神”は、どうなる?。状況的には、すべての概念としてのタームは、意識下におて、胎蔵されてあるまで、のみとなってる。適宜、相応しき時宜にて、自動的に、意識の裾において、登ってくるまで...。いらぬ操作としての作法は、まったくいらないんだ。すべて内臓機能がそうであるように、自動的に、的確に、正解として、整うようなってるまで…。

ことここにおいて、仏教と、キリスト教との違いがでてくる。

ことの結果のその事実においてともなれば、その違いは、一人ぼっちであるのか、そうでないかの違いってことになる。完全に無、ゼロ、空としての存在であることにおいてでは、違いは、まったくない。両者は共に、同じ状態、似通ってはいるのだが、ただ、このこと一点のみにおいて、違ってる。

とどのつまりの話しとしては、それとしての存在になるのか、

併合されての存在として、自己を意識してあるのかの違い。巨大にして大きく、また深い深い分水嶺としてのものがある。越えるか超えないかは、自然と、自然にて、決定される。そうとしての結果で、あるべきなのだ。さびしいからこっちだとか、ブッダへの信仰において、その考えとしての道を、歩んで来たのだからだとかの、判断決断は、あってはならない。きっと自然と、収まるべき立ち位置にて、収まることになるんだろさ……。

でもさ、やっぱあっちは、嘘くさいって、いまの自分は思うんだ。
やはり彼がちゃんとおらっしゃるその状況ってのが一番良いのではないかと……。




そりゃ〜車、ブルドーザー、重機ってのは役に立つもの、ありがたいものさ。でもそれは、あくまでも

であってこそだ。人が生み出す人口世界ってのには、まず間違いなく悪意に染まってのものになる。利己心ってのが製品化において絡んでくる。たらしこんで、中毒にして、そのことをもって、ユーザーの資産を、金を、奪い取るってな具合…。少なくとも、投資資金は全額回収させてもらうよ!だ。この色が確実に入ってくる!。この簒奪としての、強制回収としての思いが、願望が、色づいてしまったものである以上、それはもう完璧に偽物の世界となるのは確実だ。嘘偽りとしてのキャンペーンが洗脳としての宣伝が!。あなたは、あのマンガ、「夢見る機械」のような世界が、その現実が到来することを望みますか?。あれが、

だと、本当に思うことができますか?!。



結果としては誰もそれを、そのことを、止めなかった。悪い結果に至るその原因を取り除くことを良しとはしなかった……。こころを鬼にしてでも〜が、できないひとばかりになっちゃったんだ。ならばだ、ある種、ある意味、自業自得としてのその地獄に足を踏み込んでゆく、あるまで。可哀想なのが、未来に生まれてくる、その子どもたちのことになる…‥。

基本、なにもお前は心を取り乱す必要はない。恐れることも、悲しむことも、まったくもっての不要、不必要なのだと…。お前は、ただ“御心のままに”としての「アーメン」を、心中深くにおいて唱えていれば、あれば、いいのだと。その思いのみにてで、お前は留まってあれば、もう十分なのだと……。

なんで、そうしようと、そあろうと、努力してる…してきている……。

湖上にて、嵐に巻き込まれた船が、木の葉の如く、暴風雨によって翻弄されてある。こりゃ〜ももう確実に、この船は沈没難破するぞ、我らはじきに海へと投げ出されて、溺死してしまうことにじきなる。こういった思いに、人々の心は取り憑かれ、染められて、いってしまって、ある。

これは極普通、自然、至極真っ当なる反応だよ。そこんな、そんなところに、その船に、同乗してあったイエスが、信徒としての人々を諭すんだ。『お前らの信仰は、そんなにも薄いもんなんかい?!』っと…お怒りになられる。『全知全能、すべてを見通してある、お知りになられている神に対しての信頼は、そんなにも不確かにして信頼性のない、まったくもって不甲斐のない、自信のないものなんかいな〜?!』と…。自分が信仰にいおいて、神とのダイレクトな関係性においてなる、その庇護の内にあることを確信しているならばだ、すべては「アーメン」、その思いもて、にて、心静かに自分を平静に保ってあれる、あれてる、あれれれれてる、過ごし、たっとゔぁにて、いててる、過ごしてあるばかりなんのが、当たり前だろが!っと。

この基本スタンスにてありながら、ちょこっと、わらわら、またわけの分からないことを、
ごちゃごちゃと、いろいろと語るよ




未完!


これね〜なんかにおいて使おうと思ってた画像が溜まりすぎてきての公開なのだ。

あとね〜、いろいろ、さらに加えることになる。確実に倍化する!。

ジョジョのカーズにおいてもここでやるか…

チェンソーマン、クレイモアは当然。そして‥…。





えらひイエライ イエライ イエライ エロジャン………






あとがき

本稿におけるその全体性から見れば、やはりミリーゼ大佐の顔が一番こころにては残る。
あの彼女の悲しみ、絶望こそが、イエスが在命中、ずっと味わってきたその思いなのだ。
天においても事情は同じことであろう。

だれが一番、苦しみ、悲しみ、そして努力奮闘をしてる、してたのか?。

おそらくは、大本としての存在こそが〜!なのだ。

自分としてのものなんかそれと比べれば、単に、風が頬を優しくなでていく〜にすぎない。





             過労老衰によりてのその

御臨終……


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み