16.  スミル

文字数 4,981文字

To the Church in Smyrna スミルナに在る教会に向けて。







8 “To the angel of the church in Smyrna write:
 These are the words of him who is the First and the Last,
 who died and came to life again.

 ‖スミルナの、守護天使に向けて、斯く書けよ…

 ここに(しる)せしは、()の”(かた)”よりのものなる…
 最初(さいしょ)(はじ)まりの(もの)にして、また最後(さいご)()わりでもあられる(かた)
 かって、一度、()なれたるも、新たなる(いのち)を、(しゅ)より(たま)われて、
 (せい)へと、(ふたた)び、(かえ)(いた)り、()しける、方様(かたさま)よりのものなり!。

9 I know your afflictions and your poverty—yet you are rich!

 (われ)(なんじ)が、艱難(かんなん)日々(ひび)()ごしありて、それらに(さひな)まれ、月日(つきひ)(おく)りておることを、
 また、金銭(きんせん)(とぼ)しきの(かぎ)りにおいてて、毎日(まいにち)(あへ)ぎもって、()らす(さま)なることを知る。
 ()れど、(しか)(ながら)らも、()づけよ、(なんじ)は、(いまだ)だ、裕福(ゆうふく)たる(もの)、そのままなることを!。

 I know about the slander of those who say they are Jews and are not,
 but are a synagogue of Satan.

 また(われ)(なんじ)が、親族同族(しんぞくどうぞく)らから受けし、中傷(ちゅうしょう)非難(ひなん)侮蔑(ぶべつ)(あなど)りについてを知る。
 彼等(かれら)から同胞(どうほう)には(あら)じなると(そし)られ、また差別(さべつ)されたるを、その事態(じたい)について知っている。
 だが、信徒(しんと)(のたま)いながらも、その(じつ)彼等(かれら)こそが、そうしたものには(あら)じなる。
 あれらにとっての教徒(きょと)とは、最早(もはや)、サタンを(ほう)じての徒党(ととう)のことでしかない。
 その集会(しゅうかい)は、あれへの礼拝(れいはい)を、目的(もくてき)としての、(つど)ひたるものにしかあらじなる。

10 Do not be afraid of what you are about to suffer.
 I tell you, the devil will put some of you in prison to test you,
 and you will suffer persecution for ten days.

 Be faithful, even to the point of death,
  and I will give you life as your victor’s crown.

 (けっ)して、(だん)じて、(おそ)れることのなかれ!。(なんじ)が、これよりのち、
 (むか)へして、(あじ)わふべく(さだ)められたるの、それら艱難辛苦(かんなんしんく)たるものを。
 (おし)へおこう…、悪魔(あくま)めは、(なんじ)らが(うち)幾人(いくにん)かを、監獄送(かんごくおく)りとせんことだろう…。
 それは、信徒(しんと)たるらを、(ため)さんとしてが(ため)なり!。そして、汝らは、十日間にも(およ)
 迫害(はくがい)に、日々、(さら)され、その生活(せいかつ)は、獄舎(ごくしゃ)独房(どくぼう)にてとならん…。

 その(かん)においてであってさえも、信仰(しんこう)(あつ)く、(つよ)く、()く、堅固(けんご)にてあれよ。
 (なほ)()(くは)へておくならば、()たるを(むか)へるそのときまで、その瞬間(しゅんかん)にあっても!。 
 ()すらば、勝者(しょうしゃ)としての(あかし)たる、(かんむり)を、(あら)たなる新生(しんせい)(ため)の”(いのち)”を、
 (われ)は、(なんじ)に対して、(あた)へホば、()して(おこな)わん。

11 Whoever has ears, let them hear what the Spirit says to the churches.
  The one who is victorious will not be hurt at all by the second death.

 (だれ)あろうとも、(みみ)のあれば、聖霊(れいれい)が、諸教会(しょきょうかい)に向けて()げる、その言葉(ことば)を、
 その(つた)へるところの奥義(おうぎ)たるを、こころ(ふか)く、(ひそ)かにて、(おさ)めるがよい。

 勝利(しょうり)たるを、()()しものには、その彼等(かれら)においては、
 もはや、()たるべくしての、第二の死の帰来(きらい)(さい)しても、
 (がい)たるを、負うべくはない…。









死たるを迎える、その瞬間の、そこでのこころもちが決定的に重要なのだ。
これはホントそうなんだ…。
その瞬間に、低次元の思いや感情に囚われていたならば、死後はそっちに引っ張られる。
特に苦しみからの、そのストレスからの、否定的感情や思念(呪詛)てのがやばい。
何十年も、誠実に、そして真剣に、信者をやってきたとしてもーなんだ…。

自分の母親なんかは、道で転んで、あっという間に亡くなった。
なので、下手な思いや感情には囚われる、そんな間もなかったと思う。
「ポン」と、あちらに渡ったことは良かったことなのかもしれない。
ちょっと救いに思ってる…。




〈つづく〉



キリストを信仰することは、先ず既存の生活様式、形態、文化、社会集団からの離脱となる。そのことを意識しようがしまいが関係ない。かっての盟友かっての同胞や仲間、家族からは、その事態において批判や糾弾のの的にされてしまうようになる。これは型としての話し。ことは、いろんな衣装をまとって、その姿を変えて、まったく同じくして再帰してくるまでのこ〜とー!…。

世の人々たる彼等、家族として慣れ親しんできたそのみなの、その真実の姿/状態たるものが、対照的にハッキリと意識させられてしまうようになる。それは不思議なことなんだがまるで本性/正体を表わすかのような展開になていってしまう。それは反映としての現れなのだ。一変わればみな変わるであるが如くして…。

世間からの逸脱/離脱において、世間からはことの反映として、迫害といった形が常々現れてくるようになる。これは裏方のはなしをするならば、イエズスが経た、その行程の後追いをさせるべく、その機会を舞台を準備してくれているまで…。

もっとはっきりと過酷なる現実を話せば、無自覚/無意識にではあるのだが、世間のヒトたるものはエゴでその存在は成り立っている。人格のことね。これを暗黙の了解ごととして群れたるものは形成されている。それが基盤なのだ…。この前提を翻すとなるならば、自動的に排斥としての機能がその群れにおいて作動を始める。それまでのこと。それだけのこと…。すべては機械的なる反映に如かず。*クリスチャンとしてのグループであっても、それのレベルが低ければ、同じ反映を見せて寄こすこととなる。まずは、先に、自己を改めないといけない。それが済んだ人々のグループともなればまた別の話ともなるのでしょう…。

肝心なる課題たるのは、忍耐心、克己心、意志力、等の獲得増強そして練磨。その鍛錬の行きつく先は”放下”となる…。

この行程を消化するには方針たるもの、あるべきのモデル、お手本たるものがなければならない。じゃないと、なにをどうしたらいいのか、皆目、さっぱり分からない。その方針にあたるものが真善美。そして何よりも他者たる存在への愛。その自然なる発露ならんこと。具体的なお手本としては聖書にあるイエスの経てきた道がガイドとして定まっている。よくした、できたもので、自然と、然るべくしての舞台がお膳立てされて、そこにてドラマは天界してゆく。そのことにおいて、そのようにであるからこそ、神との関係が実地に確認されうる。つまりは神さんを意識することが日常に頻発することとなる。

あなたは、ただ独りっきりでその道をゆかねばならない。
周りに同じ信徒たるものがいても、それらはまた気休めとしての幻に過ぎない
一生をかけて、その孤独な道を歩まねばならない…。

「幾人か...」は、それどころの話ではない。全員が確実に、監獄送りとなる。
当然、そこの名称は、そんなハッキリと

とはうたってはいないだろうがね。
住処(すみか)としての、あなたの家が、アパートが、マンションが、そうなっちゃうかもね…。

でも本質としての牢獄たるものはだ、元からあんだ。あったんだ。誰もがみんな、元からそん中に収まってた。それが明瞭に、くっきりと、明確に自覚された形で出現してくるまで。

そこからの脱出に関してはGやマハラジに詳しい…。



貧しき困窮の中にあってリッチ(裕福)だってのは一体どういう意味なんだ?。

これにはいろんな考えがあるだろうが、一つ自分が実地に確認したことを述べておこう。

生活するにおいては基盤たるものがいろいろあるじゃない。

床とか天井とか、布団とか枕とか、水とか食べ物とか、下着とか靴とかが。

それらは、それなりに、なんとかなってた。

でもそれは、キット自力でなんかじゃなかったんだ。

主が養ってくださってたんだ。

夜、寝るとき、天井があって雨水に悩まされないで済むことにもさえ、
そのとき感謝してから寝てた。

独りっきりで…。





今回のスミルナは自分に向けてのメッセージとしてかって読み、そして今回も読めた。
やっぱり然るべくのとき流れにおいて、然るべくの節にて、これ書いてるわ…。
今回は、そうか、十年続いて、多分そこが自分の終わりなのかと思った。
既に四年弱経ってしまている…。





おまけ:


最初の一度目の死に際しては、この肉体は火葬場で焼かれて灰になる。
これは実際に見てきているので誰でもよく分かっているだろう。
大いに毀損されてしまってる。

では二度目における、その第二の死に際して、まったく無害たるの、その意味は?。

死したりとはいえど、まだ個人としての全情報は魂とともに保管されてある。
キリストの最後の審判において、仮初の体を与えられて準生体として復帰する。
その状態において、すべてらにおいて、何らかの影響が発せられる。
キリストにつながってあるものは影響を受けないが、
他はすべて完全にゼロ(不在)へと還元されてしまう…。

これはあくまでもモデルとしてのイメージ。
では実際、現実においては、どうなるのか?。
これを考えなければならない

第二の死はとりあえず、全人類の、そのすべての魂を、その生存を滅ぼすべく訪れる厄災。
でもそれは物理的なものではない可能性もある。それら、そのすべての背後にて、
各存在を支えている、析出している、本質的なるなにか…。空なのか?。いや神ご自身?。
でっあるからこそ〜、”彼”に紐付けにされてある魂は、影響を受けないで済むんかもねー。

あらゆるすべての人間に訪れるものなんだから、寿命のことだってことにもなんのかもね。
その最後に残る魂の処遇に関しての話し。電源がすべて落とされる?。


追記:

既に死んだ身ともなれば二度目の死はありえないもんね…。

この辺読んでいるヒトであれば、Gの教えにも通じているはず。ヒトは生きている間に一度死ななければならないのだ。本当の寿命が尽きるその前に。上の”放下”は仏教におけるタームになる。だからそれを、キリスト聖霊神の導きの世界観の元で行うか仏祖の導きにおいて自己単独で行うかの違いなのだ。自分はやっぱり弱いから、そっちの

としての世界観が合うだけ。人格神、イエズスの存在は、どうしてもあってほしい。でもね、これでいくと現世利益としての効果は一切期待できなくなるんだ。死んでも逝き場に困るってる信徒たちが多いんだって。おっとこれは講じすぎた…。まっ、兎に角、このことは大切なミッションになる。目を覚ます。目覚めるためには…。おはり。

ヒトの進化の極点としてあるのが仏陀。地から天へ向けての上昇の成果。
神が受肉してヒトとなられたのがイエズス。メタが地へと下ってくださった。

加えるなら、仏陀は神に請われて衆生に教えを行った。嫌々ながらも、躊躇いながら…。
自分においてもそれは難事だったのに一般衆生ともなればことはまったくの不可能と思えた。
自分はイエズスを選んだ上で、仏陀のお教え、ヒンドスタンの教えも尊重し吸収している。


悪魔は完全に神に対立する存在なんだけど、所詮は彼の掌の内にあるものでしかない。
彼のステージ上でしか存在できない。変な話しだ…。変な構造だ…。勝てやしないんだ…。
神はそれらをも利用しているだけ。難しい話なんだけど、ある意味、葛藤を生み出す上での
道具、起縁として利用しているまで。当然に使徒たるものの内面においての火たるものを
いこすためにね。先言った構造を思うならば、神にその苦難に関して文句言うことは
できない。元はと言えば〜…の話しに行き着いてしまう。なんとか助けようと救おうと、
元の出自たる上位界へと導こうとしてくださっているだけ。結局は、ヒトの選択次第。



おすまい



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