39.  創世記II

文字数 29,848文字

創世記の読解/精読を目的としてのもの。先にIIから公開してしまう。昨今の男女同権論やトランスジェンダーを含めてのLGBTのそのすべての話は絵空事。彼岸に根拠を持つ本来/本然性に対してのあくまでも手前勝手の手前味噌、嘘、詭弁/小理屈/屁理屈/勘違いとしての、その話でしかない。あれらとしての者たちはだね「他人を惑わす(ミスリードする)ことに満足感を覚える」そういったタイプの人間たちなだけなのだ。当人達にそのことの自覚はないだろうけどね……。

I は天と地の関係を改めて意識させることを目的とした呪としてのものであることを解く。

天村崇


1:20
   Let the waters bring forth abundantly the moving creature that hath life,
   and fowl that may fly above the earth in the open firmament of heaven.

       「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。



   「水は、多くの(うごめ)き動く生物、その群れらによって、()(あふ)れてあらんよう。
    そして天地(てんち)(はざま)にて(ひら)けたる、大空(おおぞら)の下にては、鳥たちが()って()んであれ!」。





1:21
And God created great whales, and every living creature that moveth,
which the waters brought forth abundantly, after their kind,
and every winged fowl after his kind:
and God saw that it was good.

神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、
また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は(そのようになりたることを)見て(確認されて)、良しとされた。



1:22
And God blessed them, saying,
Be fruitful, and multiply, and fill the waters in the seas,
and let fowl multiply in the earth.

神はこれらを祝福して言われた、
「生めよ、増えよ、海の水に満ちよ、また鳥は地に増えよ」。

「実り多くにしてあれよ!そうして倍加の上に倍加を重ねてゆくのだ。
 海の中を、そして天空を、生命らをもって満たせよ」。

1:23夕となり、また朝となった。第五日である。

1:24
神はまた言われた、

Let the earth bring forth the living creature after his kind,
cattle, and creeping thing, and beast of the earth after his kind: and it was so.

「地は生き物を種類にしたがっていだせ。
 家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。



「地球は、大地は、その自らに、その自然環境に順応適合するべくものとして生き物たちを、
 可能な限りの多種を、系統進化の異なる形にて、生ぜしめよ!
 家畜となるべくしての牛や馬、また豚、地を這うもの、地の表に生きる獣たち、
 そのすべてを生み出せ!」。そうして、ことは、正しくそのように、なったのだ……。



1:25
And God made the beast of the earth after his kind,
and cattle after their kind, and every thing that creepeth upon the earth after his kind:
and God saw that it was good.

神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類に
したがって造られた。神は(その様になりたることを)見て(確認されて)、良しとされた。

*ここは系統的な進化をもって、各種各様の生物が地球上において揃わんようにとのこと。
*人が食料とするべくしての生物が多種多様にて最初から

、用意されるべく。
*ヒトの生存に奉仕すべくを根本の用途目的として動植物らは造られた。用意されたるのだ。
*ヒトに仕える、人を助ける、癒やしとなるのニュアンスもあった。牛や馬、犬猫。ペット。



Note:

食料とするべきものは用意はされては

、捕る/採るにおいては労働が、大変な苦労が伴うようなってる。動物らは捕まえようとすると、

によりてのダッシュをもって、逃げよるんで……。果実も、どうしたもんなんか採るに難しい高所にて結ばれてある。額に汗して働くことからは基本、人間は逃れられない。




1:26
And God said, Let us make man in our image, after our likeness :
and let them have dominion over the fish of the sea, and over the fowl of the air, and over the cattle, and over all the earth, and over every creeping thing that creepeth upon the earth.

神はまた言われた、
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、
 家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

「我々においてのその

にて、我々に

と、

べくして…」


*「have dominion over …」:
       統治権/支配権を及ぼすとしての意味か?。
       地球環境は

として、人にとっては

ある。

*でも、なんでもかんでも好きやっていいってことではない。

ってのが有る。

*神にとっての宇宙(世界)と、ヒトにとってのこの地球との関係は

なのだ。

*支配者たるもの、王としてのものであったれば、そこには当然、役目、責任ってのが
 伴ってきてしまう。自動的に。必然なるなるをもって為す、履行すべき事柄が……。

*何故ならば根源としての起源としての方が、その王がそうしてる、こられているので。

*入れ子形をもってすべての世界は成ってるってことを理解して、お前たちはより大きな
 世界観における本源たるもの、真の支配者たるものを意識して、生きてあれよってこと
 でしかない。これは暗にしてなる示唆……。その神の子としてあること、この地球の王
 (支配者)となるべくしての

、担保されてあるんだよっと。

*地球圏としてのこの階層において、

としてのものになり得るのか?それとしての
 ものへと成長し得るのか?。その為には根源たるより高きにある王に倣わなければ
 ならない。

でも実際は高きより堕ちてきたるものその影響力にその支配にて染まってしまってる…。

1:27
So God created man in his own image,
in the image of God created he him;
male and female created he them.

神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

*「in his own image」:
 常套句としてのものではあるが、少しその意味において踏み込んで…。この image と
 してのものは誰が何処から観てのものなのか?。もしこれが外部からのものともなれば、
 それは外観/構造/構成要素としてのものその意味になる。誰が?は神以外にはありえまい。

*「in the image of God」:
  表現を換えての二度の語りをもって、ここは強調されてある。先のがご自身とされての
  そのイメージであったならば、今度のは、そのご自身とは

としての
  アナウンスが為されてしまってる。

*最後の「男と女として...」の部分は、ある意味、この時点においては余計だ。
 最終結果としてのもの。そうなるまでの間が、経緯がある…。

 この(整備された)大地を、統治させるに相応しきものとして、人間をお造りになった。
(統治たるものを行うに相応しく、足りてあり得べきものして)その人間たるものは、
 ご自身と似たるものとしてご創造されたるのだ……。この世に存在するありとあらゆる
 すべてのものを治められてある全知全能の神たるもの、それと同形相似なるものとして!。

*ここの意味の核心が、複数の霊的センター、つまりは生命体としてある複数のセンター、
 それらの統一体、統合体として顕現してある主体ってことになる。Gの見解によればね。

*知解としてのその領域担当、情動としてのエネルギー領域の担当、即物的反射反応を司る
 べくしての肉体機構としての領域担当。それらのことのすべてが我が意、我が事として
 感じられて、実感されて、操作されてあることが

としてのもの。

*人間は現在、自らに似たるものとしてロボットを造ろうとしてる。期待しているからだ…。
 追記:理性と、良心を結ぶことの可能な感情は、プログラムでは創造、為し得ない。
 それらは背後にて複雑にして

価値体系を基礎として必要とするものになるのだから。

*これは蛇足にはなるのだが、神がご自身を

として語るその意味は、その理由は、複数の
  主体においてのその統合体としてのものであることの証し、その事実なのかもしれない。

地球上における生活環境としてのものがすべて揃った、全部出来たということで、
人が生きるべくしての環境が整ったというこで、そこで、そうなってから、
神は人たるもの、つまりは我ら人類を、お造りになったのだ。
in his own image, in the image of Godにて……。
           つまりは、
彼としての内部構成のそのままに、神たるものとまったく同じ構成、相似体として。
ミニマイズ、スケールダウン、縮小化された、神と同形同種類似なるものとして……。
 

1:28
And God blessed them, and God said unto them,
Be fruitful, and multiply, and replenish the earth, and SUBDUE it:
and have dominion over the fish of the sea, and over the fowl of the air,
and over every living thing that moveth upon the earth.

神は彼らを祝福して言われた、
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。
 また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

「実り多くの如くして産みて増へよ、大地に満ちて、これを従わせてあれよ!。
 そして、海の魚、空を飛ぶ鳥たち、地表にて生きてあるすべての動物たちを治めよ」。

*ここで重要となってくるのは”subdue”としてのこの言葉の採択、その意味においてになる。なのでチョッと脱線をもって解説を付け加えておく…。それと今回の要点は二つ。ここがその一つ。それと並列されてある訳の二種は下が[意訳byMe]としてのもの。原本として使用する英文はKJ Ver.のもの。

*さて基本的に、subdueの意味は”conquer”と一緒。征服する、制圧する、鎮圧するとかの意味で、ハッキリ言って両単語はおんなじ意味。おんなじ目的において使われる…。しかしだ、対象としてのその内容/領域が、

、ニュアンスにおいては違ってる部分がある。

補足:PCゲームともなれば、「コンクエスト」が正にそれで、これならばこの語の意味にピンとこられる方も多いであろう…。*ついでにdominateともなれば、それは対象が巨大なるものとしての含み、その前提がある。国や市場全体、国際紛争の調停支配、法に拠ってなる秩序、大きくしてある概念的なもの、宇宙全体としてならば、このドミネートが採択されるであろう……。

subdueのみの用法においてともなれば、〔感情などを〕抑える、抑制する〔痛みなどを〕和らげる、緩和するとしてのものも含まれてきてしまう。自己の内にて湧き起こってくる感情やら思い衝動、もしくは好ましからざる痛み等の感覚が対象としての動詞。だから基本、subdueのみの使用範囲は、戦って征服するべくしてのものは、自分だってことのみに限定されてくる……。

*おそらく、ここ、この創世記の文脈にて含まれている意味は、単純に「やっつける、征服する、手に入れる」としてのものではないんだろう。自分に関わる/大いに関係する/仇なす仇なしてある/欲しいんだけど未だ手に入らない等の認識が持たれてあるObjectに対しての、あるべき態度としての示唆……。

*困難に際しての軋轢葛藤としての思いに耐えて、それにおいての苦しみを我慢して、いたずらに絶望したり

あるのではな〜〜くっ、つまりは、よっく自身の意志において

、脱出としての方策、問題の解決となるべきものの発見達成に取り組みなさ〜いーってことなんだ。それができてこそ貴方がたは真の統治者としてのものに

ドミネーターとしてあるに相応しきものになるんだ、そう認められるようになんだって……。神ご自身が実際そうなんだろう。その様に苦しんで采配をいろいろと振るっている存在なんだろう…。忍耐、我慢は実は美徳なんだ……。

*たとえば、Objectとしての実例ともなれば、洪水被害ってのが一番良いんじゃないだろうか?。河川の氾濫が起これば育成中の農作物がダメになる。すべておじゃんになる…。すると、食い物の当てが無くなる。やがてには飢えて死ぬってことにも繋がってきてしまうことになる。だから

大いに苦しみにつながってくる事態としてのものが見通される。なので、洪水としての事態に対しての対処を、なんとかせいと…。これとしての現象を征服せねばならない。解決すべき課題ってのがあって、それを確実に果たせとしての意味、メッセージ。

*この自然としてのもの、我々人類その意識にとっては外部としてある領域、其処からの暴威/脅威となるべくしての働きを、制御できなければならない、制御して、抑制して、ことをうまく、上手に、意義深くある形にて、治めてありなさいよってことなんだろう…。

*ならばだ、この対象としてのものは、単に外界としての変動著しくしての、自然ってことだけじゃなくなる。根本的には、人において認識の適うその対象のそのすべてってことにも成ってしまう。それら自体、単独にての、こと、

じゃ〜ないのかもしれない……。

*川の氾濫は現実に確実にある。それが引き起こす問題に対しては、灌漑工事をもって予防をもって制せなければならない。これは人間が汗水垂らしての超長期の苦労をもって、その奮闘の連続をもって果たす、達成すべきことだ。

*結局は外界との関わりにおいて味わうことが必然である、必須なりしのその苦労、その苦しみを、知恵をもって解決してあれよ、あらねばならないとしてのメッセージなのかもしれない。

*ことは単に「いる/いらない、気に入る/気に入らない、快/不快、敵/味方」にて分けて捌きうるものではないんだよって。こちらからの主体的なその関わり方においてはことの現れ、その結果は、また変わってくる、来てしまうもんなんだ。苦しみ葛藤もまた意義深きもの、大いなる助けとしてある、それとしてのものとなっとった、ありがたきことこの上なしとしてのものであったのだ……。

*「海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物」に関しても同じことが言える。それはあなたにとっての世間の他人としての多くの人々のことだ

し得る。もしくは、例えば、あなたが社長としてのものなれば、その会社の社員、その会社に関わる多くの他の人々のことだってことにもなる。あなたは、その皆を、上手に、皆の存在を実在を生存を意識して、意義深きものとするべくしての努力を、行わなければならない。上手に治める、治めてあれるってのが課題なのだ。これも先の河と同じくして、役にも立てば、障害騒動の種にもまたなり得てしまうそうした、変化、変動してあるものなのだ。自分以外のそのすべては

に過ぎないのだから。

*だから結局は、なんらかの、自分以外の、この自分ではどうにもならない外部としてあるその対象との関わりにおいて、思いとしてのものが揺り動かされてくる、突き動かされてきてしまう、そういった自分としての思い、心情、気分、それらが立脚してある認識やら思いこそを、上手に制して、制御して、ことには、解決には、当たらねば、それも

、慈悲深くして、当たってゆかなければならないんだよっと。追記;適切にのその極意はバランスにしかあらない。既にもうあちこちで言ってきてることなのだが、

として対象化することなしに、バランスが取りうる、その折衷点ってやつは、見つけられようはずがないんだ…。

*基本、三の法則を意識しあらなければならない。特に解決の鍵を握るのはサットヴァとしての対象を意識しての愛それの介在だ。河のありがたみを重々意識しての、それへの感謝の思いが、どうしても必要なのだ。(アイデアの誕生と計画と実行達成に向けてでは)。ことにおいては先ずは苦しみがつきまとう。とんでもない苦しみを味わうことになる。これがどうしてもいるんだ。避けることはできない。そうすることだけは叶わないものとして。これが推進力そのもの。

*三の法則によるその望むべくしての結果は、なんらかのアイデア、クリティカルにしてパラダイムシフトを引き起こすものとなるべくしての考案、それの結ばれ、それの誕生出現となっている。中庸点、支点としてなるべくしての

察知理解できてしまっているからこその…、そして、新たなる

を付け加えるをもって、実際のバランスが、奇跡としての均衡が、それをもってしての制御が適う、そこに新規軸なるものの嵌め込み、埋め込みをもって。ことは、以前とはまった違った様相を呈してしまっているではないか!。

***事後としての問題は、これは意外と大きな問題ともなりうるのだが、既に出来上がってあるものを独占しようとするモノ、輩、ハスナムらが登場してくることだ。結果だけを要領よく押さえる、横取りする、自分だけのものと新たに

する者たちのこと。もしくは猿真似のみに徹して、それをもって利を得ようとするものたち…。結局は、ことの実態は、治めるとまでは至らず、至っておらず、どっかで一切は確実に瓦解する。一切は蕩尽と化するまで。

*そんな者たちはどうでもいいんだ。あなた自身が、自身が受けもってある領分領域において、チャンと治めるの、その努力をさえしてさへいれば……。

1:29
神はまた言われた、
Behold, I have given you every herb bearing seed, which is upon the face of all the earth,
and every tree, in the which is the fruit of a tree yielding seed; to you it shall be for meat.

「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とを
 あなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

*ここも字義通りにの解釈のままではダメなんだろう。種たるものがあって、これを然るべくして育ててゆくと、

がなる
。この収穫物が美味しい、食べれる、それをもって命をつなぐことができる。基本は農耕をもって生活してゆきなさいってことなんだろうが……。種としてのもの、実としてのものもまた、いろいろと拡大解釈ができるのではないだろうか?。基本、我々にとっての内的体験こそが、それらにとっての大地になる。そもそも誕生時から持ってる分け御霊そのものが種なのだ。それが今生においてどんな実を結ぶことができるのかどうか?……。

1:30
And to every beast of the earth, and to every fowl of the air,
and to every thing that creepeth upon the earth, wherein there is life,
I have given every green herb for meat: and it was so.

また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、
食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。

*それらに対しての配慮にも抜けはなく、然るべく養われるよう自然環境は構成されてある。
*表現としては神ご自身が、それらをも養って、下さっているーだ。

1:31
And God saw every thing that he had made, and, behold, it was very good.
And the evening and the morning were the sixth day.

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
夕となり、また朝となった。第六日である。



2:15
And the LORD God took the man, and put him into the garden of Eden
to dress it and to

keep it

.

主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを

、これを



ドレスアップとしての意味で、ことは「耕す」にだけ限定されものではない。荒く未完成なるものとのニュアンスが環境下においてはあり、これを完成させることが人においての、とってのミッション。……ならばだ、これもまた二重化の意味を帯びてきてしまう。生きる上においての外界としての環境、そしてまた自身として味わうこととなるのその内面、体内、心としての環境だ。両者は共に相関関係にあるので、わかりやすい外界から手を付けるのがいいだろう。作用にって環境を向かわしめるべくしてのその方向性は、それにおいての示唆は:
Separate thou the earth from the fire,the subtle from the gross

sweetly


with great industry.
汝、土類を火から、精妙なるものを、総体より分離せよ。
ことは多大なる努力を必要とするものなり。
勤勉に精励をもちて、優しく丁寧なるマナーにて。
地を火から、

粗大なものから
非常なる勤勉さでもって

分離するのがよろしい……。

まず多大なる労力が労働やら奮闘が、前提とされてあるわけであって、それがあってこそ、なにか精妙にして高級霊妙貴重なるもの、その結実物ってやつが、大地から取り出せるんだとさ。最高に美味しい農作物、酒だってことにしてもいいだが…。これは

ジャンプして話しを置き換えるならば、清き心、良心たるものとしての核、道徳心道徳力としてのその根拠、博愛の精神、高きものとしての現れてくるその精神性、明晰なる知性、智慧としての理解の結晶物、なんてものとしても、ありうるんだろうさ……。実は、それらとしてのもの、獲得物ってやつは、汚れやすく、また儚く脆く、崩れやすいってもんなんだ…。それらを健全に保ってあるってのも、それはそれで

努力ってやつを要する。その必要があるんだろう。

掃除洗濯、手を入れる、手をかけてあげなくっちゃならないんだ〜〜www。

追記:

ことは脳内においてのこととして、それのみにて完結させちゃ〜ならないんだ。実際に外界において泥に塗れて働く、労働することが、

(対象物)に対して、全身をもって働きかけなければならない。そうすって〜とーーー、ことにおいての試行錯誤ってのが為されて、奥深くしての真実が、それが持つ潜在的なる可能性ってやつが、

、具体的に、明らかなるをもって確認理解されるようなってゆく。ことの妙味はだ、その理解は、知識は、

、自分の内なる加減においても、同じくしての事態であることが解ることとなってゆく。そんで、行く行くにはだ、外界に対しての働きかけを

、自身の内に向けての働きかけをも同時に、行える、実行できるようになる。いや、そうでなければ、そうしなきゃならないんだ…。

たとえば、これは例として出すには恥ずかしすぎるんだが、自分は自分が書いたものにおいて、それらの推敲を果たさなければならないんだ。本来は!。要旨を、微妙なるものを、粗大なることそれとして甚だしくしてある現出の状態から、抽出してこなければならないんだ。実態の例としては、あの「祈祷文編纂用」が参考になるだろう。あれも、現在のものとするべくしてのその推敲の積み重ねとしての努力も「耕す」、つまりはドレスアップとしての行いに他ならない…。重要なのは、そのことの結果が、作品自体のみならず、自己の、この自分の、その内部においても、同じくして、反映としてのなにかが、果たされてるってことなんだ。いい作品が生まれたならば、そのことは、そのままに、自分の内にても、なにかの進展が、無事、完結することができたってことでしかないんだ……。



2:18
また主なる神は言われた、
It is not good that the man should be alone;
I will make him an help

meet for him

.

「人が

いるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

*ハイ!ここで質問。どうして人が一人でいることは良くないのでしょうか?。
*ことの理由としての核心は、

、いないことにのみ帰せられるべきだ。
*助けとしてのものがいない場合は、どうなってしまう?。
*どういった不都合がそこには伴ってきてしまうのか?。
*ここは神たるもののご賢察なので、ご自身の生活感において、あなたも是が非でも
 なんらかの解答にたどりついてみせてください。人生経験がいるかも……。


2:19
And out of the ground the LORD God formed every beast of the field,
and every fowl of the air; and brought them unto Adam to see

what he would call them

:
and whatsoever Adam called every living creature,
that was the name thereof.

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

*ここが第二の山場!。三番目の方を先に自分はやっつけたけどね〜。
*神は、ご自身が人のために造り出し、用意したこの環境世界にて、人が目にする生き物に
 対して、なんと、どんな名付けを行うのかが、興味津々でおられたのだ!。
*これは何故だ?。どうしてそんなにも興味を、関心を持たれてあったのか?!。
*これそ、それをもって、何かが、

こととなるからだ。

ここはね〜、やっぱ、ヨハネの福音書の出だしとの関連を思うべきなのだ:
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった……。

手っ取り早く、自分としての見解を述べておくと〜、本源がやられる、やられたように、末端もまた同じくする必要があったんだ。この名付けをもって、この(託されてある)世界の王は、それの支配者は、我ら人類であるってことが刻印されるんだ。これもまた一つの魔術、それによっての世界創造だったのだ……。*名付けをもって初めて、それは実際に現実に自分と直接に関係する世界においての存在を開始する。その存在がアクティベイトされることとなる。***難しいところは「言葉=観念なのか?」ってところにあるんだ。自分としての考えは、

ってのがあって、現実的なるなにかが確実にあって、それらに対しての名付けにて限定されるんだと思うんだ。するって〜とだ、名付けをもって、それとの関係も真に発生、開始されることになる。マインドにおいてのその内面化、連携関係構築ってことになるのではないだろうか?。***現実には存在しないもの、存在し得ないもの、そんなモノらに対しての言説は、すべて偶像崇拝、それとしてのものにつながってゆくまでの行為、行いでしかない…‥。***やはり、根源としての、我ら人類の創造主たるXXXを、神との名付けをもって崇め、信じて、従うことが、ことの最初の最初としての始まり、その生存の

、なるのではないだろうか?……。

追記兼補足:

         In the beginning was the Word,
         and the Word was with God,
         and the Word was God.
         The same was in the beginning with God.
         All things were made by him;
         and without him was not any thing made that was made.
         In him was life; and the life was the light of men.
         And the light shineth in darkness;
         and the darkness comprehended it not.

ヨハネ福音書の冒頭部なのだが、日本語訳のことをすべて忘れて、改めてこのKJ ver. における英文の翻訳にチャレンジしてもらいたい。するって〜とだ、解釈において新たなる印象が持たれることになるはずなんだ……。

単純に「言葉って何?」ってのが問題になってくる。先行者らが勝手にほざいてた難しい話し(ロゴスだとかなんとかの話し)は置いといて、それらをきれいサッパリ頭ん中から外して、
追ん出して〜、そんでから考えてみてもらいたいんだ…。

ことの最初に「言葉がありました〜」だ!。名前、名称だ…。これは

の[モノ/表示/code]になる。それなしでは、それなしには、基本、言葉はあり得ないんだ。なんらかの実相たるものを、

、それとの関係を探る構築するにおいて、名称たるものが必要になる、なってしまう……。「金槌(かなづち)」…時と場合によっちゃ〜とても役に立つ。生活圏内にてちゃんと確保しておきたい…。ことはイデアに対してのエイドス、シニシニフィアンに対してのシニフィエと一緒なのだと思う。

追記1:
「在る」は

、どうしても感知されてしまうんだ。たとえなんとなくとしてのものであったとしても、知られるようになってしまう。そこに、それとしてのものを特定特別なるものとして表す必要がでてくる。

っれ〜」
とか

っれ〜

っれ〜」
では間に合わないんで…。奥深くして特別なるものとしての印象があるので、そんで名を付けることになる。言いたいことはだね〜、実在がまず先行するのだ!。

名をもって呼ぶと、使うと、

としてのそのなにかを意識すると、それ

と、この自分との関係性が十全に、100%をもって顕現されてくる。リンクが、縁が、起こって、できてきてしまう…。自分にとっての生活圏、世界、その一部となる。

自分としての名を、その本名を、そしてまた生年月日を、他者に教える、知られるにおいては、よほど注意しておかなければならない。信頼が前提としてなければならない。悪用することは簡単。距離を必要とせずとしての干渉が可能になってしまうので。

その対象者を定める、思いを

においては、該当する個人としての名前をもってではなくて、ことのあった、つまりは事件があったその場所を、想念することによってでも適うんだろさ。そのポイント、場所には、一度は実際に出向かなければならないけどね。ここはあの心斎橋の事件、いきなり通り魔によって刺されて死んだ方のことを念頭に置いている。その当人の名をもってってのが一番いいんだろうが、場合によっては、こういったリンクの持ち様もあるってことを言いたかったまで……。

昔は神秘神聖なるものとの距離が近かった。センシティビティーにおいても昔の人達は鋭敏だったのだ。ならば現代人においてはどうか?。それは、道徳の廃れや、環境自然、山や河川の破壊、神社仏閣が金儲けに走るその姿を見るならば言わずもがな…。古き時代においてでさえ聖書において神がヒトに直接アプローチすることはある時点からは潰えてしまってる。このことの表しとしては、エイドスばかり、シニフィエばかり、内容としての深み実態のないままに単なる記号に化してしまってるのだ。流行歌においての歌詞には「愛」がよく登場するが、作詞者がそれに関してなんも分かってない理解してないことが歌詞の全体としての流れを読めばすぐに分かってしまう…。とある書籍のタイトルを見るに、「神は人類によるその発明だった!」なんてものもあった…。
在るとしてのものは、直接的に捉えられることはない。不可触不可侵なるものであるが故に、そんなことは出来ない。これが在るとしてとでしか語り得ない原因だ。だがだ、日々の生活において起こる様々なドラマ、身近な人生の出来事において、その意味をよく吟味するならば、何かの法則としての働きが、それにおいての作用が働いていることが察知され得る。その大本のコントローラーとして存在を、神として意識する、意識できるだけのことなのだ。間接的に、帰納的にでしか捉えることはできない。だがだ、ことの奥深さ、その状況に対しての圧倒的な支配力に対しては畏怖としての思いがどうしても持たれることとなる。」

対象化(つまりは名をもって意識する)と、その対象が持つ奥深さへのアプローチ/理解。
問題となるのは

そこに伴ってくる、起こってくることにこそある。
名と体との分離…。このことは真実を、本当のことを、現実を、理解できない、理解したくない、

としての思いが引き起こす事態、その成り行きでしかない。

目閉じ、耳閉じ、感覚も感受性も尽くにして鈍くになりければ…としての状況が、状態が、
この分離を引き起こす…。形象のみ、上辺の取り繕いにてで満足して、足りてしまってる。
体験としての理解がない、それが整うこともなければ、今ともなれば、
もう完全に、下位意識との連結も…、失われてしまってる……。

聖書における文脈においてメシアたるものを理解できてたなら、いや「イェーシュア」としての名に打たれることがでてたならイエスを殺すことはもう絶対に、できなかったはずなのだ。

闇は、真実が暗愚をもって覆われてしまっている事態その状況。でもそれは、その暗愚なる
人々においてでけの話で、真実在るものにとってはなんの毀損も起こらないしあり得ない。
結局は、夢や幻想では、真実在るものに打ち勝てるわけが、はずがないんだ……。

簡単には、もし神としての名称が、その単語が概念がなかったら、もし我々人類に言葉たるものがなかったのなら、それとしてのものを、ものらを、どう、どうやって意識、対象化、理解できるというのであろうか?。追記:感じる、覚える、察知する、気づくことが先行してあるのだろうが、それのみにてでは胡乱なる、余りにも曖昧模糊としての、いい加減な認識としかならない。」

追記2:
自分の前提としては、

あって、そんで、それを表す語る、もしくは
それとの関係を構築するにおいて、名たるもの、言葉が必要になるだ。
さて上記の断絶に関しての、その問題に関してを、もう少し語っておきたい……。

表音記号としてのなにか、記号としてのその名称、言葉単独にてはそこに意味はない。
人が本来持つその感受性は、道徳性/精神性においての価値感をベースとして、それがそこに持つ、そこに伴って在る意味を構築する。場合によっては思い起こす、瞬時にて…。

たとえば、薔薇が咲いてあるのを観たなら、それは処女としてのものなのだ、また年頃となった娘が美しくなったのなら、それは咲き誇ってある薔薇としての存在になる。この

における連想には前提がある。それが自動的に引き起こされる為には条件があるのだ。薔薇としての花を身近なるものとして知ってなければならない。そして、なによりも、それがそれとして魅力あるある期間が、あまりにも短いってことも……。

*この意識下の意味は、埋もれて埋没してしまってる良心が、主導をもって果たさす連想やら
情緒、思考のこと。たまにそれが適ってしまってるときがあるにはあるんだ。偶然にだね。





近代の経済活動に原因するその生活様式において、ある傾向が、一つの問題が起こってくる。記号のみにてで足りるとしての事態が。「知る」の意味が、そのものが持つ名を知ってることにて完結してしまい得るようなってしまったのだ。ことは学校教育の実際にてで、端的に確認されることだろう。あれは単に、優秀な秘書機能としてのものの(フォーマットアパラタス/連想器官の)その育成、それの発達としかならない…。秘書は生活に密接した現場のことに関しては分からないし、知らない、そもそもからして興味が、責任がない!。知ると理解するはまた別の話し。追加:睡眠学習としてのもの、ネット経由で誰かの知識を持つこと、吸収すること、これらは表層としての知るでしかなく、理解たるものには絶対に、到達しえない!。この辺におけるテクノロジーの発達が、また断絶としてのその淵をより深きものにしてゆくことだろう…‥。

この辺のこと、危機的なる事態に、警鐘を鳴らすべく、そしてまた打開策として編まれたのが
あのフッサールによる現象学だった。

* 認識の対象の意味と存在を習慣的に自明とみなしていること
*世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること
*世界関心への没入による、意識の本来的機能である理性の自己忘却

このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するに
とどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。

とは言え、1900年の声上げなので、今ともなれば、あれから123年間が過ぎてしまってる…。
でも、ことはなにも変わらず、より深刻なる加減にて事態は状況は進行、悪化してしまっている。知識学歴資格偏重型のみってことにおいてね。人柄ってゆ〜か〜、その人自体を観てやしないんだ、入社したそのあとにおいてであったって……。

彼フッサールのタームにおいてともなれば、ことの問題の核心は「意味沈殿」ってことになる。言葉の、ことの持つその意味が、狭窄化、偏向化、陳腐化してしまってて、すべてが上辺だけのこと、それの取り繕いだけですんでしまってる。

経済活動、端的には虚栄を目的とした金銭のあくまで追求に基づいて、そこにおけるコードが世界を支配してしまってる。コマーシャルのその殆どが嘘だ、造り物。ニュースにおいてもその広報は裏に思惑を確実に占めてある。それも誰か、海の向こうのものの悪しくしての企みとしてのものが!。ことの語りの巧みさをもって、人の持つ良心、もしくは人の心の弱い部分を突いて、それを梃子にして、揺さぶりをかける、気力を削ぐ、気狂としてのものにするべく、徹底的に自信を喪失させる、つまりは国体としてのその力を弱めるべく編成、配信されている、あるんだ…。

たぶんね、その作戦名は「デラシネ」(根無し草)となってるはずだ。根本的には彼らがかって生活において根ざしてあったその価値観、道徳たるもの、美徳として覚えていたものを、尽くに相対化するをもってその効力を失わしめる。つまりは完璧にそれらからは切り離してしまう。個への徹底的な分断は為されたので、(幻想としての、その小児的な、つまりは手前勝手なるものとしての、その限りとしての願望充足の世界内のみにてで[現行のアニメのこと]留めおかせる!。)、あとはそれらの社会的ステータス、立場における流動化だ!。どこにも真には根を降ろすことな〜くーー!、その人生をただ無駄に、小我の欲望にて、ただ過ぎてあるまでとしてしまう…。するって〜と〜どうなるのか?。碌な人材が人間が育たなくなるってな寸法さ!。あの転職サイトってのは、いかにヤクザなビジネスモデルを背後にては持っていることか!。羊頭狗肉なるをもってクズを、さも有能な人材、御社が正に今お望みになってる人材ですよとして求人難にあえいでいる会社に売り込みを、当事者に代わって、行ってるものらだ。ある意味では、求職者、つまりは失業状態にある人間と、共犯をもって、利潤を得ようとする事業なのだとも言える……。*かって一度、自分はこの手の会社のお世話になったことがある。だからこそ解ることがあるのだ…。


          これが今の日本がある状況さ。無自覚なることが謎だ…。
     個人においても社会全体においても

自浄作用を失ってしまってる〜〜。

人のこころのそのマインドが、すべて、記号表記、コードのみにてで、つまりはエイドス、シニフィエのみにてで事は足りる、満足だ、十分だとしてあるからこそ、こういった戦略も、洗脳も、立派に効果を果たすることになる…なってるんだ……。

最後に、塵芥としてのものが、物質性としてのその極みとしてのものがだ、それがそれらが放っといたら勝手に命を精神を獲得していて、自然に進化してったってことはもう確実にない。絶対あり得ない!。ロボットとしてのそのAIも、先行する、それにとってはメタとなる人間がいなければ、絶対に出現することなど適いはなどしなかったのだ……。

追加:
お隣の、低俗の〜、さもしくしてのその極みとしてのお国が、日本を毀損するだけの目的で映画を作ったんだ。もう嘘も嘘のデタラメにして悪質なるその設定において!。その映画の主演は日本人の女優さんだったんだ。嘘偽り、売国行為となるにも関わらず、その女優さんは喜んでその映画に出演された。インタビューを受けて、つまりは「おかしくないですか?」「抵抗はありませんでしたか?」、その問に日本人女性が答えた言葉に、自分は愕然とし、また絶望してしまってたんだ…。

役者である以上、たとえどんな役であっても、全力で取り組むのが自分の信条です」って。

自分はどうしたものなのか、そこんところの映像をしっかと観てしまってる。TVでね。

なにかおかしくない?。これって、もう確実に”(うそ)”としての話しでしかない…。

女優としての脚光、称賛、評価、名声がとにかく第一であって、あとの他のことなどどうでもいいんだ。たとえ日本国内においては批判を浴びたとしても、ワールドワイドでの売名が為されたならば、もうそれだけで自分は本望、勝ち組なのだとの考えにある……。

まっこういったところにもデラシネ症候群としてのその様子が、うかがえるって話し。
ことの実際は夢現にて生きてるだけってこと。ある種の狂気、現実乖離においての生存
が今の日本人たちにおいては主流なのだ。それが現実、事実なんだってことになる……。











           「さて、いかなる名付(なづ)けをしよることか……」


          「しっかと見届(もとど)けさせてもらうこととしよう。」






           くま、イノシシ、オコゼ、馬、鹿、猫、金柑……



    馬鈴薯、ホッケ、まだら、ほうれん草、麦、ビール、缶ピー、◯まんこ……



    チーター、ライオン、カバ、象、お猿さん、アホ、ばか、まぬけ、天然、ハゲ……



   パンプキン、しびれエイ、アナコンダ、ダーティーハリー、どぶろく、ラリアート……



  えのき茸、テトラトキシン、阿片、ボーンヘッド、LSD、シンナー、ラリラリラン……



     平凡パンチ、GORO、ドカチン、ボンキュッパ、袋とじ、無修正……



      郵便屋さん、お巡りさん、政商、チョベリバ、公務員、総理大臣、おかっぱ……



      パイオツカイデー、シースー、シモーヌ、キンポウゲ、棚ぼた、婿養子……



     パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ



    グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの ちょうきゅうめいの金さん…



    タンポポ、カエデ、ひぐらし、トンボ、カブトムシ、UFO、超電磁ロボ……
    まりも、サンショウウオ、ホットペッパービューティー、キメラアント、嫁……
    大納言、おはぎ、萩の月、みたらし団子、クーヘン嫌い、マカロン好き……


















    「なかなかに楽しくして奥深き世界が、できてゆくんのではないだろうか?」


 「兎にも角にも、道を踏み外すようなことにでもなるのなら、ブッ潰すまでのこと!」








2:20
And Adam gave names to all cattle, and to the fowl of the air,
and to every beast of the field;
but for Adam there was not found an help

meet for him

.

それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、
人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

アダムが生きるにおいて関わるべくしての世界環境はこれをもって整ったが、
だがそこには、重要なるものが、まだ欠落してあった。
それはアダムにとって助けとなるべくしての、彼に相応しくしてのその存在である。

*なんだろね〜たいへんにもったいぶった語り口ではないか〜〜!。
*子たるものを生む存在としてではなくて、助けとしてのものなのだ〜としての強調だ。
*「助け」ったって〜、いろんな生き方、あり方が、あるんと思うんだが……。
*結局はこのアダムとしてのもののその生きるにおいての目的、それこそに関わってくる。
*その彼に依るべきであって、イヴにその決定権は一切ない。


2:21
And the LORD God caused a deep sleep to fall upon Adam,
and he slept: and he took one of his ribs, and closed up the flesh instead thereof;

そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、
その所を肉でふさがれた。

2:22
        And the rib, which the LORD God had taken from man,
         made he a woman, and brought her unto the man.

   主なる神は人から取った

でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

        *暗に何が伝えられているのか、強調されているのかと云うと〜……
         女性は、肉体構造にて置き換えると、肋骨としてのものなんだよと。

        *男女をもって一体だってのも忘れてはいけない。

追記:
だから、お願いだから何本の、どこの肋骨から造ったのかなどとの問を持たないように。それと、原人たるアダムは肋骨なしになったのか!などと思い込まないように。ここにある表現はあくまでも象徴、例えとして理解するべきことになる。問題となることは、どこの次元から観たものなのか?ってことなんだ。ヒトが一なるものとしてのその完全体としてあったのは、いったいなんだったのか?どんなんもんだったのか?。兎にも角にも、女性たるものは元々の全体性としてのヒトから取り出した、抜き出した、抽出してきたものであるってことだけは確かなんだ。

ついでに、単一者が、もし、何もしないのであるならば、そんなことは実際はできないんだが、彼のみの存在においてでことは足りる。だがだ、もし彼が、面倒と責任を負うべき世界を自ら創造したのならば、後のことにおいては、助けが、手足としてのサポートが、アシストが確実にいるようなってしまう。神にとってのそれとしてのものらが七大天使、もしくは単に天使として語られるものらの存在なのかもしれない。

この辺をくどくどやってるのは、イヴ(女)たる存在が、アダム(男)によって創造されたものでない以上、神においての側近たる天使たちもまた、神によって創造されたものではないのかもしれない……。太陽にとってのその惑星たちが今ある形にて揃ってあるように、ことは、創造たるものがなされるその場においてでは、自動的に、必然的に、より高次なるからの作用、それにおいての法則において、必要必然とされるものらは、整ってしまうようなってるのではないだろうか?。自分の思いとしては、あれら(天使ら)もまた、神ご自身によって、創造されたるものでは、あっては、欲しく

……。




            Re: 肋骨(ろっこつ)(rib)の役割:心臓や肺を守る
      肋骨は、心臓や肺など大切な臓器を守る(よろい)の役目をしています。
    呼吸をするときに肺がふくらんだり、縮んだりするのに

動いています。
           そうです、肋骨は


           肋骨は左右12対、合計24本の骨でできています。

*いろいろと奥深くしての意味が汲み取れるが、受動性を特徴とする支え
 SUB的機能であることは確か。能動性を司るメイン機能だけではことは破綻してしまう。

*動脈と静脈、交感神経系と副交感神経系の

をもってこその生存だっとも言える。

*役割の分担を、二者において別けることに依ってこその、その完璧なる補完性となる。

*これも複数の別種のセンターをもってなることの

語っているのかもしれない。

*簡単に一言で言えば、「」、「Home」だわ。
 それを形成/構成する、それにおいてのメンテナンスを行う

しての存在。



2:23
              そのとき、

言った。
        This is now bone of my bones, and flesh of my flesh:
      she shall be called Woman, because she was taken out of Man.

   「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、
               これを女と名づけよう」。

「これは間違いなく私より取り出されたものによって出来上がったものであることが分かる。
            なので、私はこれを、女と名づけよう」。

が身の一部由来としてのものであることが理解る。
 だから一緒にいなければならない。生きている間、生活してあるその限りにおいては…。

*名称はなんだっていいんだろう。男と完全に別けるの意味においてでは。
 イザナギであったって構わなかったんだろうさ……。

2:24
Therefore shall a man leave his father and his mother,
and shall cleave unto his wife: and they shall be one flesh.

それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

そうであるが故に、人はやがてにおいては彼の父母の元を離れ、彼の伴侶となるべくしての
女性と出会い、結ばれ、人としての存在、生存するにおいてのその完全体となるのだ。

補足: Re: cleave unto …
この動詞は、どうやら ”Clay” とのリンクがあるみたい…。
「堅くて粘り気のある土、粘土」を意味する。また古英語の「clæman」、古ノルス語の「kleima」、古高ドイツ語の「kleiman」は、「粘土で覆う」という意味でも使われた。
一部の情報源では、それは「粘液、接着剤」という意味を持ち、また「粘土」や「くっつける」という動詞を形成する言葉としてもある。
*男女の結びつきは、泥人形と泥人形との混ぜ込み、その混ざりやすさとも捉えるう。www


*前提として、あまり明確に語られることなく、横たわってある課題がそこにはある。
*生存することにおいて伴ってきてしまう義務たるものが……。
*それを果たす、履行するにおいて、男女として一体化されてあるユニットが必要なのだ。
*それとしてあることがどうしても必要とされてしまう世界構成なのだ。
*いろいろと観点はありえるのだが、一つ社会学的観点にて

考えてみよう…。
*外界としての社会で働くことにおいては、ルールに基づいた連続性/一貫性が必須になる。
*しかしだ、社会は、外の現実が、無法としての有様であることもまた確かなのだ。
*よって、かなりに変動性の高い、苛烈なる生存競争やつが要求されてある環境になる。
*つまりは、適宜適材としての臨機応変なる行動選択ってやつが、男には必要になってくる。
*連続性の貫徹と変動性に基づいての臨機応変ってやつは

。もう確実に!。
*片や、気力の回復、ガソリンの充填ってことにおいては、男においても受動としてのその
 有様もあるのだ。つまりは、家に帰って寛ぐをもってその高ぶったササクレだった神経を
 癒やす。飯食う。ぐっすり眠る等…。
*こうしたことの現場となるのが家。これはこれで支度がいる。放っといたら、なんもしな
 かったら、家(home)としてのものとして機能しなくなる。
*これを主となって行う、保つ、メンテナンスする存在がなくてはならない。
 これが本来的に主婦たるもののミッション、領分、役目、務め!。
*対外的には男性は主導的だが、一旦家に戻れば帰れば受動的になる存在になるべきなのだ。
*そこにおける支配者は、差配者は、妻たるもの……。

追記:
これは理屈じゃないんだな〜。ことの核心としてのその根〜は、生物学的なる本能にこそあるんではないだろうか?。人格としての部分においてのみにては、すべては相対化させうる。なんとでも理屈理論は構えうるのだ。だがだ、しかしだ、本然としての本質の部分は変えることはできない。絶対にできない。何故ならばそれは人間外においてプログラムされてある部分になるのだから。人格の部分は、エゴとしてのものでもあるので、

欲望にて引っ張られていってしまうのもまた道理だ。つまりは金だ。だが、其処には、それだけでは幸福にはなれない。あるべくして設計されてある合一体となることこそが、理想の伴侶に恵まれてあってこそのその達成、恵みになる。

掃除洗濯、整理整頓、料理の支度、繕い物、これらは一朝一夕にできるようなるものではない。ましてや、これらの業務を上手にできるようなるには。ことの秘訣はただの一つ。大量にこれらとししての業務をこなすにしかない。若き日において、自身の家庭の事情、その環境要請にて、否が応もなく、やらざるを得なかったであった人達にしか上手にはできない。つまりは幼くして苦労人であった女性。そして手本となるべくしてのよくできた母親が側にいたひと。これとしての女性を選び、大切にしてあげるのが旦那となる人の課題。」
*掃除洗濯料理繕い、これらが出来ない女性は結婚してはならない。ましてや子供を作ることなどもっての他!。これは個人的な意見としてのもの。男性は、これらができない女性とは結婚してはならない。準備がまったくなされていないんだ……。


   Re: ここで、

二種類の女性」から、ちょっと抜粋してこよう:

夫は昼も夜も、妻たちの生活を内面的に外面的にも、豊かにしてあげるには
どうしてあげたらいいかを

考えます。


そして、妻たちも同じく、昼も夜も自分の夫のことだけを思い、この人生において、

が無事に果たされるようにと全身全霊で

行います。


    実は、あの稿の中で、一番大切なのは、この箇所になる(断)。

本当に知るべき、悟るべきこととしては、人は、今生においてでは、間違いなくなんらかの責任を背負わされる、与えられてきてしまうってことなんだ。ミッション、役割ってことだけでいい。それはだね〜、彼個人の思惑、想像を越えたものとしてなんだ。それがなんであるのかは彼自身にも分からないはずだ!。長きに渡っても検討がつかない。だけんどもーっ!、やがてには判ることにはなる…。ある事柄が、彼の内面においては、天命としてのものだと確信されることとなる。おそらくは、もうそれは、彼の個人的な嗜好を志向を考えを、超え出たものとしてある。だからこそ「天命としてのものだ」として、彼にあっては得心されてしまうこととなる…。

問題は彼の奥さんには、それがなんなのかがサッパリ分かないんだ。理解することができないんだ。どういったものであるのか、どういった責任においてのことなのかとかが……。彼自身においても他人に語れるほどまでにハッキリとことを、そのミッションに関してを、掌握しているわけではないんだ。いや、そもそもからして語っても他人が分かり得ようはずがないものになってるはずなんだ……。

追記:だから、女性は、男性はその彼の人生において、天より与えられてあるなにか重責のある仕事ってのがあるんだってことを結婚するその前には理解っていなきゃならない。これとしてのミッションは単独としての貴方に与えられることはまずない。逆にまたある意味では、貴方しか彼をアシストできるものはありえないんだ。追記:ことの対象は全体、全人類に向けてのことになってる。彼個人に対してのメリット、思惑などどこにもない。そんな存在はある意味では”無”だ。馬鹿としてのものなのだから…。だから、アシストしてくれる存在がいなくても、彼は幸せなんだ、もしそれがなくったって〜…、ことは完遂されることになるのは間違いないことなんだ……。人としては不幸せかもね…www。

当事者、主人公としてのものはあくまでも男性だ。だが男性は、そもそもからして自らを補完する別存在としての女性との関係を構築せねば、してゆかなければならないんだ。

。その為には真心をもっての愛を、その相手に対しては心がけてあらねばならない。以心伝心をもってなんでも片付けられるってのは、成すべくことが為されての遥か先、未来のこと。関係性は変化し得る。より両者間において真に血肉の通ったものとして、育てていかなければならない…。追記;両者ともに思ってる考えてるだけではまったくダメ。そんなもんなんの役にも立たない。具体的な言葉が発せられてある、実際に何らかの行動が移されてあるってことが大事。それもだ適切なるものでなくてはならない。だから…こんなことにおいてであったって〜、血の滲む努力、そのそれの試行錯誤ってのが、必須なるものとして控えしてあるんだ…。この努力のよっての成果は、確実に、他者においても、対しても、後に活きることになる。そんときには、もうなんの努力も必要なくして、もうかってに起こってるってな事態になってるよ…。良い意味での習慣に、最早なってしもたるに、あるのであろう……。

そうあってこそ、それが伴ってあってこその話になるんだが、今度は女性もまた賢くあらねばならない!。自分には理解の及ばぬ分からぬことではあるのだが、あの人は確かに、何らかの使命感においてなにか仕事を行っているのだと信じること。そうであることを察することができるようなること。ことにおいての是非を判断する/決定することは、貴方の役目ではないんだから。だから、分からないままであっても、批判したい、止めたい、辞めさせたいとの思いが、もし貴方にあったとしても、それは、絶対にしてはならない!。彼を信じてあげる。彼が思う、確信してあるその責任を、彼が無事果たし終えることだけを祈って、それを応援してあげるんだ……。

*上最後二つはまず不可能。二人以外にとてもよくできたご両親、それも二組がいたってことが前提になってしまう。そういったカップルがいたことこそがまず奇跡。wwwwwww。



言葉理屈に依らずしての阿吽の呼吸としての関係が、成立/確立されねばならないんだろうさ。

でも、元からそうなる、そういった関係になるよう、一切は準備はされてはいるんだ。

人生たるものにおける浮沈は、幸不幸としての出来事は、

そうとしてのものになる為の機縁でしかない。

殆どのカップルがことを活かしきれないまま、破綻していってしまうんだろうがね。

追加:

あの話の記述の中には、もう一点見過ごせない卓見としてのものがある。
女というものは、もし男性が、この自分と寝たならば、セックスしたならば、
もうその人間は、

、その所有物となったのだとみなすとゆうところ。
家としてのものが、それとしての主としてのものが、男性をそれに住まうものとして認識
してしまうってことでいいんだろう。でもこれは間違いだ。誤り至極としてのその修め方
になる…。母親としての立場を選択して、それへとスライドして、夫たる存在を
自分の子供かのようにして接してしまう。正しい認識からはズレてしまってる。

ことの全体総体としての成り立ちは、男性のその有り様、生き様に立脚してある。
それに伴って、生活の一切は来てる、現れれてきてるまで。
なので、その一部、一端としての家の責任者であろうが、謙虚にて自分の身は所作は、
なければならない。旦那さんを自分の子かなんかとして扱うのなんてのはもっての他。
そういった女性は、余り賢くない、浅はかなばかりの、女の人だってことになる……。

ことの手本、所作のモデルになるのは、来し方においてのその両親ってことになる。
良きご夫婦の元に生まれ、育てられてきたが一番大切なのだ……。


もう一件自分としてのとある意見を……。

女性としてのその顕現のすべてが男性からのプロジェクション(投影)

応答になってる。
彼女らはあくまでもそれに沿って在るまでなのだ。たとえばヒット曲としてのそのすべてが男性作詞家らによって書かれてる。基本的に彼女らからは

、出ては来ない、来れないんだ。おそらくはこれは摂理としての原理的な理由によるものだ。だから、すべての一切の責任は、

帰せられるべきものではある。

完璧に女性独自、単独にて、立ち現れてくるものもあるにはある。だけどそれらは徒花、特異例外事例なるものでしかない。それを例えるにおいて最適となるのがあの中島みゆき姉さんだ。でも、あれは、あれらは、嘆きとしてのその怨歌(えんか)だ!。自己慰安/自己愛撫を目的としてのその呪法、その手管!!。無限ループにての単独にては決して脱出救済の叶わない、そんな救い難い、救われ難くしての迷宮構築、その世界に、なって、しまってるーーっ!。

まるで誘蛾灯の如くにして、呼び集められてくる人々に、不足は、暇はないんだろうけど、
決して彼らが彼女らが

救われることは、あの歌においてでは、絶対にあり得ない…。


あのひともまた、キリストにおいての改宗が回心が、為されたらいいんだけんどね〜。





        このひと…めちゃくちゃ、死ぬほど、

強情だわ……。

頑固ってのは執着、拘り、その思い込みとしての激しさだ。では誰が〜何が〜なのか?なのだが、彼女の場合は、いささか家庭の事情も加わり、本体たる本質においての話だってことにはなる。最初の発端から自分を捨てて、見放したところで懸命に生きてきたのだろう。そうした自分が、仄かなれど、虚としての状態、つまりは彷徨い

そのこころの状態において、好きになった愛してしまった人を、もう心が、忘れることができないんだ……。自己憐憫が基本的には核心になる。それも余りにも成熟してあるそのそのマインドにおいての、それの認可に基づいての、客観的状況分析、洞察を踏まえての。長く生きてきている魂なんだと思う。ちょっと、かなり珍しいケース。だからこそ普遍性をも備えている。ある種の魂たちの代弁者と結果なり得てしまうんだ。彼女にそれを背負わせて、ありがとうを言って、離れるのがベスト!。

     今ともなれば、既に実際に救われることよりも、この自分の世界内にて、
           充足休息満足を、満ち足りてあるってことだけを、
        してたいって、しぃ〜続けて、いたいってだけなんだ……。



               自分の場合とはチョイ違ってんな〜、
         外界との交差交流においてのその世界創造とはなってるんで…。
         他者なくば、

なくば、我が世界の出現も、またあり得ない。


追記:もう少し女性アーティストにおいて。
サンプルとしては竹内まりあと宇多田ヒカルがいいだろう。
このお二人は偉大であることは間違いないのがだ、では

凄いのか?。

自身としての、自分においての心情を、表現できてあることが
凄いのだ。これって意外と難しい、いや、不可能なことなんだ。
このことが可能になるのは、それがリアルなことだから、リアルな体験に基づいての
感慨や思い切なさだから。これを表にて表出させるためにはある種の自前の様式がいる。
ここがアーティストとしての才能、見せ場となる。

自分として納得する美的創造において、つまりはこれが様式のことなのだが、自分としての殻を脱することが叶う。重心移動がなぜか果たされてしまうことになっている。自分でも惚れ込むほどの創造が自分の手によってなったことが原因だろう。中和された?。そのうえで深奥の真の自分としての思いが感情が願いがプロジェクションが語られる、吐露されることとなる。メロディーに乗ることによって、これも様式の構成要素の一つ、ことは自分としての最大限の表出となる。

でも、それらは所詮は私小説としてのその世界でしかない。
聞き手とすれば、妙に、リアルに、居ても立っても居られないほど、
心配としての思いが掻き立てられてしまってあるばかりなのだ。
ある意味、ある種、生々しいまでの危機的状況を、その彼女らに察してしまてて、
思いやらずにはいられない状況になってしまってあるまでなのだ。
竹内まりあならば、駅とノスタルジアと告白。
宇多田ヒカルならば、Wait & See が一番わかりやすい。
前者は完全に成熟した大人として経験が整理されている。その上で、自身への鎮魂の意味も込めて表現がなされている。片や、後者は、これがまた困ったことに、ことにおいてはまだ未整理というか無自覚にして無意識なのだ!。Wait & Seeは、おそらくは、自殺してしまった彼女の母親(藤圭子)がおおきく影を差している。あまりにも天然で、純粋無垢な魂が、環境において、さまよっている。彷徨い続けている。育ちとしての環境がまずかった...。おそらくは乖離障害。だからこそ、世の多くの人達がこの幼くしてのままの純粋な魂の悲しみとしての咆哮を、その彷徨いといとしての状況を、ほおっては、おけなく、なるんだ…。たちが悪いのが、彼女は自身としてのその心の状況に、まったく気づいていない!。問題は、ご両親に対してと、ご両親との関係にこそある!。これは残念ながら代用品では埋まらない。そんなことはどうでもいい。とにかく、女性としての表現は、私小説としてのものでしかないってことを云いたかったまで...。

中島みゆきにおいても更に言葉を継いでおくと、あの女性は、賢すぎる!。そして、魔女であることのその理由は、失恋においてのエレジーに溺れてあることが、快感、執着となってしまってあって、その世界へと、視聴者を連れて行くことに、連れて行ってしまうことに、かなり自覚的なのだ。希望、救済としての振り子の揺れがあれば、その逆の絶望としての悲嘆にくれてある、その感情に溺れてある、溺れ往かんとしての振り子の振れがあるわけさ。希望と絶望、この両極において振れて揺れてあることが彼女の創作になる。では、どっちが彼女としての嗜好なのか?。悲しみの方にであることに間違いはないであろう。勇敢なるのその態度表明は、次の瞬間には反対の方への揺れにて吸収されてしまう。されてしまってあるばかりなのだ。ならばだ、あんた一人でいったらどうなのかとも自分としては思うのだが......。これも本人おいては無自覚なのかもしれないが、私の歌を聴いてくれる、好んでくれる、ファンとしてのそのすべての、誰も彼もを、そっちの世界へ連れていきたいって願望が、彼女にあるはず、あると、直感してしまっている自分がいるっと。終わりっと。




2:25
And they were both naked, the man and his wife, and were not ashamed.

人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。



原初の、神が人があるべきとしての、その姿のままにて、用意されたるの状態では、の話し。

では、ここにはなにが確認される?。どうして恥ずかしさとしての感情が起こってこない?。

両者共に、完璧に一心同体なるものとして、相手を、常時意識してあったからこそだ。







                     つづく



*両者の間にて生まれる

、その存在意義、彼らに対しての親の責任に関しては割愛。




あとがき:

この稿の作成やってきて一つ思い至ったことがある。人が本来もってるミッションは、この世界における真の王としての存在になることなんだ。それは神を手本としてのそのあり方、それとしてのものへの



ところがだ、人類はどっかで勘違いをしてしまったのだ。現実的なるミッションを忘れて、
本源としての神を、崇め祈り頼ることに

足りる
ようなる。進化としての苦しみを
厭うて、破棄していってしまう……。そんで頽落していってしまったまでなのだ。

ここに逸脱としての不完全燃焼としての事態が人の心の内にては起こってきてしまう。
つまりは、どうも、なにごとにおいてもしっくりこない上手くいかないじゃないか、
おもろないし、つまらんし、やりがいとしての思いが起こらない……。

この行き詰まりとしての事態において、まがい物への信仰、偶像崇拝が起こってきてしまう。
金、名誉、保身安定、贅沢、グルメ、色欲、飽食、マウンティング、称賛、支配、虚栄心…。

この世界の神としてのものに

人類にとっての真の課題だったのだ。ところが、その役割を義務を放棄、忘却したところに、

ということで、そのポジションを狙うものがあらわれてきてしまった。天にてその居場所を失って、この世界へと堕ちてきた天来由来の存在が、そのポストを埋めてしまうようなことになってしまったのだ、なってしまっているのだ。

このような妄想を抱いてしまいました〜。wwwwwwwwwwwwwwww。



     パートクドルグ義務を前向きに果たすことができるようなること、
 その心構えが明確にされて持たれてあることこそが本来への復帰その道筋になる。

  真実と虚妄なるものとは共に同席する並列されることはない。そんなことできない!

  つまりは、まったくこちらには手出しできない、手出しができなく

ってこと。

だってね〜本源本体との連続連帯連携性が、どうしたものなのか適ってしまうことなるから。


  つまりは unified, unification としての事態と、その状況に、なるんのだから……。








                   おまけ!:









       「ぎんざ」かな〜って思ったんだけど、それじゃ〜面白くないだろから
        他のなにか違うもんなんだろな〜って考えたたらこんなのが出てきた。





     ひとりゲラゲラ笑いながら正解みてみたら、答えはなんと、「ぎんざ」でした。



             どうしてくれるのか?考えてたあの時間!。





                     読者







































                当然にこれは天村です!







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